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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールの軛( 追稿 )= 17 =

2015-11-25 18:24:30 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★= 「タタールのくびき」からの脱却 =★

  1570年には、イヴァン4世は北方のノヴゴロドプスコフとともにリトアニア側につこうとしていると思い込み、市の有力者とその家族全員に対する大虐殺を実行した。 イヴァン4世はこの攻撃に1万5千のオプリーチニキ軍を編成し、オプリーチニナ宮殿から侵攻を開始した。 その行軍の間にある村々は軍の移動を隠匿するために焼かれ、住民は虐殺された。 オプリーチニキ軍がノヴゴロドに到着したのは1570年の1月2日であり、通常であれば神現祭が開かれているはずだった。 しかしノヴゴロドには少数の先遣隊が入り込み、町のいたるところが封鎖され、市民は家に閉じ込められていた。 ノヴゴロド大主教ピーメンはイヴァン4世の誤解を解こうと出迎え、皇帝は大主教を裏切り者と罵り祝福を拒否したものの、聖ソフィア大聖堂での聖体礼儀は受け入れた。 イヴァン4世は聖ソフィア大聖堂では何度も十字を切り、また上機嫌でピーメン大主教との会話も楽しんでいた。

 だが昼食会の最中、イヴァン4世が席を外すなりオプリーチニキが乱入し、臨席する市内の有力者たちへの捕縛と大聖堂に対する略奪が始まった。 イコン(聖像)を含むあらゆるものが剥がされ、捕虜とともに城外の野営地に運ばれた。 同時に市内でもオプリーチニキは無法を尽くし、聖職者、有力者に留まらず、官吏や商人、その妻子に至るまで目についた市民は全て連行され、拷問によって裏切りの自白を引き出した後に殺害された。女性と子供は手足を縛って厳冬の湖に捨てられた。 ノヴゴロド市内で1月2日に始まった虐殺と略奪は2月に入ってようやく止むが、それは目的地が市外の修道院に移っただけであり、なおも一週間に渡って27箇所全ての修道院の略奪と、罪を自白する「裏切り者」への殺戮が続いた。

 それらが済んだ後、オプリーチニキ軍は再び市内に戻って、今度は一般市民全てを対象とした略奪を再開した。 これにより息を潜めていた市民も数多くが殺害された。 このノヴゴロド虐殺によって3万の人口のうち、名簿に残っているだけでも3千人近くの犠牲者が確認されている。 ピーメン大主教を始め、その場で殺害されずにモスクワに連行後されたものは300名に及んだ。 またノヴゴロドから徴発した穀物類は出発の前に全て焼き払われ、生き残った市民は深刻な飢餓に苦しむ状況に貶められた。

 一方、ノヴゴロドとともに裏切り者とされたプスコフもノヴゴロドの次に略奪の被害を受けた。 しかしプスコフでは殺害されたのはアンドレイ・クルプスキーと親しいペチョルスキー修道院長のコルニーリーを始めとする数名に留まった。 それはプスコフにはイヴァン4世の畏敬する伴狂者(正教会の聖人)ニコライが住んでいたためとされている。 既存の教会などの権威に属さず、聖なる狂気を生きながらにしてあらわす伴狂者を、イヴァン4世はその彼独特の信仰心から畏れ敬っていた。 こうして虐殺は起こらなかったものの略奪自体は避けられず、市民には強制労働と重課税が課せられた。

 これらノヴゴロドとプスコフへの略奪は、皇帝親衛隊であるオプリーチニキを殺戮強盗集団の代名詞に変えた。すでに民衆が敬慕したツァーリはなく、ノヴゴロドから連行した裏切り者に対する拷問と、自白によって生まれた新たな300名の「共犯者」の存在は民衆を恐怖させた。 彼らの公開処刑の当日、民衆はオプリーチニキを恐れて家に閉じこもり、イヴァン4世は自ら安全であることを保証して人々を処刑場に招かねばならなくなった。 イヴァン4世は処刑場で口を閉じ、目を伏せる民衆の姿から「共犯者」300名のうち180名に恩赦を与えたが、もはやかつてのようにイヴァン4世を慈父と称える声はどこからも聞こえなくなっていた。

 1570年にはオスマン帝国と露土戦争の講和条約を結んだものの、1571年にクリミア・ハン国がリトアニアと同盟を結んで、重要な交易路を通ってロシア領に侵攻、5月には首都モスクワを焼き払った。 ハーンデウレト・ギレイの率いるクリミア・ハン軍に対し、当初はオプリーチニキの軍勢が防衛にあたっていたが、タタールの騎兵に翻弄された挙句に側面攻撃を受けて壊滅した。 イヴァン4世はこの敗北を受け、モスクワ郊外のアレクサンドロフにあるオプリーチニナ宮殿に退避した。 この非常事態により、モスクワ防衛は大貴族たちのゼムシチナ軍とはオプリーチニキ軍が合同で担うことになったが、騎兵を中心とするデウレト・ギレイは戦力の再配置を許さず、速攻でモスクワに侵入して徹底的な殺戮を行った。

 この略奪と放火でモスクワ市街は消失し、クリミア・ハン国はモスクワ市民6万人の殺害を公表したが、同時代の記録には30万人、またイギリス人フレッチャーの見聞では80万人もの死亡が記録されている。 この首都の壊滅は、イヴァン4世の精神に深刻な打撃を与えた。 同時に危機に何も成し得なかったオプリーチニナ制度の失敗に気付き始めていた。 イヴァン4世はオプリーチニナ制度を導入してから初めてとなる全国会議を招集した。 会議では貴族と聖職者の意見をまとめ、ゼムシチナ軍とはオプリーチニキ軍の指揮を一本化させた。 有能は指揮官はイヴァン4世自身が追放、処刑してしまっていたが、その指揮は大貴族たちに委ねたざるをえなかった。 もはや、イヴァン4世の権力は失墜している。

 1572年、ロシア軍は“モロディの戦い”でクリミア・ハン国に勝利した。 タタール人の大規模なバルカン・ロシア侵入はこれ以降消滅する。  同年、イヴァン4世は突然オプリーチニナの廃止を宣言し、オプリーチニナの幹部を多数処刑してその存在を抹消した。 これにより、イヴァン4世は1565年から掌握している「非常大権」を手放すことになった。 また同じ年、イヴァン4世はアンナ・コルトフスカヤと、2年前にノヴゴロド虐殺を行なったノヴァゴロドを新婚旅行した。 されど、新しき妃になったアンナはさほど美しくもなく、余りに素性が卑しいため実家の家族に貴族身分を与えることも出来なかった。 そして、アンナに飽きたイヴァン4世は、結婚2年目で石女だという難癖をつけて彼女を修道院に追放した。


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