雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

12月が来るたびに

2022年01月31日 | 過去に書いた文
今年も、カレンダーは最後の1枚になり、ちびくまは7歳の誕生日を迎えた。街にクリスマス・ソングが流れ、慌しくも心騒ぐ華やぎを加える頃、私の心は鈍い痛みを思い出す。

4歳の誕生日を迎えたばかりの我が子が「自閉症」だと告げられた、あの日。
今、振り返ると、電話でカジュアルに伝えるなんて、なんてさばさばしているんだろう、と思う。日本なら、ちょっと考えられないんじゃないか、と思うのだが、あれは、アメリカだから、だったのだろうか、それとも、既に発達に遅れがあると判定を受けているのだから、ショックなんか受けないと思われていたのだろうか。

だが、今思えば不思議なくらい、あの当時の私には、心の準備がなかった。なんらかの障害があることは認めざるを得なかったが、素人目にも明らかに息子は「典型的な(カナー型)自閉症」ではなかった。典型的な自閉症でなければ、いつか「普通」になる、と無意識のうちに信じようとしていたのかもしれない。「障害」は「克服」するもの、できるもの、と思っていたのかもしれない。だが、医者は事も無げに"lifelong disability"(生涯にわたる障碍)であり、"incurable"(治癒することはない)と告げた。その後の会話はなぜか思い出せない。真正面にあった、中庭に通じる掃き出し窓の外が、重く沈んだグレーの空で、みぞれ混じりの雪が降っていたことはおぼえているのに。静まり返ったアパートの中で、息子がその時何をしていたのか、自分が泣いていたのかどうかさえ、思い出すことができない。

あの日、私の中で何かが死んだ、と思う。そして、その「死んだもの」の弔いが済むまで、私は起き上がることができなかった。なぜ、生きているのか。どうして、生きていなくてはいけないのか。しばらくの間、私にとって、死んだのは息子そのものだった。死んだ息子をここに抱えていてはいけない、どこかに葬ってやらなくてはいけない。何かに憑かれたように、そればかりを考えていた。あの頃、息子にちゃんと食事をさせていたのだろうか。自分は食事をしたり、眠ったりしていたのだろうか。それすら、思い出すことができない。夫は全く変わりなく、毎日食事をし、風呂に入り、テレビを見、眠っていた。それを、私と息子に対する裏切りのように感じて、とてつもなく憎く思っていたことだけが、記憶に残っている。息子と共に、私の心も死んだのだった。・・・そう、思っていた。

あれから3年。私は生きている。
あの時、あれほど意味がわからなくて、何ヶ月もかかって数々の英語の文献を読み漁って、やっと自分なりに消化した「自閉症スペクトル」という概念も、今では日本でも広く知られるようになった。自閉症に関する日本語のインターネットサイトや優れた書籍も、爆発的に増えた。やっと日本でも自閉症に光があたり始めた、そんな気がする。

私の葛藤を知ってか知らずか、息子は、ますます愛らしく、逞しく、伸びやかに育った。
弾けるような笑顔と、茶目っ気のある横目と、数々のこだわりと、空気の海を漂うような不思議な歩き方と、マイペースで自信に満ちた態度とで、多くの人を惹きつけ可愛がられる、1年生になった。障害児学級きっての、朗らかな目立ちたがりやである。

あの時、死んだのは息子ではなかった。「自閉症」は彼を損なうものではなく、彼の内にあり、彼を形作るものであり、彼の魅力そのものであることを、息子は自分の力で私に教えてくれた。その声ならぬ声に、私が耳を傾けるきっかけになったのは、自らの痛みをさらして、自閉者の内なる世界の存在と、その深さを私たちにもわかる言葉で語ってくれた、成人自閉者との出会いだった。そこから、新たな世界が開けた。

