アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

四方のけだものすらだにも 

2008-06-10 | Weblog
 物いわぬ 四方(よも)のけだものすらだにも 哀れなるかな 親の子を思う



      ◇


 この歌を詠んだ源実朝は、権力争いの中で生まれ、育ち、死んでいった。


 親が子を殺し、子が親を付け狙うような時代。「親子関係」より「利害関係」が優先された時代。そんな時代に生き抜いていかなくてはいけなかった実朝だからこそ、「四方のけだもの」に温みを感じ、崇高なものさえも見えたのではないだろうか。


      ◇


 実朝の見た温かい「けだもの」ではない。

 現代の「けだもの」は弱くて、恥を知らない、ヒトである。

 
 秋葉原で思いの丈を晴らした25歳の男。不満の捌け口がなぜテロ行動となるのか。どうせなら、自殺か、もしくはヤクザの事務所にでも飛び込まなかったのか。


 「だれでもよかった」という選択に、「自分よりも強いもの」は含まれていない。



 どの通り魔にも通じる、この「だれでもよかった」というセリフ。実は、常に強者との対決を避けている。本当のところは「自暴自棄」(『自分の意志で自由にやってます』っていいたがっている)のかっこうをつけた演出にほかならない。

 すべてから逃げてきて、実は逃げきれる場所なんてないんだとようやく気付いた「だめ人間」。その最後の「舞台」。それが「だれでもよかった」という自作自演。自分を美化するためには、もはや自分をもごまかさなくてはいけない。

 浅ましさ、ここに極まる。

 弱い。



      ◇

 臆病な自尊心、尊大な羞恥心。

 弱いくせに、かっこうばかり気にしている。

       ◇


 実朝が羨望した「けだもの」は、愛情があり、強い。

 

 通り魔は、「けだもの」にはるかに及ばぬモノである。


       ◇

 実のところ、簡単なのだ、彼らは。あまり複雑に捉えないほうがいいと思う。

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