前回のブログの続きという恰好にはなるが、付け足して語りたいことが、精神的な力と、精神的な健康を守ることについて、だ。
精神力、メンタル面の力というのは、まあ、既にいろんな人が、いろんな持論を展開し、論じてきていることだろうが、やはり私にも持論があるというわけだ。
まあ、これといって目新しさはなかろうし、オリジナルっていうほど、そこを強調できるほどのことを語るつもりでもないが。
しかし、それにしても、肉体的な力にはある分かり易さがないよなあ、精神的な力って、とつくづく思う。
見た目で筋肉隆々だったり、歩き方、走り方を見ていれば、その人がどれくらい体を鍛えているか、普段しっかり運動できているかとか、ある程度伝わってきたりする。
見た目だけで、ね。
しかるに、だ。
メンタル面の力って、今更だが、目に見えない。
だから、見た目で評価できないっていう点と、あとは、筋トレや、ジョギング、ストレッチなどの運動をすりゃ鍛えられるであろう肉体面に対して、
じゃあ、精神力って、具体的にどう鍛えるの?って話だ。
ちょっと話は飛んでしまうが、人から物を教わる場面って、大きく分けると、2つ、かなと思う。
まあ、いきなり2つでは不十分かもって思ったりも我ながら感じながら話を進めるが。
2つのうち1つは、学校で、残り1つはそれ以外の場所っていう分け方。
それが正しい分け方か否かはひとまず置いておいて、学校では生徒らがなるべく多くのことを学べるようにとても深い考察の上でカリキュラムが組まれているわけだ。
学校での学びの中で、肉体的な鍛錬は、やはり基本的には体育の授業で行われると考えられるだろう。
まあ、イベントとして、遠足、マラソン、運動会、夏休みのプール開放、ラジオ体操とかも含めるとして。
まあ、学校の課外スポーツやクラブ活動でも、体育系のクラブなら含まれるとして良いだろう。
それ以外にも細かく言えば、休み時間などに運動場などで運動系の遊びを友達とやるのもその機会になるとして。
そういった機会の中で、肉体的な力をつけることはでき、機会の多少を考えても、学校の営みとして、決して不十分とは言えないと思う。
しかし、精神力を鍛えようっていう、具体的な機会は?と言えば、なかなか具体的に用意されているとは言い難い気がする。
まあ、考えてみれば当たり前なようだし、いやだからこそ、冷静に考えれば、どこで精神力を身に付けるべきか、どこで身に付くのかっていうこと。
まあ、肉体的鍛錬の機会について、学校以外の場面になると、基本的に強制力も何も働かないわけだから、あくまでも子供らの先天的に与えられたプライベート環境次第であり、境遇そのものに大きく依存することになる。
社会人の場合、もう学校は離れているわけだから、決して無作為に集まったとは言えない、ある特定の傾向のある集団が構成する職場という組織の中で、
無論、出張であったり、異業界との交流も活発な職種・職場もあるわけだが、かなり個人差が出てくる話になり、その中で、結局、精神力を鍛える機会って、
それ用に、それ向けにあつらえられた、用意されたものがあるわけでは基本的になく、結局、そこで精神力が鍛えられるかどうかといったところは、個人の意識次第であったり、
その環境次第、機会次第といった、掴みどころのないような話になってしまうだろう。
何か自分でも要領を得ない話で、下手な語りになっているのは重々承知の上だが、まあ、要するに一言、「精神力を鍛える機会って、特に用意もされていなければ、目に見えない、ふわふわと曖昧な領域だから、
自分でその機会を用意することも、そう仕向けることも容易ではない」ということ。
なぜこんな話を今さらするのかというところなのだが、たとえば、最近、若い人の、とりわけ小中高生などの子供らの自死が目立っている感があり、少なからず気になっているところがあるのだ。
