’歓天喜地’ シルクロードはタクラマカン砂漠を漫遊彷徨中 ・・・涯 如水・・・   

絹綢之路はウルムチ市滞在の日々雑感に紀行記録がマスターベェション 砂漠・天山・民族・歴史・地誌 同行賜れば幸甚

ご挨拶 涯 如水

アクセスしていただき ありがとう  小生 日々快爽・快便・快敵・好日です。 怪怪にして詼諧なる怪文を開帳します。 淑女諸兄先達先輩諸氏が恢恢なご気分で 楽しんでいただければ 幸甚です。    【涯 如水】

チンギス統原理 【14】

2011-02-19 21:42:28 | 【我田引水】写真随筆
 ジュチの系列《四》
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チンギス統原理 【13】

2011-02-12 17:13:03 | 【我田引水】写真随筆
 ジュチの系列《三》


 1242年 オゴデイ・ハーンの訃報を受けて引き返したバトゥは モンゴル高原はカラコルムでの後継者が決定できずに、紛糾するさまを見て、嫌気が差した。 彼は信頼する叔父・チャガタイに全て一任するつもりでヴォルガ河下流に留まった。 都・サライの建設に傾注しつつ、拡大した領土を諸兄弟に分封して自立政権を確立した。 即ち ジュチ・ウルスの西半分はバトゥ・ウルス(右翼ウルス/金帳ウルス)として、宗主・バトゥが総括した。 東半分はオルダ・ウルス(左翼ウルス/白帳ウルス)と決め、あにオルダが宗主として総括した。 中軍(軍組織の中核)にジュチの三男・ベルケにベルケの堂母弟、四男・ベルケチュル、十一男・ムハンマド・ボラを配し、右翼諸軍は五男・シバンを司令に六男・タングト、七男・ボアル、八男・チラウカン、十男・チンバイら八人を翼下に配した中軍と右翼軍が右翼ウルスを形成した。 他方 左翼ウルスは九男・ソンコル、十二男・ウドゥル、十三男・トカ・テルム、十四男・セングムの四皇子が左翼軍を形成した。 さらに属国として、ルーシの諸国が従属し、従属諸侯・諸国はサライのハン/王に対して納税の義務を負うとともに、しばしばサライへの出頭を命ぜられ、公の任免や殺生与奪をハンに握られた。 従属した諸侯・諸公はハンとの血縁関係を持とうと奔走したと言う。 ルーシの人々はジュチ・ウルスの蒙古人を“タタール”と呼び、鬼神のようにおそれた。 近代まで、その恐怖は“タタールのくびき”として記憶されていた。 



 南シベリヤのステップ地帯を領土にする事はジュチがチンギス・カーンから命ぜられていた課題をバトゥが履行した事実はチンギス家中でバトゥの存在を大きくしていった。 が、バトゥは奢る事はなかった。 叔父・チャガタイを尊敬し 耶律楚材に相談していた。 蒙古高原・カラコラムでは次期の皇帝結体が難航していた。 チンギス家の次期世代の最有力者はジュチ家のバトゥに次する者は、トルイ家のモンケ、その次がチャガタイ家のブりの世評であった。 生前のオゴデイ・ハーンは 長子・グユン(第六皇后・ドレゲネとの正嗣)を 他の兄弟はじめ、従兄弟とも仲が悪く、他の王族とも常に対立する性癖から後継者の候補から外していた。 ヨーロッパ遠征中も大ハーンの長子ではあるが、酒の席でブリがジュチ家の王子達と口論になった折、仲裁どころか 総司令官であるバトゥを面罵し、父・大ハーンから召還命令を受けている。 モンケは召還されるグユンに随伴して帰還の途についた。 グユンは旅程を意識的に遅延させた。 これが幸いした。 帰還途上でオゴデイ・ハーンの訃報に接するや、グユンを抱き込んだ。 また、生母ドレゲネが摂政として政治工作を行い、バトゥを抑えて第三代モンゴル帝国の皇帝になった。 時は1246年8月24日 場所は祖父チンギう・カーンが即位したココ・ナウルであった。 オコデイ・ハーンは生前、第一皇后・ボラクチンとの間でもうけた三男のクチュを後継者に定めていたが、クチュは湖南方面(南宋遠征)で陣死した。 しかし オゴデイはクチュの長男シレムンを寵愛し、自らの後継者として宮中で帝王学を教えていたのだが。 グユンの即位はオゴデイ・ハーンの他界ご四年目であった。 クチュはクチュ・カァンと呼ばせた。 クチュ・カァンはチャガタイ家の全権をモンケに委譲させ、欧州への再遠征を考えるのだが・・・【オゴデイ家の系列で詳細を書きます】・・・
 バトゥは仲の良くないグユンが政権を握り、敬愛する叔父・チャガタイもオゴデイ・ハーンのあとを追うように鬼籍に入ってしまった意向・・・・・・・・・
    
