手作りの塾と、明日へ

一念発起して立ち上げた私塾。
難しいのは、承知の上。自らが、どこまで行けるものか。峠の向こうにあるものを確かめに行く。

長い長い独り言の、始まり始まり~。

2023年01月22日 12時00分25秒 | 日記
前回のブログの続きという恰好にはなるが、付け足して語りたいことが、精神的な力と、精神的な健康を守ることについて、だ。

精神力、メンタル面の力というのは、まあ、既にいろんな人が、いろんな持論を展開し、論じてきていることだろうが、やはり私にも持論があるというわけだ。
まあ、これといって目新しさはなかろうし、オリジナルっていうほど、そこを強調できるほどのことを語るつもりでもないが。

しかし、それにしても、肉体的な力にはある分かり易さがないよなあ、精神的な力って、とつくづく思う。
見た目で筋肉隆々だったり、歩き方、走り方を見ていれば、その人がどれくらい体を鍛えているか、普段しっかり運動できているかとか、ある程度伝わってきたりする。
見た目だけで、ね。

しかるに、だ。
メンタル面の力って、今更だが、目に見えない。
だから、見た目で評価できないっていう点と、あとは、筋トレや、ジョギング、ストレッチなどの運動をすりゃ鍛えられるであろう肉体面に対して、
じゃあ、精神力って、具体的にどう鍛えるの?って話だ。

ちょっと話は飛んでしまうが、人から物を教わる場面って、大きく分けると、2つ、かなと思う。
まあ、いきなり2つでは不十分かもって思ったりも我ながら感じながら話を進めるが。
2つのうち1つは、学校で、残り1つはそれ以外の場所っていう分け方。
それが正しい分け方か否かはひとまず置いておいて、学校では生徒らがなるべく多くのことを学べるようにとても深い考察の上でカリキュラムが組まれているわけだ。
学校での学びの中で、肉体的な鍛錬は、やはり基本的には体育の授業で行われると考えられるだろう。
まあ、イベントとして、遠足、マラソン、運動会、夏休みのプール開放、ラジオ体操とかも含めるとして。

まあ、学校の課外スポーツやクラブ活動でも、体育系のクラブなら含まれるとして良いだろう。
それ以外にも細かく言えば、休み時間などに運動場などで運動系の遊びを友達とやるのもその機会になるとして。
そういった機会の中で、肉体的な力をつけることはでき、機会の多少を考えても、学校の営みとして、決して不十分とは言えないと思う。

しかし、精神力を鍛えようっていう、具体的な機会は?と言えば、なかなか具体的に用意されているとは言い難い気がする。
まあ、考えてみれば当たり前なようだし、いやだからこそ、冷静に考えれば、どこで精神力を身に付けるべきか、どこで身に付くのかっていうこと。

まあ、肉体的鍛錬の機会について、学校以外の場面になると、基本的に強制力も何も働かないわけだから、あくまでも子供らの先天的に与えられたプライベート環境次第であり、境遇そのものに大きく依存することになる。

社会人の場合、もう学校は離れているわけだから、決して無作為に集まったとは言えない、ある特定の傾向のある集団が構成する職場という組織の中で、
無論、出張であったり、異業界との交流も活発な職種・職場もあるわけだが、かなり個人差が出てくる話になり、その中で、結局、精神力を鍛える機会って、
それ用に、それ向けにあつらえられた、用意されたものがあるわけでは基本的になく、結局、そこで精神力が鍛えられるかどうかといったところは、個人の意識次第であったり、
その環境次第、機会次第といった、掴みどころのないような話になってしまうだろう。

何か自分でも要領を得ない話で、下手な語りになっているのは重々承知の上だが、まあ、要するに一言、「精神力を鍛える機会って、特に用意もされていなければ、目に見えない、ふわふわと曖昧な領域だから、
自分でその機会を用意することも、そう仕向けることも容易ではない」ということ。

なぜこんな話を今さらするのかというところなのだが、たとえば、最近、若い人の、とりわけ小中高生などの子供らの自死が目立っている感があり、少なからず気になっているところがあるのだ。
まあ、私のような、自分の人生もいっぱいいっぱいになっているような者がこんな話題を真剣に語るのも滑稽に映るだろうことも承知の上だが、まあ、先の見えた中高年の世代などなら、まだ分かる、なんていうと炎上ものなんだろうが、
何度も言及するが、このブログに炎上するほどのフォロワーはいないから要らぬ心配だが。
まあ、やはり小学生とか中学生とかになってくると、さすがに動揺、衝撃というか、別にありえない、とまでは正直考えてもいないが、やはり教育を志す身の上として、どうしても心がざわついてしまうわけである。

そうして、そういえば、何かとても辛い状況、境遇、憂き目に子供がいるとして、無論、いじめ問題、家庭問題などがまず頭に浮かんでこようが、もしも自死に至ってしまった子供の中で、辛い状況から逃げようとしたくなっている時の、
そこでグッと強い気持ちで踏ん張れていれば、もしももう少し精神的な、心の強さが身に付いていれば、自死を回避できたのだともしもの話だが、そう仮定した場合、では、どんなふうに日を過ごせば、いや具体的にどういった場面、機会で、
その子供はそういった精神力を身に付けることができたのか、そういった心の強さが培われ得たというのだろうか。
ここなのである。
私が最近ふと気づいたと言うか、単純に疑問に思ったのは。

