poppo徒然画帳

思いつくまま、徒然なるままに、絵や画像とともにつぶやきます。

熱意は必ず報いられる

2009年11月28日 | Weblog

「吾一よ!
人生は死ぬことじゃない。生きることだ。
これからの者は何よりも生きなくてはいけない。
自分自身を生かさなくっていけない。

たったひとりしかない自分を
たった一度しかない一生を
本当に生かさなかったら
人間
生まれてきた甲斐がないじゃないか。」



 山本有三「路傍の石」の中の一節である。吾一(ごいち)という名の男の子が鉄橋の線路にぶら下った。列車が近づいてくる。運良く助かるのだが、何が原因だったか忘れたものの、その少年がやけになって無謀な行為に走ったことを担任の教師が説諭する場面であったと思う。

 吾一という名は親が付けたものだと思われるが「われひとり」という意味の名をつけたのは理由がある。それは、この世に生を受け一度きりの自分の人生を活かさないまま死ぬなんて親は決して望んでいない。せっかく生れてきたのだから、生れてきた甲斐のある生き方をして欲しいと願っているはずだ。それで「吾一」と名づけたのではないか、そんな話だったと記憶している。

 俺は66歳だ。もう若くはない。自分の人生も残り少なくなった。さて、この歳になって俺の「生き甲斐」ってなんだろう。ふとそんなことを考える。病気になって健康のありがたさを改めて知ることになったが、生きている甲斐があるのかどうか自問自答してみると、これと言って人様に披露する様なものはないことに気付く。俺が死んで悲しむものは何人かいるかも知れないが、その人達を悲しませないようにすることも生き甲斐の一つかもしれない。

 人はそれぞれの生き方で生きている。じゃ、俺の生き方ってどんな生き方なんだ?色んなものに興味があり、心が惹かれ夢中になって生きているのは楽しい。他人に迷惑をかけなければいいと思って楽しく生きていてもその生き方が迷惑だと思う人もいるかも知れない。

 パスカルが人生について「気が付いたらもう船に乗せられていた。これが人生だ。」という言葉を残したとかいう。理屈などなしに生きているのが人の世なのかもしれない。もともと人間は方向性を定められないで生れてきたのだから流れるままにまかせて生きていけばいいのだろう。一期一会という言葉もあるように色んな出会いを大切にしてとりあえず生きて行こう。熱意は必ず報われるはずだ。精一杯生きるという熱意だけは持ち続けたい。吾一を説諭した教師の熱意が俺を勇気づけている。

 

山茶花(さざんか)の季節

2009年11月26日 | Weblog



 朝夕の散歩が日課になって3ヶ月経った。夜中に雨が降ったのか今朝は雲間から青空が覗きみられた。気温が高いのか随分と暖かい。霧のような靄(もや)に煙った遠景が幻想的だ。

 サザンカが咲き始めた。道端に植え込まれた高さ50cmの低木に咲くピンク色の花や家の垣根などの植え込みの白い花も目を引く。童謡の「たきび」を口ずさむ季節になった。

 サザンカは漢字で「山茶花」と表記するが、これは椿(つばき)の中国名「山茶花」(さんさか)が「茶山花」(読みは「ささんか」)になり、それが訛って「さざんか」になったという。つまり間違った名前が定着したというのだ。日本が原産地で、学名も英名もサザンカ(Sasanqua)で椿(つばき)科の植物である。



 ツバキといえば春に咲き、花ごと散る藪椿(やぶつばき)がよく知られている。しかし、秋から冬に咲く寒椿(かんつばき)はサザンカと花期が重なり、よく間違えられる。葉っぱも花もよく似ているのでなかなか見分けがつかない。ただ、サザンカの花は一枚ずつ散るのに対してツバキは花ごと落ちるのでそれで見分けられる。サザンカの花言葉は「困難に打ち勝つ、ひたむきさ」。

 糖尿病に罹患し一生付き合っていく病(やまい)と知らされたときは、さすがに「えらいこっちゃ」と思ったが、ひたむきに生活習慣を変えて3ヶ月経った今、血糖値をコントロールすることに成功して、サザンカの白い花が艶やかに見える。今宵は、芋焼酎のお湯割でも呑みながら大川栄作の「さざんかの宿」を歌ってみようか。




「山茶花を 雀のこぼす 日和かな」 正岡子規

 山茶花は見るだけではなく、秋に種子を採取して、天日乾燥して砕き、蒸熱、圧搾して濾過、精製するとサザンカ油がとれる。これを生薬として軟膏の原料に用いたり、 古く、鹿児島、宮崎地方では、新芽を製茶して飲用したり、香りが良いので香袋にも用いたともいう。



 随分前のことだが、「ワビスケ(わびすけ、佗助、佗介)」を描いたことがある。佗助もツバキ科の常緑低木で、花は半開のらっぱ状で小さいことから比較的見分けやすいとされているが、半開きだけで区別するのは間違いとも言われる。生花をモチーフに描いていると分かるが、花は動くものである。なので、開いていく花を描いたものを「静物画」というのも考えたらおかしい。



無関心でいて欲しい!

