読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

画家ポール・ゴーギャンの苦悩を描く、「シークレット・パラダイズ」(2003年)

2007-09-21 12:55:01 | 映画;洋画
原題:PARADISE FOUND
製作国:フランス/オーストラリア/ドイツ/イギリス
監督:マリオ・アンドレアッキオ
脚本:ジョン・ゴールドスミス
出演:キーファー・サザーランド、ナスターシャ・キンスキー、アルン・アームストロング

フランスのポスト印象派の画家ポール・ゴーギャンを描いた作品です。1890年前後、株式仲買人として成功していたゴーギャンは絵画の収集家でもありましたが、同時代の印象派の画家・ピサロにその才能を賞賛されたことがきっかけとなり画家を目指すストーリーになっています。

ゴーギャンは1888年に南仏アルルでゴッホと共同生活を試みていますが、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻しています。本作はゴッホには触れず、これ以降の出来事を描いています。この辺のゴーギャンの消息をウィキペディアから引用しておきます。

「西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る」。

「叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期にはマラルメのもとに出入りしたこともある。) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した」。


「タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した」。

ポール・セザンヌに「支那の切り絵」と批評されるなど、当時の画家たちからの受けは悪かったが、死後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになる。


ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848年6月7日-1903年5月9日)は、「フランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される」。

「フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである」。

さて、本作ではゴーギャンの相談相手として描かれているピサロについてもウィキペディアからそのプロフィールを一部引用します。


ジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro, 1830年7月10日-1903年11月13日)は、「19世紀フランスの印象派の画家。カリブ海のセント=トマス(サン=トマ)島にて、ボルドー出身のセファルディムの家庭に生まれる。ピサロの両親はボルドーからこの地に来て商売をしていた。少年時代をこの島で過ごしたピサロは1841年、11歳の時フランスに渡り、寄宿舎制の学校に通うが、1847年ふたたび帰郷。しばらくは家業を手伝っていたが、画家志望を断ち切りがたく、1855年に再びフランスに戻った」。

「印象派の画家のなかでは最年長者であったピサロは温厚な性格だったようで、画家仲間の信望が厚く、ゴッホやセザンヌらの若い世代の画家を大いに励ましていたという。生来気難しく、人付き合いの悪かったセザンヌさえもピサロを師と仰ぎ、しばしば共同制作をしていた。ピサロは1885年頃からシニャックの影響で点描画法を試みている。晩年はパリ郊外のエラニーに住み、風景だけでなく、農村を舞台にした人物画を多く描くようになった」。

主演のキーファー・サザーランドは今や「24」で大成功を収めた売れっ子ですが、子役時代から2000年まではなかなか認められなかった役者さんです。その彼が父、ドナルド・サザーランドの名声に並んだのが、この「24」のジャック・バウアーでした。役者にとっては、シリーズものでの主演はある意味で諸刃の剣のような役柄だと思いますが、本作ではジャック・バウアーではないキーファーの魅力を見ることができました。(怒るとバウアーが顔を覗かせますが・・・)


キーファー・ウィリアム・フレデリック・デンプシー・ジョージ・ルーファス・サザーランド(Kiefer William Frederick Dempsey George Rufus Sutherland、1966年12月21日-)は「カナダ人テレビジョン及び映画俳優、プロデューサーである。キーファーは彼の両親がそこで働いていたときにイギリスのロンドンで生まれたが、カトリック系学校に通うためにカナダで育てられた。『スタンド・バイ・ミー』で一躍有名となったものの一時役に恵まれなかった。『24 -TWENTY FOUR-』で復活を果たし、2005年11月24日、初来日」。

そして、ゴーギャンの妻メットを演じるのが懐かしのナターシャ・キンスキーです。最初は誰かわからなかったのですが、だんだん「もしや?」と思うようになりつつも「そうであってほしくない」という思いもありました。しかし彼女も46歳です。仕方ありません。


ナスターシャ・キンスキー(Nastassja Kinski,1961年1月24日-)は「ドイツ・ベルリン出身の女優である。父親は俳優のクラウス・キンスキー。英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語を話し、国際的に活躍している。両親の離婚に伴い、幼少期は母親と共にミュンヘン、ローマ、ベネズエラ、パリなどを転々とした」。

「13歳のときにヴィム・ヴェンダースに見出されて『まわり道』で子役として映画デビュー。一時期モデルだったこともあった。『テス』の撮影前にはニューヨークのリー・ストラスバーグのもとで演技を学んだ。映画制作者イブラヒム・ムッサとの間に息子アリョーシャと娘ソーニャが、ミュージシャンのクインシー・ジョーンズとの間に娘ケーニャがいる」。(ウィキペディア)

このゴーギャンの生涯をみるとき、私は、栃木県に生まれながら、鹿児島県奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた日本画家田中一村のことを思い出すのです。彼は8歳のとき、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学し、将来を嘱望されながらも、病気や生活苦の中で中央画壇とは一線を画し、清貧の中で画業に励みました。昭和33年、50歳の時に南の島々の自然に魅せられ、奄美大島に移り住み、大島紬の工場などで働きながら、衣食住を切り詰め、不遇とも言える生活の中で奄美を描き続け、昭和52年(1977)、69歳でその生涯を終えました。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