「アベ政治を許さない」 筆を振るった俳人・金子兜太の危機感〈AERA〉
2017年11月末、「現代の肖像」の取材で埼玉県熊谷市のご自宅にお伺いしたときの写真。庭が見える応接間で、「どうも、どうも」と迎えてくれた(撮影/倉田貴志)
「アベ政治を許さない」の揮毫は衝撃だった。
集団的自衛権の行使を容認した、ということは米国の意向次第で
戦争に引きずり込まれかねない“安全保障関連法案”の国会審議が続いていた2015年、
これに反対するプラカードの言葉を、金子兜太(とうた)さんが毛筆で書いていた。
旧知の作家・澤地久枝さんの求めに応じた。
とはいえ、俳句という伝統的な文芸の世界の重鎮が、かりそめにも時の総理大臣に
そこまで言うか、と思った。しかも金子さんは、「許」の字を特に大きく力強く、
首相の名字をカタカナで表記したのである。
これには頼んだ澤地さんも驚いた。
「そこまではお願いしませんでしたから。あれは兜太さんの感性です。
今のようなご時世にあって、それでもご自分を貫かれることは大変だったと思う」。
だが金子さん本人は、報道陣に真意を問われても、
「こんな政権に漢字はもったいない」と呵々大笑したものだ。
伊達や酔狂でできる業ではない。
金子さんをしてそうさせたのは、五体から噴き出してくる危機感だった。
埼玉県は秩父で幼少期を過ごす。
東京帝大経済学部を卒業し、日本銀行入行後、海軍主計中尉として赴任した西太平洋のトラック諸島(現・チューク諸島)で、彼は人間の修羅場に遭った。
空襲で基地機能を喪失した島々には、もはや米軍も侵攻してはこなかった。
けれどもサイパン島からの補給を断たれて、食糧も武器弾薬もない。
飢えて死ぬ者、毒フグや野草、トカゲを食べて死ぬ者が続出した。
金子さんはコウモリを食べて生き延びた。
現地の娘を暴行して報復される事件や、
男色のもつれが殺し合いに発展する事件が相次いだ。
試作された手榴弾の実験で軍属が爆死した。
戦争は悪以外の何ものでもないと知った。
父親も俳人だった。
旧制水戸高校(現・茨城大学)時代から俳句に本気で取り組み始めた金子さんは、
東大時代にも戦争の、というより戦時下にある社会の非道を目の当たりにしていた。
目をかけていてくれた雑誌「土上(どじょう)」の
主宰・嶋田青峰が1941年2月、治安維持法違反で検挙された事件である。
総計44人が検挙された新興俳句弾圧事件の一環だった。
特段の言動があったのでもない。
だがこの当時、人間の生命も尊厳も、特高警察の胸三寸で、ど
うにでもなるものでしかなかった。虐待された青峰は獄中で喀血し、
釈放された後も回復できぬまま死に至っている。
戦後の金子さんは、虚子以来の花鳥諷詠にも、五・七・五の定型にもとらわれない、
現代俳句運動の先頭を走り続けた。
復帰した日銀では組合活動に従事し、冷や飯を食わされもしたが、
彼は不遇さえもエネルギーに変えて、膨大な句を詠み、一茶や山頭火の研究に精魂を傾けた。
現代俳句協会の会長および名誉会長職。
朝日俳壇の選者。蛇笏賞、日本芸術院賞、スウェーデンのチカダ賞、文化功労者、
菊池寛賞、朝日賞……。功績を挙げていけば際限がない。
晩年は東京新聞で15年にスタートさせた「平和の俳句」の仕事を、
とりわけ大事にしていた。
「AERA」編集部と私は、そんな金子さんの魅力溢れる人間像を
「現代の肖像」欄で読者に紹介しようと、かねて取材を進めていた。
とことん自由な魂を湛えて、誰にも愛される人だった。
2月25日には長野県上田市の無言館近くで前記の俳句弾圧事件の犠牲者たちを語り継ぐ
「俳句弾圧不忘(ふぼう)の碑」の除幕式があり、呼びかけ人の金子さんも出席する予定だったから、悲願を叶えての思いを存分に語っていただいた上で、一気に書き上げるつもりでいたのに──。
私たちはまたしても大きな道標を失ってしまった。
だが泣いてばかりいるわけにはいかない。
水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る
金子さんがトラック島から引き揚げた際に詠んだ句だ。
彼に学び、その心を忘れずに生きたいと思う。
(文中一部敬称略)(ジャーナリスト・斎藤貴男)
※AERA 2018年3月5日号
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悲しくて、寂しくて、声も出ない…………………………………………合掌 デ・キリコ
