God is in the details ~神は細部に宿る~

一箱古本市専門店《吉田屋遠古堂》主人のぐうたらな日々。。。。

出動!

2007-01-31 21:18:31 | 歴史/民俗/伝統芸能
久しぶりに朝から現場に赴きました。
当日は快晴だったので、放射冷却現象で
朝6時過ぎくらいから急激に気温が下がりました。
氷点下ではなかったのですが、こんな感じで
 
朝霧が立ちこめました。冬枯れ・・・

日も高くなってきて、いつものように周辺を散策していると、
日陰にはいまだ霜のついた植物たちがのこっていました。

ねこじゃらしです。一本一本凍りついています。


こちらは栗のイガですが、やっぱり凍りついています。


まとまっているところはこんな風でした。
なんかかわいい

この日は遠方からわざわざその道の専門家に来ていただいて、

こんな、007のアタッシュケースみたいな装置で
地中の電気抵抗や自然電位を計測しました。

貴賓なヒヒン その3

2007-01-21 17:41:57 | 日々の暮らし
貴賓室は6階ににあります。エレベーターを降りると広々としたロビー。



奥に見えるのが勝ち馬投票権を購入する窓口です。
下階にあるのは勝ち馬投票権の自動販売機ですが、
このフロアでは人件費をかけて手売りをしています。



トラック側には貴賓室がずらりと並んでいます。まるでコンベンションホールのよう。
私たちはそのうちの「水芭蕉の間」です。ちなみに相部屋です。
あと、場内は喫煙ブースをのぞいて完全禁煙ですが、
貴賓室はちゃんとテーブルに灰皿が準備されていました。
全面喫煙らしいです。



せっかくなので、勝ち馬に投票してみました。
貴賓な私は勝ち負けにこだわらないので、
鷹揚に数字を選び、このような馬券をいただこうかしら、でした。


回復させるということ

2007-01-19 22:10:47 | 歴史/民俗/伝統芸能
 先日、さる哲学者(というより思想家?)のかたのお話を聞きにいってきました。
そこで聞いた話の一つに、森林の問題があります。現在、日本の森林面積は戦前のそれと
同等か、あるいはそれをしのぐまでに回復しているとのこと。それはそれで喜ばしいことで、
やはり自然保護と植林の成果があらわれているのでしょう。

 その一方で、草原が消えてしまっているのだそうです。草原と言っても、見渡す限り
草が風になびくような、そんな草原ではなく、いわゆる「裏山に行く途中の草むら』的な
草原(そうげん よりも くさはら と言った方が良い感じ)のことです。

 森林、細かくいうと山と里の緩衝地帯としての森林は、実際にはサイクルがあります。
まず伐採され、焼き払われ、畑地化した後に耕作放棄され、荒れ地から草むらになり、
低木が茂り、次第に高木がのびてくると低木は日照不足によって淘汰され、再び伐採
され・・・・
 当然のことながら、地域や植生、土地利用によっても異なってきますが、
どの土地でもこのゆな循環は存在します。人の手が入りにくい場所などではそのサイクルが
極めて長い場合もあるでしょう。あるいは天候や自然現象でサイクルが乱れたり、
かわったりすることもあるでしょう。しかし、間違いなく変化は循環し、あるいは
継続しているのです。

 これは何を意味するのかと言うと、循環しているのは「植物」だけではなく、
底に養われている生態系も絶えずそのもとで変化し続けているということです。
 それは言い換えればそこで養われているいのちが多様で多層的であるということです。
それが豊かであるということだと私は考えます。
 こういう言い方は非常に嫌いなのですが(笑)、人はその中で生かされているのです。
もちろん、森林やその近くで生活していた人たちは無意識のうちに、自分たちを生かしてくれる
自然を、山の神様と呼んだり、あるいはそこに自分たちの祖霊を重ねたりして
敬意をはらっていたのです。

