満月通信

「満月(バドル)」とは「美しくて目立つこと」心(カリブ)も美しくなるような交流の場になるといいですね。

200のハディースその38

2013-07-31 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

現世の生活(さまざまなハディースより⑬)


《アブー・バルザ・ナドラ・イブン・ウバイド・アルアスラミー(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い様(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「人は(審判の日)ずっと立ち続けたあとで、人生について、それをどのように過ごしたか、また知識について、それをどのように用いたか、また財産について、それをどのようにして入手してどのように費やしたか、また体について、それをどのように使ったかを問われます。」》(アッティルミズィーによる伝承)


(注:人々の生前の行いは逐一アッラーの御前に記録されている。これらの問いは、人々が自分の過ちに気づくためになされる)

 このハディースは、人生の生き方、知識の活かし方、お金や物などの取得と消費の仕方、どれだけ身体を大切したかなどの重要な事柄を問いかけています。


 1.人生の生き方、過ごし方については、人それぞれの答えがあるでしょう。私は、命を頂き、この世に送られた者、招かれた者の一人として考えました。招かれた者の立場としては招かれたお方に対してお礼を述べるのが礼儀です。それで、今言えることは、この素晴らしい世界に生を受けたことに感謝の言葉を申し上げ、人生を楽しく過ごさせて頂いております、となります。というのは、アッラーは、クルアーンを人生の導きの書として下されました。また、み使い(صلى الله عليه و سلم)がイスラーム的生活のあり方を具体的に体現してくれたので、それを模範として過ごせるからです。

 2.さまざまな知識の中から、ここでは宗教的知識を知ることを考えました。宗教的知識とは、神を知る知識です。クルアーンに、【だから知れ、アッラーの他に神はないことを。】(47-19)【アッラーのしもべの中で知識のある者だけがかれを畏れる。】(36-28)とあるように、アッラーは、私たちに知識ある人間になることを望まれています。それで、クルアーンを学び、信仰を磐石にすることを求められます。

 3. 誰でも、働いて報酬を得た時、それは正しい方法で得たか、という取得についての倫理感覚は持ち合わせています。ところが、貯めたお金を使う段になると、自分の稼いだものだから、何に、どう使おうと自分の勝手と考えたり、まだ金さえ払えば物事は済むと安易に考えたりするなど、支出や支払のあり方に対し倫理意識を持っている人は少ないと思われます。クルアーンに、【信仰する者よ、あなたがたの財産を、不正にあなたがたの間で消費してはならない】(4-29)とあるように、イスラームでは、節度ある支出、消費に対する倫理意識を持つことを問われています。

 4. 人は、怪我をした時、痛みのない体がいかに素晴らしいことなのか、また病気になった時、健康なことがどれだけ有難いことか教えられます。それで、自分の肉体が正常に働いてくれることは、大きな恵みであることがかわります。また、肉体は命と同じく、アッラーからお預かりしているものです。そう考えると、からだを大切にし、いたわることが必要となります。そのため、規則正しい生活で体調を整えたり、不摂生を避けたりすることが求められます。からだが元気であれば、からだのあらゆる部分を使って善行をすることが可能となります。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその37

2013-03-03 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

現世の生活(さまざまなハディースより⑫)


《アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い様(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「現世は、信者に牢獄、不信仰者の天国です。」》(ムスリムによる伝承)(注:信者には、不信仰者とは異なり、信仰上様々な規則や義務が課せられることを意味する。)




 牢獄とは、罪人を監禁する所であり、一日中拘束され、自由な行動はできず、看守の指示に従い、座ったり立ったり、与えられた食べ物を飲み食いしなければなりません。命令に従わない場合は罰を受けます。訳注では、信仰者には宗教的義務や規則があり、それに従わなければならないから、現世は牢獄だとしています。

 しかし、慈愛あまねくアッラーが、この世で牢獄の生活をさせるために、人間を創ったのではないので、このハディースは、来世での天国の素晴らしさを強調するために、現世は牢獄にようだという表現をしたものと私は理解しました。また不信仰者の天国という言い方も、来世での地獄の苦しみと比較すると、現世での苦難は天国のようなものだと思います。つまり、天国で祝福された生活は、現世の幸福とは比べものにならないほど大きく、現世での苦難は来世の懲罰に比べたら、取るに足らない事ということです。

 クルアーンには、天国や地獄についての記述がいくつもあります。たとえば、
 【現世の生活の楽しみは、来世に比べれば微少なものに過ぎない。】(9-38)【現世の生活は、遊びか戯れに過ぎない。だが主を畏れる者には、来世の住まいこそ最も優れている。】(6-32)【かれらに対しては、現世の生活でも罰が科せられる。だが来世の懲罰は更に厳しい。】(13:34)
 さて、ムスリムには宗教規定や行動規定があり、それが牢獄の規則と同じではないかという見方についてですが、イスラームは信徒に苦行を勧めたり、修道院生活のような禁欲を強いたりすることはありません。反対にそのような生き方を否定します。
 たとえば、次のようなハディースがあります。
 
 「三人の男が、それぞれ「わたしは夜通し祈ろうと思う」、また「わたしは絶えず断食し、決して食べない」、また「わたしは女を避け、決して結婚しない」と言った。そこへ預言者(صلى الله عليه و سلم)が来られて、《なぜあなたがたはそのようなことを言うんですか。わたしは誰よりも神を恐れ畏んでいるが、断食しては食べ、礼拝して眠り、また女を娶りもする。この私の慣行を嫌う者はわたしの仲間ではない》とおっしゃった。」(ブハーリーによる伝承)