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チンギス統原理 【12】

2011-02-09 20:37:15 | 【我田引水】写真随筆
 ジュチ家の系図《二》

 
 蒙古軍が東欧に進撃するの目標は ジュチ家の所領西方の諸部族、アス・ブルガル・キプチャク(クマン)を征圧することが主ではない。 ルースを殲滅し、カフカスを落とし、ポーランド・ハンガリーに進撃し、更に ドナウ河の西 ドイツ・フランスまで攻略して人頭税を取ることであった。 当時 キエフに居城を構えるキエフ大公国はルース(ロシア)諸国・諸部族の盟主であった。 モスクワは小さな砦に過ぎなかった。 キエフ大公国はスェーデン系の侵略国家である。 十一世紀頃から内紛で分裂の兆しが見え、十二世紀には首都・キエフは荒廃し ドニエブル河流域に及ぼす権勢は衰えていた。 しかし、 ルーシ地域の諸侯を支配し、ウラル山脈を中心に勢力を持つヴォルガ・ブルガール人 また カスピ海北東部のアラン人やキプチャクのクマン人と友好関係を維持していた。 キエフ大公国の北東にラップ人のスーズーダリ大公国、南西にはハールィチ・ウルィーニ大公国が覇を誇示していた。 東欧侵略に関する諸種の情報はモンゴル入手していた。
 1236年 二月 ヴォルガ・ブルガル人を制圧するたねに、スブテイ将軍がウラル山脈南麓のブルガル市攻略に北上した。 ブルガル首長・バヤ、ジグらは抵抗空しく、服属した。 1227年に従属したキプチャクのクマン人は有力首長・パチュマンに率いられ、カスピ海西北辺のアス人の首長・カチャル・オグラと同盟し抗戦に転じていた。 モンゴル軍団・左翼軍のモンケはカスピ海沿岸を進撃し、キプチャク草原全体を囲い込む作戦を展開した。 この戦術で 左翼軍・モンケはパチョマン・カチャルを捕殺した。 この年 蒙古軍はカスピ海北岸域で夏営している。 カスピ海からカフカス北方までの地域にはブルタス族、チュルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)などが居住していた。 が、これらの諸族はこの夏までに帰順・征服された。 後背の憂いを全てなくしたモンゴル軍は 1237年秋 ルーシ方面に侵攻する。 12月下旬にはリャザン、コロムナが攻略され、翌年2月 ウラジミール大公国の征圧・攻略の成功、そして ルーシ北部諸国の多くが征服された。 また 自ら帰順する諸国もあった。 しかし コロナム包囲戦でチンギス・カーンの庶子・コルゲンが戦死した。 その後、遠征軍は南に転進し コゼリスクを陥落させる。 カフカスの北部方面に一時の撤退で諸軍を休ませている余裕すらあった。 1238年から翌39年にかけては、カフカス北部域を侵攻して カフカス北部地帯の諸部族を征圧している。 が、モンゴル軍団内部は齟齬をかんでいる。 論功行賞にてつき、皇子軍のバトゥとグユク・モンケで激しく対立してしまったのです。 オコデイ・ハーンはこの報に接するや、激怒してグユク・モンケに帰還命令を出ています。 1239年秋 両皇子はモンゴル本土へ出立つしています。 1240年初春 ルーシ南部に進撃するや、キエフを包囲して同地を攻略・破壊した。 当時 キエフは大公位を巡り ルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵略に対処できぬ状況であった。 バトゥは広範なルーシのステップ地帯で敵の組織的な反撃がないと知ると 蒙古軍団をより小さい分隊に分け 機動性を活かし ルーシ国土を略奪し荒廃させている。 キーテンの町などは モンゴル兵を避けるため 住民全てが湖に投身したと言う。 ルーシ諸国を制圧・支配したモンゴル軍は 次の目標 中欧に 軍を進めていく。 1236年冬 初春にイリを出陣し4年の歳月ですから快進の速さです。


