手作りの塾と、明日へ

一念発起して立ち上げた私塾。
難しいのは、承知の上。自らが、どこまで行けるものか。峠の向こうにあるものを確かめに行く。

夏休み

2016年07月18日 23時06分50秒 | 日記
もうすぐ夏休みか。
夏休み。

良い響きだ。
夏休みの言葉から連想されることの一つは、「何だってできる」だ。

あれだけ長い自由時間があれば、何でも為せそうな気がする。

まあ、中学生は「クーラーがあるから」という信じられないような理由で、ここ大阪では9月を待たず、8月25日頃で、この自由時間は幕を閉じるのだという。
ゆとり教育の見直しだと。
何か溜息が出るような動きだと思う。

何か世知辛くていけない。
何かいろいろ。

アメリカ大統領選挙。
トランプ氏の勝利が現実味を帯びている展開だが、現実になったとき、またきついストレスになりそうだ。

ここ日本の参議院選挙での自民党の大勝利も、かなりのストレスだった。
選挙可能な年齢が18歳に引き下げられてから、初めての選挙ということだったが、いずれに投票すべきかよく分からない、たかが己の一票が大勢を変え得るとは思えない、
けれど一票が持つ重みも漠然とではあるが感じる、とりあえず無難な選択肢を取るべきではないか。
そんな若年の票がまんま、自民党に流れたということだと解釈するが、違っているか。

自民党、トランプ、AKB48の得票順位。
もう一つおまけに坂上忍。
気に入らないものが、やたら人の支持を得ているように感じる今日この頃。
強く支持する能年玲奈は芸名を「のん」に変えてしまった。

嫌だ。
能年玲奈が良い。
こんな時感じる、特有の孤独感。
自分は一人ぼっちなのかと感じる。
「のん」だと?
いいや、間違っている。

前も述べたように思うが、女性との縁がないまま、こんな年になってしまったが、まだ若かった頃はあった未練がましい考えは、さすがにもう消えうせたといっていいと思うが、
これといった女性を得ないままで、このまま終わるのは仕方がないが、それでも、憧れるような女性が、こいつだけは勘弁してくれと嫌悪するような男を慕うといった構図を思い浮かべると、さすがにキツイ。さすがの私も、「ワーッ」と叫んで、両目は閉じたまま、闇の中に逃亡したくなるだろう。

私の命も、残りはそう長くないわけだが、何かこういう展開を味わわされていると、「こんな世の中なら、もういい」と、へそを曲げて、
早くあの世へ行ってしまおうかなどと、かなり不健康な感覚も覚えたりしてしまう。
無論、私は死にはしない。死んでたまるか、馬鹿馬鹿しい。

そもそもだ。
集団心理というものが、いかに幼稚なものか、私は知っているつもりだ。
集団という得たいの知れない生き物になんか、負けてたまるものか。
私は一騎当千のつもり。
そういうものに、私はなりたいのである。

真夏は、すぐそこに。

2016年07月14日 23時30分34秒 | 日記
暑い。
やはり、夏は暑いと思う。

あと、梅雨のこと。
毎年そうだし、その度に同じことを繰り返し言ってるのだが、また言うことにする。
7月に入ったら、梅雨など終わっているイメージがあるのだ。
が、実際は違うし、今年もやはり違った。

カラカラに晴れた日が何日も続いたことがあったが、その時にもう梅雨は終わっていると確信した。
しかし、ニュースでそんな話を聞かないし、そこでとうとうネットで検索。

まだじゃん。
7月の20日頃が相場だという。
まだ、結構先ではないかと、そんなことを考えていたのが、2週間くらい前だったと思う。

それと、夏の暑さは、毎年ナメてしまっている。
毎年散々な目に遭いながら、そして毎年口では、
「今年も暑いんだろうな」
と、覚悟しているようなことを呟きながら、実のところは、あんまり覚悟していない。
頭の中で想像している暑さは、結構、甘い。

家の中で、パンツ一丁で、扇風機の温風を受けながら、吹き出す汗を滴らせながら、虚空を見る自身を想像したりは一応するのだが、
全然甘いことを、本番になってから思い知る。
「やっぱりヤバイ」
と毎年死にかける自分のことを、本気で馬鹿だと思ったりする。