 そういった関係を全く無視したところで行われる植林は、当然のことながら
「生命の循環」を復元するものではありません。誤解のないように言っておきますが、
植林が悪いのではありません。しかし、植林はあくまでも出発点で、最終目的は
「生命の循環」の復元、復元は困難なのであるいは新しい生命の循環の誕生なのです。
そして、もっとも大切なことはその循環の中には人間も含まれると言うことなのです。
 私がエコロジーやロハスを嫌う理由はまさにそこです(笑)
自然を守るとか、自然に負担をかけないとか、そんなことじゃなくて、
もう一度豊かな生態系を構成しなおすのは、
ナチュラルに生きることでなんて絶対に、絶対に不可能なのだ!

地球を、自然を救えと言うけれど、
歴史にかかわっている人間としていいたいのは、
いつの時代の、どんな生き方が理想なのかまず決めてくれ!
ということ。今の社会を発展させ理想化していくことは不可能だと思うけれど、
すべてを捨てる覚悟さえあれば、あのときのあの場所には帰れる気がする私です。
いやあの、昨晩、昔つきあっていた女の子の夢を見たからってわけじゃありませんよ、念のため。

非常に悔しい思いでいっぱいであります!!

2007-01-11 20:29:38 | 日々の暮らし
というわけで、第二回全国一斉!日本語テストをやってみました。

結果は以下の通り・・・・


ふつうです ふつうです ふつうです

が~~~ん

普段から人一倍本を読んで、人一倍文章を書いて、人一倍話をして、
日本語の達人を自認していたのに・・・・ふつうだったなんて!
我ながら情けない。もう一度チャレンジだぁ(爆)



ずぅ~~っとPCでばかり書き物をしているので、漢字力が無いのはわかるけど・・・
語彙?表現力?どうよ??どうよ??やっぱりない??ちょっとはあるんじゃない???

磯の鮑の片想い・・・

2007-01-09 21:16:21 | 歴史/民俗/伝統芸能
という意味深なタイトルを付けてしまって・・・

で、熨斗です。お正月にはお年玉をあげたりいただいたり、
お歳暮お年始を差し上げたりいただいたり、正月に熨斗はつきものです。

で、この熨斗、


このほんのチョットした黄色の部分です。
全面印刷ではわかりませんが、もう少し丁寧な熨斗袋(紙)であれば
ここに黄色いペラペラしたものが貼付けられています。
これが熨斗です。熨斗鮑といって、鮑を薄切りにしたものです。
当然、実際の鮑ではなく、鮑を模した紙ですが。

で、これが何かというと、本来は神への捧げものを意味します。
かつては神へは、動物を屠って捧げました。
どこか異国の異教徒の祭祀のようなイメージかもしれませんが
それはおそらく日本でも変わりないと思います。
古墳時代の村では猪の頭を一カ所に集めたものが
見つかったりしていますので。

しかし、次第に血を流すことを忌むようになり、
動物の血は酒に替わり、捧げものは
動物から魚へ、新鮮なものから乾物へと
いうふうに変化してきます。

そして行き着いたものが熨斗鮑だそうです。
鮑を薄くそいで、乾かして熱でもって平らに伸ばしたもの、
それが熨斗鮑で、熨斗は本来は熱で平らにのばすこと
を意味します。
で、これを紙に包んで、神への捧げものにするのですが、
そういったことが儀礼的に人に対しても行われたのでしょう。
おそらく、次第に他の品物が儀礼の主体になり、
熨斗鮑は添え物になって、しまいには現在のような
全く形だけのものになってしまったものだと考えられます。

以上をもって新春の言祝ぎにかえさせていただきます(笑)

正月から考えた・・・

2007-01-06 21:44:39 | 歴史/民俗/伝統芸能


本年もよろしゅうおねがいします!

