夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」その2

2012-08-20 00:40:40 | 映画
3.運命の人
上京して1年後、ちひろは小さな新聞社で挿絵や記事を書いて生計を立てていた。しかし、社会的なテーマを重視する周囲の画家たちの中にあって、ちひろは労働者を描いても絵が甘いと批判され、自分はどんな絵を描くべきなのか、思い悩む。つらいとき、ちひろはスケッチ帳を持って町に出た。やがて、焼け跡の町でたくましく生きる子どもたちの姿を描くようになる。

「自分は子どもたちのために絵を描きたい」。そう決心したちひろは、新聞社を辞めて独立。生活は苦しくなったが、自分でつかんだ初めての仕事であるアンデルセン童話の絵本に全てを賭け、好評を得る。

一方、その頃ちひろは反戦平和運動を通じて松本善明(ぜんめい)と知り合い、互いに惹かれていく。善明はちひろを尊敬、応援し、ちひろは30歳にして初めて人を愛することを知る。しかし、善明の両親は7つも年上で、バツイチのちひろと結婚することには猛反対、そうしたことが許されるような時代ではなかった。そこで二人は、ちひろの住む神田の下宿で、2人だけの結婚式を挙げる。

結婚式にあたって、ちひろは千円の大金をすべて花にして部屋を埋め尽くしたという。その他にはブドウ酒と、ワイングラス2つだけ。このとき交わした誓約書には、「…特に芸術家としての妻の立場を尊重すること」と書かれていたのが印象に残った。

翌年、長男の猛(たけし)が誕生するが、夫は弁護士を目指して勉強中のため、収入がない。ちひろは自分の絵筆で家計を支えることを決意する。しかし、六畳一間の暮らしで、しょっちゅう泣きわめく猛が絵の妨げになる。泣く泣く、生後一ヶ月で猛を田舎の両親に預けることにするが、当時のスケッチ帳は、猛への思いを綴った言葉であふれている。

愛する夫と息子のため、苦しい生活と闘っていたちひろ。けれども翌年、夫が司法試験に合格、ようやく息子と暮らせるようになる。

4.飛躍のとき
その日からちひろの側には、常に猛がいた。ちひろは生活のために広告の絵を描いていたが、猛がそのモデルになった。冷やし中華のスープ、ヨーグルト、百貨店…等の広告。ちひろは猛にポーズをとらせては、そうした絵を描いていたという。

一方ちひろは、夫のため息子のため働きすぎて、自分の絵をだめにしているような気持ちにもなっていた。(当時、夫は弁護士になっていたとはいえ、弱者のための労働争議のような、お金にならない仕事ばかりしていた)。しかし、そこに絵本の仕事が舞い込む。初めて一冊すべての挿絵を担当したその絵本には、息子をモデルにした絵が全編に描かれていた。

この絵本が評判になり、ちひろは絵本画家として認められはじめる。母になったことが、ちひろの絵の世界を深めたのであった。

6.画家の権利を求めて
当時、挿絵画家の地位は低く、その著作権は認められていなかった。ちひろは、絵本における挿絵は文の説明ではなく、独立した芸術作品として認められるべきだと考えていた。そのことを主張すればするほど仕事は減ったが、ちひろはあきらめなかった。「原画は返却してください、画家の権利を尊重してください」と言い続けるうちに、やがて多くの画家が賛同してくれるようになる。

頑迷な出版社を変え、著作権を認めさせる原動力になったちひろの功績は大きく、その後の児童出版に与えた影響も大きい。



この映画のどの場面にも強い印象を受けたが、私はやはり、ちひろが27歳で家出同然に東京に出てきて、周囲の批判の中で、自分はどんな絵を描くべきなのか、悶々と苦しんでいた時期が最も印象に残った。その頃のちひろは、古本屋で次々に画集を買ってきては、ピカソをはじめ様々な画家のデッサンを模した修練の日々を送ったという。そのおびただしい数のデッサンを見て、自分の絵を確立させるために要した苦闘に心を動かされずにはいられなかった。

今日は、映画館がいっぱいになるほど多くの方が来館されていて、ちひろのファンがこれだけ多いことに改めて驚いた。この映画を見た後では、きっとちひろの絵に対する見方が変わってくると思う。多くの方が見てくだされば嬉しい。

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