 1240年内にルーシ諸国をほぼ破壊した。 ごく一部の残留部隊を残し、バトゥは大きく軍団を3っに分けて中欧に進撃した。 バイダル、コデン、オルダ・ハーンの3将軍はポーランドに侵攻した。 バトゥは中軍を率いて カルパチヤ山脈中央部を横断 ハンガリーに軍を進めた。 ハダン・オウル率いる左翼はクロマチア方面へ南下した。 キエフ攻略の期間に偵察は十分おこなっいた。 右翼・ポーランド軍団、及び左翼クロマチヤ・セビリヤ軍団は中央ハンガリー軍団とセイヌ河で合流し オーストラリア・ドイツに侵攻する計画であった。 ポーランド北部と中部を進撃する、オルダ将軍は41年2月14日にルブリンに続きサンドミュシュをも陥落させている。 ポーランドはボヘミヤに援軍を依頼したが、 ポーランドの南部地帯を侵略するバイダルがボヘミヤ・ポーランド・ドイツ騎士軍団を撃破した。 ポーランド国土内はパニックに陥り、指示系統は混乱し、蒙古騎兵に蹂躙される。 右翼・ポーランド軍団は4月9日の大戦(ワールシュミットの戦い ポーランド王・ヘンリケ二世は敗死する)以降 ポーランドを占拠し、ハンガリーに進軍していく。 他方 バトゥはカラパチヤ山脈を抜け、トランシルヴェニア経由で正面から ハンガリー王国に侵攻した。 進入と同時に バトゥはハンガリー王・ベーラ四世に降伏勧告を行なっている。 やがて モラヴィヤからバイダル・スブタイ・カダアンの諸将が合流して来て、ベシュト市を陥落させている。 モンゴル軍は戦線を広げず、ハンガリーの城市を集中的に進撃して行った。 時、1241年4月11日 ハンガリー軍の総力を挙げた“モヒの戦い”が始まった。 蒙古軍バトゥ以下1万弱余の兵力、他の諸将はいない。 ハンガリー軍ベーラ四世以下、テンプル騎士団、ドイツ騎士団の1万5千の兵力が激突しのです。 ベーラ4世は蒙古軍の侵入を知ると、10万の将兵を戦場に送っていた。 他方 蒙古軍はスブタイ将軍等が分散してハンガリー領内を侵略していた。 バトゥはドナウ河にまで進軍した時、ハンガリー軍と遭遇し、数倍の敵兵力に後退してきてモヒ平原にはいったのです。 スブタイ将軍はモヒ平原の近くにいた。 ベーラ4世はバトゥがモヒ平原に入ったと知るや、騎士団を率いて モンゴル軍の前衛部隊を撃破し、サヨ川の石橋を奪い右岸に橋頭塁を確保したのです。 数に勝るベーラ4世は石橋を使い 何度もに騎兵をバトゥ軍に突撃させるが、左岸で陣を固めているバトゥが投石機と弓矢で激しく応戦する。 戦いのさなか スブタイ率いる別働隊が戦場に駆けつけた。 スブタイ将軍は、サナ川を南側から迂回渡河して 右岸のベーラ4世本陣を襲った。 機動力を活かしハンガリー軍を包囲しながら攻撃する。 左岸のバトゥは陣を水際まで進め、投石・弓矢をハンガリー本陣に集中攻撃させた。 ベーラ4世が優勢な兵力を動かすには モヒ平原は狭すぎた。 有利な体制で戦うべき戦場を誤ったのです。 ハンガリー軍は大量の石弾と矢弾で壊滅的打撃をうける。 攻防さなかで、スブタイは包囲の西方の一部のみを解いた。 意図的にハンガリー軍の退路を作った。 誘導されるように ハンガリー軍はわれがちに逃走した。ベーラ4世軍も包囲網から脱出することができた。 が、モンゴル軍には代え馬が十分にあった。 追撃され、援軍も撃破される。 この“モヒの戦闘”でハンガリー軍はほとんど壊滅してしまった。 ベーラ4世は追撃を逃れ、ダルマチア沖の孤島に避難したが ハンガリー全体はモンゴルの占領下にはいった。
 一方 ハダン・オウル率いる左翼軍団はクロアティアを南下してクロアティア国を従属させ、アドリア海岸に達し セルビア国を横断する進撃を重ねていた。 