まあ、私のような、自分の人生もいっぱいいっぱいになっているような者がこんな話題を真剣に語るのも滑稽に映るだろうことも承知の上だが、まあ、先の見えた中高年の世代などなら、まだ分かる、なんていうと炎上ものなんだろうが、
何度も言及するが、このブログに炎上するほどのフォロワーはいないから要らぬ心配だが。
まあ、やはり小学生とか中学生とかになってくると、さすがに動揺、衝撃というか、別にありえない、とまでは正直考えてもいないが、やはり教育を志す身の上として、どうしても心がざわついてしまうわけである。
そうして、そういえば、何かとても辛い状況、境遇、憂き目に子供がいるとして、無論、いじめ問題、家庭問題などがまず頭に浮かんでこようが、もしも自死に至ってしまった子供の中で、辛い状況から逃げようとしたくなっている時の、
そこでグッと強い気持ちで踏ん張れていれば、もしももう少し精神的な、心の強さが身に付いていれば、自死を回避できたのだともしもの話だが、そう仮定した場合、では、どんなふうに日を過ごせば、いや具体的にどういった場面、機会で、
その子供はそういった精神力を身に付けることができたのか、そういった心の強さが培われ得たというのだろうか。
ここなのである。
私が最近ふと気づいたと言うか、単純に疑問に思ったのは。
例えば、今の私などは、今も含め、これまでかなりの生き恥を晒して生きてきた感じだが、どうして生きる力をここまで、生きようとする力を繋げてこられたのか、と自分に対しても思う。
こういった疑問に対し、あんまり簡単に、「こういうことではないか」みたいな話をし出すと、切りがないし、取り留めもなくなるし、そればかりか、
口に出せば出すほど、見当はずれな感じが自分でもしてきて、嫌になってしまいそうなので、今回、結論的な話はいったん保留にしようかと思っているが、
一つ思うことは、私などの場合は、小さい頃から運動系、スポーツ系の遊びが好きで、本格的な部活動とかは、大して継続したものはないのだが、好きこそものの上手なれというのは、ちょっと使う場面が違うだろうが、
まあ、いろんな場面で体を動かし、運動し、汗を掻く営みの中で、まあ、特に部活動や、マラソン・ジョギングなどの結構ガチなモードになる運動機会の中では、結構、かなり過酷なまでに体を酷使すること場面も出てくるから、
「死にそう」ってくらい、かなり大きな疲労、苦痛を伴う体験もすることに至ったりするわけで、それでも、その苦行とも言える営みを取り止めたら、部活のコーチとか、誰かに殺されるとか言うわけでもないわけだから、
苦しくなった時点で、あるいは、苦しくなるちょっと前の時点などで、すぐにその行為を止めることだってできるわけなのだが、まあ、そこには個人差も出てきて、意志の強さの強弱であったり、
負けん気の強さだったり、最後までやり切らなければという、ひょっとしたら家庭や学校の授業、あるいはもっと違う他のところから教わった戒めかもしれないが、そういった道徳観念、訓戒などを通じて身に付いたものが判断を左右したりするわけで、そういった場面を通して、どの程度メンタル面が鍛えられるか、どのくらいの精神力が培われるかなどは、個人差が大きく出てくるところでもあるかもしれない。
いずれにせよ、私の場合などは、思い返すに、肉体的な鍛錬を通して、同時に精神的な力もそこで育まれたようには自覚している。
まあ、ところが、だ。
社会に出て、それまで経験してこなかったとか、想定すらできなかったような苦境に陥ったりする中には、それまで培った種類の精神力ではまるで太刀打ちできないような種類の追い込まれ方で、
それも次から次へと追い込まれ続けたり、それも短期的な話ではなく、半永久的に、長期的に積年苦しめ続けられたりしてきた。
まあ、こうなると、ここまで追い込まれた日には自殺してもおかしくないとかいうようなことを考えたり、あるいは、すでに自殺したり、これから自殺しそうな人に向けて、
