お母さんピアノを弾いてください

優しい母が認知症、強制入院。介護で体を壊し退職。弟とのメールのやりとり、詩や短歌で介護の現実を紹介していきます。

暮れと正月のあいさつにかえて

2008-12-31 17:33:47 | Weblog
 気持ちを抑えきれずに書きだしたこのブログ。

 物議をかもしだすかと思いきや、特に何もない。

 介護の妨害と無理解、人々の対応を知ってほしかった、、、それが母のことを書いた詩にあります。

 それまでの過程、その後、現状はどんどん膨らんできます。

いつか書籍にしたい、、、その思いが強いのです。


 おかげで、テレビで取材される材料にもなってしまいました。

 読んでいただいた方々ありがとうございます。

 明日元旦は、久しぶりに母を家に連れ帰ります。

 心配事もあります。最近はホームに帰りたがらず抵抗もしますから、

「あなたが代わりに帰ればいい。」

 と理解できない言葉で要求してきたりします。

 でも母の家です、正月くらい連れて帰りたいのです。



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裏ワザ

2008-12-23 21:55:14 | Weblog
老人保健施設は民間の施設、、、。
これを公立の施設と思う人が多い、また老人ホームと混同する人も多い。

職場で母を老健に入れたと話すと、

「じゃあもう安心だね。」

 とか言うから、月々これだけかかると話したら

「えっ、福祉って国がやるからみんなタダじゃないの?」

 その程度の認識しかないだろう。さすがにタダとは思った事はないけど当然ながら老健とホームが違うくらいは認識できても細かいことは、経験しないと分からない。

 一人部屋が良いか、大部屋が良いか聞かれた。一人部屋だと閉じこもってしまう、また料金が20万以上する、、、。

 それは厳しすぎる、、、大部屋で構わない。

 なんとか月10万以下にしてもらう。

 次の施設に移ったとき、いきなり19万も請求が来て驚いて抗議したことがある。
事前に金額の提示や説明をしてこないのだから、、、。

 ここは世田谷区なのに、結局2回しか入らなかった、、、どう考えても金の取れる客じゃないからだろう、、、。

 老健は三か月が限度、世田谷区の施設なら区民であれば三か月延長できる。

 後に謎なのだが、世田谷区の施設には三か月滞在が二回だけで、後は目黒区の施設に何年もいた、、。

「こちらでひっぱりますから、、。」

 居場所があるだけでもありがたいけど、府に落ちないが、裏技があるのだろう。  



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老健

2008-12-22 18:36:34 | Weblog
 12月21日はクリスマス礼拝、だけど今年は行かない。
 あれだけ牧師に暴言を吐かれたら行く気にならない。
 あの世代はアラフォーと同じく、人と人との間を苦労無く生きてきている。

 弟が風邪をひいた、母にうつしたくないから教会に母を連れて行ってくれないかと電話したきた。

 残念だが、それはできない。母のところへ一度も見まいに行かず、耳が気こえてないのに、話しかけて理解してると思い、「お元気そうですね。」とか、、、デリカシーに欠ける、、。
 母のことは個人的なことだから、みんなの前で言わないように、、とか、「大した事じゃないでしょ。」とか、そんなところへ連れて行きたくない。

 こちらが悪いわけじゃない、人を怒らせるような言動をされて「はいそうですか」と引きさがれはしない。

 ただ母が気の毒だ、、、教会に身を呈して尽くしたのに、認知症になればさっさと捨て去る。

「そういう話を聞くと、心が苦しいよ。」

 だから話しちゃいけないのか、牧師の私的感情で母の認知症をその介護で、慮休退職して、仕事がないことを話しちゃいけないのか。


・・・・・・・・・・・・・・・

 2003年3月、人事の発表。

「一年の担任」

「介護で休みが多いと主任にできないから。」

 この校長馬鹿じゃないか!

 介護で休みが多い?ふざけるな!学年主任の肩代わりで、リフレッシュ休暇も取れないようになったばかりじゃないか!

 そもそも転勤してきた時、母の介護で以前の学校で主任も放棄してきたと伝えた、今回の人事も自分で「担任」を第一希望で書いたのだ。
 アホじゃないか、こいつは。そいつが3年後、校長会長になってる。

 担任していた方が、仕事的には楽だ。それに32歳で転職したのだ、それが自分の生き方だ。

 だのに、それを自分のせいだと思いこんでいる、だから自分のことを恨んでいると思いこんでいる女性教員もいた。 

 正直言って、社会的にこういう世代というか、性格欠陥者というか、、、隣の迷惑人というか、、、増え過ぎだ。

 老人保健施設は、三か月ごとに移らなければいけない、書類を書いてる間にすぐ次の施設の診療情報提供書を書くことになる。

 とりあえず、目黒の老健だった。世田谷区はいっぱいなのだ。



 