この辺の話を引き伸ばすつもりは特にないのだが、ついでに言ってしまおう。

私はまあ、いわゆる「神経過敏」な体質なのだと認めている。
むやみに病名を付けて病気扱いにするのは嫌いだが、まあ、手っ取り早く説明するためだ、止むを得ない。
神経が過敏な傾向が前々からある。

ちょっと引かれるかもしれないが、何を今更だと思うので言う。
例えば、いや、かなり説明するのが難しいだろうな、これは。この症状は。

頑張って説明してみると、例えば、冬に着るセーター。
これを着ているとき、首元がすごく気持ち悪くなるのである。
ああ、やっぱり面倒くさいなあ、これを説明するのは。

どう気持ち悪いのかと思うだろうが、ここから先、例え話などを相当駆使しないと、いや駆使しても伝わらねえんじゃねえかと思うなあ。
無論、同じ体質の人はたまにはいるはずで、その人にはおそらくすぐ共感してもらえるんだろうけど。

やっぱり話題に挙げるべきでなかったと、いきなり後悔だが、言い出した以上、話しきるしかない。ええい、くそ。
ただ、セーターを着ているだけでは、基本的に何ともない。

そこに加えて、セーター生地の、羊毛がチクチク、首元を悩ませたり、セーター生地以外の生地でも、
そういった、首元に不快な刺激を与えかねない繊維などの生地が使われているものを着ているときに、体としては、
神経質モードになっている状態だが、そこに首元に新たな不快な刺激が加わったり、あるいは、これから加わることを想像してしまったりして、
一人、気持ち悪さに鳥肌を立てているといった話なのである。

さあ、分かって頂けただろうか。分かるわけないか。
上記の状況のときに、どんな想像をして鳥肌を立てているかを付け加えておくが、例えば、イチゴジャムがうなじのところに付いてしまったり、
砂糖に醤油を混ぜて、お餅に付けて食べたりするときの、あの砂糖醤油のような、砂糖質の、ネチャ付いた状態のものが、うなじに付いたときのことを思って、
気持ち悪さに発狂しそうな気持ちに襲われること。

いかん、完全に狂人の話になってしまっているな、これじゃ。
やめておけば良かった。
伝わるのは、話の要点ではなく、私が気持ち悪い、変な奴ということだけではないか。
何も得をしない、損をするだけの話だな。

まあ、ともかくこの症状は、この神経過敏からくる症状のうちの氷山の一角に過ぎないのだと思うが、仮にこれを「首元気持ち悪い病」と名付けよう。
この病気が、真夏のサウナ状態の暑さの中では、ものすごくパワーアップしてしまうのである。
特にトイレの時である。

世間一般のご家庭には、ちゃんとクーラーというか、エアコンがあるわけで、でも、トイレ内にも冷房設備があるところは、多くはないだろう。
私の現在の住まいなどは、いっさいエアコンなどなく、辛うじて扇風機が2台ある。

ともかく、そのトイレは、真夏には、中は完全にサウナ状態になる。
窓は一応あるが、通気性の良し悪しを超越するのだ、真夏の暑さというものは。

で、その簡易サウナの中で、首元に掛かった服から来る繊維の感触と、首元に忍び寄る、夏の粘着質の汗の粘りが相俟えて、「首元気持ち悪い病」が全開になるわけだ。
だから、もうトイレに入る前に、上半身は裸になる。
これで何とか乗り越えられるという感じ。

たまにトイレで上半身裸になるという人がいるという話を聞くが、違うかもしれないが、おそらくそいつは「首元気持ち悪い病」の人である。

ああ、またつまらぬものを書いてしまったと、ルパン三世の石川五右衛門のように言うが、このブログが、私塾の入塾を検討してくださる保護者等の目に入っているだろうことについて、また今日も少しブルーな気持ちを覚えていたところなのに、また何をつまらないことを書いているのかと反省しきりだ。