まあ、これくらいの状況まで追い込まれてから自殺するんだったら話は分かる、などといった思い上がったというか、何て言うべきかわからんが、まあ、そんなふうなことを考えたことも、恥ずかしいけど、
実はあるわけで、それも一度や二度のことではなかったりする。
ただ、今回思うのは、そこまで追い込まれた場合も含めて、もちろんこの先、もっと遥か上を行く追い込まれ方が待ち構えていることも無論、想定しているわけだが。
まあ、当たり前といえば、当たり前の展開というか、シナリオというか、だけど。
いずれにせよ、人生、どんなに鍛えようが、どうしても乗り越えられない、耐えようがない苦境というのは、残念ながらあるのかもしれないが、
生きている限り、最期の最期まで戦いたいなあって、心から思うし、その、戦う際の、立ち向かう際の、対抗する術というか、そういう話だが、やはり、
精神的な力といっても、私個人的な認識としては、肉体的な鍛錬の中にそのヒントが隠されているというか、肉体的な力と、精神的な力って、何かどこかで繋がっているような気がするのである。
それは体内なのか、体内を離れた、異次元の空間なのか、何か良く分からないのだが。
精神的に極限のピンチにいるような時、まあ、ピンチって一口に言っても、ホント、みなさんご承知の通り、いろんな種類の追い込まれ方があるわけで、ただそういう精神状態、心理状態にある時の自分を冷静に振り返ってみた時、
考察して、いくつか見出されることがある。
少なくとも私の場合は、あったようだ。
まずは、そういう時って、とにかく苦痛であることは間違いないのだが、全然耐えられないような程度かと問われたとしたら、冷静に考えた時、ちょっと違う感じなんだな。
しかし、だからと言って、耐えられないこともない程度だから本当は大したことないのだ、ってな話とは全然違う。
冷静に極限ピンとの時のことを見つめて、考察するとだ、「何とも言い難い」、「独特の不快感」が全身に発生していることに思い当たるのだ。
この2つのフレーズ、どちらも重要で、双方どちらが欠けてもならない。
要するに、肉体的に身体を虐めた時、虐められた時の、表面から襲ってくる、表面からぶち当たって来る、言わば、ストレートで、ある意味、正々堂々とした正面からの「陽の攻撃」とでも言ったらいいだろうか、
それをモロに受けたような、あの「苦痛」「ダメージ」に比べ、精神的に追い込まれ、極度のストレスを伴う精神的な極限ピンチの際に発生するのは、じわじわとどこからともなく忍び寄るような、陰湿な「陰の攻撃」。
この何とも言いようのない「不快感」は、本当に言葉では言い表すことが難しい。
決して派手さはないが、確実に人を取り乱させる力を持っている。
で、具体的には、その「不快感」の正体というか、この「不快感」が発生の後、二次的に、次に具体的にはどういった作用を及ぼすのかと言えば、「悩みの原因について、執拗に悩み続け」させようとする作用だ。
悩みを解決する確実な方法が見出せるまで、延々とその人に考えさせ続け、悩み続けさせようとする働きである。
この後の展開はご想像の通り、典型的なノイローゼパターンになるのは自明、道理なわけである。
いつまでも悩み続けるなんてことをしていれば、全身、ストレス症状でとんでもないことになることは想像に難くないし、当然不眠なんかも伴うに決まっておるわけだ。
さらにここで注目すべきが、「呼吸」のこと。
心身に発生した「不快感」に支配され、その言いなりになって極度のストレス症状が維持される時、まず真っ先に影響を受け、反応しているのではないかと目星を付けられるのが、
「呼吸」だ。
私が自身の身の上を回顧、考察した時、ストレスと呼吸は、実に憎らしいほどの密な相関性を持つという結論に達する。
細かい言及は、とりあえず今回は省くが(ここまでダラダラ、細々語ってきておいて、それを言うか?)、極度のストレス状態に陥った時、何とも陰湿で質の悪い「不快感」が発生することは既に述べたが、それに共鳴するかのように、