例えば、今の私などは、今も含め、これまでかなりの生き恥を晒して生きてきた感じだが、どうして生きる力をここまで、生きようとする力を繋げてこられたのか、と自分に対しても思う。

こういった疑問に対し、あんまり簡単に、「こういうことではないか」みたいな話をし出すと、切りがないし、取り留めもなくなるし、そればかりか、
口に出せば出すほど、見当はずれな感じが自分でもしてきて、嫌になってしまいそうなので、今回、結論的な話はいったん保留にしようかと思っているが、
一つ思うことは、私などの場合は、小さい頃から運動系、スポーツ系の遊びが好きで、本格的な部活動とかは、大して継続したものはないのだが、好きこそものの上手なれというのは、ちょっと使う場面が違うだろうが、
まあ、いろんな場面で体を動かし、運動し、汗を掻く営みの中で、まあ、特に部活動や、マラソン・ジョギングなどの結構ガチなモードになる運動機会の中では、結構、かなり過酷なまでに体を酷使すること場面も出てくるから、
「死にそう」ってくらい、かなり大きな疲労、苦痛を伴う体験もすることに至ったりするわけで、それでも、その苦行とも言える営みを取り止めたら、部活のコーチとか、誰かに殺されるとか言うわけでもないわけだから、
苦しくなった時点で、あるいは、苦しくなるちょっと前の時点などで、すぐにその行為を止めることだってできるわけなのだが、まあ、そこには個人差も出てきて、意志の強さの強弱であったり、
負けん気の強さだったり、最後までやり切らなければという、ひょっとしたら家庭や学校の授業、あるいはもっと違う他のところから教わった戒めかもしれないが、そういった道徳観念、訓戒などを通じて身に付いたものが判断を左右したりするわけで、そういった場面を通して、どの程度メンタル面が鍛えられるか、どのくらいの精神力が培われるかなどは、個人差が大きく出てくるところでもあるかもしれない。

いずれにせよ、私の場合などは、思い返すに、肉体的な鍛錬を通して、同時に精神的な力もそこで育まれたようには自覚している。

まあ、ところが、だ。
社会に出て、それまで経験してこなかったとか、想定すらできなかったような苦境に陥ったりする中には、それまで培った種類の精神力ではまるで太刀打ちできないような種類の追い込まれ方で、
それも次から次へと追い込まれ続けたり、それも短期的な話ではなく、半永久的に、長期的に積年苦しめ続けられたりしてきた。
まあ、こうなると、ここまで追い込まれた日には自殺してもおかしくないとかいうようなことを考えたり、あるいは、すでに自殺したり、これから自殺しそうな人に向けて、
まあ、これくらいの状況まで追い込まれてから自殺するんだったら話は分かる、などといった思い上がったというか、何て言うべきかわからんが、まあ、そんなふうなことを考えたことも、恥ずかしいけど、
実はあるわけで、それも一度や二度のことではなかったりする。

ただ、今回思うのは、そこまで追い込まれた場合も含めて、もちろんこの先、もっと遥か上を行く追い込まれ方が待ち構えていることも無論、想定しているわけだが。
まあ、当たり前といえば、当たり前の展開というか、シナリオというか、だけど。

いずれにせよ、人生、どんなに鍛えようが、どうしても乗り越えられない、耐えようがない苦境というのは、残念ながらあるのかもしれないが、
生きている限り、最期の最期まで戦いたいなあって、心から思うし、その、戦う際の、立ち向かう際の、対抗する術というか、そういう話だが、やはり、
精神的な力といっても、私個人的な認識としては、肉体的な鍛錬の中にそのヒントが隠されているというか、肉体的な力と、精神的な力って、何かどこかで繋がっているような気がするのである。

それは体内なのか、体内を離れた、異次元の空間なのか、何か良く分からないのだが。

精神的に極限のピンチにいるような時、まあ、ピンチって一口に言っても、ホント、みなさんご承知の通り、いろんな種類の追い込まれ方があるわけで、ただそういう精神状態、心理状態にある時の自分を冷静に振り返ってみた時、
考察して、いくつか見出されることがある。
少なくとも私の場合は、あったようだ。

まずは、そういう時って、とにかく苦痛であることは間違いないのだが、全然耐えられないような程度かと問われたとしたら、冷静に考えた時、ちょっと違う感じなんだな。
しかし、だからと言って、耐えられないこともない程度だから本当は大したことないのだ、ってな話とは全然違う。

冷静に極限ピンとの時のことを見つめて、考察するとだ、「何とも言い難い」、「独特の不快感」が全身に発生していることに思い当たるのだ。
この2つのフレーズ、どちらも重要で、双方どちらが欠けてもならない。

