弱い文明

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今頃、死神について

2008年12月17日 | 死刑制度廃止
 ちょっとタイミングの外れた話。そういう話が多いブログであることは今さら言うまでもないが。


 先月の終わり頃、コンビニで「漫画実話ナックルズ」という雑誌の増刊号を買った。普段この手の雑誌など見向きもしないのだけど(出版社がエロ系だから、という意味ではないよんw)、特集テーマが「死刑」で、立ち読みでは物足りないくらい、内容豊富な感じがしたので。
 テーマ・タイトルが「死刑囚の正体」などとあって、一見すると扇情的な三面記事がメインであるように思えてしまうが、意外とそういう趣向のものは少なく、死刑存置・廃止のそれぞれの立場、また警察内部の問題、裁判員制度の問題など、目配りの効いた記事(一部支離滅裂な部分があるが)で構成されていた。それらをすべてマンガで読めるのが、もちろん強みなわけである。
 また特集関連以外でも、官僚天下り、トヨタの「エコ・カー」、障害児童の悲惨な医療など、「実態告発モノ」はどれも迫力があって、個人的には特集がかすむほどの衝撃を受けた。今まで知らなかったけど、この雑誌の編集諸氏はなかなか反骨心のある人達だなあと、感心してしまった。

 ただ残念なことに一つだけ、「ちょっと待ってよ」とツッコみたくなるところの多いマンガがあった。
 そのものズバリ「死刑廃止運動って何だ!?」という題のマンガ(原作・上野蓮/漫画・やまもとしゅうじ)である。死刑問題に目覚めた新人の新聞社会部記者が、集会の取材や先輩の意見などを通して、存置・廃止の問題にビビッドに触れる、という体裁の短い話である。
 最終的に主人公の思いは「死刑は確かに残酷だ。しかし殺された人の遺族の気持ちを考えると・・・」という、よくある結論に行き着くところでストーリーは終わる。行き着く、というより、振り出しに戻ってしまった、と言うべきかもしれない。

 別にそれならそれでいいんじゃない、と僕は思う。ただ、「ちょっと待ってよ」と言いたい点の一つは、その主人公の結びのセリフが「廃止論が理解できないオレもやっぱり“死に神”なのだろうか?」で終わることだ。
 もちろんこの“死に神”は、鳩山前法相の「ベルトコンベアー発言」を受けて、廃止派の弁護士だか誰かが投げつけたことで有名になった言葉である。そして「死刑廃止運動って何だ!?」というこのマンガはそもそも、夫と子供を殺された遺族が、「1日も早くを犯人の死刑を──そう考える私も“死に神”なのでしょうか?」と涙ながらに語る、記者会見での様子をオープニングに持ってきているのだ。

 僕は鳩山前法相に対する“死神”という悪罵は、一種の紋切り型・一種の思考停止の産物であって、ハナからダサイと思っていた。だから、そういう紋切り方を安直に口にする硬直した廃止論者には、批判的な気分を常々抱いている。
 だけど、その当の廃止論者ですら、犯人の死を願う当然と言えば当然の遺族感情に向けて“死神”という言葉を投げたわけではない。就任以来記録的な死刑命令を乱発した挙句、法務大臣でありながら人の死を「ベルトコンベアー」に任せられたら楽なのにと(うっかりであれ)口に出せる、特殊に神経の麻痺した、特殊に軽薄な人物の思考回路に向けて放たれた言葉に過ぎない。それを死刑存置を希望する人一般に当てはめるなんて、子供じみた乱暴な話のすり替え、というよりほとんど捏造である。特に理性的な判断ができないほど精神的に追い詰められている遺族以外の人間がその捏造を行なうには、悪意をもってするしかないはずだという気もする。

