瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第7話・師匠の恋人

 照明を心持ち落とした大広間で、ドレスアップした女性やスーツ姿の男性たちがあちらこちらに集まり、シャンパングラスを片手に和やかに談笑している。壁にはいくつもの絵画が飾られており、それらを鑑賞もしくは論評している人たちも多い。
 澪は、多少の緊張を感じながらも、背筋をすっと伸ばして足を踏み入れた。淡いベージュのパーティドレスがふわりと揺れ、シャンパンゴールドのショールが華やかになびく。その後ろには、ダークスーツを着た悠人が付き従っていた。
「橘澪さんですね?」
 入ってすぐ、盛装した中年の男性に声をかけられた。それがこの屋敷の主であり、パーティの主催者でもある、画商の中堂徹(ちゅうどう とおる)であることはすぐにわかった。面識はなかったが、事前に彼のインタビュー記事を読んでおり、そこに掲載された写真も目にしていたのだ。
「初めまして、橘澪です。本日はお招きいただきありがとうございます」
 淀みなくそう答えると、澪は唇に微笑をのせてお辞儀をした。長く艶やかな黒髪がしなやかに揺れる。
「こちらこそ、橘財閥の方に、それもこのような美しいお嬢様にお越しいただけて光栄です」
 中堂はオーバーな身振りと抑揚で歓迎の意を表した。いかにも商売人らしい低姿勢な振る舞いであるが、獰猛な獣のようなぎらついた眼差しだけは隠せていない。澪は僅かに目を細めて、話題を変える。
「祖父の都合がつかなくなってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえ、お忙しい方と存じておりますので」
 中堂は恐縮して肩をすくめると、ふと媚びるような表情を覗かせる。
「また機会があれば是非に、と橘会長にお伝えください」
「はい、必ず申し伝えておきます」
 澪は愛想良く答えた。たとえ相手が気に入らなくても、それを表に出すことは許されない。中堂に悪い印象を与えないように振る舞うことが、今日の澪に与えられた役割のひとつである。橘家の人間としての、そして怪盗ファントムとしての――。

 剛三が次に狙いを定めた絵画が中堂家にあるということで、ちょうど招待されていたパーティに出席し、澪と悠人が屋敷を下見してくることになったのだ。定期的に開催されているこのパーティは、絵画に関心のある富裕層に、将来有望な若手画家の作品を紹介するのが主目的で、すなわち画商の中堂にとってはビジネスの一環である。剛三にも幾度となく招待状が送られていたが、面識のない相手ということもあり、これまではことごとく無視してきたらしい。にもかかわらず、怪盗ファントムの下見にだけ都合良く利用するなど、澪は心苦しさを感じずにはいられなかった。もっとも、そんな道徳的な抗議は、いつものごとく剛三に軽く流されてしまったのだが。

 中堂はドリンクを運んでいたウェイターを呼び止め、悠人にはシャンパンを、澪にはシンデレラという名のノンアルコールカクテルを持ってこさせた。ノンアルコールとはいえ、きちんとしたカクテルグラスに入っており、見た目は普通のカクテルと大差ない。その配慮が、未成年の澪には嬉しかった。味は上品なフルーツミックスジュースといった感じで、華やかな甘みの中に酸っぱさもあり、少しずつ口をつけるにはちょうど良さそうだと思う。
「由衣、幹久、ちょっと来なさい」
 少し離れたところで歓談しているグループに向かって、中堂がそう手招きをすると、すぐさまその輪から二人が抜け出してこちらへやってきた。ひとりは柔らかく上品な雰囲気の女性で、もうひとりは若く活気にあふれた青年である。美しく端整な面差しがよく似ており、二人が血縁関係にあることは一目で察しがついた。
「紹介しよう、妻の由衣と、息子の幹久だ。こちらは橘財閥ご令嬢の澪さんと、会長秘書の楠悠人さん。今日は橘会長の代理でいらしてくださったのだよ」
「初めまして」
 澪は明るく挨拶をした。由衣も優しい笑顔で応える。
「初めまして、澪さん、……お久しぶりです、悠人さん」
「高校卒業以来ですね」
 これまで後ろで控えていた悠人が、穏やかに口を開いた。澪は驚いて反射的に振り返り、同じく寝耳に水だったらしい中堂も、あまり大きくはない目を丸くしている。
「お知り合いで?」
「ええ、由衣さんとは高校の同級生でした。二十数年ぶりの再会です」
 偶然に出会ったのか、予め知っていたのか――悠人は驚いた様子もなく平然としているが、普段からあまり感情を見せる方ではないため、澪にはどちらなのか判別がつかなかった。しかし、どちらにしても、これでは仕事がやりにくいのではないだろうかと心配になる。
 一方の中堂は心から嬉しそうに目を輝かせていた。
「なんと奇遇ですな! これも何かの御縁でしょうか」
 現実として否定が許されないその問いかけに、悠人は言葉の代わりに笑顔で応じる。
「由衣と積もる話もあるでしょうし、どうぞごゆっくりなさってください。澪さんもどうぞ楽しんでいってください。また後ほどゆっくりとお話しいたしましょう」
 中堂はそう言って丁寧に一礼すると、息子の幹久だけを連れて、他の招待客の挨拶まわりに向かった。由衣を置いていったのは、久方ぶりの再会を果たした二人への気遣いというよりも、何とかして橘財閥と繋がりを持ちたいという彼自身の野望のように思えた。