2009年11月25日 | Weblog
 解放されたい!自由になりたい。無関心でいて欲しい。
 
 最近、そんな欲求が俺の心の中で大きく強くなっている。何から解放されたいのだろうか?何から自由になりたいのだろうか?

 答えは分かっている。それは俺に関心を持って愛情を注いでくれる女房のことである。感謝しなければならないところなのだが、何故だか四六時中監視されているような感じに囚われることがある。家庭内ストーカーと言えば言いすぎだろうか。俺の行動のすべてを把握したいらしい。

 夫婦間にもプライバシーがあるはず。包み隠すこともなくナンデモ話し合っている夫婦もあるだろうが、俺は、まだすべてをさらけ出す勇気がない。それに俺には隠しておきたいことが沢山ある。合理的な生き方よりか矛盾を内包した生き方の方が好きなんだ。そう、プライバシーの問題というよりか好き嫌いの問題だ。

 ヌードデッサンしてても全然エロチックな気分にはならない。しかし、後で描いたものを見ていると性的妄想を抱くこともないことはない。勝手なものだ。人の心の内、つまり内心は極めて多様性に富み浮気性でもある。

 散歩に出かけても散歩を忘れて何かに夢中になることもある。それが花だったり、たぬきだったり、夕焼けだったりする。予定時間があるようでないようなことも度々だ。ゴルフの練習だって時には倍以上の時間を消費することもある。だからといって上達するとは限らないのだが。

 そんな不合理なことには元よりきちんとした理由などない。理由がないから説明しにくい。だから説明しないでいる。誤解されるのは嫌なものだが、いちいち説明するよりは誤解されている方がまだましだ。するとますます誤解される。それは俺に関心を持ちすぎるからだ。ほったらかしにしてもらいたいものだ。

 無関心というやつは厄介なものだが、ときには人の心を自由にさせる効用がある。お風呂や用足しがつい長時間になるのは個室に閉じこもっている安堵感かもしれない。しかし、これも度が過ぎると事が大きくなるような恐れがある。

 

エンゼル・トランペット

2009年11月24日 | Weblog
 
 いつもの散歩道からそれて横道を歩いていたら、いわゆるエンゼル・トランペットに出会った。堂々とした風格の木立(こだち)でトランペットという名に相応しい花を付けていた。11月下旬だというのに見事に咲き誇っている姿には少し圧倒された。


 エンゼル・トランペットと言えば全身が毒だといわれるあのチョウセンアサガオの別名だが、草本のチョウセンアサガオはもう花期を終えているはず。今回見たのは背丈が1mを超える木立である(上の写真)。木立と草本とはどうちがうのだろうか、木立も同じく全身が毒なのだろうかと急に心配になった。

 ところで俺の病気(糖尿病)のことだが、10月29日に血液検査の結果が判明した。(採血日と間隔;8/3→(23日後)8/26⇒(57日後)10/22)

○血糖検査は「空腹時血糖」202→117⇒95mg/dl(上限値100)
      「ヘモグロビンA1c 」8.3→7.7⇒5.3%(上限値5.8)
○脂質検査は「中性脂肪」157→72⇒84mg/dl(上限値150)
      「HDLコレステロール」63→60⇒62mg/dl(上限値65)
      「LDLコレステロール」108→135⇒112mg/dl(上限値120未満)
      「総コレステロール」209→208mg/dl(上限値220)
○肝機能は「AST(GOT)」81→71⇒34 IU/l(上限値37)
     「ALT(GPT)」70→108⇒28 IU/l(上限値39)
      「LDH   」  178⇒143IU/l(上限値229)
     「γ-GT(γ-GTP)」429→213⇒95mu/dl(上限値50)★

 つまり、★のγ-GTPを除いて各項目いずれも上限値を下回っており、「糖尿病」は治癒されたのだ。食事療法と運動療法だけで治ったのである。ちなみに体重は60kgから52kgに、血圧も高血圧気味だったが、今は103/71である。明日(11月25日)にまた採血がある。それまでは禁酒をつづけるつもりである。また、散歩も続けたいと思っている。

 さて、エンゼル・トランペットのことだが、木立のそれはブルグマンシア(Brugmansia)といい、和名はキダチチョウセンアサガオ(木立朝鮮朝顔)で、高木または低木で、下向きの花をつける。そして草本のものはチョウセンアサガオ(Datura metel L.)で属名がダチュラまたはダツラ(Datura)といい、上向きの花をつける、一年草または多年草である。そして両者いずれも全草(花、茎、葉、根、実の全て)に毒がある植物である。

 またエンゼル・トランペットの呼称だが、英語の表記が「Angel's Trumpet」であることからエンジェルストランペット、エンジェルトランペット、エンゼルトランペット、エンゼルストランペット、ブルグマンシア、ダツラ、ダチュラ、トランペットツリーなどと様々に呼称されているようだ。