要するに、肉体的に身体を虐めた時、虐められた時の、表面から襲ってくる、表面からぶち当たって来る、言わば、ストレートで、ある意味、正々堂々とした正面からの「陽の攻撃」とでも言ったらいいだろうか、
それをモロに受けたような、あの「苦痛」「ダメージ」に比べ、精神的に追い込まれ、極度のストレスを伴う精神的な極限ピンチの際に発生するのは、じわじわとどこからともなく忍び寄るような、陰湿な「陰の攻撃」。
この何とも言いようのない「不快感」は、本当に言葉では言い表すことが難しい。
決して派手さはないが、確実に人を取り乱させる力を持っている。

で、具体的には、その「不快感」の正体というか、この「不快感」が発生の後、二次的に、次に具体的にはどういった作用を及ぼすのかと言えば、「悩みの原因について、執拗に悩み続け」させようとする作用だ。
悩みを解決する確実な方法が見出せるまで、延々とその人に考えさせ続け、悩み続けさせようとする働きである。

この後の展開はご想像の通り、典型的なノイローゼパターンになるのは自明、道理なわけである。
いつまでも悩み続けるなんてことをしていれば、全身、ストレス症状でとんでもないことになることは想像に難くないし、当然不眠なんかも伴うに決まっておるわけだ。

さらにここで注目すべきが、「呼吸」のこと。
心身に発生した「不快感」に支配され、その言いなりになって極度のストレス症状が維持される時、まず真っ先に影響を受け、反応しているのではないかと目星を付けられるのが、
「呼吸」だ。

私が自身の身の上を回顧、考察した時、ストレスと呼吸は、実に憎らしいほどの密な相関性を持つという結論に達する。
細かい言及は、とりあえず今回は省くが(ここまでダラダラ、細々語ってきておいて、それを言うか?)、極度のストレス状態に陥った時、何とも陰湿で質の悪い「不快感」が発生することは既に述べたが、それに共鳴するかのように、
通常ならば「深い呼吸をしよう」と働いている、脳内の「司令部」を狂わせ、まずは「しっかり息を吸い込もう」とする作用を妨害するに至る。

この後も自明の通りだ。
ちゃんと息を吸い込まなければ、息を吐きだすことも、少ししか吐けなくなる。
これが繰り返されれば、立派な「過呼吸」の完成である。
それも、長期的に執拗に続く過呼吸であり、「ぜー、ぜー、はー、はー」するような激しいものではなく、比較的静かに営まれる為、自分が過呼吸になっているという自覚はほとんど持てないことになる。

医学的知見が特別あるわけでない、ずぶの素人の癖に、あえてこんな医学的なことを語ったのは、それなりに意図がある。
今述べているようなのは、あくまですべて私の主観であり(ちなみに「それってあなたの主観ですよね」ってのが巷で流行っているというのは、ごく最近知った…)、正しい考察かどうか、
何の保証も当然ない。

言いたいことは、上記した「不快感」は、一見対抗不可能な対象のようにも思えるが、実は、肉体的鍛錬の時と同じ要領で、グッと下腹に力を入れるような感じで、「踏ん張る」ように心身を構えることで十分対抗し、
克服、乗り越えられるはずだと、私が確信するに至っていること。
ただ、ここで気を付けたいのは、ただ「踏ん張って」上記の不快感に打ち克っても、呼吸にも同時に気を付ける必要があるということだ。

今回述べているような営みを試みる必要がある人というのは、当然、すでに極度の精神的ピンチ、極度の精神的ストレス症状の渦中に身が投じられている状況であるからして、ただ「踏ん張る」だけに留まっていても、
そのままにしていれば、無意識下で陥っている「過呼吸」によって、そのまま不眠やその他のさまざまな深刻なストレス症状を発症し、身体機能が蝕まれていくだろうということ。

だから、呼吸である。
プラスアルファ、深い、本来そうあるべき深い呼吸をするよう取り組む必要があろうということだ。
まあ、私は、あえてここで、「呼吸法」という用語を使うことは避けている。

というのも、私のようなはぐれ者がこういった類の話をすると、怪しい新興宗教の関係者だと思われたり、ヤバいネットワークビジネス関係に勧誘されたりする展開になるのではないかと、
要らぬ心配をする人も出てきそうだからというわけだ。
まあ、繰り返すが、そんな心配は本来無用であり、そんな影響を与えるような数のフォロワーは付いていねえっていう話なのだが、念の為のこと。

まあ、私個人的には、深い呼吸のやり方については、別に呼吸法関連の書籍を参考にしたり、Youtubeの関連するレッスン動画を探したりして調べる必要は特別ないのではないかと思っている。
要は、「深い呼吸」を回復するように意識するという、まあ、作業自体はシンプルだし、ただ、自律神経っていうのだろうが、まあ、本来は無意識に営まれるべき作用なわけで、そこを無理にというか、
意識的に操作しようとするのだから、思っているよりかは確実に難しい側面があると覚悟すべきだろうが、とにかくその2つだな。
「踏ん張る」と「深い呼吸」。