新年早々に考えていたのは、なんで正月は餅なのか??と言うこと・・・
もちろん、諸説ありますがどうして餅かということについては、現時点では
餅(特に鏡餅)にどんな意味付けをしてきたかと言う話はあっても、
最も根本的な「なんで餅なのか?」という疑問に対して決定的な説は無いようです。
おそらくは何らかの形で水田経営(稲作)に関連があると思うのですが、
起源は明らかになっていません。

稲作と餅、と並べると餅は富や権力の象徴のように思われ、
餅を粗末にして没落する長者とか、
善い行いの見返りに餅を手に入れる貧乏人とか、
何となく水田中心(班田収授の法とか)の政策を基軸とした
天皇制やイデオロギーの、その上澄みのような教訓めいた香りが
そこはかとなくしてきそうな感じもしますが・・・
なんでご飯(米)じゃなくて餅なんだろう??

ただ言えるのは、かつては節目節目に供されていた餅が、
現在は一年で最大の節目である正月だけに省略されたということです。
餅は正月だけではなかった、ちょっと衝撃でした。
お盆にも餅つきをしていたなんて!!
ああ、日本のことを何も知らない・・・

さて、餅にどんな意味付けをしていたかですが、
餅は祖先霊(魂)のよりどころであります。
もちろん、現在祖先は多くの場合においては仏様ですが、
古い習俗では田植えとともに里に下りてきて
稲刈りが済むと山に帰る、つまり田の神・山の神で、
神様だったりもします。どっちでも良いわけですね。
餅は稲作の象徴であり、田の神山の神のよりどころでもあり
新年に帰ってきた祖先の魂が宿る場所でもあるわけです。
なので、年が新しくなったら、新しい魂をおしいただいて
それを食べることによって自らの魂を新しくするのです。
それを象徴的にあらわすのが鏡餅で、さらに神棚にあげた
お供えをおろして食べることは神との共食(直会)を意味します。
霊のよりどころなので、お盆に餅つきをするのもうなづけます。
お赤飯も餅米を蒸かすことにより、独特の食感が生まれます。
赤い色に意味があるのであれば小豆飯で間に合うのにもかかわらず、
わざわざ赤飯を蒸かすのは、あの餅にも通じるもっちりとした
食感に意味があるのだと指摘する人もいます。
スアマ(鶴の子)でもOKなわけですね。なるほど!
餅のかわりに芋を食べる習俗もあります。

もちろん、餅をつくという行為自体が性行為を想起させるものであるため、
新しい魂を招来するというおめでたい
意味が付与されたりもするのでしょう。

日本人なら、やはりお正月には餅を食べなければ!

初 紅

2007-01-03 11:21:59 | 日々の暮らし
 正月に実家に帰って(といっても車で5分なのが)、干し柿をいただいてきた。
 実家の母は果物が嫌いで、特に干し柿は大の苦手。にもかかわらず、この紅柿
だけは別だと言う。

いただいたものはピンポン玉よりもわずかに大きいくらいであろうか。つぶれてはいるものの、
まんまるの干し柿である。下の部分がへそのようにくぼんでいる。

 通常、つるし柿(干し柿)はスーパーでは一個100~150円程度であるが、
一個200円ぐらいなら贈答用の高級な部類にはいる。
うちのあたりでは自宅で自家用に柿を吊るしている家庭も珍しくはない。
なるべく大きくて、真っ白に粉を吹いているものほど喜ばれる。

 しかしこの山形の紅柿は、小さいものほど珍重される。
最上級品で、50個でおよそ二万円、一個400円ほどになる。
今回いただいてきたのはそれほど小さくはないとはいえ、

エスプレッソのポッドと比べてもこの大きさである。

 通常の干し柿と比べて歯触りがよく、ベタベタした感じが無い。
甘みはあっさりしており、くどさが無い。全体に上品な感じ。
通常干し柿は紐に吊るされたまままとめてセロハンにくるまれて
店頭に並ぶものであるが、紅柿は円筒形の芯にビッチリと巻き付けられ、
棒状になった状態で包まれている。

 今年は寝坊して初日の出を拝めなかったので、
この紅柿を初紅として初日の出のかわりに拝んで済ませた(笑)