 ドナウ河を遡れば、オーストラリアに入る。 ハンガリーを蹂躙したモンゴル軍は南方セビリヤを進軍中のハダン・オウル将軍の動静を集め、オーストラリア侵攻への準備を進めた。 オーストラリア王国・フリードリヒ公は隣国ハンガリーの戦況に心胆を凍らせていた。 ドイツとの連合、兵団の補強 対抗策に日々 席が温まらない。 フリードリヒ公は騎士であった。 1218年 第四回十字軍に加わり、自軍を率いてパレスチナに上陸している。 モンゴル遠征軍は 指呼のウィーナー・ノイシュタットに現れた。 1242年の初春である。 負け戦を知らぬモンゴル軍は活気に満ちていた。 バトゥの本営に独りの伝令がわき目も振らずに駆け込んできた。 見れば、腹部は服の上にきつく晒を巻き、顔は蒼白で死相が現れていた。 背には皮袋が結わえ付けられていた。 伝令は息絶え絶えにそれを開きバトゥに差し出した。 バトゥは無言で受け取り、玉書を開いた。 オコデイ・ハーンの死の知らせる文面であった。 退席した伝令はまもなく血を吐いて死んだ。 彼は蒙古高原・カラコルムから日夜走り続け、60数日で7000有余キロの道を駆け抜けて着たのです。 馬を90数頭乗り潰して、 バトゥは無言で莫舎を出ていた。
 1242年3月 モンゴル軍はウィナー・ノイシュタットから撤退した報がオーストラリアに入った。 フリードリヒ公は勇んで追撃軍を出した。 バトゥの退却は見事であったが、八人の将校が捕らえたと史書は記す。

 逸話を一つ追記します。 捕らえられた将校の中にイギリス人がいた。 名前は記録されていない。 1215年にイングランドのジョン王に迫って[マグナ・カルタ/大憲章]を認めさせた貴族の一人らしい。 マグナ・カルタ推進者は 翌年 ジョン王の死後、ヘンリー3世の即位に反対してフランスの王子・ルイを迎え王位に就かせようと画策した。 が、失敗してローマ教皇に破門される。 囚われたイギリス将校は贖罪のために第四回十字軍に加わり、パレスチナに赴いた。 アークルに上陸し、彼が戦いよりも語学に没頭している。 この地でフリードヒ公は彼に会っていたのです。 しかし このイギリスの貴族は十字軍から脱落し、苦労を重ね、放浪・流浪の果てにバクダットでたどり着き、語学の研鑽をしています。 もともとの教養とあらゆる国の言葉の読み書きができる才人の噂に モゴル貴族が興味をもち、彼を召抱えます。 忠節を誓わせ、語学の研鑽をさせたたのでしょう。 その後 バトゥの遠征に従軍し、ハンガリー王・ベーラ4世に無条件降伏の交渉などで従軍の勤めを果たしたのです。 バトゥがこの貴族を従軍させている事実は チンギス・カーンが有能な技術者や工芸家を虐殺せずに活用した遊牧民の伝統でしょうが、モンゴル軍団が大西洋まで進軍する構想を裏付けていると考えるのは浅はかでしょうか ・・・・・ 尚 このイギリス将校の話は 陳舜臣さんの『チンギス・カーンの一族』に登場しますが小説では従軍していません。 ナイマンの皇女とキリスト教の布教で各地を旅します。 また バトゥに玉書を渡した伝令は司馬遼太郎の初期の作品にあります。 題は忘れました。 ご一読ください。 大変 面白い小説でした・・・・・
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チンギス統原理 【11】

2011-02-07 12:07:37 | 【我田引水】写真随筆
 ジュチ家の系譜 《一》

 チンギス・カーンのモンゴル帝国は正嗣4皇子が連合する体制に成る。 皇帝位は連合国家の指導者として、機能してゆく。 時代が進み、世代交代とともに 利害が対立して行く。

 1224年 ジュチはチンギス・カーンのイスラム世界への大遠征の凱旋帰国前、遠くヴォルガ河近隣なで遠征していた。 チンギスの帰還命令で 轡をかえし、カスピ海東方からの帰路途中病死する。 チンギスの落胆は激しかった。 生前の封地の約束はジュチの正嗣子たちに履行した。 その言質には西方域で征服した領土の全てを与える も含まれていた。 アルタイ山脈以西・バルハシ湖北部よりヴォルガ河までの広大なステップ地帯であった。 
 