 昔、ブルグマンシア(Brugmansia)と言う植物が売れないで、「Angel's Trumpet」と言う名で売り出したらよく売れたとか。そこで、エンジェルストランペットなどの通称名が本来の名前よりも有名になったのが由来という。

 また、アサガオという名は単に花がアサガオに似ているだけでヒルガオ科ではなくナス科の植物である。ちなみに有毒成分は抗コリン作用を有するアルカロイドのアトロピン(atropine) 、ヒヨスチアミン(hyoscyamine)、スコポラミン(scopolamine)などである。瞳孔拡大、呼吸困難、けいれんなどで重篤な場合は死亡することもある。

 有毒植物は植えてはならないと思う人もいるかもしれないが、確かに大麻などは犯罪になるものの身近な植物には結構毒のある植物はあるものだ(水仙やジキタリス、毒キノコなど)。昨日、散歩道を少し変えたところの新しくできた児童公園になんとチョウセンアサガオ(Datura)が咲いていた。草本で上向きの白いトランペットの形をした花だ。

植物には罪がないのが、有毒植物ということを知って、つぎのことに注意しよう。
○触れた手で眼などをこすらないように。
○触った手や剪定に使ったハサミ等はよく洗うこと。
○間違っても食べたりしないこと。花は甘い香りがする。ケナフの花と間違って食べて中毒した例がある。つぼみをオクラと、種子をゴマと間違えて食べた例もある。
○ゴボウや大根などの近くに植えない。(根を間違えて食べる可能性があるため)


勤労感謝の日

2009年11月23日 | Weblog

 11月23日は、祝日法で「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」日とある。しかし、もとは宮中の伝統行事である「新嘗祭(にいなめさい)」が行われた日である。

 23日の深夜から翌日未明にかけ、天皇陛下が天照大神をはじめとする神々に新しくとれた米や粟(あわ)のご飯や酒などをお供えし、自らも召し上がりになる祭祀である。天の神、地の神(天神[てんじん]地祇[ちぎ])の恵みに感謝する収穫祭と言えば分かりやすい。

 7世紀の大化の改新の時代から11月の「下卯(げのう)の日」、つまり2回目の卯の日に行うよう決まっていたが、改暦(太陽暦の導入)が行われた明治5年の「下卯の日」が23日だったことから、この日に固定されたのだ。

 「国民互い感謝しあう日」と言われてもピンとこないが、新嘗祭というのならなるほどと納得できる。農耕民族というか、米を食べて生きてきた俺にはわかりやすい。

 昨日の雨もどこへやら。久しぶりに秋空に青空が戻った。さぞ紅葉が綺麗だろう。家人は紅葉見物に誘うが、飲酒できない身としてはあさっての採血が気になって浮かれ気分にはなれなく、誘いを断った。

 あさっては十二指腸潰瘍の治療を受けた消化器内科の検査のためピロリ菌除菌を確認するための尿素呼気試験と採血がある。血液検査では肝機能の数値が気になるところだ。とくにγーGTP値が気になる。

 これまで3回採血した。8/3、(23日後の)8/26、(57日後の)10/22である。その血液検査の結果、γーGTPだけが429⇒213⇒95と順調に下がってきたものの、基準値(50)を上回っているからだ。断酒すれば下がる数値だというので後もう少しの辛抱だ。

 今の俺にとっては、血液検査の結果が良好になってはじめて気分が晴れるような気がする。食事療法・運動療法の拘束から解放されて、美味しい酒を呑みたいものだ。解放されたように横たわる裸婦がまぶしい。


知ることと知らないでいること

2009年11月22日 | Weblog
 人間には様々な欲求がある。そしてその欲求にはマズローが言うように生理的欲求やら社会的欲求などという段階がある。食べたい、眠りたい、セックスしたい、などという本能的なものから 他人に認められたい、出世したいなどの欲求まで様々である。

その中で「知りたい」という欲求について徒然なるままに考えてみた。
生理的機能としての知覚器官が発達しているヒトは知りたくもないことも知ることがある。見たくもないものを見たり見せられたりする。見るということは知ることのうちでも最も多くの情報が得られるものだ。しかし、ただ、目に入ってきたからといってヒトは見たもの全てを実は意識していないことが多い。見過ごしていることが随分とあるものだ。そこには、見たいもの見たくないもの、どうでもいいものなどを区分けしているのだろう。一般に関心があるかないかというもので人によって状況によってその方向や度合いはさまざまだ。

 知らないほうがいいことだってある。
 その中でも、知らないままでそっと寝かせて置くのがいいものがある。そういうものは、知ってしまっても知らないふりをした方がいい。なんでもかんでも明らかにしない方が円滑に物事がすすむというのが、実は意外に多いものだ。特によく知った上で知らない振りをする人は奥ゆかしいくみえる。奥が深い人というのはそういう人をいうのだろう。懐が深いともいう。そんな人になりたいものだ。