ジュチ家の系譜 《一》

チンギス・カーンのモンゴル帝国は正嗣4皇子が連合する体制に成る。 皇帝位は連合国家の指導者として、機能してゆく。 時代が進み、世代交代とともに 利害が対立して行く。
1224年 ジュチはチンギス・カーンのイスラム世界への大遠征の凱旋帰国前、遠くヴォルガ河近隣なで遠征していた。 チンギスの帰還命令で 轡をかえし、カスピ海東方からの帰路途中病死する。 チンギスの落胆は激しかった。 生前の封地の約束はジュチの正嗣子たちに履行した。 その言質には西方域で征服した領土の全てを与える も含まれていた。 アルタイ山脈以西・バルハシ湖北部よりヴォルガ河までの広大なステップ地帯であった。
ジュチの正嗣王子は14名であり、その皇子・庶子の数は40人近いとされている。 1224年のジュチの死によりバトゥがジュチ家の当主となった。 異母兄・オルダは病弱であったと史書は記すが、オルダの母もバトゥの母もチンギス家が代々婚儀を交わす姻戚関係のコンギラト部族の出目
(上記図 ジュチ家の系図参照)です。 しかし バトゥの母は コンギラト部族の宗主・アルチ・ノヤンの息女であったことを考えるべきでしょう。 ジュチ・ウルス(領土)は これらの子孫によって分封支配が行なわれて行った。 ヴォルガ河下流域に都市・サライを建設して、中央集権で統治した。 この地域はキプチャック草原と呼ばれていたゆえ キプチャック王国/カン国と呼ばる。 また 君主の帳幕/パオ/ゲルが黄金で飾られていた事より 金帳ハン国とも呼ばれた。 1206年 チンギス・カーンが即位の折、ジュチに四個の千人隊からなるウルス(領土)をイルティシュ側領域にあたえた。 大西征で領土は拡大した。 そのウルスを次男バトゥが総括として統治し、長男オルダが東方域を支配する旨をチンギス・カーンは承諾していた。 左右両翼体制は遊牧民の伝統であった。 以降 ヴォルガ川流域が宗主バトゥの王統(金帳カン国)、イルティシュ河流域はオルダの王統(白帳カン国)としてキプチャツク王国を統治して行きます。 史書はジュチの正嗣子を折半して、それぞれの統治下に置いた と記す。 即ち バトゥはジュチの三男・ベルケ、四男・ベルケチュル、五男・シバン、六男・タングト、七男・ボアル、八男・チラウカン、十男・チンバイの八名を翼下に配して右翼諸軍とした。 一方 オルダの左翼諸軍は 東方の兄弟国家(ジュチの実弟王国)と接し 防衛対策等の配慮は無用が故 九男・ソンクル 他 ボラ・ムハンマド、ウドゥル、トカ・テムル、セングム等六名の構成であった。
バトゥ率いる蒙古軍が東欧州に侵攻しヨーロッパを恐怖に落とし込む事件が起きます。 近世まで”タタルのくぶき”として東欧人に遊牧民を悪魔と記憶させた侵略戦争です。 これの背景を時代を戻して説明しよう。 1219年に開始したチンギス・カーンの西征は整然と 且つ 急速にホラズム・シャー朝を追い詰めた。 国王アラーウッディーン・ムハンマドはアム河を超えて西へと逃走した。 ジュチは彼を追った。 チンギスは“四狗
”*チンギス・カーンが最も信任するテムジン時代からの猛将軍四名 ジュペ、スグタイ、ジュルメ、クビライの諸将*の内、ジュペとスグタイに各々1万人の将兵を率いさせて ジュチの援軍に差し向けた。 ジュチはムハンマドを見失い、ヴォルガ河方面に進撃する。 ジュペ・スグタイお両将軍はカスピ海の西部を北上し、1221年にはグルジアなで侵攻していた。 ムハンマドは1220年にカスピ海の孤島で客死していたが。 ジュチ・ジュペ・スグタイは更に進撃を続け、諸族を撃破し キプチャク草原に侵攻した。 キプチャク草原の遊牧民・クマン人は強力な勢力を有していた。 また ルーシ(ロシア)とも友好関係にあった。 1223年5月31日 カルカ河畔の戦いが始まった。 キプチャク連合軍にルーシ連合軍が加わった五万の軍が スグタイの息子・ウランが率いる蒙古軍に襲い掛かった。 チンギス・カーン軍は負け知らずであった。 ジュチ・ジュベ・スグタイが蒙古軍二万有余は 連合軍を大破した。 敗退する連合軍を追って、蒙古軍の分隊はヴォルガ流域に達した。 同年の秋 ルーシ連合軍に加担したブルガール王軍とヴォルガ流域部族の連合軍が蒙古軍をケネスクの戦いで勝利を収めた。 この頃 チンギス・カーンの帰還命令が発令された。 蒙古軍は馬首を東に向けて、運を引いた。 帰還途上 ジュチは病死した。 以来 蒙古軍に屈したキプチャクの諸部族は、自治は認められるもモンゴル帝国の属民となったのです。 1229年 スグタイとブベデ率いる蒙古軍が再びヴォルガ域に攻め込み、ブルガール連合軍と抗戦 これを破る。 よって ヴォルガ河で東欧州諸国と蒙古帝国が境を形成するようになった。 ジュチ同様に ジュペ将軍は帰還の折に 熱病にかかり、病死した。 尚 前記載【9】のチンギス・カーン遠征・侵攻図を御参照、 最上段右側です
