夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

教研レポート (その2)

2014-11-16 22:35:02 | 教育
教育研究会の午後は、まず分科会があり、古典から「四季折々の自然や風物の美しさ」を感じ取り、味わい、伝え合う力を育てる授業についての事例報告と協議。
続いて、会場を防府市公会堂に移し、小中高の全体合同で、「谷川俊太郎さんと語る会」があった。


谷川俊太郎さんについては、特に説明は要しまいと思う。
昭和6年(1931)生まれの詩人で、国語の教科書には、小学校で「生きる」「スイミー(訳)」、中学校で「明日」、高校で「二十億光年の孤独」などの作品が採られている。
アニメ「鉄腕アトム」の歌詞や、マンガ『ピーナッツ』(スヌーピー)の訳でも有名である。
この日は、岩国市立美川中学校校長の中村浩氏が聞き手となり、谷川さんのお話や自作の詩の朗読を聞くことができた。
以下、谷川さんのお話の中で、印象に残ったことをいくつか紹介する。

詩の授業、あるいは教科書について
午前中、授業を参観して、先生って大変だなあと思った。
(国語の先生は)教科書にこだわり過ぎているのではないか。教科書が絶対的な権威になっている。
すごく細かく解釈し過ぎたりしているのを見ると、詩の世界は豊かだから、もっと他と比較してほしいと思う。
(国語の教科書は)日本の詩歌の長い歴史を踏まえて詩を選択してほしい。(選択に際して)思想的なものが感じられない。編集委員の恣意的な選択という感じがする。

詩の朗読
谷川さんは、聞き手の求めに応じて、「芝生」「さようなら」「春に」「二十億光年の孤独」「かっぱ」「おならうた」などの詩を自ら朗読してくれた。
私は、こうした機会は初めてだったが、朗読がこんなによいものだとは知らなかった。
客観的には、老人のしゃがれ声のはずなのに、美しい言葉、ここちよい調べで陶然としてしまう。歌手の歌を聴く感動とはやや違うが、言葉に酔わされる、という経験を初めてした。

自作解説
「芝生」という詩は僕の本質で、気に入っている。
夢遊病的にできた詩で、自分でもなんでこんな詩ができたのかわからない。書けちゃった。

―(聞き手)巫女さんみたいな?―
自分の場合、降りてくるんじゃなくて、のぼっていく感じ。日本語の土壌の中から上へ伸びて、枝や葉を広げて、という感じ。
「さようなら」も、夢遊病的にできた詩で、なんで書けたのかなあ。
息子が作曲してくれて、それを聴いたら、あまりよくてジーン。

―「さようなら」はひらがなばかりで書かれた詩で、リズムや響きも感じられますが?―
日本語の詩の場合は、リズムというより調べというべきだと思っている。
日本語は基本的に母音終わりで英詩のような脚韻など無意味だ。
僕は、詩を直すときも意味でなく、音的に直している。本能的に、快いという感覚で詩を構成しているんだと思う。

「作者の意図」について
詩は自己表現ではない。色々な人に憑依して、その人の声を出そうとする。ただ、それもフィクションであって、どこかに〈自分〉が出ている。
教育現場では、「作者の意図」を言い過ぎる。詩の言葉そのものを楽しんでほしい。必ずしも、作者の人格と結びつけて解釈しなくてもよい。
僕の場合、自分をニュートラル、空っぽにして、言葉を訪れるのを待つのが基本的な姿勢だ。

…長くなってしまったので、「語る会」の話題については、次回もう一度取り上げる。