 ジュチの正嗣王子は14名であり、その皇子・庶子の数は40人近いとされている。 1224年のジュチの死によりバトゥがジュチ家の当主となった。 異母兄・オルダは病弱であったと史書は記すが、オルダの母もバトゥの母もチンギス家が代々婚儀を交わす姻戚関係のコンギラト部族の出目(上記図 ジュチ家の系図参照)です。 しかし バトゥの母は コンギラト部族の宗主・アルチ・ノヤンの息女であったことを考えるべきでしょう。 ジュチ・ウルス(領土)は これらの子孫によって分封支配が行なわれて行った。 ヴォルガ河下流域に都市・サライを建設して、中央集権で統治した。 この地域はキプチャック草原と呼ばれていたゆえ キプチャック王国/カン国と呼ばる。 また 君主の帳幕/パオ/ゲルが黄金で飾られていた事より 金帳ハン国とも呼ばれた。 1206年 チンギス・カーンが即位の折、ジュチに四個の千人隊からなるウルス(領土)をイルティシュ側領域にあたえた。 大西征で領土は拡大した。 そのウルスを次男バトゥが総括として統治し、長男オルダが東方域を支配する旨をチンギス・カーンは承諾していた。 左右両翼体制は遊牧民の伝統であった。 以降 ヴォルガ川流域が宗主バトゥの王統(金帳カン国)、イルティシュ河流域はオルダの王統(白帳カン国)としてキプチャツク王国を統治して行きます。 史書はジュチの正嗣子を折半して、それぞれの統治下に置いた と記す。 即ち バトゥはジュチの三男・ベルケ、四男・ベルケチュル、五男・シバン、六男・タングト、七男・ボアル、八男・チラウカン、十男・チンバイの八名を翼下に配して右翼諸軍とした。 一方 オルダの左翼諸軍は 東方の兄弟国家(ジュチの実弟王国)と接し 防衛対策等の配慮は無用が故 九男・ソンクル 他 ボラ・ムハンマド、ウドゥル、トカ・テムル、セングム等六名の構成であった。


バトゥ率いる蒙古軍が東欧州に侵攻しヨーロッパを恐怖に落とし込む事件が起きます。 近世まで”タタルのくぶき”として東欧人に遊牧民を悪魔と記憶させた侵略戦争です。 これの背景を時代を戻して説明しよう。 1219年に開始したチンギス・カーンの西征は整然と 且つ 急速にホラズム・シャー朝を追い詰めた。 国王アラーウッディーン・ムハンマドはアム河を超えて西へと逃走した。 ジュチは彼を追った。 チンギスは“四狗”*チンギス・カーンが最も信任するテムジン時代からの猛将軍四名 ジュペ、スグタイ、ジュルメ、クビライの諸将*の内、ジュペとスグタイに各々1万人の将兵を率いさせて ジュチの援軍に差し向けた。 ジュチはムハンマドを見失い、ヴォルガ河方面に進撃する。 ジュペ・スグタイお両将軍はカスピ海の西部を北上し、1221年にはグルジアなで侵攻していた。 ムハンマドは1220年にカスピ海の孤島で客死していたが。 ジュチ・ジュペ・スグタイは更に進撃を続け、諸族を撃破し キプチャク草原に侵攻した。 キプチャク草原の遊牧民・クマン人は強力な勢力を有していた。 また ルーシ(ロシア)とも友好関係にあった。 1223年5月31日 カルカ河畔の戦いが始まった。 キプチャク連合軍にルーシ連合軍が加わった五万の軍が スグタイの息子・ウランが率いる蒙古軍に襲い掛かった。 チンギス・カーン軍は負け知らずであった。 ジュチ・ジュベ・スグタイが蒙古軍二万有余は 連合軍を大破した。 敗退する連合軍を追って、蒙古軍の分隊はヴォルガ流域に達した。 同年の秋 ルーシ連合軍に加担したブルガール王軍とヴォルガ流域部族の連合軍が蒙古軍をケネスクの戦いで勝利を収めた。 この頃 チンギス・カーンの帰還命令が発令された。 蒙古軍は馬首を東に向けて、運を引いた。 帰還途上 ジュチは病死した。 以来 蒙古軍に屈したキプチャクの諸部族は、自治は認められるもモンゴル帝国の属民となったのです。 1229年 スグタイとブベデ率いる蒙古軍が再びヴォルガ域に攻め込み、ブルガール連合軍と抗戦 これを破る。 よって ヴォルガ河で東欧州諸国と蒙古帝国が境を形成するようになった。 ジュチ同様に ジュペ将軍は帰還の折に 熱病にかかり、病死した。 尚 前記載【9】のチンギス・カーン遠征・侵攻図を御参照、 最上段右側です   
        