通常ならば「深い呼吸をしよう」と働いている、脳内の「司令部」を狂わせ、まずは「しっかり息を吸い込もう」とする作用を妨害するに至る。
この後も自明の通りだ。
ちゃんと息を吸い込まなければ、息を吐きだすことも、少ししか吐けなくなる。
これが繰り返されれば、立派な「過呼吸」の完成である。
それも、長期的に執拗に続く過呼吸であり、「ぜー、ぜー、はー、はー」するような激しいものではなく、比較的静かに営まれる為、自分が過呼吸になっているという自覚はほとんど持てないことになる。
医学的知見が特別あるわけでない、ずぶの素人の癖に、あえてこんな医学的なことを語ったのは、それなりに意図がある。
今述べているようなのは、あくまですべて私の主観であり(ちなみに「それってあなたの主観ですよね」ってのが巷で流行っているというのは、ごく最近知った…)、正しい考察かどうか、
何の保証も当然ない。
言いたいことは、上記した「不快感」は、一見対抗不可能な対象のようにも思えるが、実は、肉体的鍛錬の時と同じ要領で、グッと下腹に力を入れるような感じで、「踏ん張る」ように心身を構えることで十分対抗し、
克服、乗り越えられるはずだと、私が確信するに至っていること。
ただ、ここで気を付けたいのは、ただ「踏ん張って」上記の不快感に打ち克っても、呼吸にも同時に気を付ける必要があるということだ。
今回述べているような営みを試みる必要がある人というのは、当然、すでに極度の精神的ピンチ、極度の精神的ストレス症状の渦中に身が投じられている状況であるからして、ただ「踏ん張る」だけに留まっていても、
そのままにしていれば、無意識下で陥っている「過呼吸」によって、そのまま不眠やその他のさまざまな深刻なストレス症状を発症し、身体機能が蝕まれていくだろうということ。
だから、呼吸である。
プラスアルファ、深い、本来そうあるべき深い呼吸をするよう取り組む必要があろうということだ。
まあ、私は、あえてここで、「呼吸法」という用語を使うことは避けている。
というのも、私のようなはぐれ者がこういった類の話をすると、怪しい新興宗教の関係者だと思われたり、ヤバいネットワークビジネス関係に勧誘されたりする展開になるのではないかと、
要らぬ心配をする人も出てきそうだからというわけだ。
まあ、繰り返すが、そんな心配は本来無用であり、そんな影響を与えるような数のフォロワーは付いていねえっていう話なのだが、念の為のこと。
まあ、私個人的には、深い呼吸のやり方については、別に呼吸法関連の書籍を参考にしたり、Youtubeの関連するレッスン動画を探したりして調べる必要は特別ないのではないかと思っている。
要は、「深い呼吸」を回復するように意識するという、まあ、作業自体はシンプルだし、ただ、自律神経っていうのだろうが、まあ、本来は無意識に営まれるべき作用なわけで、そこを無理にというか、
意識的に操作しようとするのだから、思っているよりかは確実に難しい側面があると覚悟すべきだろうが、とにかくその2つだな。
「踏ん張る」と「深い呼吸」。
まあ、今回こんなところでこんな話をしたのは、いつか余裕があれば、こういった、自分の体験談から生じた、生きる上での「スキル」に入れてカウントしていいのか分からないのだが、
こういった精神力を培うという側面も、できれば、自分の創立した私塾の活動に取り入れて、社会人の方も含め、小中高生なんかにもアドバイスできればいいかなあ、と思うのである。
無論、こういった種類のことって、自分の独りよがりになりがちな恐れもあるし、余計なことかもしれないし、だから、まあ、行ったとしてもだ、まあ、参考程度にしてもらうだけでも、
ある程度取り組む価値はあるのかなあ、って、そんなことを想いました、考えていますっていうのが、今回の長い長い独り言だったわけである。以上。