 ところで、僕は文字通りの“死神”の存在を信じたことは一度もない。ただ文学的な意味でなら、自分の真後ろに“死神”が立っていると感じることはままある。たとえば、先の鳩山のような男がテレビで無神経な軽口を叩いているシーンに出くわした時、などにである。人によっては職場で上司に不条理な絡まれ方をした時とか、道で車に水たまりの水をはね上げられた時とか、そういう時に“死神”が後ろに立つだろう。“死神”なんて、しょせんそれだけの意味しかない。
 “死神”はどこにでも現れる。だから、死刑存置論者の背後にも、犯罪被害者遺族の背後にも立つことがある。それだけの話だ。だからといって、彼ら自身が“死神”なわけではない。彼らはただの人間だ。死刑囚がそうであるように。
 死刑囚がただの人間?キ○ガイめ、ただの人間じゃないからあんな恐ろしい罪を犯すんだろうが!と反発する人もいるだろう。だけど恐ろしい罪を犯すことは、ただの人間にもわりとたやすくできる。人間とは、そういう風にできている。とりわけ「人を殺したら死刑になるのが当たり前でしょう。さっさとやっちゃいなさいよ!」と平然と思えるような人なら、素質充分であること疑いない。

 ブッシュ大統領(彼の姿を見る時にも、僕の後ろによく“死神”が立つ)がイラクを訪問し、記者会見場で、とあるイラク人記者から靴を投げつけられるというナイスな事件があった。アメリカ当局は、この行為が「全イラク人を代表したものとは考えていない」という声明を発表したそうだが、そんなことを言う資格がアメリカにあるかどうかは別にして、この行為は少なくとも行為者である記者の感情を代表したことだけは確かだ。
 この記者がどういう人なのか、詳しいことは僕は知らない。もしかしたら親族に米軍の攻撃の犠牲者がいるのかも知れないし、そうではないかも知れない。
 もし前者なら、彼はいわゆる「遺族」である。ブッシュはただでさえむかつく男にして、遺族にとってはなおかつ「仇」である。あるいは、彼自身が遺族でないとしても、控え目に見て数十万人以上と言われる非業の死の犠牲者たち、その遺族の気持ちを彼は代表したことになるだろう。
 「仇」には死んでもらいたいというのが、古今東西、遺族に共通した感情である。死刑に賛成の人が8割を占めるとされる日本人なら、よくわかる感情のはずである。
 ならば、靴を投げた記者や彼を支持するデモを起こしたイラク人達の存在が由々しきことで、ブッシュに謝罪したマーリキー首相以下イラクの首脳や官製新聞の記者たちが「民主国家イラクを代表している」という、最早マンガ(悪い意味で)のレベルでしかないアメリカ当局筋の声明を真に受ける理由などがあるだろうか?
 戦争と「平時」の犯罪は別?関係ない。身内を殺された人の気持ちは、殺した者が誰であろうと、根本のところ変わりはない。
 イラクの遺族にとって、ブッシュは死刑になってしかるべき筆頭の人間ではないか。実際に殺害を行ったのが、その下の下のずーっと下の、本国アメリカでは「ただの若者」でしかなかった兵士たちだとしても、「アメリカ兵もたくさん死にましたから」で納得できる遺族などいるはずがない。凶悪犯罪の事件で家族を殺された遺族が、実行犯の処刑だけで満足し、首謀者の逃亡については仕方ないとあきらめる、などということがありえないのと同じに。彼ら遺族の背後には、今も血まみれの、泣き腫らした目の“死神”たちが立っている。

 それで僕は、ブッシュの死刑に賛成なのか、と言えばそうでない。フセインだろうとブッシュだろうと。「例外」はないのだ。泣き腫らした目の“死神”が何十億体立ちふさがろうと、死刑だけは認められない。それが僕の立場だ。
 そしてもう一つ、確認しておかなかければならない。
 僕は日本国民である。ブッシュの戦争に賛同し、あまっさえ援軍まで送り込んだ国の。その政策に僕は断固反対だったが、政府と政府を支持する多数の人々、そして無関心を決め込んでそれに加担したさらに多数の人々の前に屈したことにより、晴れてイラクの人々の頭上に爆弾の雨を降らせる加害者の一端になった。僕もそうだし、あなたもそう。死刑廃止論者も存置論者も、凶悪犯罪の犯人もその被害者遺族もそう。全員加害者。全員犯人。全員、その気はなかったとしても、イラクの大量殺人に責任がある。
 「犯人の死刑を願うと“死神”呼ばわりされなければならないんですか?」と泣いて訴える被害者遺族は、ではイラクの犠牲者に対してはどんな言葉を持っているのだろう?私は戦争遂行の「当事者」ではない、私は「普通に」生活していただけだ・・・・という言い訳は、それがその人にとっての真実であるとしても、こちら側から口にすることは倫理にもとると僕は思う。ではどんな言葉が?