 金帝国の征服が完了せしめた モンゴル帝国第2代ハーン・オゴデイは、モンゴル高原のダラン・ダーバスの地にて大会議・クリルタイ折を招聘した。 1234年の夏であった。 決議事項の最重点項目には 高原中央部はオルホン河畔に行政・交易・兵站の中心都市、カラコラムの建設する事であった。 遊牧民が都市を建設すると言う偉業であった。 無論 皇族・貴族たちはその周辺でゲル/パオの生活を継続・維持するのだが、 チンギス西征の時から、イスラム世界の技術者・工芸家は殺害することなく、このカラコラムに集められていた。 遊牧生活を営むには 農耕製品が不可欠である。 交易・商業の大都市を草原に出現させる事業である。 交通網の整備、 駅伝システム 等 平行事業として オコデイ・ハーンは推進した。 耶律楚材は片時もフビライ・ハーンの側を離れず 皇帝に献策し続ける。 宰相として 大モンゴル帝国を堅牢なものに作りあげていった。 翌年 1235年 このカラコルムのクリルタイで本格的な世界遠征計画が討議され決定された。 ヨーロッパ、インド、華中・華南の南宋、韓半島の高麗を征服する巨大なプロジェクトが生み出された。 布告が示す《万戸の、千戸の、百戸の、十戸のノヤン(貴族)たち、多くの人は誰であっても 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。 王女たち、その婿殿たちは同じようにして己が子の兄たる者を出征させよ》と 貴賎を問わず、社会組織の末端までもの官吏に直接出征を指示する命令です。 よって 帝国全土の王侯・部族の長子たち、即ち 次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子が全員出征すると言う 甚だ大規模なものでした。 大会議・クリスタルは このヨーロッパ遠征軍に参軍する皇子たち・諸族の正嗣子たちを総括する任をバトゥに命じています。 1235年夏 蒙古軍は動くのです。
 では なぜ クリルタイの決議が すぐ 行動に移せるのでしょうか? 幾度となく、遊牧民はその生活が軍事訓練であると書いてきました。 更に 諸種の理由を追記しましょう。 まず 新しく手に入れる征服地の全ての住民と戦利品は その作戦に参加した部隊の頭割りで均等に分配すると言うヤサ法*チンギス・カーンが編成・制定した規律/憲法です。 違反者への懲罰責任者 即ち 最高裁判所の最高判事長がチャガタイです*があったこと。 次に 東欧のヴォルガ河以西な豊潤な草原です、遊牧民の世界が広大な地の果てまで続いていたこと。 そして その豊潤な平原がドニブロ河に至り、その先の先まで豊かな都市が散在し、富が集積していること。 更には、平原の民・ルーシ氏族をしているウラジミール大公国の皇族・貴族たちは西方のフィンランドからの征服者が子孫であって ウラジミール大公国は征服王朝であり 住民とは隔離していること。 等々でしょう。
 1236年の冬までに東部のモンゴル軍は粛々と また 悠々と天山山脈北部のイリ渓谷に集結した。 当時 イリ盆地にはジュチ家のオルド・幕営地であった。 【イリ渓谷は地政学上の重要地域です。 古来 幾多の政権・王朝がその覇を競った。 20世紀初頭には ロシア帝国・大英帝国・清朝がその覇権確立に血みどろの戦いを演じた場所です。 このブログは前記載の “天山山脈 北部の旅”にて その詳細を書いている。 ぜひ 一読してください】  ジュチ家を中心に情報を集め、作戦を練って 春を待った。 その陣容は八万有余の将兵であった。 モンゴル兵・約3万5千人以上、テュルク兵(非モンゴル系遊牧民族)四万以上であり、諸皇子は ジュチ家の総司令バトゥを筆頭に 長男・オユダ、五男・シバン、六男・タングトが出陣した。 チャガタイ家は長子・モエトゥケンの次男・ブリと六男・バイダルが参加した。 オコデイ家は長男・グユク(後、大ハーン)と庶子の弟・ハダンオウルが派遣させた。 史書には夏のクリルタイの折、皇帝・オゴデイ・ハーンが自ら親征して このチンギス家が総力結集する大作戦での 陣頭指揮を取るつもりの意を示そうとするも、実弟・トルイの長男・モンケ(後、大ハーン)に諌言されたと記す。 トルイ家からは長子・モンケと七男・ボチェクが参陣した。 それに、チンギスの次席皇后・クラン・フジン/ハトンの子・コルゲンもさんかしている。 また チンギス・カーンの功臣筆頭・ボルチュの世嗣・ボロタイが本営・中軍の総司令バトゥの宿将として従軍し、チンギス“四狗”のスブタイが万騎を率いて参戦していた。 スブタイとモンケ・グユンは副司令として右翼・左翼を固めていた。 騎馬遊牧民の伝統的な布陣であった。 1236年 早春二月 蒙古軍はイリ河を降り、バルハシ湖の南方からウラル山脈は南の山麓平原に兵馬を進めた。  
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チンギス統原理 【10】

