さしあたり、与えられた環境、条件のもとで、本気で闘う。本気で、だ。

選択、舵取り

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それより、急ぎ、やることがある!

大倉 喜八郎、すごい人、発見

2017-01-22 17:16:52 | 一億円目標、生意気になりたい、ボンビー
時代が、人を、役者を、、呼ぶ
雲霞のように、人材を輩出、

当時中国が外国に侵食
二の舞いにならぬように、
頑張った時代。

その後、理念なき
西洋の、モノマネ


時代をどう、変わる?
理念なき、
弱肉強食
それも、自分たちのルールで

常に負け組は、出るのだよ、
その数は多いのだよ。



参考(^^)
大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日(1837年10月23日) - 昭和3年(1928年)4月22日)は、明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家、中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。従三位男爵。号は鶴彦。

エピソード 編集
丁稚時代、安田善次郎とは「善公」「喜八(きっぱ)」と呼び合う仲だった。
37歳で正妻を娶った大倉は不忍池を颯爽と馬を走らせる持田徳子に心を惹かれた。当時の女性としては珍しい乗馬が趣味の徳子は佐渡出身で大倉との歳の差は20であったが、熱心に申し入れた結果婚約するに至った。
明治12年(1879年)2月に北越親睦会(現、新潟県人会)の開催を主催し、会長も務めた。
明治17年(1884年)9月に皇居造営工事の一部を請け負った。
ロンドン視察の折、大倉が重役を務める企業名を列記した名刺を提示した所、「専門がなければ事業は成功しない、多数の会社に関係していては得るところがない、そのような人物と合う必要がない」と面会を断られたことがある。
大正13年(1924年)9月24日、米寿記念として『狂歌鶴彦集』を刊行。序文は幸田露伴。
米寿の折、大倉が建設に携わった帝国劇場で、記念興行『上野の戦争』の外題で彰義隊に詰問される大倉の場が演じられた。
『喜八郎快商物語』として大倉喜八郎記念東京経済大学学術芸術振興会で人形浄瑠璃の講演がなされた。
3つの冒険 編集

大倉は後年『大倉鶴彦翁』『鶴翁余影』などの中で3つの冒険譚を語っている。

第1の冒険
上野戦争の前日、彰義隊の騎馬2000余りが鉄砲店大倉屋を訪れ、「御用召」だと言い大倉に同行を迫った。この前日に同じく鉄砲屋であった手代のものが彰義隊に殺されていたため、大倉は覚悟を決め同行した。寒松院の本営につくと彰義隊将校らに「長年、公方様(徳川将軍)のおかげで商売をしているにも関わらず、官賊に味方し便宜を計らい、公方様のために働く彰義隊へ不利益なことをする憎いやつである」詰問を受ける。これに対し大倉は「現金引換で武器を仕入れている大倉屋は、代金を一文ももらえぬ彰義隊とは商売できない。また、自分は越後の国出身で公方様にはお世話になっていない」と答えた。彰義隊の将校は「大倉に道理がある。金を払うので三日以内に三百挺のミンヘル銃を納めろ」と言うと大倉は「大切な御用を仰せつかりましたので、物騒な山内を護衛していただきたい」と答え、三枚橋の橋本という駕籠屋まで送り届けさせた。このエピソードが「上野の戦争」「明治の曙」などの外題で芝居や講談になった。
第2の冒険

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