 一方で、イラクの犠牲者遺族は徹頭徹尾「被害者」であるのかと言えば、実はそうでもない。彼らはサダム・フセインの圧政下、そこそこにうまい汁を吸っていたこともあったかも知れない。とりわけイラン・イラク戦争の際、イランへの都市ミサイル攻撃によって溜飲を下げていた人が、中にどれだけいるだろう。同じ国内のクルド人の村の殲滅に手を貸していた、あるいは少なくとも黙殺していた人がどれだけいるだろう。そんな彼らだって、「私らは普通に生活を・・・」と言うに違いないのだ。
 それを言うならイラン人だって、ずいぶん残虐なことに手を染めている。哀れなクルド人だって、一部の過激派はずいぶんと・・・・ということを調べ始めたら、数珠繋ぎで「罪」の連鎖が続いていく光景を目の当たりにするばかりだ。この地球上で、「純然たる被害者」なんているんだろうか?と頭を抱えてしまう。「そんな者はいない──幼い子供達を除けば」と、『キャッチ=22』の主人公は言ったように記憶しているけれど。

 だからこそ、なのだ。少なくとも残虐に対して残虐で報いることだけはやめようと。この罪の連鎖を断ち切るには不十分だろうけど、少なくともその連鎖が延長し・増殖していくのを止めることはできる。僕にとっての死刑廃止論の芯の部分には、やはりそうした考え方がある。
 死刑廃止論をこういうパースペクティヴから語ることは、ある種の危険が伴うことはわかっている。話をやたらに広げて、人類の罪全般を相対化して凶悪犯罪を免罪するのか、と誤解される危険が。
 もちろん、彼ら(凶悪犯罪者)の罪は、1ミリグラムだって免罪することはできない。だが「死」が「償い」であるというフィクション(そう、フィクションだ)に与することは僕にはできないし、凶悪犯罪を醸成する社会全体の責任を免罪することもしたくない。それは廃止論の別の部位にあたる事柄であって、ここではもう論じる余裕がないけど。

 あらためて、 “死神”という言葉に過敏に反応する人たち(遺族を含む)に僕が言いたいのは、確かに“死神”はそこ、あなたの後ろにいるよ、ということ。だが、遺族の人の背後に立っているそれ以外は、実は大したものではない、幻に過ぎないんだから、ということ。
 だが遺族の人の背後に立っている“死神”は、幻といえども次元が違う。「ベルトコンベアー」発言に反応した“死神”発言に、「それは私のことか」と傷つけられてしまうほどに、自身と“死神”を同一化してしまう。だから彼らには、それはあなたと同一ではないが、あなたにとりついている、ということをまず言わなければならないだろう。その上で続けて言わねばならないのは、犯人を死刑にすれば、“死神”は満足するだろうが、あなたたちが救済されるわけではない──今の地獄が終わって、別の地獄が始まるだけだろう、ということ。
 それを知っていて、なおかつ死刑を望む遺族がいることも知っている。別の地獄でもいい、とにかく気持ちに「区切り」をつけたいのだ、と。犯人と同じ空気を吸っていたくないのだ、と。最悪に痛々しい、重い言葉だと僕は思う。
 けれどまた、その人たちに言いたいのは、「区切り」をつけられないことがあなたたち以上に決定的なイラクの人達はどうすればいいんですか、ということ。大量殺人の親玉と同じ空気を吸っていたくないのに、それが叶わない、どころか当の親玉は拘束されもせず、優雅な余生が約束されている。それに手を貸しているのが、私達が「民主的に」選んだ私達の政府だったりする。これをどう考えたらいいんですか、ということ。
 僕はこう考える。別の道を探らなければならない、と。感情は、感情として溶かし込める別のフィールドを持つべきで、司法にそれを溶かし込んではならない。そしてこれは僕だけではなく、相当な数の廃止論者の考えでもあると思う。

