今日久しぶりに会社に行ってみたら、私を待っていたのは少し北風が身にしみるような現実。少しずつボーディブローがきいてくるようなニュースがたくさん入ってきた。
自分がこの会社に入って頼りにして時にはその人を注目もしてきた先輩がどんどん辞めていく。しかも、彼らは更なるステージに向かって、もっと大きな舞台へ行こうとする。私はここへ未だ居ていいのか?本気でそう思い始めてはや1年。
最近社内で見ないなあ?そう思っていた子持ちの先輩が出社していない。大丈夫かなあ?何が?と言われると、何とはうまくいえないのだが、そんな人たちの雄姿を逆に自分の糧にしようとしていた後輩にとっては、その人たちが見えないのはまた不安材料になったり。
会社では年の近い男性がますます活躍している。独身。それだけで、既婚女性・30代では、これから見えてくる、見なければならない道がまったく違ってくる。大学の時先生が言っていた。「あなた達は皮肉にも男女同権の教育をうけたばかりにそれはまだ新しすぎて常に自分たちが挑戦なのです、覚悟したほうがいい。」就職するまでは男女同権で、就職すると明らかに自分がみつめていかなければならないのは、性別の問題がつねに絡む。差別とかいうことでなく、単なる”違い”なのだが。
家族の結婚。母親が家族の話を聞いてあげられなく、ふだんよもやま話を家族にまたくしない人間が集中攻撃を浴びることに。改めて、扇の軸に居たと知る、母親の立ち位置。
・・・書いてみてまだ頭の中が整理できていないのですが・・・
昔、神社のアルバイトをしていました。5年間。そこで信者さんを前に、たくさんのお坊さんを前に私が感じたこと。それは、生まれてから10代までの約20年間の努力が20代に花になる。すると30代は?20代とは違うステップにさしかかると思うのです。登山でいえば、山脈を縦走していて、峠を越したいへんいい眺めになったと思いきや、新しい山肌は今までとは違う山脈である。しかも峠で見えたのと違う険しい景色しか見えない。20代までの経験は糧にはなるが、太刀打ちできる経験とは限らないと。またそこには、体力的な境い目や、家族との新しい関わりなどが生まれてきます。楽有れば苦ありというわけか。そう思っていたところ、そういえば浪人時代国文学のあの有名な関谷先生が贈ってくださった言葉がありました。
『照顧脚下』
大学に受かったばかりの私たちに「欲を出さずに、自分が今どこにいるかを常に確かめながら進みなさい」と。私は決まって迷った時にこの言葉をかみしめてみるようにします。反省ではなく、かみしめる。そこから何か始まります。
ある親友が会社を去り、自分もこれからどういきたいのかがわからなくなった時に、たまたま、日野原先生の本に出会いました。読みやすい。ずしんとくる。しかも、私たちにはまだわからない感情がそこに記されていたりもします。でも明らかに少し見えてくるもの、それはふだん「生きている・生かされている」という感覚のない私たちがいかにおろかだったか、生きるとはどういうことか、ということです。様々な本があります。読書の秋でもあります。ぜひ読んでみてください。そして、SNSやブログでいつも励ましたり諭してくれている皆さん、この文章を書きながら今いろんな方の顔が浮かんでいます。私から皆さんへ、エールを贈ります。私たちは今、おかれている立場は違えど、同じ”峠”にさしかかっています。
自分がこの会社に入って頼りにして時にはその人を注目もしてきた先輩がどんどん辞めていく。しかも、彼らは更なるステージに向かって、もっと大きな舞台へ行こうとする。私はここへ未だ居ていいのか?本気でそう思い始めてはや1年。
最近社内で見ないなあ?そう思っていた子持ちの先輩が出社していない。大丈夫かなあ?何が?と言われると、何とはうまくいえないのだが、そんな人たちの雄姿を逆に自分の糧にしようとしていた後輩にとっては、その人たちが見えないのはまた不安材料になったり。
会社では年の近い男性がますます活躍している。独身。それだけで、既婚女性・30代では、これから見えてくる、見なければならない道がまったく違ってくる。大学の時先生が言っていた。「あなた達は皮肉にも男女同権の教育をうけたばかりにそれはまだ新しすぎて常に自分たちが挑戦なのです、覚悟したほうがいい。」就職するまでは男女同権で、就職すると明らかに自分がみつめていかなければならないのは、性別の問題がつねに絡む。差別とかいうことでなく、単なる”違い”なのだが。
家族の結婚。母親が家族の話を聞いてあげられなく、ふだんよもやま話を家族にまたくしない人間が集中攻撃を浴びることに。改めて、扇の軸に居たと知る、母親の立ち位置。
・・・書いてみてまだ頭の中が整理できていないのですが・・・
昔、神社のアルバイトをしていました。5年間。そこで信者さんを前に、たくさんのお坊さんを前に私が感じたこと。それは、生まれてから10代までの約20年間の努力が20代に花になる。すると30代は?20代とは違うステップにさしかかると思うのです。登山でいえば、山脈を縦走していて、峠を越したいへんいい眺めになったと思いきや、新しい山肌は今までとは違う山脈である。しかも峠で見えたのと違う険しい景色しか見えない。20代までの経験は糧にはなるが、太刀打ちできる経験とは限らないと。またそこには、体力的な境い目や、家族との新しい関わりなどが生まれてきます。楽有れば苦ありというわけか。そう思っていたところ、そういえば浪人時代国文学のあの有名な関谷先生が贈ってくださった言葉がありました。
『照顧脚下』
大学に受かったばかりの私たちに「欲を出さずに、自分が今どこにいるかを常に確かめながら進みなさい」と。私は決まって迷った時にこの言葉をかみしめてみるようにします。反省ではなく、かみしめる。そこから何か始まります。
ある親友が会社を去り、自分もこれからどういきたいのかがわからなくなった時に、たまたま、日野原先生の本に出会いました。読みやすい。ずしんとくる。しかも、私たちにはまだわからない感情がそこに記されていたりもします。でも明らかに少し見えてくるもの、それはふだん「生きている・生かされている」という感覚のない私たちがいかにおろかだったか、生きるとはどういうことか、ということです。様々な本があります。読書の秋でもあります。ぜひ読んでみてください。そして、SNSやブログでいつも励ましたり諭してくれている皆さん、この文章を書きながら今いろんな方の顔が浮かんでいます。私から皆さんへ、エールを贈ります。私たちは今、おかれている立場は違えど、同じ”峠”にさしかかっています。