このように、宗教的な行と生活が調和することが求められます。
 そして、神の代理者(2章30節)として、地上のすべての物は人間のために創られた(2章29節)ので、人間はアッラーの恵みを享受することが許されているのです。そうしますと、信仰者の現世は、来世で天国という報奨を得るための場所と考えて、少しでも長く現世に留まり、アッラーに感謝し、善行を積み重ねることではないかと思います。
アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその36

2012-12-01 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم


السلام عليكم


疑わしいことは避ける(さまざまなハディースより⑪)

 《アン=ヌアマーン・イブン・バシール(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い様(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「許されたことは明らかであり、禁じられたことも明らかですが、二つの間には人々の多くが知りえない疑わしい事柄があります。疑わしいことを避ける者には信仰(宗教)と名誉が守られますが、疑わしいことに手を出す者は禁じられた行為を犯します。」(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承)。《「疑わしいことは捨て置いて、疑いのないことを取りなさい。真実は心を安らげ、虚偽は心をかき乱します。」》(ア=ッ=ティルミズィーによる伝承)(注:アラビア語では、許されたことをハラール、禁じられたことをハラーム、疑義をシュブハという。)




 ムスリムには、生活する上で合法なことや禁じられたことを、クルアーンとスンナ(預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の言行)を通じて教えられており、それらの法を守ることが信仰を実践していることになります。法と信仰については次のような預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の言葉があります。
 シャービル(رضى الله عنه)によると、ヌアマーン・ビン・カウファル(رضى الله عنه)が預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の処に来てこういった。「もしも私が礼拝義務を守り、シャリーア(イスラーム法)で禁じるものを避け、許すものを守ってゆけば、私は天国に入れるでしょうか。」これに対し預言者さま(صلى الله عليه و سلم)は《その通りです》と言われた。(ムスリムによる伝承、信仰の書より)
 この言葉から分かるように、イスラームの法を守ることは、礼拝や喜捨(ザカート)などと同じく、信仰を実践(体言)していると評価されます。
 今回のハディースは、生活の中で、合法なのか禁じられていることなのか確信できない疑わしい事柄に直面し、判断をせまられる場合には、どう対応すべきかの心構えが説かれています。
 物事を判断するときに、これから行なおうとしていることが、許されるのか、善なのか悪なのか、この事柄はアッラーの目から見て、正しいのか。これをすることにより、信仰の道から外れることになりはしないかと、疑問や迷いが、生じたら、疑わしいことは捨て、疑いのないことを選択すること。それが、あなたの信仰と名誉を守る道だ、と説明されています。理由は、疑わしいことは、悪に通じるからです。
 時には、私利私欲のために、疑わしくても受け入れ、自分の都合のいい口実を見つけて正当化しようとしますが、疑わしいことに手を出した先に待っているのは、自分の軽率さとやましさからくる後悔の念だけです。ですから、疑わしさが感じられる物については、これを選択することはイスラームでは禁じられており、正しい道から逸脱し悪の道に陥ると考えて避けるべきです。
 わたちたちは、ハディースに述べられているように、シャリーアを守ることで、天国に入れて頂けることに感謝し、シャリーアを日々の生活の中で体現しながら信仰をゆるぎないものにしましょう。


アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام




預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワサッラム)の好まれた食べ物

2012-10-15 | ハディース&子どものための物語

بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم 



<アナス・ビン・マーリク(رضى الله عنه)は伝えている
ある仕立屋が食事を用意し、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)を招いた。
私はその御方と一緒に行った。
彼は大麦のパンとかぼちゃの入ったスープ、それと保存された乾燥肉をふるまった。
私はアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)が皿の両側の、しかも御自分に近い方からそのかぼちゃを次々とお取りになるのを見た。
それで私はその日以後ずっとかぼちゃを好んで食べている。>
(ムスリム伝承 第3巻 154P)

この「かぼちゃ」をサヒーフムスリムの英語版は「pumpkin」と表示している。
アル=ブハーリーは日本語訳は「かぼちゃ」英語版は「gourd」

アラビア語原文では
「الدُّبَّاء」


「pumpkin」のアラビア語は
「قَرْع عَسَلِي」
(カルア アサリー)かぼちゃは 中央アメリカ原産で、西欧に紹介されたのは16世紀ではないかと思う。
預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の時代には アラビア半島には 中央アメリカ原産の かぼちゃは なかったはず。
この
「الدُّبَّاء」
は うり科であることは 確かだと思うのですが、「かぼちゃ」と日本語訳をあてるのは どうでしょうか。

スクワッシュとかズッキーニはアラビア語では
「قرع」「كوسة」

辞書には他に
「يَقطِين」
ともあります。



このフォーラムでは「スクワッシュ」になっていますね。

このサイトには「gourd」でも「bottle gourd」(夕顔)と特定しやすい表現になっています。「夕顔(かんぴょうの材料になる)」はもちが悪いのでスンナとして食べるなら冬瓜(wax gourd)でも可でしょうか。
アッラーフ アアラム

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

200のハディースその35

2012-09-22 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

強い信者と弱い信者(さまざまなハディースより⑩)