金帝国の征服が完了せしめた モンゴル帝国第2代ハーン・オゴデイは、モンゴル高原のダラン・ダーバスの地にて大会議・クリルタイ折を招聘した。 1234年の夏であった。 決議事項の最重点項目には 高原中央部はオルホン河畔に行政・交易・兵站の中心都市、カラコラムの建設する事であった。 遊牧民が都市を建設すると言う偉業であった。 無論 皇族・貴族たちはその周辺でゲル/パオの生活を継続・維持するのだが、 チンギス西征の時から、イスラム世界の技術者・工芸家は殺害することなく、このカラコラムに集められていた。 遊牧生活を営むには 農耕製品が不可欠である。 交易・商業の大都市を草原に出現させる事業である。 交通網の整備、 駅伝システム 等 平行事業として オコデイ・ハーンは推進した。 耶律楚材は片時もフビライ・ハーンの側を離れず 皇帝に献策し続ける。 宰相として 大モンゴル帝国を堅牢なものに作りあげていった。 翌年 1235年 このカラコルムのクリルタイで本格的な世界遠征計画が討議され決定された。 ヨーロッパ、インド、華中・華南の南宋、韓半島の高麗を征服する巨大なプロジェクトが生み出された。 布告が示す《万戸の、千戸の、百戸の、十戸のノヤン(貴族)たち、多くの人は誰であっても 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。 王女たち、その婿殿たちは同じようにして己が子の兄たる者を出征させよ》と 貴賎を問わず、社会組織の末端までもの官吏に直接出征を指示する命令です。 よって 帝国全土の王侯・部族の長子たち、即ち 次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子が全員出征すると言う 甚だ大規模なものでした。 大会議・クリスタルは このヨーロッパ遠征軍に参軍する皇子たち・諸族の正嗣子たちを総括する任をバトゥに命じています。 1235年夏 蒙古軍は動くのです。
では なぜ クリルタイの決議が すぐ 行動に移せるのでしょうか? 幾度となく、遊牧民はその生活が軍事訓練であると書いてきました。 更に 諸種の理由を追記しましょう。 まず 新しく手に入れる征服地の全ての住民と戦利品は その作戦に参加した部隊の頭割りで均等に分配すると言うヤサ法
*チンギス・カーンが編成・制定した規律/憲法です。 違反者への懲罰責任者 即ち 最高裁判所の最高判事長がチャガタイです*があったこと。 次に 東欧のヴォルガ河以西な豊潤な草原です、遊牧民の世界が広大な地の果てまで続いていたこと。 そして その豊潤な平原がドニブロ河に至り、その先の先まで豊かな都市が散在し、富が集積していること。 更には、平原の民・ルーシ氏族をしているウラジミール大公国の皇族・貴族たちは西方のフィンランドからの征服者が子孫であって ウラジミール大公国は征服王朝であり 住民とは隔離していること。 等々でしょう。
1236年の冬までに東部のモンゴル軍は粛々と また 悠々と天山山脈北部のイリ渓谷に集結した。 当時 イリ盆地にはジュチ家のオルド・幕営地であった。
【イリ渓谷は地政学上の重要地域です。 古来 幾多の政権・王朝がその覇を競った。 20世紀初頭には ロシア帝国・大英帝国・清朝がその覇権確立に血みどろの戦いを演じた場所です。 このブログは前記載の “天山山脈 北部の旅”にて その詳細を書いている。 ぜひ 一読してください】 ジュチ家を中心に情報を集め、作戦を練って 春を待った。 その陣容は八万有余の将兵であった。 モンゴル兵・約3万5千人以上、テュルク兵(非モンゴル系遊牧民族)四万以上であり、諸皇子は ジュチ家の総司令バトゥを筆頭に 長男・オユダ、五男・シバン、六男・タングトが出陣した。 チャガタイ家は長子・モエトゥケンの次男・ブリと六男・バイダルが参加した。 オコデイ家は長男・グユク(後、大ハーン)と庶子の弟・ハダンオウルが派遣させた。 史書には夏のクリルタイの折、皇帝・オゴデイ・ハーンが自ら親征して このチンギス家が総力結集する大作戦での 陣頭指揮を取るつもりの意を示そうとするも、実弟・トルイの長男・モンケ(後、大ハーン)に諌言されたと記す。 トルイ家からは長子・モンケと七男・ボチェクが参陣した。 それに、チンギスの次席皇后・クラン・フジン/ハトンの子・コルゲンもさんかしている。 また チンギス・カーンの功臣筆頭・ボルチュの世嗣・ボロタイが本営・中軍の総司令バトゥの宿将として従軍し、チンギス“四狗”のスブタイが万騎を率いて参戦していた。 スブタイとモンケ・グユンは副司令として右翼・左翼を固めていた。 騎馬遊牧民の伝統的な布陣であった。 1236年 早春二月 蒙古軍はイリ河を降り、バルハシ湖の南方からウラル山脈は南の山麓平原に兵馬を進めた。