「私塾の屋号」と、「ブログ」の2単語で検索すれば、このブログに到達してしまうことを、今日、また再確認した。
前から言っているが、このブログのブックマークから私塾のHPを削除するなどして、私塾関係者の目に入らぬようにしようかとも考えているが、未だに実行はしていない。

何これといった理由はない。
ただ、途中でブログを閉鎖したり、HPと繋がらないように細工したりといった行いが、その行いのほうがむしろ後ろめたいもののような気がしてしまう。

ブログの中で公表は避けるべき赤裸々な履歴や、現状、生生しく気持ちや考えを、悪びれることなく綴っている私。
はっきり言って、職歴のあたりや、「性」に関係した記述は、致命的なのだろうが、何度も宣言する通り、思いのままに書かないくらいなら、書かないほうがましというか、
それでは書く原動力を持たないことになってしまうだろう。

やはり、たとえ私塾に人が集まらない原因になってしまっても、下手な小細工は無しとしようと思う。改めて宣言しておくか。
最後に、先程の神経過敏の話だが、でも過敏な感覚があることで、大切なものも、逃さず感じることができているのも、また事実だと思う。
生き辛さの一因になっているとしても構わない。
ビンビンに感じていこう。
教師びんびん物語で行くべし。

弱り目に。

2016年07月07日 22時50分14秒 | 日記
祟り目。
泣き面に蜂。
嫌なことというのは、いくらでも続いてしまう。

友達のいない私の携帯電話には、着信がほとんどない。
相変わらず、寒い話で恐縮だが、本当のことだから仕方がない。

親父が救急搬送されたと、兄貴からのCメール。

ついにこの時が来てしまったかという思い。
だが、自分でも不審に思うくらい、動揺は大きくはなかった。

何だろう、うまく言えないが、まずは疲れていることが、その要因の一つだとは思う。

それにしても、もう少し動揺してやれよと思う。
お袋の最期の時は、あれほど大泣きしたくせに、差を付け過ぎていやしないかと。

結局、大事には至らなかった。
朝方に体調の異変があり、嘔吐を繰り返したが、回復する気配もなく、そのまま兄貴に救急車を呼ぶように頼んだのだという。

間違いなく「アウト」を予感させる状況ではないか。
仕事の昼休みの間に、状況を電話越しに訊いて、すぐにそう思った。

少し前に癌を患い、手術をして、その後は安静にしながら、一応、普通の生活を暮らしていると聞いていた。
もうずっと実家には帰らないままだが、電話で聞いているから、普段の様子は大体は押さえている。

もう75歳になっている。
同年代に比べると、なかなか元気な部類に入るなと考えながらも、電話越しに聞く、その声は、いつの間にかというか、
日に日にというか。

声に張りが無くなったし、それとともに、考え方まで含めて、全体的に「おじいさん」になってしまったのだと感じて、
そうしてまた、それを認めることを拒もうとする心の動きを、胸の底に感じたりもする。

電話の向こうには、見ない間に爺さんになってしまった親父がいて、また当の親父側からすれば、見ないうちに容姿も衰え、
すっかりおっさんになってしまった私がこちらに居るという構図であるが、まったく我ながら、悲劇だと思う。
時の流れは残酷だと誰かが言っていたと思うが、まったく同感するしかない。

病院の検査の結果、何の問題も見つからず、処方された薬を飲んで、しばらく安静にするようにとのことだったという。
まあ、これが若い身内や、友人の話なら、
「心配して損をした」
と言って、笑ってすませられるところだろうが、今回のような場合、そうはならない。

検査といっても、どの程度の検査なのか、嘔吐を繰り返して回復しなかった辺り、脳のあたりに癌の再発、転移などが起こっているのではと、
まったく安心できやしない。

そのことを兄貴に言っても、医者の言うことを疑ってどうする、身の丈を知れと取り合わない。
果たして本心か否か、分からないが、まあ、こういうとき、両方が心配症の組み合わせでなくて良かったのかもしれないなと、ちょっと思う。

片方が楽天的な人でちょうど良かったように思う。
心配して事態が好転するわけでなし、それよりも、心を遣うべきところは他にあろうというもの。

少しでも状況を良くして、親父を喜ばせることを考えるべきであろう。