 《アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い様(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「強い信者と弱い信者とでは、双方ともに良い点があるとしても、強い信者の方がより良く、威力並びなきアッラーも強い信者をより愛で給います。双方とも良いのですが、自分のためになることを追求しなさい。アッラーの助けを乞い願いなさい。闘いにおいて逃げ腰になってはいけません。何か、災難があっても、『もしあの時ああしていれば云々。』と言ってはなりません。『アッラーが予定していらしたのです。アッラーがお望みになったことをさなったのです。قَدَرُ اللهَِ ما شاءَ فَعَلَ』と言いなさい。『もし』という言葉は悪魔の仕事を開始させるのです。」(ムスリムによる伝承)(注:強い信者とは、心身ともに健全な信者のこと。闘いとは、軍事的衝突のほか、日常におけるあらゆる努力を意味する。)


 アッラーは、戦いなど非常時において、率先して行動する者を強い信者として愛でられ、戦いに参加するものの、弱音を吐き逃げ腰になる者を弱い信者とみなします。弱い信者の一例として、過去にこだわる人の例が述べられています。
 終わってしまっている過去は誰にも変えることはできません。災難に遭い、「もしあの時ああしていれば・・・」と後悔し、自分を責めて落ち込んだり、あの時のことを思い出して愚痴を言う人たちは弱い信者になります。あの時、あなたにそのような出来事が起きたことは、すでにアッラーが予定されたことであり、アッラーが望まれていたことだと理解しなければなりません。あの時の行為は自分にとって最良の選択であったと思うことです。それは、アッラーが私にお与えになったもので、私の人生なのだと前向きに受け入れることです。別のハディースには、こうあります。「イスラームに帰依した者、生活可能限度の糧を与えられている者、そしてアッラーがお与えになったもので満足している者は成功した者である。」(ムスリムの伝承)
 ですから、私たちが過去に対して、「もし」という言葉を発することは、アッラーの計らいに対し不満を述べることになります。また、「もし」という言葉を言い続ける限り、悪魔と歩調を合わせることになるので、厳しく慎まなければなりません。
 一方、平時における強い信者を考えてみますと、社会的に影響力を持つ人とは、財力を持っている人や、その人の言動が社会に影響を及ぼす人たちです。財力のある人はザカートやサダカを通して、マスジドや学校などの建設資金を提供したり、援助を必要としている人たちに金銭面で支援したりしてムスリム社会に貢献します。また、政治や教育、文化活動や伝道活動を通してムスリム間の連帯や啓蒙に貢献する人たちも社会的に影響力を持つ人たちです。
 真っ当な人とは、目立った財力や社会的影響力がなくても、自分の与えられた仕事に誇りを持って、たんたんとこなし、自己を高める人のことです。この社会的影響力を持つ人と真っ当な人たちが信者として自覚を持って行動すれば、ムスリム共同体は強固なものになるでしょう。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



200のハディースその34

2012-05-03 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم


満腹を避ける(さまざまなハディースより⑨)

 《アブー・カリーマ・アル=ミクダーム・イブン・マアディーカリブ(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い様(صلى الله عليه و سلم)が、「人にとって最もいけないことは満腹になることです。背筋を真っすぐに保つには少量の食べ物で十分です。それが無理なら、三分の一を食べ物のため、三分の一を飲み物のため、三分の一を呼吸のために空けておきなさい。」といわれるのを聞いた。》(アッティルミズィーによる伝承)




 食は生命を保つ本源でありますが、食の取り方が、体のみならず人間の生き方にも大きな影響があることが、このハディースから学ぶことが出来ます。
 腹八分目に医者要らずといわれ、満腹になるまで食べず、適量に済ませばお腹をこわすこともなく、医者にかからなくて済むことは、多くの人が知るところです。医食同源という言葉もあり、食を慎むことは健康維持につながります。
 このハディースでは、食べ物と飲み物に三分の一ずつとありますから、腹八分目より少なく、腹六分目を勧めています。その効用については、医者が、小食は健康の原点であるとして、小食療法を取り入れ、治療に応用していますから、科学的根拠があります。
 満腹により、腹の皮が張れば、目の皮がたるむ、と言うように、多く食べると眠くなります。食べすぎると、背筋がまっすぐにし、仕事をすることが難しくなります。
 そして、食べ物を頂くときですが、他のハディースに、「隣人がかたわらで空腹を抱えている時に腹一杯食べる物は、信者ではなりません。」アルバイハキー「信仰集成」)とあります。種類豊富な食べ物に囲まれているわたしたちは、アッラーに感謝すると同時に、日々ひもじい思いをしている人に思いをはせる飲食マナーが求められます。食を通じて慎み深さを養い、飽食したり、美食を追い求めることを避けなければなりません。
 また、食事の作法について、次のようなハディースがあります。「アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は食事をされた時には使用された三本の指をお嘗めになっていた。そして『誰のものでも一口程の食べ物が落ちた時は、付いたものを取り除いて食すがよい。シャイターン(サタン)にそれを放置してはならぬ。』と仰った。そしてわれわれに皿に付いている物もきれいに食すことをお命じになり『まことに、あなた方が食べ物のいずれの部分に祝福があるのか分からないであろう』と仰った。」(ムスリムによる伝承)
 お皿に盛られた食べ物を頂くマナーがあり、それも、盛り付け前の使われていないお皿のようにすることを聞いて、深く考えさせられました。そのあまりの謙虚さに驚くばかりです。“もったいない”の極地と言ってもよいでしょう。
 これらのハディースから、飲食の慎みによって身を正し、人格が養われることが理解できます。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



200のハディースその33

2012-01-15 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

自ら死を望んではいけない(さまざまなハディースより⑧)