「悠人さん、回廊を歩きながら少しお話ししません?」
 由衣は少女のように愛らしく首を傾げて尋ねる。その声には、先ほどの落ち着いたものとは違う、緊張と期待の入り交じったような響きがあった。しかし、悠人は微笑を保ったまま事務的な答えを返す。
「いえ、私はお嬢様に付き添う義務がありますので」
「私は大丈夫よ。由衣さんとお話してきて」
 まるで自分が原因であるかのような断り方に、澪は多少の腹立たしさを感じながらも、あくまでにっこりと笑みを浮かべて言う。その瞬間、彼の表情に微かな困惑が見えたような気がした。
「ですが……」
「口答えは許しません」
「承知いたしました」
 お嬢様然として命じる澪に、悠人は逆らわず素直に従う。
 たまにはこのくらい言ってもいいよね――澪は胸の内でくすりと笑った。普段は弟子と師匠という関係であるが、対外的には令嬢と会長秘書として振る舞うように、剛三からも言いつけられている。小さな子供の頃は呼び方を間違わないようにするだけで精一杯だったが、最近では余裕が出てきて、その役割を演じることを楽しむようになっていた。

「あなたが橘財閥の会長秘書をしていたなんて驚いたわ」
 緩やかなカーブを描く白い回廊は、片側が全面ガラス窓になっており、そこから陽光が溢れ込んでいた。由衣はガラス窓にそっと左手を置き、隣の悠人を優しい眼差しで見上げている。しかし、悠人は彼女に目を向けることなく、気怠そうに手すりにもたれかかっていた。
 師匠じゃないみたい――。
 こっそり後をつけて覗き見ていた澪は、これまで目にしたことのない彼の姿にドキリとした。無表情か、真顔か、笑顔か……澪が知っているのはそのくらいで、今のような隙のある表情は見たことがなかった。立ち居振る舞いも、いつもきっちりしている彼とは別人のようである。こういう素に近い自分をさらけ出せるのは、昔を知る相手だからだろうか。それとも――。高鳴りゆく鼓動を感じながら、澪は息を詰めて二人を注視する。
「こちらこそ、あなたが有名画商の妻に納まっていたなんて驚いた」
「美大在学中に中堂に見初められて結婚したの」
 由衣は目を細めて曖昧な笑みを浮かべた。ガラス窓に置いたほっそりした左手を、そっと握りしめる。薬指にはめられたプラチナの指輪が窮屈そうに食い込んで見えた。
「画家の夢は?」
「私にそこまでの才能はなかったみたい」
 おどけるように肩をすくめてそう言うと、くるりと身を翻し、悠人と同じように手すりにもたれかかった。どこか遠いところを見つめながら、過去に思いを馳せるように、その気持ちをなぞるように、ゆったりとした口調で続ける。
「結婚するまでは必死に努力したのよ。なんとしても画家になりたかった。いつか、怪盗ファントムに盗んでもらえる絵を描けるようになりたかった。そうすれば、もう一度、あなたに会えるような気がして……」
「僕は怪盗ファントムじゃない」
「あなたは引退なさったのよね」
 由衣はまるで事情を知っているかのように言う。
「最近、また怪盗ファントムが活動を始めたでしょう? あなたではないみたいだけれど、無関係とはとても思えなくて。だから、ここの絵画を狙ってくれることを密かに期待していたの。そうしたら、もしかしたらあなたにも会えるんじゃないかって」
「相変わらず意味のわからないことを言うんだな」
 悠人はあからさまに煩わしげに溜息をついた。それでも由衣は懲りずに続ける。
「今日は下見にいらしたの?」
「ええ、会長が気に入っている若手画家の作品をね」
 噛み合わない問いと答え。由衣の意図をわかっているのだろうが、悠人はあくまでも表向きの話をした。そして、鬱陶しそうに前髪を掻き上げると、手すりから体を離して無言で立ち去ろうとする。その後ろ姿を目で追いながら、由衣は両手を重ねて胸元に置き、思いつめたような真剣な表情で口を開く。
「もしも怪盗ファントムがここに盗みに入るのなら、ついでに、私も……盗んでもらえないかしら?」
 カツン――革靴を打ち鳴らし、悠人の足が止まった。ゆっくりと顔だけ振り返る。そして、満面の笑みを浮かべると、その表情とは対照的な、ぞっとするほど冷たい声で言う。
「あなたに名画ほどの価値があるとでも?」
 力が抜けたように由衣の腕が降りていく。半開きの唇からは何の言葉も紡がれない。彼女は僅かに潤んだ目を細め、遠ざかる悠人の背中を、ただ寂しげにじっと見送るだけだった。


…続きは「東京ラビリンス」でご覧ください。

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