頬の上で空気が融けるような、張り詰めた冬の朝、マンションのエントランスまで、学校に行く息子を送る。ランドセルを背負った彼と、手を繋いで廊下を歩くとき、その小さな手のぬくもりを、たまらなく愛しく思う。誰にともなく、ありがとう、と言いたくなる。彼は生きている。彼は生きていく。彼のままで、自閉者のままで。私も、私のままで、彼と生きていこう。

12月が来るたびに、冬の嵐のような、あの日々を思い出す。
だが、今、それは、うっすらと傷跡の残る子供時代の怪我の記憶のようになった。痛かったことだけははっきりと覚えているのだが、どこがどう痛かったのか、わからなくなっている。
私の中で「死んだもの」は、いったいなんだったのだろう。
それも、私にはわからなくなった。だが、それは私のなかで弔いが済み、手厚く葬られて、天上の住人となったことだけがはっきりしている。そして今、私と息子が前に進むための、道を照らす明かりとなってくれている。

12月が来るたびに、私は息子を抱きしめられる喜びを思うだろう。バースデーケーキの上に一本ずつ増えていくロウソクを、彼と共に喜ぶだろう。息子のありのままを楽しむ術を教えてくれた人々に、これからも幸あれ、と祈るだろう。今、嵐の只中にいる人の悲しみを思い、もう一度陽だまりの暖かさを感じる日が一日も早くくるように、と願うだろう。

生きていてくれて、ありがとう。あなたにその言葉を捧げよう。
12月が来るたびに。

NO TEACHER

2022年01月30日 | 過去に書いた文
たった一つの言葉が、その後の生き方を大きく変えることがある。

ちびくまがアメリカの養護幼稚園に入園して半年が過ぎた頃だった。息子が自閉症の診断を受けたそのショックからようやく立ち直り始めた私は、今度は「息子を良くする方法」を探し始めた。ロバース法、メガビタミン療法、CFGFダイエット、聴覚統合療法、完全受容法、etc.・・・。息子の自閉症は治らないと医者は言ったけれど、何か方法があるかもしれない。今、やっておかなければ間に合わないかもしれない。そんな気持ちに追われるように、私はインターネットサイトを巡り、大型書店を巡って、情報を求めつづけた。

息子はすっかり養護幼稚園に慣れ、校門で私と別れるときも、ニコニコ顔で先生と手をつないで教室へ行くようになっていた。以前は近くにいられる事すら不快という感じだったクラスメートとも、何人かとは手を繋いだり、じゃれあうような仕草が見られることも出てきた。編入した時点では全くわからなかった英語にも、結構すんなりと馴染んだようで、先生の指示に従えることも増えてきた。「すわって」と声をかけると"Sit down"と答える、という、「翻訳おうむがえし」が出るようになった。ほとんど喋ることがない子なのに、英語と日本語の対応関係はわかっているらしかった。たった半年で、見違えるようになった息子に、専門的な療育を受ける事の手ごたえを感じていた。「もっと療育を頑張れば、もっともっと伸びて、学校へ行く頃には普通になるのではないか」私の心の中に火がついた。

インターネットには、しゃべらない子どもに親が1日何時間も熱心に訓練して、言葉を引き出した、という体験談が幾つも紹介されていた。訓練を頑張って、我が子を自閉症とはわからないほどにまで成長させた、という本もあった。私にもできるのではないか。せっかく頭の良い子なのだから、今、私がもっともっと頑張ってやれば、将来は普通の子として生きていけるのではないか。そう、思った。