 「ナックルズ」の漫画「死刑廃止運動って何だ!?」においては、そこまでの掘り下げがない。したがって、「廃止運動」が何であるか、結局はよくわからない漫画として終わっていた(最初からそれを狙っているなら悪質だが、そうではないと思う)。
 当該漫画については、もう一つツッコみたい大きなポイントがあった。次回にそれを書く。

 廃止論者は「感情」を無視していい、という意味ではない。難しい問題だけど、ここは勘違いされたくない。
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2 コメント

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相変わらず鋭い指摘です (ところ)
2008-12-18 22:57:00
今年の師走は全ての人にとって本当に忙しい月となってしまいました。問題から目を背けられた去年はある意味幸せだったのだなあと感じる毎日です。

死刑廃止の立場に立つ人間にとっては遺族の感情とは常に向き合わなければならない問題であり、私としてもなかなか折り合いをつけることが難しいと今でも感じるものです。
その点身内が殺されるという感情を戦時における死と比較するというのは思いつきませんでした。

同時に映画の「私は貝になりたい」ではありませんが戦犯問題を被害者の立場から考えることはやはり必要なんだろうと思ってしまいました。単に戦勝国が裁いた裁判であるとは言い難い側面は看過できないんだと。

感情の面でいうと修復的司法のあり方が以前はよく議論されたり、矯正局でも試験的に導入したりという話が聞かれたのですが最近はあまり話題になりません。
定着した制度となったのかそれとも忘れられてしまったのか。。。

>ところさん (レイランダー)
2008-12-19 11:08:20
>身内が殺されるという感情を戦時における死と比較するというのは思いつきませんでした

僕の場合、死刑の問題に興味を持つとほぼ同時くらいに、そのことを考えていました。
たとえば、凶悪犯罪を犯す奴は普通ではないモンスターだから死刑にするしかない、っていう考え方がある。でも「戦争」という場に連れて行けば、誰でもモンスターになれてしまう、っていう現実があるわけです。もちろん相応の「殺人教育」を軍隊とかで受けた後、の話でしょうが、とにかく、人間は特別に残虐な性格じゃなくても残虐行為がやれてしまう。そのあたりの問題意識から始まってるわけですね。
だけど、エントリーにも書いたように、「戦争で遺族は大量発生する──だから平時の殺人の遺族も我慢しろ」みたいに読まれる危険があって、よほど慎重に書かなきゃ、と思ってはいたんです。

あと、トラックバック先の村野瀬玲奈さんの記事も、まだでしたらぜひお読みください。「遺族感情を尊重する」ことが結果として「死」をランク分けしてしまうという矛盾について、明確に論じています。

>単に戦勝国が裁いた裁判であるとは言い難い側面は看過できない

僕もそう思います。
BC級裁判では、それこそ不条理な判決で処刑された軍人もいたとは思います。ただ、「東京裁判」がよく右派から「戦勝国の裁きだから不当」みたいに言われることに関しては、幼稚な言いがかりだと思います。むしろ戦勝国の裁きだから、戦勝国の都合で裁かれない戦犯(筆頭はもちろん昭和天皇)が続出した、中途半端な裁判だった。被害者の立場からすれば、「これだけで終わりなのか!」と言いたくなるようなものだったでしょう。

修復的司法については僕はほとんど詳しくないんですけど、日本での導入は軽犯罪中心で、殺人とかの重罪については対象外(って決まってるわけじゃないんでしょうけど)みたいなところがあるようですね。
今は休止中だけど、こんなブログの記事がありました。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070926/1190812141

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