ヒースつれづれ

東京国立バー・ヒースのマスター大川貴正のブログです。

スカイラインGT誕生物語 その7 第2回日本グランプリ5

2009-03-30 02:07:39 | 日記・エッセイ・コラム

 1位でポルシェがゴールし
2位から6位を次々ゴールインする
スカイラインを見て観客からは
雄姿ポルシェに対しても
勇姿スカイラインに対しても
大声援といつまでも続く拍手が
送られた。

翌日のスポーツ新聞は
泣くなスカG
と大見出しを掲げ、スカイラインGTへの
最大限の賛辞とねぎらいを報じた。
 スカイラインGTを略して
スカG]と呼ぶ習慣はこのとき始まった
ものである。
 また記事の中でスカGは
羊の皮をかぶった狼
と評され、この言葉はその後
スカイラインのCMのコピー
として定着していく。



スカイラインGT誕生物語 その6 第2回日本グランプリ4

2009-03-30 01:38:45 | 日記・エッセイ・コラム

 果たして、
第二回日本グランプリ GTⅡクラスは
レーシングカーのポルシェ904GTS
 2000cc水平対向4気筒 180馬力 と
市販車のバージョンアップ版・プリンス
スカイラインGT
   2000cc直列6気筒 152馬力
の一騎打ちとなった。
圧倒的なパワーとレーシングカー
であることの軽量設計も手伝い、
レースは序盤からポルシェが優勢
であった。

 ここで伝説となった6週目が訪れる。
というより、スカイライン神話は
1964年・昭和39年5月2日 第2回
日本グランプリ 鈴鹿サーキット
GTⅡクラス 6週目
から端を発するのである。

 ポルシェがカーブで周回遅れの車を
抜くのに手間取っている隙に
プリンスのエースドライバー生沢徹が
操縦するスカイラインGTがポルシェを
抜いてトップに出た。
 圧倒的有利が予想されたポルシェを
従えてトップを走るスカイラインGTが
メインスタンドの直線を走る姿を見ると
数万の観衆は大声援を上げて総立ち
となった。

その後すぐに抜き返されたとはいえ
たった一週でもポルシェをしかも
レーシングカーを追い抜いたこの
状況を見て、人々は初めて
プリンスの技術力を見せつけられた。
「またスカイラインがポルシェを抜いて
くれるかも知れない」
観客は最後まで一瞬たりとも
目を離せないレースだった、
といわれている。

 


スカイラインGT誕生物語その5 記念すべき第2回日本グランプリⅢ

2009-03-29 23:22:16 | 日記・エッセイ・コラム

 ポルシェの車は、正確には
「904カレラGTS」で
レーシングカーであり、本来なら
別のクラスで競うべき車だが
すでに100台以上が生産され
このクラスへの出場も認可が
可能であった。
 しかし、自動車レース本場の
ヨーロッパから、しかも
フェラーリと並ぶ王者ポルシェが
当時、自動車中進国であった日本の
レースに出場することは
果てまた、自らが持つポテンシャルより
下位のクラスに出場するとは
予想もできぬことであった。

 ポルシェで出場の式場壮吉は
トヨタのエースドライバーであるが、
この時は個人出場である。
が、ポルシェを空輸で緊急輸入し
車の代金の他に諸経費を加えると
1000万円近くの費用であろう。
今に直せば2億円近くの金額になる。
また当時は自動車輸入自由化以前のこと
であり、個人輸入することなど果たして
できたであろうか。
 これらのことから、何らかの形で
トヨタのバックアップがあったのは
公然の秘密であった。

 トヨタとしては、自らグランプリレース
で勝利できないとしても、何としても
プリンスの優勝だけは阻止したかった
のであろう。
 それほどレースの結果が
車の販売に大きく左右した時代であった。