2017年11月末、「現代の肖像」の取材で埼玉県熊谷市のご自宅にお伺いしたときの写真。庭が見える応接間で、「どうも、どうも」と迎えてくれた(撮影/倉田貴志)
「アベ政治を許さない」の揮毫は衝撃だった。
集団的自衛権の行使を容認した、ということは米国の意向次第で
戦争に引きずり込まれかねない“安全保障関連法案”の国会審議が続いていた2015年、
これに反対するプラカードの言葉を、金子兜太(とうた)さんが毛筆で書いていた。
旧知の作家・澤地久枝さんの求めに応じた。
とはいえ、俳句という伝統的な文芸の世界の重鎮が、かりそめにも時の総理大臣に
そこまで言うか、と思った。しかも金子さんは、「許」の字を特に大きく力強く、
首相の名字をカタカナで表記したのである。
これには頼んだ澤地さんも驚いた。
「そこまではお願いしませんでしたから。あれは兜太さんの感性です。
今のようなご時世にあって、それでもご自分を貫かれることは大変だったと思う」。
だが金子さん本人は、報道陣に真意を問われても、
「こんな政権に漢字はもったいない」と呵々大笑したものだ。
伊達や酔狂でできる業ではない。
金子さんをしてそうさせたのは、五体から噴き出してくる危機感だった。
埼玉県は秩父で幼少期を過ごす。
東京帝大経済学部を卒業し、日本銀行入行後、海軍主計中尉として赴任した西太平洋のトラック諸島(現・チューク諸島)で、彼は人間の修羅場に遭った。
空襲で基地機能を喪失した島々には、もはや米軍も侵攻してはこなかった。
けれどもサイパン島からの補給を断たれて、食糧も武器弾薬もない。
飢えて死ぬ者、毒フグや野草、トカゲを食べて死ぬ者が続出した。
金子さんはコウモリを食べて生き延びた。
現地の娘を暴行して報復される事件や、
男色のもつれが殺し合いに発展する事件が相次いだ。
試作された手榴弾の実験で軍属が爆死した。
戦争は悪以外の何ものでもないと知った。
父親も俳人だった。
旧制水戸高校(現・茨城大学)時代から俳句に本気で取り組み始めた金子さんは、
東大時代にも戦争の、というより戦時下にある社会の非道を目の当たりにしていた。
目をかけていてくれた雑誌「土上(どじょう)」の
主宰・嶋田青峰が1941年2月、治安維持法違反で検挙された事件である。
総計44人が検挙された新興俳句弾圧事件の一環だった。
特段の言動があったのでもない。
だがこの当時、人間の生命も尊厳も、特高警察の胸三寸で、ど
うにでもなるものでしかなかった。虐待された青峰は獄中で喀血し、
釈放された後も回復できぬまま死に至っている。
戦後の金子さんは、虚子以来の花鳥諷詠にも、五・七・五の定型にもとらわれない、
現代俳句運動の先頭を走り続けた。
復帰した日銀では組合活動に従事し、冷や飯を食わされもしたが、
彼は不遇さえもエネルギーに変えて、膨大な句を詠み、一茶や山頭火の研究に精魂を傾けた。
現代俳句協会の会長および名誉会長職。
朝日俳壇の選者。蛇笏賞、日本芸術院賞、スウェーデンのチカダ賞、文化功労者、
菊池寛賞、朝日賞……。功績を挙げていけば際限がない。
晩年は東京新聞で15年にスタートさせた「平和の俳句」の仕事を、
とりわけ大事にしていた。
「AERA」編集部と私は、そんな金子さんの魅力溢れる人間像を
「現代の肖像」欄で読者に紹介しようと、かねて取材を進めていた。
とことん自由な魂を湛えて、誰にも愛される人だった。
2月25日には長野県上田市の無言館近くで前記の俳句弾圧事件の犠牲者たちを語り継ぐ
「俳句弾圧不忘(ふぼう)の碑」の除幕式があり、呼びかけ人の金子さんも出席する予定だったから、悲願を叶えての思いを存分に語っていただいた上で、一気に書き上げるつもりでいたのに──。
私たちはまたしても大きな道標を失ってしまった。
だが泣いてばかりいるわけにはいかない。
水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る
金子さんがトラック島から引き揚げた際に詠んだ句だ。
彼に学び、その心を忘れずに生きたいと思う。
(文中一部敬称略)(ジャーナリスト・斎藤貴男)
※AERA 2018年3月5日号
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悲しくて、寂しくて、声も出ない…………………………………………合掌 デ・キリコ