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治療が一切ない

2008-12-18 23:28:56 | Weblog
2003,3月

最初の老人保健施設。


 この頃が一番、介護保険がやたら改正?され事業主、行政、が混乱していただろう。
 ましてや、かぞくは、、、だ。

・病気をした場合は、介護保健の制度上の問題で費用を老人保健施設が負担しなければならない。
 従って一旦、退所していただいて病院に行っていただきます。

・施設内に薬局があるので、そこで風邪や腹痛の薬は調合してお出ししますが、診療ではありません。

・定期的に健康診断で医師が来ますが、治療に来るのではありません。

・これまでの認知症の薬は今まで処方を参考にしてお出しします。

・区外の人ですので三か月しかいられません。


、、、、、、、

 結局ものすごく煩雑で、尋常では理解できない仕組みで、母を入所させることになる。
 
 以来、認知症の治療は一切ない、そのような投薬治療は行われていない、、、、。

 妄想を治す治療もされていない。

「家に帰るの?」

「お引っ越しだよ。」

 母をだますのは何度目だろう、、、もう慣れたが、、、、。

 学校で怒られたことも、買い食いも全部正直に話してきたのが、大うそつきになってしまった。


 

 

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鍋の会

2008-12-17 00:38:41 | Weblog
 母が入所している、特別養護老人ホームで鍋の会。
 5時からなので弟うは仕事で来られない、今日は私だけ。

 TVに出てから職員の方が良く顔を覚えてくれるようになった。

 この間も、生涯現役フェアで元職員の方にも声をかけられた、少しずつ地域にも入り込んでいけてるかもしれない。

 外国の方から来たクリスマスカードを持って行ったが、全部はもう読めないようだが、名前とかはちゃんと覚えている。


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母の誕生日

2008-12-13 14:24:55 | Weblog
「今日は12月11日ですよ。」

「何の日か知ってますか?」

「そりゃあもちろんわかりますよ、誕生日でしょう。」

 この間は自分の誕生日を覚えていなかったのに。

 認知症が時々分からなくなる。言語やが委縮して元に戻らないはずだけど、話したことを後でつなげると、結構覚えていたりする。

 母にサンタ靴のお菓子を買った。高いお土産買っても、置いておく場所も着ることもない。
 母がサンタ靴が好きだと昔話してくれた。それで、子供のころを思い出してくれればと買ってきた。

「おいしくない」

「私が買ってきたのにそんなこと言ったら失礼ですよ」

「でもおいしくない」

 変な会話です。たぶん、母は自分の置かれている場所に恨みや不満があるのでしょう。
 出されるお菓子と、よくないものだという先入観があるのです。
 むかしのサンタ靴は駄菓子だったな、、、、。

 と言いながら、よく食べる、、、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





 施設では、体操しているけど、多くの老人は行わない、でもそばで

「今体操してるよ。」

 というと、係りの人の動きを見てまねをする。

 歌をうたのだけど、歌詞が見えない、耳が聞こえにくいから歌わない、、。

 これって、もっと個別対応できる部分を考えれば解消しいくと思う。補聴器を施設で片一方なくし、その後施設ではつけさせない。

「そばでいえば理解してるようですから、、」

 でも集団レクなど、側で言ったりしない、、、、。

 視力、聴力を補うつけていることが分からないような補聴器とか目がねがあれば、ずいぶん人とのコミュニケーションは向上すると思う。

 




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老人保健施設 初入所

2008-12-05 11:18:10 | Weblog
2008、12,現在 私には仕事がありません。ずっと読んでくださっている方は分かると思いますが、、。

 2007年3月、4年早く退職したのです。その前に1年半療休したのですが、その後復帰した時、毎日時間療休2時間を取る処置が出たのに、管理職が

「そんなこと現場でできないし、でも取らせないと俺たちが怒られるからハンコを預からせてくれないか。とれない日は闇でその週のうちに取らせるから。」

 それを10カ月やられました。給料も下がります。それ以上続けたら殺されます。

 この歳で辞めたものには仕事などありません。
 すべて介護への無理解から生じたものです。ですから、私はすべてを書くつもりでいるのです。

 無理解でどれほど多くの人が苦渋をなめていることか、無理解な言葉がどれほど患者の家族に負担を与えているか知ってほしいのです。

 こうして書くのも正直いろんな場面がフラッシュバックして苦しいのです。でも書かないのはもっとつらいのです。

 ところどころ、被害妄想かと思う人もいるかもしれません、でもすべて事実だけ書いています。
 嫌な場面は、感情を抑えられないので不愉快に思われるところもあるかも知れません。でもそれは許してください。
 美しい兄弟の介護の物語で終わらせてもらいたくないのです。

 ・・・・そういう向きもあるのです、、、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
老人保健施設からの電話

