反戦画家の戦争画

 

 19世紀後半ロシアの移動派時代に、ワシーリイ・ヴェレシシャーギン(Vasily Vereshchagin)という画家がいる。
 ちょっと特異に感じる画家。主に戦争画を描いたからだろう。と言っても、その立場は反戦だったのだが。

 優秀で真面目で、自分に誠実で、虐げられた者への眼差しを持ち、祖国を愛する心も、世界に眼を向ける視野も持つ、リアリスト兼ロマンチスト。
 帝政ロシアのトルキスタン遠征や露土戦争に従軍し、スケッチにもとづいた徹底した写実による戦場シーンを描き続けた。従軍特派員やカメラマンのいなかった時代、戦場の野蛮さ悲惨さをそのまま記録することを、自身の使命と心得て。
 一方で彼は旅行家だった。当然のこととして旅をし、他に世界がある以上旅をし、生涯にわたって旅をし、しかもどこまでもどこまでも旅をした。

 彼の絵には戦争讃美的、英雄礼賛的なところがない。彼のリアルな絵の前では、民間人なら眼を逸らしたくなるし、軍人なら士気が下がる。
 雪のなか、埃のなかの、無造作に横たわる死者、望みのない負傷者。惨めな前哨や露営。逮捕されるスパイ、尋問される脱走兵。手紙を読む野戦病院の看護婦。ウラー! 銃剣突撃。火を噴く銃口。云々。
 敵味方に関わらず、ヴェレシシャーギンは兵士の死を見るのを嫌った。が、戦争で描かれるべきは一兵卒だ、と信じていた。彼らは無益に死んでいく。彼らの意味のない犠牲こそが戦争なのだ。
 ……ヴェレシシャーギンにとって絵はある意味手段なのだが、そんな文句など言わせない、有無のない自然主義的な描写と表現、そしてセンス!

 裕福な地主の息子として、末は士官か外交官を期待されたヴェレシシャーギン。早くから海軍士官学校に入れられ、しかも優等生、士官として将来を約束されていたのに、絵なんぞに興味を持ってしまう。
 美術学校の夜間部に通い、士官学校を卒業するとすぐに、両親の反対を無視して美術学校へと進む。ここでも優等生だったが、アカデミーの教育原理に満足できずに見切りをつけた。クラムスコイら「14の叛乱」の数年前のこと。

 彼が求めた新しい主題は異国、その民衆の生活と風習、そして彼らに強いられた残酷と野蛮。
 戦争を知るために、トルキスタン遠征に志願兵として従軍。この戦争に取材した連作を発表して、幾許かの認知と名声を得た彼は、露土戦争が勃発すると再び従軍。兄の戦死と自身の負傷で、彼の単なるリアリストにとどまらない、反戦平和の立場は決定的なものとなった。

 露土戦争に取材した連作は、あまりに飾らずロシア兵の悲惨を描いたために、帝政権力と対立、時の皇帝は彼を下種野郎と罵り、彼はやむなくロシアを離れる。
 国外での個展は成功したが、それでも欧米の軍部に、軍人や士官学校生の観覧を禁止される扱われよう。軍事権力にはありがたくない作品。

 ヴェレシシャーギンは中央アジアにとどまらず、中近東、インド、アメリカ合衆国、キューバ、日本まで渡り歩いた。
 パレスチナの聖地を訪れ、その風景や風俗に取材した新約聖書の連作は、西欧化されていない中東人という、因襲無視のキリスト像を描き出した。カトリック諸国では検閲され、ロシアでは禁止され、ウィーンでは狂信者に酸をぶっかけられる、という扱われよう。宗教権力にはありがたくない作品。

 彼が日本を訪れた直後に日露戦争が勃発。旅順に移り従軍した彼は、搭乗した旗艦ペトロパブロフスクが機雷に触れて爆発、沈没し、他の乗組員とともに戦死した。
 ……立派すぎて、真似できん。

 画像は、ヴェレシシャーギン「敗北、パニヒダ」。
  ワシーリイ・ヴェレシシャーギン
   (Vasily Vereshchagin, 1842-1904, Russian)

