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「寝ながら学べる構造主義」 内田 樹

2014年01月28日 | 読書

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

【構造主義という思想がどれほど難解とはいえ、それを構築した思想家たちだって「人間はどういうふうにものを考え、感じ、行動するのか」という問いに答えようとしていることに変わりはありません。ただ、その問いへの踏み込み方が、常人より強く、深い、というだけのことです。ですから、じっくり耳を傾ければ、「ああ、なるほどなるほど、そういうことって、たしかにあるよね」と得心がゆくはずなのです。(「まえがき」より)】

最近はじめて知った(聞いた)「構造主義」とはなんぞや??という素朴な疑問から、読んでみました。
全くの素人?入門者ですが、とても読みやすい本でした。”寝ながら学べる”くらいですから。
で、思ったのは、別に何主義って気にすることもないのかな~ってことでした。

社会主義がはやった(で、失敗に終わった?)頃は、これは真の社会主義ではないといい、民主主義だってやっぱり真の民主主義にはなってないし、(ジャンルは違うけど)きっと構造主義だってうまくいかなければ、これは真の構造主義ではなかったのだ、といって終わるのでしょう。この世の常識というものは、そういうもの。「とりあえず無難」とみんなが思っている意見のことを「常識」という。で、世の変化とともに変わっていくんです。(これ、構造主義的考え方?) 

とはいえ、この構造主義の見方考え方は、大変興味深い。

 >私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や
  自律性はかなり限定的なものである

自分の思考や判断にはいったいどれくらいの客観性があるのだろうか。
自分の立ち位置によって人間のものの見方は変わってくる。人間の思考を規定するもの、それが階級(マルクス)だったり無意識(フロイト)だったり・・・ 
言語によっても自分の思考は規定される。思考が先ではなく、言葉が先。

 「構造的無知」(私たちはあるものから無意識的に目をそらし続けている)によって、私たちは思考の自由を損なわれている。

 >私たちにとって自明と思えることは、ある時代や地域に固有の「偏見」に他ならない(ニーチェ)
 >「自己意識」とは、要するに、「いまの自分」から逃れ出て、想像的に措定された異他的な視座から
  自分を振り返る、ということに他ならない (ちょっとややこしい言い方だけど)

 >私たちは自分が何ものであるかを知らない・・・「自己意識」を持つことができない存在(ヘーゲル)

構造主義とは、・・・さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における
「零度の探求」(ある制度が「生成した瞬間の現場」、汚れる前の「なまの状態」を探求すること)
だそうです。

どうやったら、私たちは自由になれるのか。なれないのか。なら、どう生きるか。みたいなことを考える時に、参考になるかもしれません。

(2500年前にお釈迦様が言った「無常」「無我」「一切皆苦」の話に近いかな?
変わり続ける不完全な人間がつくっているこの世は不完全で変わり続ける。思い通りにならなくて当たり前。できるのは、努力すること。自分の心を磨く(管理する)努力だけ。明るく精一杯生きようとすること。)

ちなみに、
子どもに「体育座り」(「三角座り」)を強要してはいけません。(子どもを管理するための、文部省による陰湿で残酷な「身体の政治技術」の行使だったのですね。知らなかった・・・)
呼吸が浅くなり、背中はこわばり、自分で自分の手足をしばる・・・。

とても面白く読めました。また読み返してみようかな?

星4つ 

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2 コメント

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本の内容と外れて申し訳ないです。 (masamikeitas)
2014-01-28 12:24:22
まるちゃん、こんにちわ。

>自分の立ち位置によって人間のものの見方は変わってくる。人間の思考を規定するもの、それが階級(マルクス)だったり無意識(フロイト)だったり・・・
言語によっても自分の思考は規定される。思考が先ではなく、言葉が先。

良くはわかりませんが、自分の考えは自分で考えたものではないと言う事でしょうか?
私はブログで政治家などを批判しますが、これは自分で考えた意見ではないように思ったりします。
人の意見を借用している場合が多いです。
どなたかがやられたように、そこらの石を拾って、その石と対話した方が自分の意見が生まれるかも知れませんね!(笑)
本の内容と外れて申し訳ないです。
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よくは分かりませんが (まる)
2014-01-28 19:23:05
masamikeitasさん、こんばんは。

私もよくは分かりませんが、日本語を使っている時点ですでに日本の文化や社会の影響を受けているわけで、英語を母国語とする人とは思考も自ずと違ってくるわけです。(英語では緊張して肩がこるといわない。英語の通りに緊張すると肩ではなく背中がいたくなるのだそうです)

自分の思考は、読んだ本だとか人から聞いたことだとかでできているといっていいかも知れないです。
借り物でできている、というのはその通りでしょうね。
またどの国、どの地域で、どの時代に育ったかにもよるし、職業や外的なものにもよるし、無意識のうちに見たり考えたりを避けている(抑圧する)ものなどにもよるし・・・右から見るか、左から見るかによっても違う。
つまり、ニュートラル、「まったく何にも影響されない自由な自分」「自由な自分の考え」などというものはないということだろうと思います。

そこに近づきたい、目指したいとは思いますが。(そのためには、なるべく遠くから俯瞰する、離れる、広~い視野で見る必要があるでしょうね)

まあ、説明は内田さんの本が分かりやすいと思います。^^;
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