待ちに待ったものでした。

 まず電話で入所の意志を確認。ホームに診療情報提供書を書いてもらう。
所内会議で決定、私たち家族に通知。

 もちろん、ホームにもその旨を話す。

 三月の初旬に転出する、、、、経費は三月分丸丸取られたが、、、、、。

 一年分の入居費、三百万の約半分だけ戻ってきた。
  
 老人保健施設は三か月のみ、でも入居費はいらないし、月々の費用だけでいいのである。
 大部屋で7万位だった。個室だと20万以上する。

 もちろんもっと少ないところもある。

 家族には負担が少ないのは確かだ。

 ただし、これらの施設都や区が認定した施設の場合だ。当然補助もありやすいのである。民間の施設であることに変わりない。

 だけど安いから、申込者が多くどの施設も半年待ちが普通です。
 希望した場所に行けると言うのではありません。複数申し込んでそれで空きが出たらすぐに申し込むと言うのを繰り返します。




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申し込んで8か月後

2008-12-05 00:17:19 | Weblog
一月なんてあっという間に過ぎる、、、。

この頃から弟のメールがすこしづつ変化してくる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今母と一緒にホームのベッドで寝ている。いっそこのまま死んでしまいたい。

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 女性よりも男性の方が母親との関係は切りにくいと私自身そう思う。

 私自身がたとえまいっていてもそれを口にできず、それを少しでも言うと

「甘い」「誰でもいつかそうなる」

くらいしか返事がない。

 だから余計に人に話したくなかった。
 だいたい話しても、早く帰宅させることもなかったし、この翌年に私は療休を取る時に管理職は 

「そうかあ、原因は前に我々が来る前にあったんだね。」

 これから休みに入る者を前にして何と言う奴だ、心底人が憎いと思うようになっった。

 三月、リフレッシュ休暇の期限がせまった。
作年、臨時の担任で取れなかったから、教頭が今年取っていいいと言っていたから、それはみんなに周知されていると思った。

 学年で一人、リフレッシュで一週間中国に行く人がいる、

しかし、、、、、私が休もうとしたら、、、


「休む人がいるわよ、私たちも休もうかしら。」

 例の遠距離通勤を主張する女性教員だ。

 この時学年主任は市全体の進路の担当で、学校にいない、だから私が学校に残れと言う、、、、。

 主任にも理由を話したけど、、モゴモゴ言っただけだ、、、。

教頭も校長も、同じく結論を言わない。

 私は32で転職した、だから50過ぎて初めてリフレッシュ休暇を取れる、、、。

 昨年は部活のも一人の顧問は
「私は権利を行使しますから。」

 といい、一週間休んだ、、、その頃私は臨時の担任で母が最も症状の激しい時だった。

 後に私の不満を主任は

「あの時は、療休で休んだ先生がいたから他に代理の先生がいなかったしなあ、、、。」

 とすり替えて理解している、、、それをまた休んだ先生とか校長に言ったらしい、、、。

 ちなみに、私のリフレッシュ休暇を妨害した教員は、二年後に介護休暇を5日間とって自宅の北海道に帰った。その学年の職員旅行が北海道でその後でだ。
 嘘がばればれで、要するに3年生を受け持ったから、休んで当然だ、だから介護休暇にして休むということだ。

 私の介護を妨害しておいてよくもまあそんなことができるものだ、また管理職がそれを受け入れる神経が分からない。

 就職して28年たって一度もその恩恵を受けずにすぎてしまった、、、。母のことでリフレッシュ休暇を使いたいと思っていたのに、、、、、。

 ただの一回でも「すみません」の一言を彼らが言わない、だから言うまで私は、その理由を追求する。

 そして母の狂った部屋へ来て弟の前で謝罪させたい。

 怒りで体中ぶるぶる震えていた、、、。

 そのなか、目黒の老人保健施設から電話があった。

「以前お申し込みになりましたが、その後お母様はどこか施設にお入りになりましたか?」

 申し込んで8か月後だった。

 


 


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お出かけ

2008-12-04 14:07:11 | Weblog
正月二日が過ぎた、母を老人ホームに返す日。

 抵抗するか心配だった。

「お出かけするよ。」

 で外に出た。後になるとぐずることも随分あったりっするが。

 思うに母は穏やかで、声を荒げたことがない。人の悪口も言わない。昔の日本人であると思う。
 故に人への思いやり、義理とか大切にした人だ。

 私もその影響を受けているとはいえ、とても母の真似はできません。
 でも、最近の風潮

「人の悪口を言う」
「自己主張ばかりして人に迷惑をかけても笑って済ませてしまおうとしたり」
「大人しくしていればつけ上がる」
「利用するだけ利用して、恩義を忘れる風潮」

