『これは謝甜記がサンタクロースのように全世界に知られ、みんなに喜ばれる存在になれるようにとの願いが込められているとか。初代が当時向かいにあったバーのクリスマスの飾りとして置かれたサンタクロースの看板をもらってきたことから始まったそう』 この一文は以前、「謝甜記」のサンタクロースについて、中華街発展会のメールマガジンに書かれていた記事なのだが、そのバーとはどんな店だったのか。 「謝甜記」の創業は昭和26年(1951)。 この年、我が国はサンフランシスコにおいて平和条約に調印し、翌年4月に条約を発効させた。 これにより日本は独立国となったわけだが、終戦以来のアメリカ占領軍は在日米軍と名を変えてそのまま駐留が続くことになる。 当時は朝鮮戦争の真っただ中。横浜には米兵がうようよいたという。 いつ戦地に送り込まれるかも分からない兵隊たちを慰めたものの一つが、中華街のバーだったのではないだろうか。 昭和31年からの地図しかないので、20年代のことは分からないが、「謝甜記」とその前にあったというバーを調べてみた。 いまのところ私が遡れるいちばん古い情報がこれだ。 昭和31年の地図である。 中華粥と書いてある店が「謝甜記」だ。 その向かい側にあるバーといったら「ラストチャンス」である。 昭和37年。 上の地図から6年経ったころの状況だ。 向かい側のバーは名前が変わって「ノーブル」となっている。 おそらく代替わりしたのであろう。 昭和41年、今度は「ノーブル」から「ボン」に変わった。 米軍による北爆も始まり、ベトナム戦争が泥沼化していく時代である。 このあたりにも米兵が闊歩していたのだろうか。 昭和43年。 店名はそのままでバーから喫茶店に業態が変更されたようだ。 昭和47年。 現在の「白楽天」が登場している。 以上の地図は数年置きなので、各店舗がいつできたのかははっきりしないが、まあ、だいたいその頃そんな店があったということだ。 さて、「謝甜記」の初代が店の前のバーからサンタの飾りを譲り受けたという話。 昭和30~40年代を通じて、向か側のバーは「ラストチャンス」、「ノーブル」、「ボン」と3軒登場している。 はたして、どのバーだったのだろうか。 ところで話は変わるが、上の地図から「華正樓」の変遷も見えてきた。 昭和31年には上海路側にしか店舗がなかったのだ。 それが昭和37年になると、裏の「ホテル リッツ」部分が「華正樓」となり、さらに大通り側に増築予定地が見られる。 そして昭和41年、増築部分ができて、元々の店舗とつながったようだ。 昭和43年でも同じ姿が描かれているが、昭和47年になると、今の立派な建物ができている。 この5枚の地図からほかに分かったこと。 (昭和37年) 大通りに新光映画劇場があった(今は同發新館)。 華正樓の隣に矢沢船具店があった(今は日本大通り)。 そのほか、大通りに面して時計店、装身具店、歯科医院、パチンコ店、書店、青果店、肉店、ベーカリーなど、生活関連の店舗が並んでいた。 (昭和43年) 豚まんの「江戸清」の2階にレストランがあった。 (昭和47年) 喫茶エルの2階に麻雀荘があった。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
整理してたら10年ほど前に放映されたアド街「中華街」
の回のものが出てきました。10年でも経つと大分、街
の様子も変わっています。
酔華さん。もし、よかったらDVDに焼いておきましょうか?
2003年1月に放映しているんですね。
だいぶ変わっているでしょ。
検索してみたら懐かしい店が…
フレンチ中華の「菊華」、
肉まんの「華香園」、
バー「コペンハーゲン」、
焼豚「有昌」、
飲茶の「菜香市場通り店」、
老舗「珠江飯店」、
デザートの「李白四川」、
珍しかった「回転飲茶」・・・
観てみたいです。
おかゆ屋さんのサンタさんの謎、少し解けましたww
懐かしいでしょ。
地図だけではなく写真も残っていれば良いのになあ
横浜開港150周年記念事業
「みんなでつくる横濱写真アルバム」
↓
http://www.yokohama-album.jp/
情報をありがとうございます。
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まだすべてを見ていませんがね。