 《アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「誰でも死を望んではいけません。善人は善行を増すかもしれず、悪人は悪行を改める機会に出会うかもしれないのですから。」》(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承。引用はアル=ブハーリーの表現)
 《アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「誰も死を望んではいけません。死が来る前に死を祈願してはなりません。死んでしまえばその者の行為は中断されてしまいます。信者が長生きすることは、唯唯良いことなのです。」》(引用はムスリムによる表現)




 始めのハディースは、人間には人生の最後まで、善き人間になる機会が与えられていること、二つ目のハディースでは、アッラーは、何の条件もつけず、人間が長生きすることを望まれているのだと受け止めました。
 人生に絶望し、生きる目標を失い死んでしまいたい、という衝動に駆られたら、このハディースの言葉を思い出しましょう。

 アッラーは、常に当人にとってプラスになる機会を与えてくださるからです。そのプラスの内容が、当人にはすぐに理解できないことがあります。聖クルアーンに、
【自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーはご存知です。】(2章雌牛章216節)
とあります。

 自分の好むことが、必ずしも自分に良い結果をもたらすとは限らず、反対に自分の嫌悪することが、実は自分にとって良い結果につながっていくかも知れないのです。自分に降りかかる出来事を自分の好き嫌いの感情で判断してはならないのです。現実を淡々と受け止めることです。

 アッラーは向上のための機会を与えてくださる。このハディースは、人生の目的の一つである人格の向上を思い起こさせ、死への思いを引き止める言葉として語られています。
 
 気持ちが落ち着いたら、「私の命は誰から与えられたか。」、「人生の意味を与えられたのは誰か。」と考えましょう。そこには、アッラーしかいないのではないでしょうか。ですから、人は
【アッラーの慈悲に対して絶望してはならない】(39章集団章53節)
のです。

 二番目のハディースの、信者が長生きすることは、ただただ良いこととは、アッラーに感謝する人、頂いた命を大切にする人たちは、生きることそのもの、生きる行為が善であると言われている気がします。長生きし、生きていて良かったと感謝の気持ちを持ち、人間は生かされていることに気づくだけでも人格の向上の一つにつながると思います。アッラーの慈悲に対し、長寿を感謝しましょう。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



200のハディースその32

2012-01-04 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

試験を受け入れる(さまざまなハディースより⑦)

 《アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「アッラーが誰かに良きことを望まれると、その者に苦難を与えて試されます。」》(アル=ブハーリーによる伝承)
 《アナス(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「アッラーが僕に良きことが望まれると、その者の罪に対する懲罰を審判の日に執行するまでに保留されます。」預言者(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「大きな報酬は大きな試練と共にあります。至高なるアッラーは、人を愛すればこそ試されるのです。そして、その試練に満足する者はアッラーの御満足を得ます。また、その試練を不満とする者は、アッラーの怒りを得ます。」》(ア=ッ=ティルミズィーによる伝承)




 人は人生において様々な試練を受けますが、自分の願いや目標を達成するために予想される試練は、ある程度は納得し我慢できます。しかし時として、予想もしない苦難を伴う試練に出会うことがあります。たとえば嘆く以外になすすべもないような苦難に遭遇した時、どこにも逃げ場がないような境遇に置かれた時、耐え忍ぶ以外に方法がない時などです。
 なぜ、私は、こんな目にあわなければならないのか、自分には非は無いのに、と疑問が生じた時、実はそれには、深い意味があるのだと、このハディースが教えてくれます。
 その意味は、苦難を伴う試練はアッラーからのお試しであり、それに耐える人には、多大な報奨が約束されるということです。また、試練を受ける人は、その人がアッラーに愛され、導かれる人であるというのです。また、苦難は、アッラーがその人に良き事を望まれるためでもあると述べられています。そして、導かれる人は、自分が犯した罪を、審判の日にではなく、前もって現世で精算を済ましてくれるというのです。審判の日に何も心配することがないことは素晴らしいことです。
 試練を、アッラーに仕える者の証として素直に受け入れ、耐え忍べば、必ず良いことが待っているのです。その良きことは、現世で実現するかもしれませんが、来世では必ず実現するでしょう。試練は未来を保証されるためにあると、受け止めることです。
 もし、このハディースの教えを知らなかったら、この世は不公平だらけだとして、人を恨み、社会を恨み、自分の人生を呪っていたかもしれません。しかし、今や、苦難の意味を理解した人は、どんな苦難に直面しても窮することはありません。最悪の事態に陥ったとしても、決して落胆せず、不満をいわず、受け入れるでしょう。アッラーのご配慮により、自分に最も相応しい所に行き着くことを知っているからです。
 試練にあっても、全てをアッラーにお任せすれば、一番良い方向に導いていただけることが、このハディースを通して理解することが出来ます。私たちはどのような事態になっても、恐れることなく、アッラーに感謝する気持ちを持ちたいものです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその31

2012-01-03 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

厄災とあやまち(罪)の赦し(さまざまなハディースより⑥)

