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春日井市の絵画教室、あとりえPOPアートスクールの教室風景や内容を中心に、アートについて広く記事にします。

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2012-03-12 11:05:45 | 日記
昨日の天声人語にありました。
ご覧になった方も多いと思いますが、抜粋します。
「“絆”の文字も過剰な使用に摩耗気味だ。井上ひさしさんが健在なら“つるつる言葉”と呼ぶかもしれない。便利に使われすぎて意味も実体もすり減ってしまう言葉を、そう称していた」
天声人語は“絆”という言葉を使う人間を揶揄していた訳ではなく、ともに悲しみ「絆」の一語に魂を入れ直す日としたい。と結んでいました。
そんな結びはいるまい。と個人的に思った私は「絆」という言葉が2011年の漢字に選ばれたことも疑問です。流行語大賞の方が余程収まりがいい。
私を中心点に日々移動を繰り返す中で、その半径2キロ圏内に、震災の爪痕を感じるものは、目には見えませんでした。
茶の間で観るテレビ、煙草を吸いながら読む新聞、スーパーの説得力のないポップや誘い文句を除いては。
遠くから賽銭を投げるようなことで、蜘蛛の糸よりも細く、使い古したゴムのようにもろい「絆」というただの言葉に、善を感じているように見えました。
絆という言葉に嫌悪を感じる私も同じ。

今日まで3日間。
私は川口江里さんの言葉を通して「やはり」と言うか「結局」と言うか。自分もぬるい中で泳いでいることを思い知りました。

最後の今日は、同じ作家として、同じクリスチャンとして聞いてみたいと思います。

Q6:もうずっと作陶を続けています。福島で制作していくことに、特別な意味を感じていますか?

A6:福島で作陶する意味があるかないかと問われれば、特に大きな意味があるわけではない。どこでも作れると思う。ただ、私は福島で育ち、今、福島で生きている。そしてここには仲間がいて、家族も教会も戻ってこようとしている。そんな場所を離れる理由があるだろうか。
もちろん移住を考えなかったわけではない。これからだって何が起こるかわからない。余震も怖い。でも、ここにいられる限り移る理由はない。
いわきという所は、福島県の中でも、気候も温暖で、美しい海もあった。山もあった。本当に暮らしやすいよい所だった。でも、だからここにこだわっている訳ではない。
実をいうと、特にこの場所が好きな訳ではない。でも何よりも、ここには共に生きる愛すべき人たちが暮らしているのだから。ここで作陶し、小さくても何か発信していければ、それがよいのだと思う。

Q7:この事故は、ノアの方舟だったのでしょうか。

A7:そこに意味は持ちたくないと思う。
はじめは「神様、私たちが嫌いですか?」と思った。
しかし、やがてこれは一つの事故ではなく、側面も一つではないと思うようになった。それぞれ違うのだと。
個人にとって思うことはあっても、神様の計画としては考えたくはないし、今は、それは想像でしかないし、考えることではないと思っている。
例えばこれが、神様の計画ではなく、警告だとしたら…それはクリスチャンであるなしではなく、全人類的価値観の問題ではないだろうか。


三日目の今日は、私個人と照らし合わせる質問になりました。
共に作家でありクリスチャンとして、私と川口さんとは決定的な違いがあるように思いました。それは考え方の根本でも、現在の環境でもなく、やはり、現実に起こっている問題との距離感だと思います。

いわきが好きなわけではなく、愛すべき方々と共に暮らすことがあり、制作があり発信がある。移住する理由より、移住しない理由が強い。制作は、その前では等しくある。
私は土地を愛しているだろうか…
愛すべき仲間がいるだろうか…
私はどこまでも、精神的には個を追求しながら制作してきました。だから“絆”という言葉の違和感が、やがて理性をも逆撫でる気がしていたのかもしれません。
川口さんの言葉を読み聞きながら、本来使われるべき所で使われる“絆”という言葉の芯が見えた気がしました。

また、クリスチャンとして、警告より計画の一部と捉えていました。事の大きさにおののき、そう片付けようとしていたのです。
それは警告として捉えることの放棄であると同時に、やはり誰よりも傍観者であった証。

一年と一日が過ぎようとしています。
昨日、どこを観てもアングルや構成、効果にこだわり、虚飾半分で人をモチーフとしてのみ使っているのか?という震災特集番組を、苛立ちながら消して眠りました。
益々テレビが嫌いになりました。
私は天の邪鬼かもしれませんが、絆という一文字をすり減らしたのはテレビです。絆に責任はない。必要以上に恐怖を煽り、油断を与えたのはメディアの罪で、絆という一文字に善を丸投げし広告語とならしめた。これは知らせる伝える重要性を考えても、冤罪にはならない。

しかし、学ぼうとしない自分はもっと悪い。
絆という言葉に食いつく自分は、きっと自分なりの真実を手繰り寄せる糸すら持っていないのだと思いました。

川口さんの言葉を読み、皆様は何を感じられたでしょうか。
例えばそれが「もっと知らなければ」「もっと知りたい」という義務や欲のようなものであれば嬉しいです。
また、それがブログ主である私の無知と稚拙を容赦くだされば尚。

三日間。長いお付き合い有難うございました。私は学ばなければならない。学びたい。
書きながら強く思いました。


※川口江里さんは4月7日から、東京国立にある「黄色い鳥器店」にて個展を行われます。また、そのご近所「フジカワエハガキ」にて、ご主人の稲葉浩之さん個展も同時開催とのこと。「小さなことでも発信していくこと」お近くの方は是非その発信を手にとってご覧ください。 それにしてもすごいパワーだ。僕の方が若いのに…頑張らねば。
コメント (6)
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