精神力、メンタル面の力というのは、まあ、既にいろんな人が、いろんな持論を展開し、論じてきていることだろうが、やはり私にも持論があるというわけだ。
まあ、これといって目新しさはなかろうし、オリジナルっていうほど、そこを強調できるほどのことを語るつもりでもないが。
しかし、それにしても、肉体的な力にはある分かり易さがないよなあ、精神的な力って、とつくづく思う。
見た目で筋肉隆々だったり、歩き方、走り方を見ていれば、その人がどれくらい体を鍛えているか、普段しっかり運動できているかとか、ある程度伝わってきたりする。
見た目だけで、ね。
しかるに、だ。
メンタル面の力って、今更だが、目に見えない。
だから、見た目で評価できないっていう点と、あとは、筋トレや、ジョギング、ストレッチなどの運動をすりゃ鍛えられるであろう肉体面に対して、
じゃあ、精神力って、具体的にどう鍛えるの?って話だ。
ちょっと話は飛んでしまうが、人から物を教わる場面って、大きく分けると、2つ、かなと思う。
まあ、いきなり2つでは不十分かもって思ったりも我ながら感じながら話を進めるが。
2つのうち1つは、学校で、残り1つはそれ以外の場所っていう分け方。
それが正しい分け方か否かはひとまず置いておいて、学校では生徒らがなるべく多くのことを学べるようにとても深い考察の上でカリキュラムが組まれているわけだ。
学校での学びの中で、肉体的な鍛錬は、やはり基本的には体育の授業で行われると考えられるだろう。
まあ、イベントとして、遠足、マラソン、運動会、夏休みのプール開放、ラジオ体操とかも含めるとして。
まあ、学校の課外スポーツやクラブ活動でも、体育系のクラブなら含まれるとして良いだろう。
それ以外にも細かく言えば、休み時間などに運動場などで運動系の遊びを友達とやるのもその機会になるとして。
そういった機会の中で、肉体的な力をつけることはでき、機会の多少を考えても、学校の営みとして、決して不十分とは言えないと思う。
しかし、精神力を鍛えようっていう、具体的な機会は?と言えば、なかなか具体的に用意されているとは言い難い気がする。
まあ、考えてみれば当たり前なようだし、いやだからこそ、冷静に考えれば、どこで精神力を身に付けるべきか、どこで身に付くのかっていうこと。
まあ、肉体的鍛錬の機会について、学校以外の場面になると、基本的に強制力も何も働かないわけだから、あくまでも子供らの先天的に与えられたプライベート環境次第であり、境遇そのものに大きく依存することになる。
社会人の場合、もう学校は離れているわけだから、決して無作為に集まったとは言えない、ある特定の傾向のある集団が構成する職場という組織の中で、
無論、出張であったり、異業界との交流も活発な職種・職場もあるわけだが、かなり個人差が出てくる話になり、その中で、結局、精神力を鍛える機会って、
それ用に、それ向けにあつらえられた、用意されたものがあるわけでは基本的になく、結局、そこで精神力が鍛えられるかどうかといったところは、個人の意識次第であったり、
その環境次第、機会次第といった、掴みどころのないような話になってしまうだろう。
何か自分でも要領を得ない話で、下手な語りになっているのは重々承知の上だが、まあ、要するに一言、「精神力を鍛える機会って、特に用意もされていなければ、目に見えない、ふわふわと曖昧な領域だから、
自分でその機会を用意することも、そう仕向けることも容易ではない」ということ。
なぜこんな話を今さらするのかというところなのだが、たとえば、最近、若い人の、とりわけ小中高生などの子供らの自死が目立っている感があり、少なからず気になっているところがあるのだ。