 《アブー・サイードとアブー・フライラ(رضى الله عنهما)によると、預言者(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「ムスリムを襲う災い、病、心配、悲しみ、苦悩は、針の一刺しに至るまで、アッラーはそのことによって、必ずその者を過ちを赦し給います。」(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承)》
 《イブン・マスード(رضى الله عنه)によると、私が預言者(صلى الله عليه و سلم)を訪ねた時、彼は熱を出していらした。「アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)様、激しい熱に襲われていますね。」と私が言うと、「どう、私はあなた方二人の男が熱を出しているかのような高熱を出しています。」と言われた。私は、「あなた様は二つの報奨を得ていらっしゃるということなのでしょうか。」と尋ねると、「そうです。ムスリムが針、あるいはそれ以上のものによって危害を受けたなら、アッラーはその見返りに、その人の悪行を御赦しになります。そして彼の罪は木が葉を落とすように、その人から落ちてしまうのです。」と答えられた。》(アル=ブハーリーによる伝承))




 人が突然災難に見舞われた時、不慮の事故に遭遇した時、病気で苦しんだ時など、当人の受ける精神的な苦しみや悲しみ、痛みや不安に対し、周りの人が出来ることは、慰めや励ましの言葉をかけることです。それで元気付けられたと感じる人もいるでしょう。

 これに対し、アッラーは人間の創造主でありますから、どんな小さいことも隅々まで把握されていて、精神的・肉体的苦痛や不安に耐えている気持ちなどは、当人と同じようにご存知です。当人が流す涙も、ため息も全て知悉なさっています。それはアッラーの御言葉
【本当にわれは人間を創った。そしてその魂が囁くことも知っている。われは(人間の)頚動脈よりも人間に近いのである。】(聖クルアーン50章(カーフ章)16節)
からも十分察することが出来ます。

 アッラーは私たちのすぐ近くにいらっしゃり、常に見守ってくださるだけではなく、私たちが受けた苦しみや痛みに対し報酬を与えてくださるというのです。その報酬とは、私たちの犯したあやまちや罪を赦し清めてくださることです。その赦された様子は、あたかも木から葉が落ちるように、あやまちや罪が消されるのです。

 このように、アッラーは災難にあった見返りとして、その悲しみが深ければ深いほど、痛みが大きければ大きいほど、その人の罪を軽くしてくださるのです。
 アッラーは当の本人の悲しみや痛みなど針の一刺しほどの小さなことも見逃さないお方です。そして、アッラーは人が絶望や孤独に陥らないように近くで見守っていらっしゃるわけです。その上に、あやまちや罪をも赦していただけるのですから、人間にとって最大の保護者といえます。この罪の赦しが、当人にとって最大の癒しとなり、悲しみや痛みにも耐えることができるのではないでしょうか。どのような局面においても、私たちはアッラーが常に人間を良い方向へと導いてくださるという安心感と有難さで満たされている存在であることは気づかされます。ですから、私たちは失意にあっても困惑することなく、泰然として態度を保ちたいものです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام





200のハディースその30

2011-07-03 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

旅人のごとく謙虚に質素に(さまざまなハディースより⑤)

 〈アブドッラー・イブン・マスウード(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)はござの上に寝られ起きると彼の体にござの跡がついていた、そこで私たちが「アッラーのみ使い様(صلى الله عليه و سلم)、私たちはあなたのために絨毯をご用意することができればよいのですが。」と言うと、彼は答えて言われた。「そうした俗事が私にとって何だというのですか。私は現世において、木の下に陰を求めて休息し、またそこを発つ一介の旅人のような存在に過ぎないのです。」〉(ア=ッ=ティルミズィーによる伝承)
 イブン・ウマル(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い様(صلى الله عليه و سلم)は私の肩に手を掛けて言われた。「現世にあっては異邦人か旅人のようでいなさい」(アル=ブハーリーによる伝承)



 人間はいかに生き、いかに死ぬかを簡潔に表現した言葉です。み使い(صلى الله عليه و سلم)は貧しさからござを使用したわけではなく、質素な生活を尊び、あえて選んだのです。この背景を知るにはみ使い(صلى الله عليه و سلم)の生涯を知る必要があります。
 預言者ムハンマド(صلى الله عليه و سلم)は生まれたときにすでに父は亡くなっており、6才のときには母が病死しました。幼少期に孤独を体験されています。8才までは祖父に養育され、その後叔父に引き取られ隊商交易の仕事を手伝うようになります。12才のときシリアのブスラーで修道者から預言者になることが告げられます。25才で結婚し裕福な貿易商人として暮らし、40才から預言者としての活動が始まります。教団の長として常に敬意の情を持つ従者たちや多くの援助者に囲まれていましたから、寝るための絨毯はすぐに用意される身分でありました。しかし、預言者(صلى الله عليه و سلم)は生涯を振り返ります。孤児だった自分を庇護し、貧しい境遇から裕福にされたのはアッラーの恩恵であることを自覚されていました。(聖クルアーン93章〔朝章〕を参照ください)
 預言者(صلى الله عليه و سلم)は、この世の生活は全てアッラーからの恩恵であり、生かされているのもアッラーの御力であることを十分に認識されていました。生死は人間の大事ですが、人間は死期を悟ることが出来ません。預言者(صلى الله عليه و سلم)はいつ死の迎えがきてもいいように準備されていたのです。「死の支度」として、旅人のごとく身の回り品は必要最低限のものをまとめておく必要があります。来世に持っていくことが出来るのは権勢でも富でもなく、自分の行いだけだからです。来世を意識する旅人は、自分も大自然の一部であるがごとく謙虚に木陰に身を寄せる姿になります。人は生まれた時もひとりであり、死ぬ時もひとりです。普段の生活でも、周りに助けてくれる人がいない異邦人のごとく謙虚に振る舞い、質素な生活をするのがよいと諭されているような気がします。人間はアッラーの許からこの世に送られ、地上での務めを終えるとアッラーの許へと再び旅発つのです。いつ帰って来いと、お呼びがかかっても、この世に思い残すことなく戻る心構えが必要です。誰もがアッラーの御許に帰ることを心に留め、自分が今、死んでアッラーの御前に立てるかと問われたとき、素直に受け入れる心の準備と善い行いを残したいものです。