まあ、今回こんなところでこんな話をしたのは、いつか余裕があれば、こういった、自分の体験談から生じた、生きる上での「スキル」に入れてカウントしていいのか分からないのだが、
こういった精神力を培うという側面も、できれば、自分の創立した私塾の活動に取り入れて、社会人の方も含め、小中高生なんかにもアドバイスできればいいかなあ、と思うのである。
無論、こういった種類のことって、自分の独りよがりになりがちな恐れもあるし、余計なことかもしれないし、だから、まあ、行ったとしてもだ、まあ、参考程度にしてもらうだけでも、
ある程度取り組む価値はあるのかなあ、って、そんなことを想いました、考えていますっていうのが、今回の長い長い独り言だったわけである。以上。



教育への思いと、自分の人生への思いと。

2023年01月22日 09時36分15秒 | 日記
月並みな話だろうが、教育に携わろうとする身の上からすれば、勉強のやる気がないという後進たちにどうしても言っておきたくなることが、
やはり幾つか頭に浮かんできたりする。
先に断った通り、ごく月並みな内容ではあるが、だ。

すぐに頭にその内容が浮かぶわけでもないのだが、今、頭に浮かんでいるのは、これかな、と。
勉強は、基本的に自分の努力が正直に反映され、未来への道を有利に切り開いていくことができる手段の一つであるという側面がある。
あくまでも一つの側面であり、そこにだけ勉学の、学問の意義を見るというのは違うと思うが。

話を元に戻せば、社会に出て、どこの馬の骨とも分からない者が創設した会社という王国に入り、その一員として労働するようになれば、
勉学の時のように、自分の努力がそう正直に結果に反映されてくれるとは限らないということだ。

勉強ならば、学校の外でも、家庭や塾などで、足りないところを補い、挽回したりするチャンスや手段があるだろう。
無論、経済的な事情などで、必ずしもどんな人でもそうとは言い切れないが。

ただ、職場になると、職場以外で、不足分を補って訓練したり、学んだりするチャンスがほとんどなかったりすることも平気であるし、
自分の努力や頑張りが正当に評価されるとは限らない。
ステップアップした仕事を任せてもらえるかどうか、どう評価されるかなど、評価担当者がどんな人物であるかによるし、
会社の勝手な都合もからんでくる。

自分より優位な立場にいる先輩や同僚、無論上司も含め、そういった者たちに嫌われたら、どんな不遇な扱いをされるか分かったものじゃないとか、普通にある。

無論、学校ならそんな要素はまるでないと言えば、そういうわけでもないわけで、今はさすがになかろうが、私の現役時代でもまだあったし、
私の5つ上の兄の時代などには、成績の内申点をつける権限を持った教師らの中には、その権限を振りかざして、随分な横暴伝説を残した教師もいたと聞いている。

無論、こういう話は、一部の悪者が行なった所業であり、大部分の教師は真面目にされていたはずである。
特に今は教師に対する監視が異常なほどだから、ほとんどそんな邪な事象は絶滅していると思われるし。

まあ、たとえ学校の中であっても、必ずしも自分の努力に対して正当な評価、正当に報われるとは限らないというところはあるだろうが、
言いたいことは、職場に、社会に出てからよりも、はるかに正当な報いを受けられると期待できるということは、ほぼ、間違いないと言っても支障ないのではないかということ。

頑張った分だけ、テストの得点に反映する。
無論、テスト用紙に名前を書き忘れたり、解答欄への記入が、一つずつずれてしまったせいで0点になった、などという伝説を作ったという話も定期的に発生したりし続けていたりもするのだろうが、現在でも。

まあ、そういったアクシデントや不運なんかもあったりするので、必ずとか、断定したような語り方は無論できない話にはなるが、まあ、こちらが言いたいことは大体伝わったのではなかろうかと思う。

まあ、いつものパターンで、というべきか、社会に出てからのこと、とりわけ職場批判、職種批判などの内容の発言は、良識ある大人ほど、たいてい口を濁したり、言及を避け勝ちな話題なわけで。
そういった発言などは、すぐに差別、見下し、偏見に繋がってしまうのは自明だから、なかなか職業などの実態について、後進の子供らに、いろいろ伝えておきたいこと、助言しておきたいと親心で思ってしまうことは少なくないのだが、
ほとんどすべての大人がそうだろうが、言ってあげたいけど、なかなか言葉にできないって奴だな。

まあ、例え話を連発してもダルくなるだけだろうが、たとえば太平洋戦争時の教師の心情をおもんぱかったりするわけだ。
知見の高い彼らのことだ、多くの教師が心の中では戦争に早い段階で反対し、国を強烈に批判していたはずだ、心の中では、だ。
だが、批判すれば、多分殺される、殺されるまでいかなくとも、自分や家族などの身内が社会的に致命的なくらいの制裁を受けることになろう、だから批判できない、本当のところを、真実を、
本心を子供らに語れなかったというところだったろう。