2011-02-05 13:36:13 | 【我田引水】写真随筆

 イスラム世界への大親征、西征から帰ったチンギスは広大になった領地を皇子に分割した。 長子・ジュチは南西シベリヤから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を拝領した。 次男・チャガタイは中央アジアのカラ・キタイ全域と西部ホラサン地域を、三男・オゴデイは西モンゴルとアルタイ山脈南部・ジュンガールの支配権を、末子トルイには言明を避けた。 遊牧民の風習は末子相続であり、チンギスの本拠地モンゴル高原はトルイが継承することになっていた。 しかし、後継者問題は別である。 耶律楚材にチンギスは《正嗣子に能力が無いと判断すれば、直ちに この帝国の指導者に就いてもらいたい》と相談していた。 その折、耶律楚材は ためらいも無く即答した《臣、次期皇帝に誠心尽くしましょう》チンギスは《神が 我が家に使わした人よ》と 言ったと記されている。 チンギス・カーンは 耶律楚材の助言で 温厚な三男・オゴデイを後継者に指名していた。 西征の際、ジュチは壮麗な城市を破壊する事を拒む戦術で攻略が長引いた。 チャガタイは抵抗するものは徹底的に殺戮・破壊した。 戦術の実践で二人は何時も対立してきた。 オコデイがジュチ・チャガタイの間を調整してたのです。 チンギス・カーンが西征で知ったウイグル文字を 縦書きに変化させ 完成した蒙古文字を部下に収得させようと布告した折に、一番優秀だったのがオコデイであった。
 凱戦の後 しばらくしてから、チンギス・カーンは 以前 臣下した西夏王国が金と同盟を結んだ事を知った。 ホラズム遠征に対する援軍派兵の依頼を西夏の皇帝は拒否してきた事実もチンギスの逆鱗に触れた。 チンギスは懲罰遠征を決意した。 1226年初頭 西夏の諸城を攻略、凍結する黄河を渡り。首都興慶(現在の銀川市)を包囲した。 西夏王国は諸域からの援軍30万余で蒙古軍に抗戦するが敗れて、四散する。 ここに西夏王国は壊滅した。 国王は娘を人質に包囲網を解かせた。 翌年6月 チンギスはオゴデイを陜西・河南の金領に侵略させ、自ら西夏の未だ好戦的な諸城を攻略しつつ 夏季の避暑のためにオルドスの六盤山に本営を設けた。 莫舎の中には人質の妃が独り居た。 身には寸鉄だに おびていなかった。 ただ、西夏には西方のイスラム神秘主義者が暗殺に使う秘法が伝わっていた。 女体に隠し持ち、秘所にて用いる秘法の劇薬である。 1227年8月18日未明 チンギス・カーンは他界した。 遺体は北の高原へ運ばれた。 その北帰行 途上 見かけた住民はすべて殺害された また 埋葬の痕跡を消すために 一千頭の馬を走らせた と史書は記す。 悲報を知ったオゴデイは 西夏王国の皇族・重臣の全てを殺戮した。*小生 オルドス地方を二度訪れている。 南に明の長城や始皇帝が築かせた長城があり、オルドスのほぼ中央にチンギス・カーン陵がある。 これは大興安嶺山脈南西部ホインバル大草原に日本帝国陸軍が建立した陵を中国・共産党が移設したのもです。 しかし 紅衛兵が文化革命で内部の遺品をことごとく破壊した。 訪問時、建家のみが 寂しげに虚空に孤立していた。 因みに チンギス・カーンの埋葬地は未だ不明です 2004年 日本の調査隊がヘルレン河・ウランバートル東方250kmのアウラガ遺跡で発掘調査を実施、チンギス・カーンのオルド跡と立証したが、モンゴル族の心情を配慮して墓の調査は行なっていない 歴代のモンゴル帝国・皇帝はチンギス・カーンのそばで永眠していると言う*
   
    