まあ、私のような、自分の人生もいっぱいいっぱいになっているような者がこんな話題を真剣に語るのも滑稽に映るだろうことも承知の上だが、まあ、先の見えた中高年の世代などなら、まだ分かる、なんていうと炎上ものなんだろうが、
何度も言及するが、このブログに炎上するほどのフォロワーはいないから要らぬ心配だが。
まあ、やはり小学生とか中学生とかになってくると、さすがに動揺、衝撃というか、別にありえない、とまでは正直考えてもいないが、やはり教育を志す身の上として、どうしても心がざわついてしまうわけである。
そうして、そういえば、何かとても辛い状況、境遇、憂き目に子供がいるとして、無論、いじめ問題、家庭問題などがまず頭に浮かんでこようが、もしも自死に至ってしまった子供の中で、辛い状況から逃げようとしたくなっている時の、
そこでグッと強い気持ちで踏ん張れていれば、もしももう少し精神的な、心の強さが身に付いていれば、自死を回避できたのだともしもの話だが、そう仮定した場合、では、どんなふうに日を過ごせば、いや具体的にどういった場面、機会で、
その子供はそういった精神力を身に付けることができたのか、そういった心の強さが培われ得たというのだろうか。
ここなのである。
私が最近ふと気づいたと言うか、単純に疑問に思ったのは。
例えば、今の私などは、今も含め、これまでかなりの生き恥を晒して生きてきた感じだが、どうして生きる力をここまで、生きようとする力を繋げてこられたのか、と自分に対しても思う。
こういった疑問に対し、あんまり簡単に、「こういうことではないか」みたいな話をし出すと、切りがないし、取り留めもなくなるし、そればかりか、
口に出せば出すほど、見当はずれな感じが自分でもしてきて、嫌になってしまいそうなので、今回、結論的な話はいったん保留にしようかと思っているが、
一つ思うことは、私などの場合は、小さい頃から運動系、スポーツ系の遊びが好きで、本格的な部活動とかは、大して継続したものはないのだが、好きこそものの上手なれというのは、ちょっと使う場面が違うだろうが、
まあ、いろんな場面で体を動かし、運動し、汗を掻く営みの中で、まあ、特に部活動や、マラソン・ジョギングなどの結構ガチなモードになる運動機会の中では、結構、かなり過酷なまでに体を酷使すること場面も出てくるから、
「死にそう」ってくらい、かなり大きな疲労、苦痛を伴う体験もすることに至ったりするわけで、それでも、その苦行とも言える営みを取り止めたら、部活のコーチとか、誰かに殺されるとか言うわけでもないわけだから、
苦しくなった時点で、あるいは、苦しくなるちょっと前の時点などで、すぐにその行為を止めることだってできるわけなのだが、まあ、そこには個人差も出てきて、意志の強さの強弱であったり、
負けん気の強さだったり、最後までやり切らなければという、ひょっとしたら家庭や学校の授業、あるいはもっと違う他のところから教わった戒めかもしれないが、そういった道徳観念、訓戒などを通じて身に付いたものが判断を左右したりするわけで、そういった場面を通して、どの程度メンタル面が鍛えられるか、どのくらいの精神力が培われるかなどは、個人差が大きく出てくるところでもあるかもしれない。
いずれにせよ、私の場合などは、思い返すに、肉体的な鍛錬を通して、同時に精神的な力もそこで育まれたようには自覚している。
まあ、ところが、だ。
社会に出て、それまで経験してこなかったとか、想定すらできなかったような苦境に陥ったりする中には、それまで培った種類の精神力ではまるで太刀打ちできないような種類の追い込まれ方で、
それも次から次へと追い込まれ続けたり、それも短期的な話ではなく、半永久的に、長期的に積年苦しめ続けられたりしてきた。
まあ、こうなると、ここまで追い込まれた日には自殺してもおかしくないとかいうようなことを考えたり、あるいは、すでに自殺したり、これから自殺しそうな人に向けて、