まあ、それにしても、毎回こういった、お仕事がらみの話題で語ろうとしたり、個人的に頭の中で瞑想したりする時、仕事、職業、職場というワードと、戦争、戦場、戦時というワードとが、すぐに連想され、
ぴったりとくっつくような感じになるんだな。
今現在、我が国は、物理的にはどの国とも交戦状態にないわけだが、日常生活の中の、職場で過ごす時間や空間を考えた時、そこで日常的に被ったり、思い知らされる不条理は、
人によっては大仰に聞こえることだろうが、全く太平洋戦争の、戦時のそれと同質のものと言ってしまっても、決して言い過ぎではないのかもしれない。

まあ、例によって、つまらぬ独り言を、脱線しまくり、本筋が通らないような語り、文章で綴ってしまっているわけだが、ちょっと話を戻したい。
まあ、何て言うのか、人によっては、というか、まあ、人によっては社会に出てから、特に問題なく涼しい顔で毎日を過ごせている順調人もたくさんいるわけで、
だからこそ、まだ社会に出ていない者からすると、どの大人が言っている話が本当なのか、よう分からん、ということになるのかなあと思うが、まあ、みんなが主観で語っているわけだから、
まあ、その人にとっては、それが真実なわけで。

結局、私のような人間が、頭の中にあるのは、少数派になるのだろうが、私のような人生を、苦労を被る後進の人が、一人でも減るように、私のようになってしまいそうな人はやっぱりいるわけで、
まあ、全くおんなじ轍を踏むとは限らないし、そうなる人の割合がどの程度なのか、実際の正確なところも分からないままでの話になるわけだが、そういった人の為に力になれるのは、
やはりそういった経験を、道を通った者にしかしてやれないことだと思うし。

まあ、「実際にその道を通ったものにしか」と限定、断定することはできなかったり、行き過ぎだったりするのかもしれないけど、本当に私はそんなふうに思うのだ。

私は、以前にも語ったと思うが、今回の人生で、高校時代以降は、かなりキツい転落人生に、まあ、世間から見られればということだが、かなり不遇な人生を送る羽目になった格好になっていると思うが、
本心から、強がりでないつもりであり、本音として、別に自分を不幸だとは思っておらず、人からどう見られようと、自分の人生に対し、私は十分に納得しているし、いや、満足しているとか、いや十分幸せである、くらいの
ところを言っておかないと罰が当たるなあ、こりゃ、っていうくらい、今回の人生の中で、私なりに、いろいろ、もちろん、「高校時代以降」の時代も含め、かなり憂き目の反対、幸せな思いも味わわせてもらってきているのだ。
冷静に振り返れば、振り返る程、そんなふうに思えるわけ。

まあ、例によって、何が言いたいのか、どこにゴールを置いて語ってるのかもはや不明状態だが、最後にもう一度言及し直して、述べ切りたいのは、
不遇な人生であればあるほど、不遇な経験を積めば積むほど、それが周りの人と比べて不遇の程度が大きければ大きい程、そこから素晴らしい夢や志が生まれたりするのだなあということを、
今回、改めてのような、初めてのような、どっちともつかないような感じだが、ホントにそんなことをしみじみと思うのだ。

勉強が苦手で、勉強で辛い思いをガッツリした過去があるからこそ、ちゃんと勉強を教えてあげられる指導者になりたいという夢が生まれた。
社会に出てから職場でとんでもない目にあって、そこから未だに這い上がれずにいるという経歴があるから、就職先の会社の当たり外れに人生を委ねるような生き方でなく、
なるべく早い段階で独立して、フリーで、自営業で生活できるように、その為に、もちろん総合的な力を培う為にも勉強、勉学、学問はもちろんしっかり取り組んでほしいと願うし、
それだけにとどまらず、自営する為に必要な職業スキルを、なるはやで構想し、準備してもらいたく、たとえばだけど、PCのオフィス系、オンライン系、描画系のPCスキルの習得などは、
基礎力、地盤的なスキルとして視野に入れてほしいかなあと、提案したいし。

まあ、私が年頃の時に比べれば、個人が独立を目指しやすい環境が飛躍的に実現していると言えると思うし、Youtube動画などを利用して、無料レッスン動画などで無料でスキル習得を狙うという手段もあったりすると想うし。

あともう一つ、最後に言及しておきたいのは、いや、他にもいろいろ言いたいことは出てくるのだろうが、精神的な、メンタル面の力と健康について、だ。
いや、ここでいったん区切って、次のブログで語ることにする。

幸せとか、評価とかは、自分で決めること。

2023年01月21日 19時54分51秒 | 日記
今日はつい調子に乗って、連続してこのブログをダラダラと、どうでもよいことをまとめて書き続けている感じだ。

父親のアルツハイマー発症の件を少し語れば、京都・大阪間で、電話のみのコミュニケーションを一日に朝・昼・夜と3回ほど、ちょっと会話を交わすだけの日々ではあるが、
まあ、何とかちょっとでも彼に会話をさせたいと考えて、少し前から継続している日課である。

まあ、朝・昼の時間帯は、こっちもバイトがあるから、ほんとに短い会話だが。
朝はただのモーニングコールくらいのものだし、な。
父は現在、月・木・土の週3回、デイサービスに通所しており、同居する兄の少しでも負担を軽くできればと思うのだが、
まあ、とりあえず朝はモーニングコールを掛けて、寝過ごさないように誘導する日々だ。