 チンギス・カーンの遠征は非常な成功を収めている。 その理由は抵抗する者を決してゆるさず、最後の一人まで殺し尽くすが、抵抗せず降伏する者は、 人頭税を払わせるだけで決して殺戮を許さなかった。 自治を与え、開放した。 自軍への懲罰は厳格だった。 例えば、 メルブィ攻略の折、町の守備隊は 二度 城外に出て、激しく抗戦した。 末子トルイは7万余の軍を率いて応戦 城市を包囲した。 町の知事以下幹部がトルイの幕営に赴き、降伏した。 トルイは彼らを捕縛し、町の富豪二百名と工芸家・職人四百名が幕営に呼びつけた。 ついで、モンゴル軍が入城し 全住民に貴重な財産を持たせて城外に出させた。 そして 幼児・老人を問わず 全員を虐殺した。 以前 トルイが温情で、チンギスの甥を戦死させていたがゆえのトルイへの厳命であった。 また ホラズム帝国の都・ウルゲンチを長男ジュチと次男チャガタイに包囲攻略させていた時。 6ヶ月を経過するも落城の報告はない。 チンギスはその原因が兄弟の不和であり、軍規が緩んでいる為と知ると 直ちに 三男オゴデイを派遣した。 ジュチ・チャガタイの指揮権を剥奪し、オゴデイに総指揮をとらせている。 
 チンギス・カーンは自軍にも敵軍にも 判りやすい原則を貫いて成功を勝ち取った。 前節でホラズム帝国崩壊の理由を述べました。 更に 追記するなら、 モンゴル兵団は 事前に情報をよく集め、地理を調査し、綿密な作戦予定表を作成して、全軍がそれに従った侵略を履行した事。 第二に、作戦中は規律が徹底し、指揮官の命令を厳守した事。 第三に、兵士はそれぞれの変え馬を準備し、機動力が大きかった事。 第四に、蒙古兵の弓は張り合わせ弓で、矢の速力が速く射程が長かった事。 また 遊牧の生活で騎馬・馬射の技術は城下の兵士の比ではなかった事。 第五に、進軍途上の他の諸部族が われもわれもと従軍し、目的地に至った折には 雪だるま式に巨大な軍団に成長した事。 第六に、おおむね 蒙古軍の敵は農耕・封建社会で、統一行動の習慣がなく、ややもすれば抜け駆けの保身や分裂を起こしやすく、各個撃破が容易であった事。 等々でしょう。
 
 さて チンギス・カーンの死後、そのオルド/ウルスを相続した末子・トルイがとりあえず監国(摂政)となり、左翼万人隊・ムカリ将軍の金王朝に対する作戦を続行した。 左翼のモンゴル高原は叔父達が安定させていた。 一方 右翼方面は長兄ジュチは病死 *チンギス・カーン西征の1224年頃 ジュチはカスピ海西岸よりモスクワ近辺まで侵攻していた。チンギスが帰還命令をだす。 ジュチは轡を返し、カスピ海東岸を回り、帰幕を急ぐが途上 病にたをれた。 馬車に横たわり、父のもとに急ぐ。 チンギス・カーンはジュチの出生の虚言でジュチは離反したかと自問しつつ、命令違反の懲罰軍を出そうかと自責する。 二百数余の白馬(白馬一頭は十二匹の馬に相当する)に囲まれたジュチのむくろが帰還した* で ジュチの子息 オルダ・バトたちはシル河以北の所領を相続していたから、自然と右翼右翼万人隊はチャガタイの命令を仰ぎ、耶律楚材に何かと相談をする。 耶律楚材は大局からチンギス家を見る人であった。 チンギス・カーンにオゴデイを次期の支配者に推した人でもある。 チンギスの希望も後継者はオゴデイであった。 ただ、チンギスはオゴデイに酒を慎めと苦言していた。 遊牧帝国は部族、氏族の連合体である。 その君主は選挙制で決める。 だれを君主/指導者するか、遠征は何時・何処に・目的は・期間は等 クリスタル(大会議・国会に相当)が決めるのです。 クリスタルは最有力部族の長が招聘するのです。 皇族の最年長者である次男・チャガタイが このクリスタルを招聘 挙行した。 時は1229年、場所はケルレン河畔のコデエ・アラルです。 諸王・万人隊長・千人隊長・チンギスの皇族・諸部族氏族の長・チンギスの重鎮 が集まった。 オコデイは右翼に属していた。 右翼の支配者にはチャガタイが戦歴からして誰もが適当と認める状況である。 チャガタイが招聘したクリスタルでもあった。 左翼のトルイは執政の立場である。 右翼のトルイと右翼のチャガタイが最終の候補に選ばれた。 オゴデイはトルイと仲がよく、トルイの長男・モンケを養子してたほどの関係にあり、温厚にして聡明であった。 耶律楚材は動いた。 チンギスの希望をチャガタイに語り、オゴデイの跡は ジュチなき今、 チャガタイ家から皇帝を出す条件でトルイと話し合い、オコデイをチンギスの後継者に推薦しろと。
 春から行なわれたコデエ・アラルのクリスタルは1229年九月十三日にオゴデイをチンギス・カーンの後継者 大モンゴル帝国の二代目皇帝に推挙し 決議した。
 
   
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