青い空のもとで(日記)・・・・青い空の下で

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水泳についての素朴な疑問

2008-08-21 17:20:04 | スポーツ
北島選手が、世界記録を出した。
水泳の記録の伸びは相変わらずすごい。

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ところで、現在の日本記録が、「3回位まえのオリンピックの優勝タイム」に相当することがよくある。

それなら、「なぜその当時に、そういう記録が出せるような練習をしなかった」のだろうか?といつも疑問に思っていた。

例えば、男子400メートル自由形は(2ビート泳法の影響も大きいと思われるが)、私が中学生のころは「人類が、夢の3分台に突入!」(たしか毎日新聞、デーモンとキンセラ選手?)などという大きな見出しがあったのを覚えている。いまは、日本の高校生でも4分を切ると思う。

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その疑問の答えを考えてみた。
(ただし、今はレーザー・レーサーという特殊な水着が出て来たので、水着の話は別とする。また、平泳ぎなどの泳法の規則の変化は除く。)

【仮説1】世界新記録を出した選手のまねをすることから、第1歩が始まることが少なくないから。

・・・・例えば、以前は、「筋肉トレーニングをしても、『余計な筋肉』がついてしまい、その盛り上がった筋肉で水の抵抗が増えてしまい、タイムをロスしてしまう」という考えから、筋トレはあまりされていなかったかもしれない。

そういう時代に筋トレを(いちかばちかのようにして)大きく取り入れることは、かなり勇気がいるであろう。


しかし、欧米の選手で筋トレを取り入れて、筋肉もりもりの選手がいい記録を出すと、『必要な筋肉だけ』を付ける、科学的な筋トレが取り入れられることであろう。これにより、記録はかなり向上すると思われる。
(100メートル自由形がこれに相当するのではないだろうか?以前、「モンゴメリーが夢の49秒台を出した」ことを思い出す。しかし今では、世界では、49秒台は「当たり前」になっているのである。)

【仮説2】
とりあえず、その時点での世界記録を「目標」にして、練習・訓練の計画を考えるから

・・・・例えば、100メートルで、「世界記録より3秒早いタイムを出すにはどうすればよいか?」を目標にして練習計画を立てるコーチはあまりいないであろう。なぜなら、そんな無理な計画を立てると、下手をすると選手を故障させたりつぶしてしまいかねない。

したがって、その練習は、「現在からみれば」、当然、「弱めの練習」になるのではないか?

【仮説3】
世界新記録をだした選手が「いいお手本」になるから。

・・・例えば、北島が58秒台を出したが、「北島のような泳法で、北島のような練習でやれば、とりあえず、58秒台は出せる」ことが「事実として、証明された」ことになる。これは大きい。とりあえずの「モデル」として、「利用可能」となる。
このことは、練習の計画を立てる上で、大きいと思われる。

【仮説4】

栄養学の発達、スイミング・スクールの広がりなど。。。。

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皆さんは、どう思われますか?

「粘菌」は不思議な生物

2008-08-10 19:10:25 | 総合的世界観‐自然・生物・食物
粘菌は、面白く、不思議な生物らしい。

時には、1メートルくらいになる。
また、大きくても、それが何と「1個の細胞」である。
(そして、1個の細胞なのに、その中に何億個という核を持ち得るという)
(研究者としては、南方熊楠(くまぐす)が有名)

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【写真】新潟市、西海岸の松林の中。本にあるとおりに、古い切り株をめくると、粘菌(?)らしきものなどが、見えてきた。「サラモジホコリ」という粘菌??

タモリ氏の弔辞②

2008-08-10 19:04:14 | 日記
この弔辞は、「白紙の紙を読み上げるようにして、なされたもの」とのことである。
そして、それは「赤塚氏がその時に『してみろよ』言っているように思われた『ギャグ』」なのであろうか?

だとすると、「葬儀」という場で可能な限りの、静かだが、強烈な、考えぬかれた「ギャグ」ということになるのだろうか・・・・・

タモリ氏の弔辞

2008-08-10 18:56:37 | 日記
赤塚不二夫さんへのタモリ氏の弔辞を、徳光さんが「歴史にのこる名弔辞」と評していたが、その通りと思う。

記録もかねて、以下に全文のコピーを。

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(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080807-00000908-san-sociより)

(以下引用)

8月7日11時53分配信 産経新聞

 「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。

 
 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

 終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。

 しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。

 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」

(引用終)