「吾一よ!
人生は死ぬことじゃない。生きることだ。
これからの者は何よりも生きなくてはいけない。
自分自身を生かさなくっていけない。
たったひとりしかない自分を
たった一度しかない一生を
本当に生かさなかったら
人間
生まれてきた甲斐がないじゃないか。」
山本有三「路傍の石」の中の一節である。吾一(ごいち)という名の男の子が鉄橋の線路にぶら下った。列車が近づいてくる。運良く助かるのだが、何が原因だったか忘れたものの、その少年がやけになって無謀な行為に走ったことを担任の教師が説諭する場面であったと思う。
吾一という名は親が付けたものだと思われるが「われひとり」という意味の名をつけたのは理由がある。それは、この世に生を受け一度きりの自分の人生を活かさないまま死ぬなんて親は決して望んでいない。せっかく生れてきたのだから、生れてきた甲斐のある生き方をして欲しいと願っているはずだ。それで「吾一」と名づけたのではないか、そんな話だったと記憶している。
俺は66歳だ。もう若くはない。自分の人生も残り少なくなった。さて、この歳になって俺の「生き甲斐」ってなんだろう。ふとそんなことを考える。病気になって健康のありがたさを改めて知ることになったが、生きている甲斐があるのかどうか自問自答してみると、これと言って人様に披露する様なものはないことに気付く。俺が死んで悲しむものは何人かいるかも知れないが、その人達を悲しませないようにすることも生き甲斐の一つかもしれない。
人はそれぞれの生き方で生きている。じゃ、俺の生き方ってどんな生き方なんだ?色んなものに興味があり、心が惹かれ夢中になって生きているのは楽しい。他人に迷惑をかけなければいいと思って楽しく生きていてもその生き方が迷惑だと思う人もいるかも知れない。
パスカルが人生について「気が付いたらもう船に乗せられていた。これが人生だ。」という言葉を残したとかいう。理屈などなしに生きているのが人の世なのかもしれない。もともと人間は方向性を定められないで生れてきたのだから流れるままにまかせて生きていけばいいのだろう。一期一会という言葉もあるように色んな出会いを大切にしてとりあえず生きて行こう。熱意は必ず報われるはずだ。精一杯生きるという熱意だけは持ち続けたい。吾一を説諭した教師の熱意が俺を勇気づけている。