まず、言葉を教えよう。私はそこへ行き着いた。息子は字が読めるのだ。毎日、フラッシュカードで単語を教えよう。養護幼稚園の先生だって、絵カードを使っているではないか。日本を離れる時に、言葉の遅い息子のために、幼児用教材のカードを何箱か買い求めていた。すぐに使う事は考えていなかったが、外国でも日本語をしっかり教えたいと思っていたから。リビングの隅でミニカーを並べている息子に、10枚のカードを次々に見せながら、私は単語を読み上げた。息子が背を向けると反対側に回りこみ、他の場所に逃げると追いかけていってカードを見せようとした。だが彼は、せいぜいちらっとカードに目を向ける事がある程度だ。何日かこれを続けてみたが、息子は反応を見せない。一度テレビで見ただけの電話番号が覚えられるのだ。こんなカードが覚えられないわけがない。ここが頑張り時なのかもしれない。まだ始めて1週間も経っていない。最初は泣くのを押さえつけてでもやらせたほうが、本人のためなのかもしれない。

私は彼をダイニングに座らせた。嫌がって逃げようとするが、構わず押さえつけて「さあ、ちゃんと見て」とカードを読み上げた。息子はカードを見ようともせず、椅子から逃げ出そうとする。それを捕まえて、もう一度カードを読み上げる。息子は泣き出した。構わず、カードを読み上げる。おうむがえしは、あなたの得意技ではないか。カードも繰り返せばいい。そして、言葉を覚えて欲しい。

そのとき、息子が、私の腕に思い切り噛み付いた。「痛いっ!」思わず手を離すと、彼はすかさず椅子から身を翻した。腕には、しっかりと小さな歯形が赤黒く残っていた。それまで、私は息子に意図的にひっかかれたり噛み付かれたりしたことはなかった。日本語幼稚園で先生に噛み付いたと苦情を言われたことはあったが、家では彼が噛み付くようなことは一度もなかったから、先生の対応がよほど悪かったのだろうと思っていた。穏やかで攻撃的なところがない子どもだと思っていた息子に、明らかに攻撃の意図を込めて噛み付かれたことに、私はショックを受けた。

「何するのよ!痛いじゃない!」足元に散らばったカードをかき集め、私は息子を部屋の隅に追い詰めた。「さあ、読んで!」息子は、涙でぐちゃぐちゃになった顔で私をきっと見据えると、大声で叫んだ。
"Mommy, No teacher!!"

・・・世界中の色が変わった気がした。
息子の言葉はまだ、殆どが一語文だった。それも、「じゅーす」「だっこして」など、要求を伝える単純なものばかりで、その他はほとんどクレーンや指差しで表現する程度だったのだ。それ以外に場面にあった発語があることは、滅多にない。だからこそ、私は焦っていたのだった。その彼から発せられた、「マミー、ノー・ティーチャー」という言葉。

「あなたは僕のおかあさんでしょう?先生にならないで。僕を訓練しようとしないで。僕を喋らせようとしないで。僕を変えることに一生懸命にならないで。おかあさんはおかあさんのままでいて」私には、そう聞こえた。

「ごめん。おかあさんが悪かった。もう、片付けるから」息子の目の前で、カードを片付けた。腰が抜けたように、ソファーに座り込んだ。息子はまだ警戒心をあらわにして私の様子を伺っている。なんだか可笑しくなって笑い出してしまった。「大丈夫。もうしないから。Mommy's no teacher. No more cards.」その言葉がわかったかのように、息子はそーっと私の膝の上に乗ってきた。そして、小さな両手で、私の頬をはさむようにペチペチ叩いて、にっこり笑うと、「マミー、おかさん、マミー」と呼んだ。今度は、それが" I love you."に聞こえた。

息子が私に求めているのは彼の「おかあさん」であることだ。彼が1番安心して頼れる相手であることに徹して、訓練は他の人に任せよう。不思議なほどにきっぱりとそのとき私の心は決まった。彼からの発信は決して強くはない。それをしっかり受け止めて、「伝えたい気持ち」を育てていこう。彼が何を好きなのか、彼が何をしたがっているのか、彼が泣いたのは何故なのか、彼が何に怒っているのか、どうすれば彼は安心できるのか。1番身近な観察者であり、理解者であろうと思った。彼を愛してくれ、彼の能力を伸ばしてくれる指導者を探し、その人が仕事をしやすくなるように情報を提供し、彼との間の通訳ができる、コーディネーターになりたいと思った。その思いは、今日まで続いている。