聖クルアーン93章〔朝章〕
【1朝(の輝き)において、
2静寂な夜において(誓う)。
3主は、あなたを見捨てられず、憎まれた訳でもない。
4本当に来世(将来)は、あなたにとって現世(現在)よりも、もっと良いのである。
5やがて主はあなたの満足するものを御授けになる。
6かれは孤児のあなたを見付けられ、庇護なされたではないか。
7かれはさまよっていたあなたを見付けて、導きを与え、
8また貧しいあなたを見付けて、裕福になされたではないか。
9だから孤児を虐げてはならない。
10請う者を撥ね付けてはならない。
11あなたの主の恩恵を宣べ伝えるがいい。】
日訳 784p&785p

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



200のハディースその29

2011-07-03 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

アッラーから愛でられること(さまざまなハディースより④)

 〈アブー・アル=アッバース・サハル・イブン・サアド・ア=ッ=サーイディー(رضى الله عنه)によると、ある男が預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の許にやって来て、「アッラーのみ使い様、もし私が実行すれば、アッラーが私を愛でられ、また人々も私を愛してくれるような行いについて教えてください。」と言うと、答えて言われた。「現世において禁欲的でありなさい。そうすればアッラーはあなたを愛で給うでしょう。人々の所有する物を欲しがらないことです。そうすれば人々はあなたを愛してくれるでしょう。」(イブン・マージャによる伝承)


 (原訳者注:「禁欲的」とは、世俗の雑事にとらわれないこと。金品、財産、名声、指導者としての地位を得ようと心を砕くことはせずに素朴な生活をするようにと説かれている。)

 アッラーから愛され、好かれるために禁欲的であることとあります。禁欲的と言われると、難行苦行といわれる修行をすることや、好きな食べ物や性欲などを断つことを連想しますが、ここでは一般的に考えられる禁欲とは意味が異なっています。注では、世俗の雑事にとらわれないこととありますが、これは日常の中でなにがあっても一喜一憂しないことを私は考えます。また禁欲的とはお金持ちになりたいとか、有名になりたいという世俗的欲望にとらわれないことだとも言っています。そうしますと、自己をより高め精神的に成長することを望んで禁欲しようと思った場合は、人間に本来備わっている生理的欲求を抑制するっことや荒行をすることではなく、日常生活の中で他人と関わりながら、個人の利己的な感情や欲望を統御することの方がアッラーから賞賛され愛でられるのだと理解しました。
 つまり、生活上必要な世俗的事柄、即ち生計のために稼ぎ、そのお金で買い物や余暇を楽しんだりすることなどは認められますが、それが過剰な欲求、強欲に変身してはならないということです。
 金銭欲、物欲、出世欲、名誉欲等に振り回されて自分を見失ってはならないことです。そのような気持ちを持つためには、今、自分が生かされていることに感謝することであり、それにより謙虚さが生じ欲望に走ることが少なくなると考えます。
 次に、人々に愛されるにはどうしたらよいかの問いに対し、他人の所有するものを欲しがらないことだとあります。他人の物に目がいくのは、現在自分にあたえられているものに満足せず、感謝していないことが考えられます。人間の欲望には限界がありませんから、他人のものを欲しがる人は、それを得たとしても、また別の物が欲しくなるでしょう。時には自分のものにならない不満から、その人に対し嫉妬や反感を持つようになるかもしれません。このような人は人間関係を悪化させます。それに対し、今の自分に満足している人には気持ちに余裕が生まれますので、他人の物を欲しがることはないでしょう。周りの人も安心して付き合うことができます。それが人から愛され、好かれることにつながると思いました。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام





200のハディースその28

2011-07-02 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

アッラーに敵対する者(さまざまなハディースより③)

 〈アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、預言者さま(صلى الله عليه و سلم)は言われていた。「至高なるアッラーが仰せられた。『審判の日に、我が敵対する三人の者がいる。わたしの名において与えることを約束しながら、それを果たさない者、自由人を売ってその代金を食い尽くす者、労働者を雇って、その労働者が充分な成果を上げているのに彼に報酬を与えなかった者」(アル=ブハーリー)



 「偽善者の印は三つあります。それは、話をすれば嘘をつき、約束をすればだまし、信頼されれば裏切る、ということです。」(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承。原訳者注:偽善者とは、イスラームの信仰を口で表明しておきながら、その教えに従わない者のことをいう。)

