中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

人力車

2009年04月26日 | 中華街いろいろ



 そぼ降る雨のなか、中華街大通りで客待ちをする人力車夫。時刻は午後8時半を過ぎたころ。ここに立って既に1時間は経過している。だが、彼に眼をむける人はいない。
 中華料理を堪能した観光客は足早に駅へと向かい、晴れた日なら寄り添って乗る恋人同士も、こんな日はバーで飲み直しだ。
 ときどき、老夫婦や若い女性の二人連れに近づき声をかけてみるが、みんな先を急ぐように立ち去っていく。
 客を逃した車夫は肩を落とし、再び雨の中に佇む。合羽を着ているとはいえ、身体の芯から冷え切っているに違いない。


 中華街では以前から「横濱人力車くらぶ」というのが出ていた。そこに、いつだったか大手の「えびす家」が参入してきて、さらに「横濱おもてなし家」も絡み、人力車過当競争状態だなと思っていたら、最近は、「横濱人力車くらぶ」のみならず「えびす家」をも見かけなくなった。
 いったい、どうしたのだろうか。


 気になるが…
 

 それについては置いておいて、「横浜と人力車」について考察を深めてみよう。


 150年前、横浜が開港すると、日本にはさまざまな西洋文化が流入してきた。そんな中に馬車があった。人間が座ったイス式の箱を馬が引っ張る車だ。
 それまでのわが国の輸送機関といえば、人間が座る“小型屋根付き座敷”を二人の人間が担いで走る「駕籠」しかなかった。そんな時代に、初めて馬車を見た日本人はビックリしたに違いない。
 
 当時、日本人町(現在の伊勢佐木方面)から吉田橋の関門を通過して居留地側(現在の関内地区)に入ると海へ続く道があった。現在の馬車道である。ここを行き交う外国人の乗った馬車を見て、日本人は“異人馬車”とか“馬引き車”などと呼んでいたが、これを真似して造り輸送業として事業化する人々が現れてきた。
 そのうちの一人が下岡蓮杖だ。彼は写真師として活躍する一方、牛乳業にも手を出していた。新しい時代に敏感な人物で、当然、馬車にも興味を示した。
 明治2年(1869)、彼は共同出資によって「成駒屋」を発足させ、京浜間を走る乗合馬車を開業している。

 一方、新しく出現した西洋の「馬車」と、旧来から日本にある「駕籠」や「荷車」を折衷させ、人間が引っ張る“車”を考え出した人々がいた。これが“人車”、のちに“人力車”と呼ばれる乗り物だった。
 人力車発明記念碑が青山と谷中の二か所にあるように、最初の開発者は誰だったのかは諸説あるようだ。おそらく、このような発想は多くの日本人の間で同時多発的に沸いたのであろう。

 そんな発明者の一人に、和泉要助という男がいた。日本橋に住む町役人の彼が人力車を思いついたのは、横浜で外国人の乗る軽快な馬車を見て、馬力を人力に置き換えたらいいかもしれない、と考えたからだという。
 彼は手先が器用なうえにアイディアマンだったらしく、人力車開発に向けてさまざまな工夫を凝らしている。
 これまでの江戸時代的常識にとらわれていたら、車付きの駕籠とか、畳敷きの箱車という考え方しか出てこなかったはずなのだが、彼は乗り降りしやすく安定して乗車できるイス式というスタイルを考え出した。
 車輪は四輪、三輪、二輪と試行錯誤した結果、最も安定して軽快に走れる二輪に。イスには乗客が足を置いて身体が安定するよう踏み板も取り付けた。
 また、引き手側に取り付ける二本の梶棒の長さもいろいろ実験して最適な長さにして製造したのである。

 明治3年(1870)3月、和泉要助たちのグループはお上の許可を得るべく事業の申請を提出。現代のお役所からは考えられないことだが、なんと5日で許可が下りたという。
 同年11月、彼らは横浜市内での営業許可を申請し、翌年1月から川崎~藤沢間の営業も開始した。
 
 明治5年(1872)、新橋~横浜間に鉄道が開通。これによって長距離の移動は陸蒸気が利用できるようになったが、駅を出てから先は乗合馬車や人力車を利用するしかなかった。今で言えば路線バスとタクシーだ。
 人力車の需要は一気に高まり、吉田橋と大江橋の袂には人力車休憩所も設けられた。東京では数十人に過ぎなかった車夫が明治19年(1886)には10万人を超えていたというからすごい。