息子にはできないことが沢山ある。特に、身辺自立の遅れは深刻なものだ。ひょっとしたら、私がもう少し強硬に頑張ってみていたら、もう少しなんとかなっていたのかもしれない、と反省することもある。自閉症であることそのものは母親のしつけのせいではないとしても、母親がのんびりしすぎているから子どもが伸びないのだ、という非難を受けた事もある。
だが、息子はいつも私を安全基地にしている。たとえどれほどそしられても、私にとってこれほど心満たされることはない。痛い目にあったとき、悲しいとき、疲れたとき、彼は必ず私の元に帰ってくる。「おかあさん、なでなでして」「おかあさん、ちょっとだっこして」年齢にしてはあまりに幼い要求だが、私の腕のなかにしばらく納まっていたかと思うと、充電が済んだとばかりに、またすうっと離れていく。夜中にふと目を覚まして、寝ぼけ眼で腕を伸ばし、私の顔を探る。私の頬に触れて、安堵したように溜め息をついて、また眠りの中に落ちていく。その背中を、その寝顔を、私はどんなに愛しく思うことだろう。彼がこれから大人になって、私の手許を離れていっても、私はいつまでもこのぬくもりを心の中で抱きつづけるだろう。

"No teacher"---私と彼の関係を決定付けたその言葉を、私は今も胸に抱いている。そして、今、少年となった息子の笑顔に、あの日の幼い笑顔と掌の柔らかさとを重ね合わせて昔を懐かしむ時、私の耳には今もあの声がこだまするのだ。
「マミー、おかさん、マミー」と。

大雨の朝

2016年07月13日 | 働く大人になりました
朝食を食べていたら、突然窓の外が真っ暗に。
びっくりして外を見てみると、バケツをひっくり返したような雨が降っていました。
遠くで雷までなり始めています。

慌ててネットで雨雲レーダーを確認すると、まあ、この辺一帯、赤を通り越して赤紫
ラジオからも「車のワイパーがきかないほどの雨」「通勤途上の方はくれぐれもお気をつけて」と聞こえてきます。

「こんな土砂降りじゃ、大変だよ。会社まで車で送ってあげようか」
出勤準備をしている息子に声をかけました。いつもは徒歩5分⇒バス10分⇒徒歩8分⇒電車13分⇒徒歩15分の道のり。この雨の中歩けば、会社に着くまでにきっとびしょ濡れになるでしょう。車ならドアツードアで20分。
ところが「えーと、社会人だから」。

どうやら、「僕、これでも社会人なんだよ。大雨くらいで親に送ってもらわなくて結構。バカにしないでよ」ということらしい。

「ホントに大丈夫~?こんな時は無理しなくていいんだよ~」なおも食い下がる母をしり目に「行ってきま~す」と息子はあっさり出ていきました。

レインコート着せるのにさえ苦労したあの子が、こんなに大きくなったんだ。
自分の持って生まれた能力をしっかり生かして、真面目に働いて、こんなにプライドを持っている。
先月より、昨日よりいい仕事をしようと頑張って、人間的に成長している。

アメリカの日本人幼稚園で孤立して泣き続けた日。
自閉症の診断に、目の前が真っ暗になって、「今までこんなに頑張ってきたのに、こんな子が産まれたせいで、私の人生終わった」と考えた日。
あのころの私に、今の息子の姿を見せてやりたい。

息子の成長に恥ずかしくないくらい、私は成長できただろうか。

そんなことを思った、大雨の朝でした。




義理だから、もっと嬉しい。

2016年02月16日 | わたしたちにできること
息子、勤め始めて何とか1年が過ぎました。
初めて自閉症や知的障害の人と一緒に仕事する方たちにとっては、毎日が「?」の連続だったかもしれませんが、
職場の人たちの、温かい理解とサポートのおかげで、様々な仕事を体験させていただき、本人も少しずつ
「働く自分」への自信をつけていっているようです。