まあ、これくらいの状況まで追い込まれてから自殺するんだったら話は分かる、などといった思い上がったというか、何て言うべきかわからんが、まあ、そんなふうなことを考えたことも、恥ずかしいけど、
実はあるわけで、それも一度や二度のことではなかったりする。
ただ、今回思うのは、そこまで追い込まれた場合も含めて、もちろんこの先、もっと遥か上を行く追い込まれ方が待ち構えていることも無論、想定しているわけだが。
まあ、当たり前といえば、当たり前の展開というか、シナリオというか、だけど。
いずれにせよ、人生、どんなに鍛えようが、どうしても乗り越えられない、耐えようがない苦境というのは、残念ながらあるのかもしれないが、
生きている限り、最期の最期まで戦いたいなあって、心から思うし、その、戦う際の、立ち向かう際の、対抗する術というか、そういう話だが、やはり、
精神的な力といっても、私個人的な認識としては、肉体的な鍛錬の中にそのヒントが隠されているというか、肉体的な力と、精神的な力って、何かどこかで繋がっているような気がするのである。
それは体内なのか、体内を離れた、異次元の空間なのか、何か良く分からないのだが。
精神的に極限のピンチにいるような時、まあ、ピンチって一口に言っても、ホント、みなさんご承知の通り、いろんな種類の追い込まれ方があるわけで、ただそういう精神状態、心理状態にある時の自分を冷静に振り返ってみた時、
考察して、いくつか見出されることがある。
少なくとも私の場合は、あったようだ。
まずは、そういう時って、とにかく苦痛であることは間違いないのだが、全然耐えられないような程度かと問われたとしたら、冷静に考えた時、ちょっと違う感じなんだな。
しかし、だからと言って、耐えられないこともない程度だから本当は大したことないのだ、ってな話とは全然違う。
冷静に極限ピンとの時のことを見つめて、考察するとだ、「何とも言い難い」、「独特の不快感」が全身に発生していることに思い当たるのだ。
この2つのフレーズ、どちらも重要で、双方どちらが欠けてもならない。
要するに、肉体的に身体を虐めた時、虐められた時の、表面から襲ってくる、表面からぶち当たって来る、言わば、ストレートで、ある意味、正々堂々とした正面からの「陽の攻撃」とでも言ったらいいだろうか、
それをモロに受けたような、あの「苦痛」「ダメージ」に比べ、精神的に追い込まれ、極度のストレスを伴う精神的な極限ピンチの際に発生するのは、じわじわとどこからともなく忍び寄るような、陰湿な「陰の攻撃」。
この何とも言いようのない「不快感」は、本当に言葉では言い表すことが難しい。
決して派手さはないが、確実に人を取り乱させる力を持っている。
で、具体的には、その「不快感」の正体というか、この「不快感」が発生の後、二次的に、次に具体的にはどういった作用を及ぼすのかと言えば、「悩みの原因について、執拗に悩み続け」させようとする作用だ。
悩みを解決する確実な方法が見出せるまで、延々とその人に考えさせ続け、悩み続けさせようとする働きである。
この後の展開はご想像の通り、典型的なノイローゼパターンになるのは自明、道理なわけである。
いつまでも悩み続けるなんてことをしていれば、全身、ストレス症状でとんでもないことになることは想像に難くないし、当然不眠なんかも伴うに決まっておるわけだ。
さらにここで注目すべきが、「呼吸」のこと。
心身に発生した「不快感」に支配され、その言いなりになって極度のストレス症状が維持される時、まず真っ先に影響を受け、反応しているのではないかと目星を付けられるのが、
「呼吸」だ。
私が自身の身の上を回顧、考察した時、ストレスと呼吸は、実に憎らしいほどの密な相関性を持つという結論に達する。
細かい言及は、とりあえず今回は省くが(ここまでダラダラ、細々語ってきておいて、それを言うか?)、極度のストレス状態に陥った時、何とも陰湿で質の悪い「不快感」が発生することは既に述べたが、それに共鳴するかのように、