 約束を守ることは、ムスリムの義務であることは自明のことです。
【あなたがた信仰する者よ、約束を守りなさい】(クルアーン5章食卓章1節 日訳123p)
とアッラーの御言葉があります。またアッラーの名において約束したことは、アッラーと約束したことに等しくなります。ところが約束を破る人は、そこまで深く考えていないようです。最初の人は、アッラーの名において約束したのに、与える段になって自分の都合を優先する人です。アッラーの名において約束したことを違えることは、自分がアッラーに生かされている存在に過ぎないことを忘れています。その恩を忘れたときその人は傲慢な存在となります。本人はアッラーに敵対するなどと考えていないかもしれませんが、審判の日に
【アッラーとの約束は、(必ず)尋問されるのである。】(クルアーン33章部族連合章15節 日訳512p)
 二人目の人は、許されない行為をする人のことです。売買の対象にしてはならない自由人は同胞であり共同体(ウンマ)の一員ですから私利私欲にかられて仲間を売る行為は、同胞を守ることを忘れた人間として審判の日に厳しくとがめられる対象となります。
 三人目の人は、労働者を雇い、その仕事に見合った報酬を支払わなかった人ですが、これは働く人の生計手段を奪うものであり、さらに共同体の信頼基盤を脅かす行為となります。
 これら三人は、審判の日に失敗者となる次のアッラーの御言葉を思い出さなければなりません。
【確約しておきながら、アッラーとの約束を破る者、アッラーが結べと命じられたものから離れ、地上で悪を行う者、これらの者は(等しく)失敗者である。」(クルアーン2章雌牛章27節 日訳5p)
【あなたがたがアッラーと約束を結んだ時は、誓約を成し遂げなさい。誓いを確証した後、それを破ってはならない。あなたがたはアッラーを、はっきり立証者としたのである。本当にアッラーは、あなたがたの行うことを知っておられる】(クルアーン16章蜜蜂章91節 日訳334p)

 約束を破ることが偽善者となる他のハディースを並べたのは、偽善には広い意味があり、うわべだけのよい行いをするだけではなく、イスラームの教えに反して共同体や同胞をないがしろにする人も含まれるからです。このことから、アッラーの名において約束する時には、アッラーを畏怖する気持ちを忘れてはなりません。


アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام





200のハディースその27

2010-09-27 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

祈りに応えられるアッラー(さまざまなハディースより②)

 〈アナス(رضى الله عنه)によると、預言者さま(صلى الله عليه و سلم)は常々言われていた。「アッラーよ、心配、悲しみ、弱さ、怠惰、吝嗇、負債、人々からの迫害から私をお守りください。」اللهم أعوذ بك من الهم والحزن،والعجز،والبخل والجبن ،ضلع الدين و غلبة الرجال アッラーフンマ インニー アウーズ ビカ ミナルハンミ ワルハザン。ワルアジュズィ ワルカサル。ワルブフリ ワルジュブン。ワ ダライッダイニ ワ ガラバティッリジャール〉(アル=ブハーリー)


 この祈りの言葉は預言者ムハンマド様(صلى الله عليه و سلم)も悩みや心配を持つひとりの人間であることを表していますが、普通の人との決定的な違いは預言者さま(صلى الله عليه و سلم)がウンマの統率者であり最高指導者であったことです。頂点に立つ人が祈りをささげていたことに、ウンマを率いる重責感が伝わってきます。私の感じた言葉の背景とこのハディースとは直接関係はないのですが、クルーアンの言葉を並べてみました。
 
 心配:ウンマの指導者として人々を正道に導いているか、アッラーから与えられた使命と十分に果たしているか、反省と責任感による心配。
【かれらを(正道に)導くことは、あなた(ムハンマド)の責任ではない。アッラーは、御心に適う者を導かれる。】(2-272)
 
 悲しみ:ウンマ建設のために生死を共にしてきた教友を失った悲しみを受け入れなければならない時。
【アッラーの道のために殺害された者を、死んだと思ってはならない。いや、かれらは主の御許で扶養されて、生きている。】(3-169)
 
 弱さ:自分の判断に絶対の自信や確信が持てなかった時。
【アッラーは、あなたがたを弱い者に創られ、それから弱い者を後で、強壮にされ、強壮な者を弱い白髪になされる。かれは御自分の望みのままに創られる。かれは全知にして全能であられる。】(30-54)
 
 怠惰:自らの使命に対し気を緩めそうになり自己を叱咤した時。
【あなたがた信仰する者よ、アッラーを畏れ自分の義務を果してかれに近づくよう念願し、かれの道のために奮闘努力しなさい。あなたがたは恐らく成功するであろう。】(5-35)
 
 吝嗇:アッラーの道のために財産を費やすことに迷わないように自戒された時。
【言ってやるがいい。「仮令わたしの主の慈悲の宝物があなたがたの手中にあっても、それを費やすことを恐れて、あなたがたは必ず仕舞込むことであろう。」人間は常に吝嗇である。】(17-100)
【施した良いものは、完全にあなたがたに返されよう。】(2-272)
 
 負債:負債を持たず、また死後に負債を残すことを恐れた時、他のハディースに、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は、「殉教者は(人と人の間における)負債を除き、全ての罪は許される」とおっしゃています。負債を救済するための行為は施し(サダカ)となります。

 迫害:イスラームの宣教を開始してから預言者さま(صلى الله عليه و سلم)や教友たちは幾多の迫害を受けました。特にマッカ時代に受けた迫害は過酷なものであったでしょう。
【わが道のために迫害され、また奮戦して殺害された者には、われはきっとかれらから凡ての罪業を消滅して、川が下を流れる楽園に入らせよう。」これはアッラーの御許からの報奨である。アッラーの御許にこそ、最も優れた報奨がある。】(3-195)
【われは本当に(しもべたちの)近くにいる。かれがわれに祈る時はその嘆願の祈りに答える。】(2-186)
とあるようにアッラーは常にわたしたちを見守っていらっしゃいます。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام


200のハディースその26

2010-09-27 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

アッラーの恩恵(さまざまなハディースより①)