 他、左から、
  「銃剣突撃、“ウラー!”」
  「捕虜の道」
  「戦争礼賛」
  「ティムールの門」
  「小舟にて」
       
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怒るなかれ、抗うなかれ、裁くなかれ

 
    
 高校の頃、博愛主義の人格者になりたいと願って、聖書を読んだことがあった。献身の姿勢さえ身につければ、かなり前途有望な弟子になれそうだと自負していたところが、突然、博愛とは異なる精神に感化された。私は急激に開眼したけれども、汎愛からは遥か遠のいてしまった。
 それでも、キリストの思想と生涯というのは、今でもやはり興味深い。 

 ワシーリイ・ペロフの絵がドストエフスキー的なら、ニコライ・ゲーの絵はトルストイ的だと言われる……わけではない。そんなこと、別に誰も言っていない。でもまあ、そう言えなくもない雰囲気が、ゲーの絵にはあると思う。 
 ニコライ・ゲー(Nikolai Ge)は移動派創立メンバーの一人。福音書からのシーンを感銘深く描き出し、宗教画の新しいスタイルを築いた。

 祖父はフランス革命の亡命貴族(多分)。両親を早くに亡くしたゲー坊やを育てた農奴の乳母は、彼のなかに、虐げられた人々の屈辱と悲哀に対する鋭い感覚をも培った。
 大学で専攻した物理と数学を投げ出して、科学者から画家へと転向。
 多分にロマン派的な新古典派の画家、カール・ブリューロフから大いに影響を受け、自分の趣向とマッチしたアカデミーの古典主義にしっかりと則って、金賞を受賞してイタリアへ留学。一旦のロシア帰国を挟んで、実に十数年ものあいだイタリアに滞在した。

 今度こそロシアに戻ると、移動派の創立に参加。で数年後、ゲーはトルストイとの交友を通じて、その思想の熱心な信奉者となる。

 新約聖書でイエスが説く非暴力の思想。その実践を訴えたトルストイの非暴力主義が、かのガンジーに強く影響を与えたのは有名な話。
 社会悪を糾弾する一方で、悪に対する抵抗は非暴力をもって貫くべし、という信条。それを支えるのが自給自足労働であるとして、トルストイは農奴とともに農作業に携わった。
 
 人は絵を売ってではなく、農作業をして暮らすべきだ。……ゲーもウクライナに小さな農場を買って、そこに移り住む。後に彼が急死したのも、この農場でだった。
 農耕と信仰の簡素な生活を経て、再び画業へと戻った彼が手がけたのは、福音書の主題。人々に省みられない時間と場所の片隅でひっそりと進行する人間ドラマのように、意味の重きを外さず、けれどもまるで歴史風俗のような普通さで、日常情景的に描かれた、キリストの運命。

 トルストイの思想はやがて教会や国家の権力の否定へと行き着き、結果、トルストイ自身もそれら権力から否定されたのだが、ゲーもまた似たような扱いを受ける。彼が発表した新しい宗教画は激しい論争を引き起こし、民主的な批評家からは絶賛され、保守的な批評家からは非難されたが、権力からは一切無視されたという。
 が、論争の種となったおかげで、ゲーの画家としての名声は確たるものとなった。

 ゲーには誰もが自分の肖像画を持つべきという主義があって、彼の作品一覧を見ると、ゲー自身が押しかけて描いたトルストイのそれを初め、肖像画がずらりと並んでいる。が、彼を有名にしたあの宗教画シリーズは、あまりない。 
 解説によれば、それらの多くは行方不明なのだという。彼はスイスの女慈善家に全作品を遺贈して死んだのだが、彼女の死後を待って覗いてみれば、その地所にゲーの絵は影も形も残っていなかった、という話。

 画像は、ゲー「ゲッセマネの園に赴くキリストと弟子たち」。
  ニコライ・ゲー(Nikolai Ge,1831-1894, Russian)
 他、左から、
  「カッラーラの大理石輸送」
  「老いた農夫」
  「レフ・トルストイの肖像」
  「キリストとピラト」
  「磔刑」
       
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ああ貧しきかな人々よ

 
  
 リアリズムが単なる技術的な方法なら、近代絵画(印象派あたり)以前の古典絵画はすべて、リアリズムということになる。が、絵画史においてリアリズムというタームは、現実をあるがままに再現する、つまり、現実社会に問題や矛盾があるなら、それをもありのままに再現する、という立場を指す。
 この、社会の暗部に焦点を当て、その凡庸や偽善や腐敗、そのなかで虐げられる底辺の人々の悲喜劇を、慈愛と哀憐と皮肉をもって描き出そうとする立場は、特に、「批判的リアリズム(critical realism)」というタームで表わされる。

 もともとこれは、19世紀ロシア文学史における概念らしいのだが、同時代のことでもあって、絵画史にもよく登場する。移動派のリアリズムは、その批判精神からして「批判的リアリズム」の立場にあると言える。
 そのなかでワシーリイ・ペロフ(Vasily Perov)は、19世紀後半、下層社会の庶民の生活を描くことで、「批判的リアリズム」という立場を打ち立てた画家、とされている。

 ペロフの絵はドストエフスキー的だと言われる。だからなのか、歴史の教科書等で誰もが一度は眼にする、彼の描いた文豪ドストエフスキーの肖像は、当時のロシア文化人を描いた彼の連作のなかでも、非常に優れている。彼はツルゲーネフもトルストイも描いているのだが、それに比べてドストエフスキーのほうが断トツに印象に残るのは、何もモデルの風貌のせいばかりではないと思う。
 モデルをまるで同時代に存在する人物のようにして現代に伝える、こうした肖像画がなければ、この文豪に対する後世の人々のイメージも、随分限られたものになっていただろう。

 ペロフの絵というのは分かりやすい。主題は明瞭で、表現も明瞭。人物たちは一見して、貧しい人々だと分かる。彼らは必ず中央にいる。色調は概ね寒々しく、それが却って表現豊かなものとなっている。
 構図が対角線な場合は、人物たちはとぼとぼと歩き来るか、歩き去るところで、身を切られるように、責めさいなまれるように、彼らの行く末に思いが馳せる。

 地味で実直で博愛主義的で、あたかも下層階級の歴史画のように多少モラリスティックなペロフの絵。彼はクラムスコイやゲーとともに、移動派の創立メンバーの一人なのだが、彼のような絵があるのとないのとでは、移動派の深みが全然違っただろうと思う。

 クラムスコイと同世代。彼より少し早くに生まれ、同じだけ少し早くに死んでいる。
 地方検事の男爵の庶子。ペロフというのは父親の姓ではなく、達筆だった彼の、ロシア語で“ペン”という意味の渾名によるのだそう。
 モスクワの美術学校で学び、初期の表現は多分に暴露的、風刺的だった、その同じ主題が、パリ留学を経た帰国後には、内なる共感を呼び起こす自然さで表現されるようになる。数々の肖像画もまた、同じく深い洞察と、人間性に対する関心とをもって描かれたものだった。

 移動派の創始に加わった同年に、母校の教授に就任。
 ペロフは、ロシア絵画がますます発展していくなか、自分は遅れたままであること、けれどもそれを変えることはできないことを自覚し、以降はほとんど制作しなかったのだという。
 が、彼は優秀な教え手だった。若い世代の優れた画家が、何人も生徒にいた。彼らはペロフの死をきっかけに、モスクワからサンクトペテルブルクのアカデミーへと移る。そしてその保守主義・形式主義に失望して、ある者はモスクワに戻り、ある者はサンクトペテルブルクには残るがアカデミーは見限って、修練し続けた。

 ちょっと長く書きすぎた。
 
 画像は、ペロフ「死者の埋葬」。
  ワシーリイ・ペロフ(Vasily Perov, 1834-1882, Russian)
 他、左から、
  「トロイカ」
  「溺死した女」
  「サヴォアの少年」
  「共同墓地の孤児たち」
  「ドストエフスキーの肖像」
       
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