まあ、しかし、父と電話で会話を試みると、アルツハイマーという症状がどういうものか、断片的ではあるが、私なりに理解し、感じることがいろいろある。
基本的には、やはり記憶喪失的な症状が核になっているふうに見受けられ、要するに、こちらが発した言葉が、もちろん、耳も悪くなっているから、
単純に聞き取れていないというケースも混じって来るのだが、聞き取れている様子の場合でも、聞き取った言葉の内容が、ごく短時間に、ほぼ瞬間的なレベルで、
頭から出て行ってしまう様子なのだ。

頭から入ったものが、そんなに瞬間的なくらい、すぐに頭から出て行っているとすれば、それが事実だとすれば、そりゃあ、他者との会話は成り立たなくなるし、
そもそも外界で起こっている物事・事象が正常に認識されなくなるのは道理であり、それくらいのことは、医学的にど素人の私のような者であっても、理屈として何となくのレベルではあるが、
理解できる気がするのだ。

もちろん人間の脳の仕組みなど、凄い学者・研究者たちが口をそろえて「ほとんど解明されていない」みたいなことを言っている領域なわけで、
私のようなズブの素人が、アルツハイマーなどについて分かった気になっているというのは滑稽な話だと承知はしているが、それでも、だ。
人間の脳が物事や外界の事象を認識する際、「短期記憶の仕組み」が基礎になっており、そこが破壊されてしまえば、もはや現代社会での社会生活は、まともに過ごすことは不可能だと認めざるを得ないのだろうと思う。

私は、高校時代以降、ずっと下り坂の人生となってしまい、現在のような中高年と言われるような年になるまで、結局人生を挽回することもできず仕舞いとなったわけだ。
早くして逝ってしまった母に対しては、こんな無様な有様を見られずに済んで良かったと本気で思っている始末だし、認知症を発症している父についても、同様、
こんな有様をまともに認識できないような体になったおかげで、惨めな思いをさせずに済むと、これまたガチでホッとしている自分がいたりする。

まあ、我ながら情けないとは認めるが、両親に対してはそんなふうな見方をついしてしまっているのは事実だが、そうだからといって、おそらく世間からそういう目で見られているであろうほどに、
私は、私の人生も、私自身の現在も、決して否定していないし、最低だ、最悪だ、などと掃き捨てるような、そんな低評価も下してなどいないのである。

むしろ、だ。
むしろ、いつ振り返っても、本当に高校時代以降は、辛い時間を多く過ごすことになりはしたと思っているが、自分を不幸だ、不幸な人生になったなどとは、強がりでもなんでもなく、
本心からそんな否定的にはとらえていないのだ。

何か言えば言うほど、嘘くさくなっているのかもしれないが、本当のところであり、特に無理はしていない話なのである。ホントに。
まあ、何て言えば良いのか、まあ、未だに人生の途中であるから当たり前と言えば当たり前なんだろうけど、正直、それなら、高校時代以降のこれまでの人生をどう評価するのかと問われれば、
やっぱり難しさは感じる。

ただ、何て言うか、一言言うなら、作家など、アーティスト的な哲学・持論になるのかなあという気がするが、たとえば、不遇な時間を、経験を積めば積むほど、その分いっそう濃密で最上の物語が描けそうということ。
世の中のすべての不遇や不幸は、そっくりそのまま、至上の芸術作品、文芸作品等に結晶するのではないかという発想・哲学・持論である。
いわゆる「ネタになる」ってやつだ。

いや、アーティスト領域のことだけに留まらず、たとえば、私塾で学習指導する営みのことを考えても、そうだ。
小学校の中学年くらいの時期から算数あたりでつまづいて、教室で先生に指名されては回答できず、担任の教師からは、随分辛い言動をされたということがあり、それがきっかけで赤面症を発症した。
この赤面症は、なかなかやっかいな代物で、一度発症してしまうと、なかなか自力で解消させることは難しい。
結局私は、程度こそ年齢と共に若干ましになったとは思っているが、今日まで解消させられずに至っているが、またこの話は別の機会に語ろうか。
まあ、以前もどこかで軽く記してはいると思うが。

まあ、でもこの赤面症については、私塾なんかをやろうとしていて、支障ないのかと疑問に思う人もいようが、まあ、私的には、この程度のことは、今となっては、あまり気にしていないし、
まあ、集団授業とか、大勢の前での講談などのスピーチなんかを、そういうのを今後経験する機会があるのかどうかよくわからんが、まあ、そういった機会を短期的に集中して、数をこなすように経験すれば、
わけもなく解消することは確かめるまでもなく分かっていることで、まあ、そういった時に何とかすればいいんじゃない、と他人事のように思っている。