〈アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「自分よりも地位の低い者に目をやりなさい。自分よりも地位の高い者を見てはいけません、あなた方に対するアッラーの恩恵を軽んじないためには、そうすることが最も適当なことです。」〉(ムスリムによる伝承)

 上記と同じような内容を伝えるハディースがあります。「あなたたちは、富や体格において優れている者を(うらやましく思いながら)見る時には、その優れている人に比較して、より劣っている人のことを思うべきである。」(ムスリムによる伝承)
 人は自分より地位が高く、裕福fらり、また容姿の優れた人ばかりを気にしだすと、自分が恵まれていないと感じ自分の境遇を恨み、嫉妬にとらわれるかもしれません。これは何でも自分の思い通りになるという人間の力を過信するところからきます。一般的に言えることは、地位が高い人はその地位にいる力量がある人たちです。社会的地位はそれに相応しい人がなっています。その地位にいるには、それなりの理由があり評価を受けているからです。その道理が分からない人が他人と比較し苦悩するではないでしょうか。
 自分の地位や経済状態に不満を持つ人の中には社会に正義が行われていないとして、社会を悪者扱いします。また容姿に不満を持つ人は自分の親に対し不満を持つかもしれません。このような人は人間が生かされている存在だという謙虚さを忘れた人で、どんなに良い生活が与えられても満足することはないでしょう。当然アッラーの恩恵など思いもしないでしょう。そこで預言者さま(صلى الله عليه و سلم)はそのような不満や悩みを持たない方法として、自分よりも優れている人と比べてはならない、下の人を見てみなさいとおっしゃっている訳です。自分よりも下の者に目をやるといっても他人をさげすむことではなくて、その人と比べ自分は恵まれていることに気づき、その恵まれていることに感謝するということです。
 また、下位を見られる人でも、自分を劣っているとは考えず、一つの試練を与えられているのだと受け止める姿勢が求められます。人はその試練をアッラーがこれから善い事を与えてくれるための徴であると考え、それをアッラーの恩恵と受け止めるのです。たとえば事故や病気になったとしたら、その現象はその人に何かを気づかせるアッラーからの徴であると受け止めるのです。健康のままであったら自分が知ることの出来ないことが、事故や病気を通して知ることが大いにあるからです。アッラーの存在もその一つです。そう考えると今の自分の境遇に対して謙虚な気持ちとなり、他人と比較して優劣を競うことは無意味なこととなり、どのような境遇にも平然とする気持ちが持てます。
 下の立場になろうと、上の立場になろうと常に謙虚な気持ちを持ち、この世はアッラーの恩恵に満ち溢れていると悟ったとき、人は物事を一喜一憂することもなく心も平穏になります。その平穏さを与えてくれるお方がアッラーです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام


 

200のハディースその25

2010-05-05 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

欲望について(心の豊かさとは)

〈アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「富裕とは財が豊富なことをいうのではありません。富裕とは心が豊かなことです。」〉(ムスリムによる伝承)
 〈アナス・イブン・マーリク(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「アーダムの子(عليه السلام)に涸れ川(ワーディー)程の金があったとしても、さらに別の涸れ川程の金を欲するでしょう。土以外にその者の口を満たすものはありません。アッラーは悔悟する者を赦し給います。」〉(ムスリムによる伝承)
 (注1:アーダム(عليه السلام)の子どもは人類のこと。人類はみなアーダム(عليه السلام)の末裔である。注2:〈土以外にその者の口を満たすものはない〉とは、「死以外にその者の欲望を止めるものはない」という意味。)


 富裕とは金銭や物など財産が沢山あることではなく、心が豊かなことであります。心の豊かさについてこれだという定義がありませんが何となく感じることができるものです。少なくとも心の豊かな人は欲望や執着心にとらわれないでしょう。二つ目のハディースでは欲望の一つである物欲について述べられています。物欲にとらわれると、欲望の上限がなくなり、たとえ河床に積まれる程の金があてもまだ不足を感じ、まだ足りないまだ足りないと思いその欲求は墓場に入る迄とどまることをしません。人間の欲望には終わりがなく欲望の虜になった人は、他人の物までも奪いかねません。この誰にでも生じるかもしれない欲望をコントロールし、必要以上に物を求めず、今持っている物で満足する「足るを知る」人が心豊かになれそうです。
 心の豊かさを考えるものとして、食べ物についてのハディースがあります。
〈一人分の食べ物は二人を満足させ得るし、二人分の食べ物は四人を満足させ得る。また四人分の食べ物は八人を満足させ得る〉(ムスリムによる伝承)食べ物は分け合えば余り、奪えあえば足りなくなるものです。食べ物に限らず、もし時間があればボランティア活動などに参加するなど、自分の持っている物を喜んで提供できる人は心豊かな人となります。物や時間は限りあるものであり誰にとっても貴重なものです。その大切なものを惜しまずに与え、与えても自分の不足しないと考える人は心豊かな人であり、他人を思いやる心の持ち主となります。
 このように考えますと心が豊かなことは、内面の美しさが人間の本当の美しさであると教えている気が致します。アッラーは〈本当にアッラーはあなた方の外見や財産をご覧になっているのではなく、あなた方の心と行為とをご覧になっているのです。〉(ムスリムによる伝承)とあり、真の美しさは内面にあるとしています。お金も時間もアッラーから委託されているものと受け止め、その預かりものを分け合い善用することが人間の務めとなります。そしてアッラーは欲望にとらわれた自己に気づき悔悟する者はいつまでも受け入れてくださるのです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام