ヒースつれづれ

東京国立バー・ヒースのマスター大川貴正のブログです。

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日本のバー文化へのメッセージ  後編

2019-06-24 21:48:46 | 日記・エッセイ・コラム
シューマン氏や井山氏の動作・動きには無駄がない
飾りもない
あるのは美味しいカクテルを短時間で作ろうとする
合理性だけだ
特に1950年代から活躍されている井山氏のカクテルを
作るその風景は欧米のバーテンダー達そのものだ
そして寸分の狂いもない
まるでダンスをしているかの様なシェーキングや
大仰な注ぎ方もない

それを二本のドキュメンタリー映画は
軌道修正とまではいかないまでも
元来バーとはこんな感じで、と
振り返るきっかけを作ってくれていると思う
勿論どんな仕事にだって技術や知識は必要なものだし
大切な要素である
が、それらが一人歩きしてしまうと何かを見失って
しまうのではないか
それらの中にある文化という様なものを
少なくともその文化のオリジナリティーを尊重しなくては
ならないのではないか

例えば想像してほしい
金髪の青い目をした板前さんが
独自のポーズで寿司をにぎったり
オリジナルな味付けをしたり
サケを冷やしてワイングラスで出したり
温度計で燗の温度を計っていたら
まあそれもありかもしれないけど
本来の日本の文化とはかけ離れていってしまうだろう
我々日本人が欧米のバー文化を体験するということは
その裏返しなのだ

そんなことをふと確認させてくれる二本の映画は
日本のバー業界にとって
平成の時代をしめくくる
そして新しい時代に向けての
メッセージなのだ
と私は思う
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日本のバー文化へのメッセージ 前篇

2019-06-16 20:37:19 | 日記・エッセイ・コラム
2019年、平成31年は私にとってまた新たな節目の
年になった。
感動できるバーテンダーのドキュメンタリー映画を
2本も観ることができた
ドイツのシューマン氏と日本は山形の井山氏の
ドキュメンタリーである
常に心がけていたこと
そしてわが師である松下安東仁氏に教わった非常に
基本的なことがこれらの映画で確認できた

日本は第二次世界大戦後に主にアメリカの影響で
バー文化が急速に発展してきた
それ以前は主に英国を手本としていたけど
その当時はウィスキーやカクテルそしてバーなどの
酒場は一部の上級な人達や文化人たちのものだった
そして日本のバーテンダー達はダイレクトに
バーの文化をとり入れていた
いつの間にか日本の独自性が強すぎるように
なってしまったと感じている
勿論日本独自のオリジナルなエッセンスを融合
させることは賛成だけれど
カクテルやウィスキーが一人歩きしてしまって
欧米の飲食文化の一つだということを忘れてしまい
バーテンダーの側もお客様の側もひたすら
カクテルやウィスキーそのものを追求していくような
風潮になってしまったように思う

元来、欧米の飲食は日常の家庭でのことは別として
外食をするような場合
食前酒・食中酒・食後酒などの概念があって
そのシチュエーションに応じた酒を楽しむものだ
食中はワインか一部はビールとして
その前後にカクテルやウィスキーが登場することが多い

日本の様に数件のバーをハシゴしながら
あれこれとカクテルを飲み比べたり
年代物のウィスキーを目くじら立ててテイスティング
するような風景は欧米ではまず見かけないし
彼らにとってはとても奇異に映るであろう
挙句の果ては何とかチャンピオンだから美味しいとか
どこかで金賞をとったウィスキーをプロが使う脚付きの
テイスティンググラスでスポイトで加水しながら
自らが評論家気取りよろしくウンチクをたれながら
楽しんでいる(?)様子は、今や日本の
バー文化風物詩になっている

         つづく
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リスペクテッド・レディース 3 田代久美

2016-08-31 15:15:38 | 日記・エッセイ・コラム
   「生涯一女優」

 もうかなり前に田中絹代生誕百年の記念本が
出版されました。
その時、亡くなってからもうすでにずいぶんと経って
いたので、今ご健在なら世界最高齢近くになっている
かもしれません。

 田中絹代というと、小津安二郎作品の山の手の母親役や
「前略おふくろ様」の老いたる母のように
温厚なイメージがあると思いますが
伝えられている彼女の素顔は破天荒でガラッパチな
お転婆さんのようです。
 ある監督と同棲している時に、ケンカになり
「そんなこと言うならオシッコしてやる!」
と言って、本当に布団の上に放尿したこともあるらしいです。

 私がこの女優さんで印象に残っているのは、やはり
「サンダ館八番娼館」という名作映画です。
「からゆきさん」といわれた海外に出稼ぎに行った、
又は行かされた貧しい娘が主人公で
前半を高橋洋子が好演し
後半生を田中絹代が演じました。
 「下手上手(へたうま)」という言葉がありますが
お世辞にも演技巧者とはいえない彼女が
映画史に残る熱演で
若い頃にボルネオで娼婦として生きなければならなかった
哀しい老女を再現しました。

 実際にどうだったのかは良く識りませんが
私が思うにこの方は多分世渡りがあまり上手ではなかった
のではないかと思います。
何故ならば、あんな大女優であったにもかかわらず
後年は脇役に甘んじることが多かったからです。

 これもかなり古い作品ですが、有吉佐和子原作の「香華」
という作品があります。
 三度も結婚・離婚を繰り返す奔放な母を音羽信子が、
そのとばっちりを受けて
縁薄く苦労する娘を岡田まり子が演じましたが、
その母の母役を田中絹代が特別出演的にチョッとだけ
付き合っているのですが、
主演の二人を凌駕するほどに凄まじい怪演でした。
 狙ったのかどうかは私には判りませんが
完全に主役の二人を喰った印象があります。

 そしてテレビだラマ、吉屋信子原作の「女人平家」。
主演は吉永小百合が清盛の双子の娘を二役務めていて、
吉永小百合がテレビドラマに出るようになった最初の頃
なので、当時話題を呼んだと思います。
 清盛の妻時子に有馬稲子、そして
娘達にも当時の美人女優が居並んで
一服の平安絵巻のように美しかったのを覚えています。
 吉永小百合が急死した双子の姉の代わりに
預けられていた寺から理不尽にも呼び返される役で
そのお守り役として呼び寄せられて彼女を優しく見守る役を
田中絹代が演じました。
 クレジット上は吉永小百合、有馬稲子のほうが上でしたが
この作品でも輝くいぶし銀(矛盾していてすみません)
の如く素晴らしい好演だったと思います。

 人生も演技も決して器用に立ち居ふるまえなかった人だと
思いますが、
生涯一女優として
彼岸に旅立たれたこの方の如く、
私も生きられたらなア・・と
一女として切ない思いで過ごしております。




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新幹線最初の苦情

2016-08-18 02:20:16 | 日記・エッセイ・コラム
 リオデジャネイロ・オリンピックで日本の選手が大活躍だ。
オリンピック大会は1964年・昭和39年の東京大会から
全世界に生放送されることになり
(1963年から衛星中継が始まったので)
以降、世界中の人たちが同時に
画面を通して観戦できるようになった。
 私がオリンピックの時に毎回必ず思い出すのが
1964年10月1日の東海道新幹線開業だ。
東京大会開会式の10日前だった。
オリンピックに合わせての開通だったので
本当にぎりぎりの発車ということになる。

 開通初日の一番列車で予期せぬ苦情が殺到した。
最初の新幹線ということで、
しかも短い工期で突貫で造った為
色々不具合が生じないようと、最初の一年間は
最高速度210kmのところを160kmに抑えて運転したのだが。

1994/5年頃、NHKの番組に開通した初日の
新大阪発一番列車の運転手さんが登場した。

「今だから言っちゃいますけど、
もう時効でしょうから。
当時はビュッフェにスピードメーターが
付いていたのです。
何せ世界最高速度の210kmの世界を初体験したい
一番列車のお客様ですから、
皆さんビュッフェに集まり、
今か今かと210kmを期待してスピードメーターを
ご覧になっていたのでしょう。
ところが、一年間は160km運転、
このことはあまり広くは発表されていなかったので
お客様たちはかたずをのんで待っているわけです。
やがてビュッフェのスタッフへ苦情が殺到し
{何故210km出さないんだ}
そこから車掌に、さらに運転手の私に連絡が入り、
実はこういうわけでビュッフェが大変な騒ぎに
なっています、と。
そこで私はとっさの判断で、反則なんですけど
ATC(自動列車制御装置)のスイッチを切り
数分だか10分だか忘れてしまいましたけど
210km出してしまったんです。
間もなくビュッフェからの連絡で
{お客様から大歓声が上がり
スピードメーターを記念撮影して
お席に戻られました}
ところが、問題は、
オーバースピードで走ったので
品川通過時刻が5分早くなってしまいました。
スピードをうんと落とし、徐行して
東京駅にピッタリ着けました。
一番列車ですから、ホームには
報道陣の方、鉄道ファンの方が
あふれんばかりの状態です。
一分たりとも、遅れても早くても
許されなかったんです」

 いい話ではありませんか、
列車内での事実をだれもつっついたり
とやかく言ったりせず、
何事もなかったように乗務記録が残され、
新聞には新幹線一番列車無事定刻で到着と報道され、
乗客たちはいい思い出を残しました。
何事も規則通りで、融通の利かない、世知辛い
どこかの国?とは大違いです。
 当時、鉄道少年だった私はオリンピックの時期が来ると
あの大成功を収めた第18回東京大会のことと一緒に
この東海道新幹線の開通のことを、
いつも想い出します。







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旧制中学のような  2

2016-07-24 22:05:44 | 日記・エッセイ・コラム
・ あるとき、同級生がタバコを吸ったか何かで
10日間の謹慎処分になりました。
謹慎期間が解けてその生徒はた父親に付き添われて
担任の先生に謝りにいきました。先生が
「また明日から皆で一緒に勉強しよう」
そしたら父親が
「先生、とんでもねえ、学校の謹慎期間が終わった
からといって、これで終わりじゃねえです」
明日から我が家で10日間の謹慎生活を
やらせてください」
 町工場のおやっさんの父親は息子を
工場の職人・工員さんたちと一緒に
朝から晩まで働かせたそうです。
彼はそうとう辛かったらしく
以降、改心して真面目になりました。

・ 友人が昼休みに校舎の裏の塀を乗り越えて
外出しようとしました。
たまたまその場面を見かけた用務員さんが
友人のズボンをつかんで引きずり降ろし
「君は何年何組だ、生徒手帳を出しなさい。
担任の先生は誰だ」
その場で担任の先生が呼び出されました。
「先生、私は学問は解らないが、やって良いことと
悪いことの判断はできる。
あなたは生徒たちにどういう教育をしているんですか」
 先生は平身低頭、用務員さんに謝り、
友人も用務員さんと先生に謝り、
その場は一件落着しました。

・ 伝統的に修学旅行は京都・奈良と決まっていました。
戦前は船で行ったそうです。
 国語の教科書の後半のほうに和辻哲郎の
「古寺巡礼」がありました。
奈良の寺や仏教美術品を思い入れ深く紹介・説明した
印象記です。
ある国語の先生が
「修学旅行の前に先にこれを授業でやります」
とおっしゃって、もちろん教科書を授業してくださる
のですが、
加えて、京都の古寺も色々紹介・解説してくださり
生徒たちの想像力を大いに刺激して
修学旅行への士気が高まりました。
 和辻哲郎の魅力ある文章に生徒たちが引きずり込まれて
いくのですが
我が国語の先生の博覧熱弁ぶりにも
とても感動いたしました。

           つづく




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