いったん、またここで区切りをつけるか。

幸せとか、評価とかは、自分で決めること。

2023年01月21日 19時54分51秒 | 日記
今日はつい調子に乗って、連続してこのブログをダラダラと、どうでもよいことをまとめて書き続けている感じだ。

父親のアルツハイマー発症の件を少し語れば、京都・大阪間で、電話のみのコミュニケーションを一日に朝・昼・夜と3回ほど、ちょっと会話を交わすだけの日々ではあるが、
まあ、何とかちょっとでも彼に会話をさせたいと考えて、少し前から継続している日課である。

まあ、朝・昼の時間帯は、こっちもバイトがあるから、ほんとに短い会話だが。
朝はただのモーニングコールくらいのものだし、な。
父は現在、月・木・土の週3回、デイサービスに通所しており、同居する兄の少しでも負担を軽くできればと思うのだが、
まあ、とりあえず朝はモーニングコールを掛けて、寝過ごさないように誘導する日々だ。

まあ、しかし、父と電話で会話を試みると、アルツハイマーという症状がどういうものか、断片的ではあるが、私なりに理解し、感じることがいろいろある。
基本的には、やはり記憶喪失的な症状が核になっているふうに見受けられ、要するに、こちらが発した言葉が、もちろん、耳も悪くなっているから、
単純に聞き取れていないというケースも混じって来るのだが、聞き取れている様子の場合でも、聞き取った言葉の内容が、ごく短時間に、ほぼ瞬間的なレベルで、
頭から出て行ってしまう様子なのだ。

頭から入ったものが、そんなに瞬間的なくらい、すぐに頭から出て行っているとすれば、それが事実だとすれば、そりゃあ、他者との会話は成り立たなくなるし、
そもそも外界で起こっている物事・事象が正常に認識されなくなるのは道理であり、それくらいのことは、医学的にど素人の私のような者であっても、理屈として何となくのレベルではあるが、
理解できる気がするのだ。

もちろん人間の脳の仕組みなど、凄い学者・研究者たちが口をそろえて「ほとんど解明されていない」みたいなことを言っている領域なわけで、
私のようなズブの素人が、アルツハイマーなどについて分かった気になっているというのは滑稽な話だと承知はしているが、それでも、だ。
人間の脳が物事や外界の事象を認識する際、「短期記憶の仕組み」が基礎になっており、そこが破壊されてしまえば、もはや現代社会での社会生活は、まともに過ごすことは不可能だと認めざるを得ないのだろうと思う。

私は、高校時代以降、ずっと下り坂の人生となってしまい、現在のような中高年と言われるような年になるまで、結局人生を挽回することもできず仕舞いとなったわけだ。
早くして逝ってしまった母に対しては、こんな無様な有様を見られずに済んで良かったと本気で思っている始末だし、認知症を発症している父についても、同様、
こんな有様をまともに認識できないような体になったおかげで、惨めな思いをさせずに済むと、これまたガチでホッとしている自分がいたりする。

まあ、我ながら情けないとは認めるが、両親に対してはそんなふうな見方をついしてしまっているのは事実だが、そうだからといって、おそらく世間からそういう目で見られているであろうほどに、
私は、私の人生も、私自身の現在も、決して否定していないし、最低だ、最悪だ、などと掃き捨てるような、そんな低評価も下してなどいないのである。

むしろ、だ。
むしろ、いつ振り返っても、本当に高校時代以降は、辛い時間を多く過ごすことになりはしたと思っているが、自分を不幸だ、不幸な人生になったなどとは、強がりでもなんでもなく、
本心からそんな否定的にはとらえていないのだ。

何か言えば言うほど、嘘くさくなっているのかもしれないが、本当のところであり、特に無理はしていない話なのである。ホントに。
まあ、何て言えば良いのか、まあ、未だに人生の途中であるから当たり前と言えば当たり前なんだろうけど、正直、それなら、高校時代以降のこれまでの人生をどう評価するのかと問われれば、
やっぱり難しさは感じる。

ただ、何て言うか、一言言うなら、作家など、アーティスト的な哲学・持論になるのかなあという気がするが、たとえば、不遇な時間を、経験を積めば積むほど、その分いっそう濃密で最上の物語が描けそうということ。
世の中のすべての不遇や不幸は、そっくりそのまま、至上の芸術作品、文芸作品等に結晶するのではないかという発想・哲学・持論である。
いわゆる「ネタになる」ってやつだ。

いや、アーティスト領域のことだけに留まらず、たとえば、私塾で学習指導する営みのことを考えても、そうだ。
小学校の中学年くらいの時期から算数あたりでつまづいて、教室で先生に指名されては回答できず、担任の教師からは、随分辛い言動をされたということがあり、それがきっかけで赤面症を発症した。
この赤面症は、なかなかやっかいな代物で、一度発症してしまうと、なかなか自力で解消させることは難しい。
結局私は、程度こそ年齢と共に若干ましになったとは思っているが、今日まで解消させられずに至っているが、またこの話は別の機会に語ろうか。
まあ、以前もどこかで軽く記してはいると思うが。