そんな彼ですが、なんと今年は「義理チョコ」ならぬ「義理お菓子つめあわせ」を職場でいただいてきました。
「○○くん、いつもありがとうございます」のカード付。

これまでも、女性の担任の先生や、福祉事業所の職員さんや利用者さん仲間から「義理チョコ」をいただいてくる
ことはあったのですが、今年の「義理」は母の方が嬉しかったです。
なんだか、「職場の一員として認めてますよ」と言ってもらったみたいで。
「○○さん」でなく「○○くん」だったのも、なんだかほっこりしてしまいました。
「可愛がってもらってるのかな~」なんて。

お菓子はあまり食べない息子、いただいた中から自分の分を少し残して、あとはいつもお世話になっている
障害者卓球サークルのおやつとして提供したようですが、なぜか好きではないはずのチョコレートは自分の手元に
残したようなので、「バレンタイン」=「チョコレート」ということはわかっているのかもしれません。

男性にとっては「義理でもうれしい」ことも多いらしい、バレンタインのチョコですが、私にとっては
「義理だから、なおさら嬉しい」職場での気遣いでした。

ああ、ぬか喜び

2015年09月30日 | 時には泣きたいこともある。
息子が、今日、10月1日から年度末までの契約書を持って帰ってきました。
「あれ?本採用になったときに、年度末までの契約書、もらってたのにな~、なんでだろう?」と思って
息子に訊くのですが、さっぱり要領を得ません。

しかたがないので、2枚の契約書を並べて、どこがちがうのか、比べていたら、なんと、時給が15円も
上がっていることに気が付きました。

さっそく息子を呼び寄せ、
「ねえ、ちびくまくん、ちびくまくんがお仕事頑張っているから、10月から、もっとお給料がもらえるんだって
 すごいねえ毎日、欠席も遅刻もしないで、一生懸命お仕事しているからだねえほんとに良かったねえ。
 さすが、もうすぐ21歳になるだけのことはあるねえ
と、思いっきり、褒めちぎりました。

まあ、金銭にはまるっきり興味のない息子、「ふーん」と気のない返事だったものの、私の褒め言葉には、
若干気を良くした様子。
「ぼくは毎日、お仕事をがんばっています」なんていう独り言も聞こえてきました。

珍しく感動した私は、遅く帰宅した夫に、
「ねえねえ、ちびくま、時給15円も昇給したよ。評価してくれてんのかな~

すると、夫、にべもなく、「ああ、10月1日から、最低賃金上がるからな~」

なぬっ?
すぐにネットで調べると、その通りでした。最低賃金が16円、上がっていたのです。つまり、
時給(最低賃金+2円)だったのが、時給(最低賃金+1円)になっていただけ
がーーーーーーーーん

ええいっ。いいんだーいうちの家の中では、「息子が頑張ったから」昇給!それでいいんだ

重度知的障害者判定

2015年06月10日 | 「発達障碍」を見つめる眼
先日、初めて県の障害者職業センターに行ってきました。
目的は、「重度知的障害者判定」を受けるため。

会社から、「ぜひ受けてみてほしいのですが」と言われて、「なにそれ、おいしいの?」
状態だった私なのですが…

元々、特支高等部卒業後は継続B型の事業所に入り、「30歳までに就労できるようなチャンスがあれば」
などという、ゆるーーい就労希望だった我々親子。

施設から勧められて、同じ事業所の就労移行に移ってからも、本人の希望もあり、そのまま
継続B型の仲間と一緒に作業を続けるうちに、「これ、ちびくまくんにぴったりだと思うんですけれど!」と
言われる求人が出て、あわててハローワークに登録したら、あれよあれよという間に採用が決まり・・・
という怒涛の展開だったので、就労の仕組みや利用できる制度についてはホントに不勉強で来てしまったのです。

障がいのある人の雇用については、現在「障害者雇用促進法」という法律に基づいて行われています。

この法律上、「知的障害者」とは、障害者更生相談所などの判定によって交付される「療育手帳」(自治体によって
名称は色々ですが)を持っている人のほか、障害者職業センターで「知的障害者」と判定された人も含まれます。
つまり、療育手帳がなくても「障害者枠」で就職することは可能なのですね。

そして、知的障害者のうち、特に障害の重い人が「重度知的障害者」と定義されます。
この重度知的障害者には、療育手帳で障害程度がA・重度と判定されている人のほか、障害者職業センターで
「重度知的障害者」と判定された人も含まれます。

というわけで、療育手帳の有無や判定内容、障害者年金の判定とは全く別の基準で、「障害者雇用促進法上の
知的障害者」「障害者雇用促進法上の重度知的障害者」と認定されることがあるのです。

障害者の雇用促進のため、各企業には法定雇用率と言って、従業員のうち一定割合の人数の障害者を雇用する
義務が課されていて、これを満たしていない場合には「納付金」(罰金のようなもの?)を納めなくてはなりません。

逆に、障害者を雇用している企業には、その数や障害種別・障害程度、対応の内容などによって、各種の助成金が
交付されることになっています。

で、「障害者雇用促進法上の重度障害者」は、ダブルカウント、つまり1人雇えば2人雇っているのと同じ
扱いになるので、企業にとっては経済的メリットがいろいろあるらしいです。
障害が重ければ重いほど、採用される機会が限られる、という現実に鑑み、重度の人が少しでも雇われやすいしくみに
なっている、ということなのでしょう。(息子の場合はすでに雇用されているので大きなメリットはないように
思われますが)

重度障害者にあたるかどうかの判定は、最寄りのハローワークを通じて申し込み、障害者更生相談所などで
IQ判定を受けている場合はその結果、それに社会的生活能力についての調査票(本人または保護者記入)、
カウンセラーとの面接、作業検査の結果を総合的に判断して行われるようです。

息子は、判定時には「Mさんはとてもきもちのいいお返事ができますね」と褒めてもらったので、嬉しそう。
久しぶりに、平日仕事を休んで、大好きなバス(そこか!)を乗り継いでの外出、ということで、それなりに楽しめたようです。
担当カウンセラーさんは、息子の試用期間後、本契約移行の際にも立ち合い、企業側と話をした方だということで、
「頼んだ仕事を真面目に丁寧にやってもらって助かっている、とおっしゃっていましたよ」とほっとする言葉もいただきました。

結果は約1週間後に郵送、ということでしたが、息子は無事(?)「重度知的障害者」の判定をいただきました。(わはは)
記憶力だけがむやみに良いために、生活実感よりはずっと上の数値が出てしまう知能検査には
「本人の困り感や配慮の必要性が評価されてない~」と不満を持っているので、むしろ「職業上の重度」の文言には
「そうよそうよそうなのよ~」と喜んでしまったのですが

療育手帳の取得に抵抗があったり、療育手帳の判定が「中度」「軽度」と出ていた場合には、この「重度知的障害」と
いう表現に引っかかる方もあるかもしれません。でも、「就職および職業生活においてより配慮が必要な人である」と
いうことの証明、と思えば、納得もいくのではないでしょうか。


本採用になりました。

2015年05月18日 | 働く大人になりました
息子、試用期間の3カ月が過ぎ、先日、今年度いっぱいの契約書をもらってきました。
以後、1年ごとの契約更新になるようです。
フルタイムではないのですが、1日あたりの就業時間が若干増えたため、社会保険加入
義務も出来たとかで、自分名義の健康保険証も持って帰ってきました。

息子が厚生年金保険料を納めるようになるとか、健康保険の本人になるとか、
考えてもみていなかったので、正直まだ私の方がとまどっています。

息子の勤め先は、特例子会社や継続A型ではない一般の企業ではあるものの、彼以外にも身体や知的に
障害のある人たちが複数働いている会社で、かなり理解はあるほう、と言われているところですが、

環境の大きな変化や、一般企業で働くということの厳しさは、やはり大きなストレスに
なっているのでしょうか、
4月末には、アトピーが急激に悪化し、大きいものではこぶし大の円形脱毛が多発して
外見がすごいことになってきてしまいました。

実は今年の1月にも、頭髪が三分の一ほどごっそり抜け落ちてしまい、アトピーで顔は真っ赤、
眉毛はなくなっている、というすさまじい外見で採用面接を受け、よくあのルックスで通ったものだと
変な感心をしてしまったくらいだったのですが、せっかく回復しはじめたかと思った矢先、また
あれよあれよという間に悪化してきてしまいました。

以前から皮膚科にも通って塗り薬はもらっているのですが、かなりきつい薬を塗り続けているのに
改善がはかばかしくないので、隣町にある、漢方のお医者さんを訪ねてみたところ、

やはり、ストレスが大きくかかわっているのは間違いないだろうね、ということで、
炎症をとる漢方薬と、ストレスを緩和する漢方薬を処方していただきました。

「わー、繊細なタイプだねえ。穏やかで、反抗期とかなかったんじゃない?」
脈をとっただけでそう言うドクター。
「顔つきもやさしいけどね。気持ちが優しすぎて、ストレスがかかっても、
物や他人にぶつけることができず、全部自分の中に溜め込んじゃうんだね」

医療の仕事は、患者の体だけでなく、心も癒すこと。そう言ってくれるこのお医者さんには
これからもしばらくお世話になることになりそうです。

そんなこんなの日々ですが、息子は無遅刻無欠勤、毎日笑顔で出かけていきます。
物欲のほとんどない息子には、時折外出先で飲み物を買うくらいしか、こづかいの
使い道がなく、給料の額にはほとんど興味がないようです。
それでも、仕事を頑張れるのは、ひとえに「働く自分」を誇りに思う気持ちからのようです。

幸い、職場の周囲の人たちも少しずつ息子に慣れてきてくれたのか、最近は彼が毎日つけている
業務日誌の隅に「丁寧にしあげてくれてありがとうございます」「いつも助かってます」など、
親の私にも嬉しい一言を、どなたかがちょこっと書き込んでくださる機会が増えてきました。

いろんな人に支えられて、愛されて、元気に仕事が続けられますように。
週3回だけ持っていく息子のお弁当箱に、そんな念をこめて、出勤する彼に手渡しています。

新たな一歩

2015年02月17日 | 働く大人になりました
長らく放置いたしまして・・・
もう見てくださる人もいないかな、とも思うのですが、こっそりご報告しておきます。

この度、息子が就職しました。
9時~15時のパート勤務、当初は3カ月更新の身の上ではありますが、
一応は長期継続雇用を前提としての採用、ということです。

「性格が素直で愛嬌があって、努力家だから、マッチングさえうまくいけば
十分就労可能ですよ」という就労移行事業担当さんの言葉に乗せられて
就労継続B型から就労移行に移ってははみたものの、

聴覚過敏のため、大きな音のするところや、たくさんの人がざわめいているところはダメ、
体温調節が苦手なので屋外作業は避けたい、筋力が弱いので重量物は運べない、
じっと立ったまま手だけ動かす、というのも難しい、という息子。
「ほんまに就労なんてできるんやろか」と半信半疑の母でしたが、なんとか
うちで働いてもらいましょう、と言ってくださるところが見つかりました。

私はと言えば、嬉しいよりも、これまで特別支援学級・特別支援学校・障碍者支援事業所と
保護された環境でずっと育った子を、社会へ送り出すことへの不安やら心配やらで
毎日胃が痛いです。

息子がこれからも、自分らしさと笑顔を失わず、誇りを持って働き続けられるよう、
祈るような気持ちで、毎朝家を送り出しています。

ちびくま、ハワイに行く(その2)

2013年03月18日 | ちいさな幸せ
空港に着いたら、まず、旅行会社のカウンターでチェックイン。
空港税の支払いをし、説明を聞いて、次は航空会社のカウンターで
チェックイン。
これも、今ではセルフチェックインの機械がありますが、
グラウンドホステスのお姉ちゃんがテキパキと操作してくれるので、
ただ横でぼーっと待っているだけ。

チェックインが済んだら、セキュリティチェックと、
出国審査のカウンターを抜けて、拍子抜けするほどあっさりと
出国手続き完了。

ちょうど夕食時なので、何か食べようかと、ロビーを見回してびっくり。
出発ロビーの店が、ほとんど閉店している!
「関空の国際線ロビーは閉まるのがはやい」ってこういうことだったんですね。

それにしても。
アメリカに行くときにも、このロビーを使ったはずなのに、
私の記憶には、風景の一片すら、まったく残っていませんでした。
そろそろ多動の始まっていた息子を連れて、外国に
引越しする、という不安だらけで、とてもそんな余裕なかったんだろうなあ、と
昔の私がちょっとかわいそうに思えました。

やっと、ロビーの反対側に、イタリアンのスタンドを見つけて、
息子はピザ、私はパスタを頼んで一息つきます。
「お味どう?」「おいしいよ」
そんな会話をしながら、ニコニコとピザをほおばる息子を
見ながら、「大きくなったよなあ」と改めて思ったのでした。

ちびくま、ハワイに行く(その1)

2013年03月18日 | ちいさな幸せ
さて、いよいよハワイに旅立つ日がやってきました。
飛行機は夜出発なので、家は夕方に出れば間に合います。

ところが、この日に限って、春の大嵐。
台風かと思うような、雨と風で、あちこちで警報発令。
朝からずっと飛行機の航行状況と、鉄道の運行状況、
バスの運行状況をネットで調べながら、
一番影響の少なそうなルートを探しました。

関空は人工島にあるので、橋が封鎖されたらアウトですが。

で、いろいろ調べた結果、一番天候の影響を受けにくいのは
バスルートらしいということがわかり、
神戸までバスで出て、そこからエアポートリムジンに
乗り継ぐことにしました。
家を一歩出ると、傘ごと吹き飛ばされそうな、すごい
風と雨で、息子の持っていた折り畳み傘はたちまち
くしゃっと骨が折れてしまいました。

めげずに直近のバス停にたどり着き、神戸行のバスを待ちます。
幸い、バスは時刻通りにやってきました。
窓に雨粒が叩きつけられ、ワイパーはフル稼働状態ですが、
これで、道路さえ封鎖されなければ、座っていれば神戸につきます。

定刻通りに神戸につくと、幸い、こちらは、幸い雨が降っていませんでした。
めいめい、スーツケースを引っ張って、リムジン乗り場に移動します。
まず、切符売り場でチケットを買い、乗り場に待機しているポーターさんに
スーツケースを預けて、定刻通りにやってきたバスに乗り込みます。

リムジンが出発して間もなく、背後から雨雲が追い付いてきたかのように
激しい風雨が始まりました。そらは真っ黒、ワイパーはフル稼働。
空港に着くまで、ずっとその天候が続きましたが、わずか5分遅れで
リムジンも無事関空に到着しました。

ふと見ると、同時に到着したバスの行先表示には「代行運送」の文字。
どうやら鉄道は風のせいで運休してしまっていたようです。
バスルートを選択して正解でした。
それにしても、出発から大嵐、って、この先大丈夫なのか、と
ちょっと心配にはなったのでした。