 車夫には辻待ちの“辻車夫”と、金持ちに雇われた“お抱え車夫”とがあった。辻車夫は雇用主である親方から人力車、法被、笠、合羽などを借りて損料を支払っていた。一方、お抱え車夫ともなれば食事付きで7~8円の月給を貰えたが、大多数の車夫は辻車夫で、生活は苦しかったようである。


 そんな車夫の生活を詠んだ歌がある。

人力車夫
大路ゆく 人に雇はえ 引きと引く ちから車の 七車
数かさぬれど 朝宵の 煙の代に ことごとに 
数えあつればも 悲しかる 老の父母 いとほしき
我が妻子らの 明日の日を すぐさむまけも 借りて引く 車の値ひ
借りて住む 家の値ひ 今日の日の 代になさむと 
かすゆ酒 すすりもかねて 汗あえて 息づきあへぐ
いたづきを つらつら思へば ゆくさくさ 轍をぬぐひ 
軸にさす 油もおのが 身のあぶらなる

[訳]
大きな路を行く人に雇われて 客を乗せ挽いていく人力車の
車は多く数を重ねるけれども 朝と夕べの暮らしの稼ぎ高を
詳しく数え集めてみれば かわいそうな老いた父母
可愛い私の妻と子たちの 明日の日を過ごす用意も
借りて挽く人力車の損料 借りて住む家の家賃になってしまう
今日の日の食事の足しにしようとの 酒糟を湯にとかし啜ることもできず
汗を流しため息をついて喘いでいる 病気になったときをつくづく思えば
行き帰りに車の両輪を拭い 車の軸に差す油も
この私の身の膏(あぶら)である
(訳:清水鉄太郎)


 この歌の作者は大熊弁玉(1818-1880)という神奈川・三宝寺の住職である。浅草に生まれた彼は13歳で仏門に入り、15歳のとき芝増上寺へ移った。その頃から弁玉の法号を名乗り、また詩歌にも親しむようになったという。

 神奈川の三宝寺第21世住職に着任したのは嘉永3年(1850)。それから9年後に横浜が開港し西洋文化が流入してくると、弁玉は電信・陸蒸気・ガス灯・写真などを題材に数多くの長歌や短歌を詠み込んだ。
 

 三宝寺は、京浜急行「神奈川駅」近くの台町にある。
 寺からさらに少し坂を登ると、高島嘉右衛門が「望欣台(ぼうきんだい)」と名づけた高台に出る。嘉右衛門が「港内の繁栄と事業の功績を望み、欣然として心を癒した」ことに由来する場所だ。




 その近くに大熊弁玉の歌碑が建っている。




 彼の歌の特色は、文明開化の新事物を扱ったことだけではなく、弱い者に対する哀れみ、暖かい眼差し、悲しみなどが溢れていることだ。
 上記の「人力車」もそのうちの一つであるが、他にも護送される囚人を見送る歌や、鉄道自殺した人を哀れむ歌など、読む者に深い感銘を与えてくれる。

 中華街で見かけた人力車から、思わぬ旅に出てしまったが、たまには中華料理の世界から飛び出し、このような歴史を訪ねる散策をしてみてはいかがだろうか。


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4 コメント

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全く (ふ゛り)
2009-04-26 22:12:45
管理人さまのローカルな歴史、食、その他多くの生活に絡む知識と行動には感心するばかりです。

管理人さまのBlogエントリーのどれか一つにでも思うところが無ければ、浜っ子とは言えぬ、というほど、ハマの多くを網羅されていると感じます。

これからも楽しく拝見させて頂きます。
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Unknown (管理人)
2009-04-27 05:17:48
◇ぶりさん
つい、中華街からはみ出してしまうのです。
これからも、ときどき別なエリアに飛びます。

返信する
坂。 (erima)
2009-04-28 01:38:04
この、三宝寺さんまでの坂がものすご~く急で、自転車を押し上げるのに、大変だった記憶があります。

そういえばずいぶん前に、下岡蓮杖について書かれた本を買ったのに、途中まで読んでそのままになっていたことを、この記事を拝見して思い出しました。
続きを読まねば。
返信する
Unknown (管理人)
2009-04-28 05:22:17
◇erimaさん
ここの坂を登る車もヒーヒー言ってました。
自転車だと相当きついですね。
それだけに、頂上からの眺めは素晴らしい!
返信する

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