通常ならば「深い呼吸をしよう」と働いている、脳内の「司令部」を狂わせ、まずは「しっかり息を吸い込もう」とする作用を妨害するに至る。
この後も自明の通りだ。
ちゃんと息を吸い込まなければ、息を吐きだすことも、少ししか吐けなくなる。
これが繰り返されれば、立派な「過呼吸」の完成である。
それも、長期的に執拗に続く過呼吸であり、「ぜー、ぜー、はー、はー」するような激しいものではなく、比較的静かに営まれる為、自分が過呼吸になっているという自覚はほとんど持てないことになる。
医学的知見が特別あるわけでない、ずぶの素人の癖に、あえてこんな医学的なことを語ったのは、それなりに意図がある。
今述べているようなのは、あくまですべて私の主観であり(ちなみに「それってあなたの主観ですよね」ってのが巷で流行っているというのは、ごく最近知った…)、正しい考察かどうか、
何の保証も当然ない。
言いたいことは、上記した「不快感」は、一見対抗不可能な対象のようにも思えるが、実は、肉体的鍛錬の時と同じ要領で、グッと下腹に力を入れるような感じで、「踏ん張る」ように心身を構えることで十分対抗し、
克服、乗り越えられるはずだと、私が確信するに至っていること。
ただ、ここで気を付けたいのは、ただ「踏ん張って」上記の不快感に打ち克っても、呼吸にも同時に気を付ける必要があるということだ。
今回述べているような営みを試みる必要がある人というのは、当然、すでに極度の精神的ピンチ、極度の精神的ストレス症状の渦中に身が投じられている状況であるからして、ただ「踏ん張る」だけに留まっていても、
そのままにしていれば、無意識下で陥っている「過呼吸」によって、そのまま不眠やその他のさまざまな深刻なストレス症状を発症し、身体機能が蝕まれていくだろうということ。
だから、呼吸である。
プラスアルファ、深い、本来そうあるべき深い呼吸をするよう取り組む必要があろうということだ。
まあ、私は、あえてここで、「呼吸法」という用語を使うことは避けている。
というのも、私のようなはぐれ者がこういった類の話をすると、怪しい新興宗教の関係者だと思われたり、ヤバいネットワークビジネス関係に勧誘されたりする展開になるのではないかと、
要らぬ心配をする人も出てきそうだからというわけだ。
まあ、繰り返すが、そんな心配は本来無用であり、そんな影響を与えるような数のフォロワーは付いていねえっていう話なのだが、念の為のこと。
まあ、私個人的には、深い呼吸のやり方については、別に呼吸法関連の書籍を参考にしたり、Youtubeの関連するレッスン動画を探したりして調べる必要は特別ないのではないかと思っている。
要は、「深い呼吸」を回復するように意識するという、まあ、作業自体はシンプルだし、ただ、自律神経っていうのだろうが、まあ、本来は無意識に営まれるべき作用なわけで、そこを無理にというか、
意識的に操作しようとするのだから、思っているよりかは確実に難しい側面があると覚悟すべきだろうが、とにかくその2つだな。
「踏ん張る」と「深い呼吸」。
まあ、今回こんなところでこんな話をしたのは、いつか余裕があれば、こういった、自分の体験談から生じた、生きる上での「スキル」に入れてカウントしていいのか分からないのだが、
こういった精神力を培うという側面も、できれば、自分の創立した私塾の活動に取り入れて、社会人の方も含め、小中高生なんかにもアドバイスできればいいかなあ、と思うのである。
無論、こういった種類のことって、自分の独りよがりになりがちな恐れもあるし、余計なことかもしれないし、だから、まあ、行ったとしてもだ、まあ、参考程度にしてもらうだけでも、
ある程度取り組む価値はあるのかなあ、って、そんなことを想いました、考えていますっていうのが、今回の長い長い独り言だったわけである。以上。