まあ、でもこの赤面症については、私塾なんかをやろうとしていて、支障ないのかと疑問に思う人もいようが、まあ、私的には、この程度のことは、今となっては、あまり気にしていないし、
まあ、集団授業とか、大勢の前での講談などのスピーチなんかを、そういうのを今後経験する機会があるのかどうかよくわからんが、まあ、そういった機会を短期的に集中して、数をこなすように経験すれば、
わけもなく解消することは確かめるまでもなく分かっていることで、まあ、そういった時に何とかすればいいんじゃない、と他人事のように思っている。

いったん、またここで区切りをつけるか。

高等学校の学科は、やらなけりゃ、損。

2023年01月21日 19時00分03秒 | 日記
今年は何とか、私塾というか、学習指導の活動を再開したいな、と。
正直なところを言えば、バイト代だけではキツいから、何か副収入を得る必要があるし、そうなると、やっぱりどうせなら、
志の活動でもって収入を得るのが一番だし、というわけだが、恥ずかしながら、まだまだ学習準備が不十分のままだからな…。

それにしても、ちょっと話を進めるが、高校生の科目を復習というか、ほとんど初めましてになるわけなんだが、私の場合、めっちゃ高校時代の授業をサボっていたからなあ。
しかし、それにしても、だ。

高校生の科目って、まだまだ全然手が付けられていない有様なんだが、例えば数学。
専門用語に最初は圧倒されて、「あ、無理」ってなりがちなんだが、やって見ると、変な駆け引き無しに、心から「面白い」と思うのだ。

いや―、数学アレルギーみたいな感じで、食わず嫌いな調子で高校数学を諦めている人も少なくないのだろうが、いやー、正直、勿体なすぎる、それは。
自分がまさに文系に逃げた典型例の癖にこんなこと言って何なのって感じだが、我ながら。

いやー、しかし、こんなに面白かったのか、マジで、とホントに思うなあ。
いや、そもそも高校数学くらいにもなると、先に述べた通り、単元名からして小難しい感じをモロに醸し出しまくっているから、最初で挫けてしまいがちなわけだが、
逆に言うと、それだけに、ちゃんとマスターすれば、めっちゃ気分も良いし、人目を考えても、「ええカッコ」できるというものだ。

カッコ良いよねえ、単純に、高校数学できれば。
まあ、スケボーとかと全くおんなじ発想になるかと。
カッコよく見られたいから、輝きたいから、頑張れる。
憧れるから、頑張れるってやつだ。

あと、高校の理科系科目もそう。
まだまだ、履修が進んでいないくせに、って感じだが、生物・物理・化学・地学…、どれも面白さ、ハンパないな。
まあ、いくらこんな声を現役生や、少し下の小中学生に聞かせても、大して響かないのだろうが、気を引こうとしてとかの狙いはほぼ無い、正直。
単純に、面白いから、それもただ面白いという感想に留まらずだ、これはやらなきゃ損するな、くらいの認識だ。

なので、自分の私塾でもしも、学生らに、理数系の苦手意識を持たせず、理数大好きな感じに導けたら、本当に値打ちのある行いになると本気で思うなあ。

まあ、もともと勉強を含め、出来の悪い部類に思い切り入るであろう私がこう語っているくらいだから、まず間違いないと思ってもらって良いと思うが、
まあ、小中学生までの範囲を、今の私が到達している程度の学力・思考力が身に付くように学べば、特に問題なく高校の学科を習得することが必ずできる。

何かここで塾の宣伝をしているような内容に今回はなってしまったようだが、無論、そんなつもりは毛頭なし。
私の頭も毛頭なし、だ。
ユーモアを入れてみたが、どうか。

まあ、高校の生物なんか、まだまだやり始めで語るのも恐縮なところはあるが、コロナの問題とかを語ったり考えたりする際、最低限の生物学の知識があると、
全然感じが変わってきそうだ。
何か今までは私なんかも、生物学がらみの専門用語が話の中に出て来た時点で、もう思考回路が停止してしまって、
「ああ、このあたりのくだりは、聞いてもどうせ理解できないから」と、相手の話が耳に入って来なくもなるし、
入っても右から左。
まあ、そもそも思考が停止したようになっているから、せっかく一生懸命話してもらっても、そもそも甲斐がないということになる。

そうなんだよなあ…。
そもそも数学なんかは、勉強を学生に教えたいと考えた当初なんかは、小学校の算数を、中学受験レベルまで習得しさえすれば、十分。
中学数学なんか要らない、くらいに考えていた気がするが、何の何の。

まあ、そもそも考え方の軸にあったのが、世間一般にもよくあると思うが、「世に出た時に、あるいは日常生活で役に立つか否か」という、
いかにも勉強が嫌いで、中途半端にしか学業を修学しなかった者が放ちそうな説であった。

まあ、今、炎上しそうなくだりが入ってしまったかと思うが、何も気にすることは無い。
このブログは炎上するほどのアクセスがそもそもないからだ。
だから、言いたい放題。
まあ、炎上するかしないか、通報されるか否か、訴えられるか否か以前に、人としての道徳として、そもそも中傷的な発言はなるべくさけるつもりではあるが、
まあ、先の発言のところも、「自分に向けて」言い放ったこととして、問題なしとすれば良いかと思う。

いったん、ここで区切ろうか。