などは耐えられません。

 明治・大正の人はこういうところは厳しいと思う。戦争中の日本が異常な時期で、本来日本は見知らぬ旅人でも、もてなしたりとか、おおらかな面があったでしょう。


 母をホームに帰宅させてから一週間後、ホームの新年会があった。

 仕事帰りなので、遅れてしまった。

 母は集団でやることにはどうしても消極的である。要するにお遊戯や、ダンスのようなものである。

 この頃からだんだん耳が聞こえなくなってきた。
 小グループのリハビリも、声の指示が聞こえていない。
 周りを見てまねはできる。

 そのことはホームの人にも言っているのだが。

 有料ホームだけあって、お祭りでもかなりお金がかかっている。

 変な言い方だけど、そうでないところは、雰囲気がまるで病院だもの。




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料理し、食べる、生きている

2008-12-02 23:03:02 | Weblog
母を帰宅させたら、母はごはんを作ろうとした。

どんなにおせち料理を作ってあるからと言っても、聞こうとしなかった、、。

止めさせようとすると、涙を流した。

母は母であろうとするのだ。

それが分かるから心苦しいのだ。

 おせち料理を食べながら母は

 食べるように手で指示していた

「自分で作った気持になってるんだなあ。」

弟と話した。

 その夜は弟は側で寝た。

翌日弟からメール
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母は、しょっちゅう起きて歩くし、朝四時頃には完全に起き上がり眠ることができなかった。
・・・・・・・・・・・

 5人兄弟の真ん中である。男2人、女3人の中心である。
 祖母は男の一人を亡くし、娘(母のおば)を亡くしている。
 末の妹は病弱であった。

 そのためか、母はなんでも手伝わされたようだ。ねえや(今でいえば住み込みのメイド)が二人いても母は同じ4時に起こされ手伝わされたとのことだった。
 その時、祖母も一緒に起きてたので、思うに母はいずれよその家に嫁ぐから若いうちに鍛えておこうという意味だったらしい。

 後年母からそれを聞いた。
ただ若い時には、どうして自分だけ手伝わされるのか、不公平だなと思ったこともあるようだ。

 ある意味、母はそのおかげで全然生活環境の違う、父の家庭でもやっていけたのだろう。
 
 私も三人兄弟の真ん中、実は私も同じことを感じたものです。
 
 もっともそのおかげで、母の認知症の時も手続きなど全部できたし、わたりもつけられた。
 で、色々しなきゃあいけなくて体壊したのだから、、、。

 でも、どれが良いとか悪いとか言えない、、、それが人生だろう。

 二日目の朝

弟からのメール
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母は4時に起きて、自分でパンを焼いて食べていた。 

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 さすがに弟もびっくりしたようだ。

 どんなになっても、自分で料理を作り自分の口で食べたい、、、最近の介護はそれを重視している。
 それは本当によく分かる。

 生きている実感だもの、、。


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お母さんピアノを弾いてください

タイトルとなった「お母さんピアノをひいてください」は抒情文芸平成13年春季号に掲載されたものです。 オリジナルモジュールで設置したので、常に上に来てしまうのですが、詩の形が崩れてしまいます。 妄想の中に一日いて おびえ閉じこもる母よ 死ぬほど私は辛いのです 小学生から大学まで首席の母 数カ国語を話し、独学で弾くピアノ 簡単なメロディーはすぐに採譜してしまう母私には できすぎた母だった 高等文官の娘に生まれ 私にも明治流の武士の作法を教えた母 母よ、あなたは私には重かった 父が浮気症でなかったら あなたはもっと幸せでおおらかに私を育てたろうに 悲しみとやり場のない怒り 私はもう子供じゃない 母には私はまだ十五の子供に見えるらしい 二度目の童子となった母 母を悲しませまいと自分を殺して生きてきた少年時 代、青年時代 母よ時には恨みもあるのです 私は普通の人なのです、あなたの家族のようなエリ ートにはなれません それもあなたの悲しみの一つです 私は独りです、それもあなたには悲しみですか 両親の不仲が私を学習に集中させなくなったほとん ど上の空の授業、とうとう不安神経症になった私 荒れた少年時代、机も椅子もよく投げた 立ち直らせてくれたのはあなただった 母よそのあなたが目の前で狂ってく なぜ、なぜ、なぜと叫ばずにおられない 心優しき弟はけなげに母をいたわり料理を作る 他の親族は己の主義に走り、以来家には無関心 挙げ句の果てに「お前達でやれ」とはそれがあなた の主義が出した正義ですか 私だって弱いのだ、いや本当に私は弱いのだでも仕 事でも、家でも強い自分を演じてきたそうしなきゃ 誰があなたをはげませたでしょう 私の救いはどこにある 私を慰める人はどこにいる 二度目の童子となった母 もう一度ピアノを弾いてください 私は歌うから、、、、、、。