鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

10月15日、秋晴れ

2009-10-15 12:35:41 | 直言!
それが私はあれこれとすることがたくさんある。新聞も読んでライフワークの作業もしてなど---。夏のジャケットなど家で洗える物は洗ったのでこれをまたなおさないといけない。何かしらこまごまと用事が多い。
16日も仕事、18日も仕事、日曜日の仕事は来週も入っている。
仕事が仕事だから仕方がない。
朝から鳩のことをまた書いてジャーナリスト・ネットにセットアップした。
それに企画を考えないといけないのにまだ頭がぼんやりして何も浮かんでこない。16日に現場に行けば何かまた新しいことがみつかるだろうか。
18日、25日に行けば新しいことが見つかるだろうか。
25日には天理市立北中学校夜間学級の文化祭、1世のオモニたちの作品の展示もされている。写真をたくさん撮って校舎の中に展示されている1世の仕事の1つだった道具、桜井市の地場産業だった縄綯いの道具の写真もたくさん撮影してこよう。
まだしばらく1世の朴尚任さんの話と姜必善さんの聞き取りを書いていく。
書いて1世の生きた歩を少しでも記録に残しておきたい。
1世が桜井市の地場産業の1つを担った歴史、20数年前にこの仕事も廃業された。今は1世が夜間学級に通学して教師たちにその話をして1世たちの生きた歴史を残してくれている。
1世たちも90歳前後という高齢者になっている。
1世から聞いた話は少しでも記録に残しておこうと書いている。
どの1世も言葉では表現できないほど苦労と辛酸の中で生きてこられた。
誰がどうということではない。皆が同じような境遇で生きてきた。
そこに立ちはだかったのが祖国の南北分断だった。
1世にすれば祖国、故郷は朝鮮半島1つである。
それが日本植民地支配から解放されると今度は祖国が2つに分断されていた。
分断国家になったため日本にいた在日コリアン、日本に留まった理由はここにもあった。
2世にもずいぶん影響を与えた。
分断国家は隣人、友人、親戚、兄弟たちも疎外関係にした。現実に何度も争そいを見て涙も流してきた。
私もその1人である。
父親には兄弟が多くいた。
朝鮮総連に出入りして活動している兄弟は2家族、家族はそこに集った。
集っては私の家の悪口の材料にされていた。
私たち姉妹や弟たちはこうした親戚から何度も何度も疎外されてきた。
それでも父親は決して朝鮮総連の活動者に媚びもふらず言い分はいつも言っていた。「日本で生きていくのには民族・政治団体に関与するな」と言い切ってきた。そのたびに親戚から私たち兄弟はたくさん疎外されてきた。
そのうち1970年代に入ってきて父親が言っていた北朝鮮の国のあり方、朝鮮総連の活動にほころびが見え始めてきてやっと父親が何を言いたかったのか。
親戚は理解するようになった。
そんなことで私が記事を書くことに日本人のふりをして日本の記事を書きたくないと悩むまで民団も総連にも一切出入りをしなかった。父親の怒りが怖かった。
父親の兄弟、叔父たちは韓国に行くこともずっと内緒で行っていた。
そんなとき直系子孫の父親の承認の書類が必要だった。それが父親はそのたびに「何しに韓国に行く」と言ってはけっして承認の種類に判子を押さなかった。
それで娘の私たちも決して民団の組織団体にも足を踏み入れることができなかった。そんな父親だったが在日朝鮮人がなぜ日本に住んでいるのかはよく子どもに話し本名をつけたそのつけ方もこだわった話もしてきた。
父親の兄弟、中には民団組織に出入りする人もいた。
韓国に行く人も出てきた。
父親の反対でパスポートも作れない。
そのときに叔父たちは動いた。祖父は大阪にある弟の家、分家と出入りしていたが父親の代から往来がなくなった。しかし叔父たちは父親に内緒にして大阪の分家に行き一族である証文を貰ってバスポートを作ったと叔父から聞いている。父親が亡くなって叔父からこの話を聞いてなるほど韓国に行くのにこうした方法を取っていたのかと納得した。
私の考えるところでは分家筋は財を成して現在の駐大阪大韓民国総領事館の建物を建てるときに多くの金額を支援している。駐大阪大韓民国総領事館史に記録されている。こうしたいきさつもあって分家筋の配慮でパスポートは出来たらしいと考えている。
長いこと民団に出入りしなかった私の気持ちに転機がやってきた。
「日本人のふりをして日本の記事をかきたくない」という気持ちの葛藤に悩んで民団奈良県本部の韓国語教室に通いだした。
これもずっと父親に内緒にしていた。そして在日韓国人の日刊紙の新聞記者になって1年ほどしたときだろうか。たまたまJR桜井駅から奈良に帰るときに天理市の夜間中学に通う朴尚任さんたち一行数人と会った。ここには私の血筋と同じという親戚になる人もいた。
どこに行っているということから仕事の内容を話した。いずれオモニ(お母さん)たちを取材することもあると思って名刺を渡した。
そして親戚から近くに住んでいた父親の兄弟、総連で活発に活動していた叔父のところに耳に入った。
そして父親の耳に届いていた。それから父親は働くために仕方がないと思ったのか仕事は暗黙の了解だった。それから在日コリアンの歴史を少しずつ話しくれるようになった。ウトロの町のことを聞くとその歴史も教えてくれた。
ただいつも父親は私にひとこと言った。
「いいかげんに仕事しとき」だった。
父親の言葉「いいかげん」は深く入り込んで仕事をしてはいけないということだった。日刊紙の新聞社の体質をしっていたのかそれだけ私に言っていた。
5年後、民団新聞に変わってからはそういう言葉は言わなくなった。
そして家の祭祀に来る甥や姪たち、祭祀が終わるといつも甥っ子たちに韓国の故郷や歴史の話しをして「これ以上知りたかったら韓国に行って勉強したらよい」と言って韓国行きを認めていたという。弟夫婦からこの話を聞いて父親が女の子は嫌いといつも言っていたが女の子でも自分の子ども、自分の子どもが生活の1つとして民団新聞に行っていることに反対はできなかった。
しかしたぶん心では喜んではいたと思う。
総連で活動していた親戚たちに日本の学校に行っていた私たち姉妹や弟を見て「ハングルも知らないのは人間としてかたわや」と言ったことを父親はこの話を小耳に挟んだ。父親は父親の考えで日本の学校に就学させた。日本で生きていくための手段だった。
高校卒業しても日本の会社でOLしていたのでまた親戚はうるさく批判した。民族団体に行かないことで疎外されて悪口を言われて悲しいこともたくさんあった。

しかし父親は父親なりに考えてしたことである。
そして父親は娘が民団新聞の仕事をしていても死ぬまで双方の民族団体に行かなかった。父親の何かの意地があった。このことも生きている間にもっと聞いておけばよかったと思っている。

10時半ごろからこのブログを書いていたが取材要請の電話が入ったりして編集局など電話をかけて連絡していると時計は12時になっていた。
これから昼ごはんの支度です。

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