私のブログに書かれたコメントや直接メールで寄せられるご意見は、日本の世論と大きくは違わないようだ。ただ賛否両論はあっていいが、と言うかなければ逆に危険だが、小泉首相の参拝支持者の間で流れる空気の中に「危ない臭い」を感じる。
かつてわれわれ日本人は、戦前から戦中はもちろんのこと戦後まで、中国人や朝鮮人を、チャンコロ、バカチョン、三国人と呼び、蔑んできた。われわれの(団塊)世代でも結婚相手どころか、交際相手に在日中国・韓国(朝鮮)人を選ぶことすら奇異な目で見られ差別の対象とされた。また、それら在日の人たち(以下、在日)に対して日本の企業や役所、そして教育界さえもが門戸を堅く閉じて、就職の機会を与えようとしなかった。それに不満の声を上げる人たちには、「それなら(祖国に)帰れ!」と罵声を浴びせたものだ。
そんな不当な差別を受けてきた在日にも時間の経過と共に少しずつ人権が認められるようになってきた。それは、日本社会が在日の人権確立に積極的に取り組んできたというよりも、外圧や在日の人たちの頑張りに押し切られた格好でしぶしぶ認めたものが多い。
在日の社会進出は、国内事情だけではなく、中国や韓国の高度成長に助けられた部分もある。両国に「貧しい」「汚い」とのイメージを持ち続け、蔑んでいた「経済大国日本」も80年代から両国にすごい勢いで追い上げられ、いつの間にかいくつかの分野では後塵を拝する立場になった。今や両国を大切なビジネスパートナーと認めざるを得ない状況になっている。また、外交の舞台では「アジアの指導者」の座は今や完全に中国に奪われた形だ。その勢いを得て、在日の人たちの元気な姿が最近特に目立つようになってきた。
逆にそれを快く思わない日本人も反比例して増えている。ただ、以前のような目立った民族差別が許される時代ではない。その差別感情は自然と内面的なもの、つまりは潜在的な意識として多くの日本人の心の中に内包されてきた。
小泉首相の靖国参拝を支持する人たちと話していると、表面的には民族差別を口にしないもののそういった在日に対するねじれた感情や、中国や韓国の成長に悪感情を持っている人が少なくないことが分かる。だから、小泉さんの一貫した姿勢に共感を覚え溜飲を下げるのだ。これは、一種の民族主義の形態で、「潜在的ナショナリズム」と言っていいと思う。ところが、この民族主義、たちの悪いことに本人たちがはっきり認識していない場合が多い。
国会に跋扈していた有象無象をぶった切る小泉首相と、戦後60年も経っているのにいつまでも「歴史」を“うだうだ言う”中国や韓国・北朝鮮に対して妥協姿勢を見せない小泉さんとが、その人たちの目には同じように映るのであろう。
「小泉首相は独立国家の首相として当然のことをやっているだけだし、それをとやかく言う相手国は内政干渉だ」と不快感を募らせる。
「小泉流(マジック)」というのは、ひと言で言えば、この潜在的ナショナリズムの操作にある。つまり、小泉首相は、前回の総選挙の際もそうだったが、潜在的ナショナリズムを高揚させておいて、その後「頃や良し」とばかりにこの日本人の中にくすぶっている感情をはっきりとした形にして、そこに「清涼剤」をかける手法をとる。すると、もやもやとした不満や不安を目の前でばっさりと切ってくれたと多くの国民は喝采を送る。
だが、このナショナリズムの高揚は、相手国に相当強い刺激を与えることを覚悟しておくべきだ。相手国の人たちには、その「潜在的ナショナリズム」がはっきりとした形のナショナリズムに見えているからだ。「え、そんな強いものじゃないよ」と思われるかも知れぬが、それが「加害者」と「被害者」の意識のずれだと言える。これまでの反日運動は、まだ一部で言われているように「官制」に近いものが多いかもしれない。だが、両国間でナショナリズムが高揚し、互いを刺激していけばどのような結末を迎えるか。それはこれまでの歴史がはっきりと証明している。18日、中国政府は予定されていた町村外相の訪日を断ってきた。その一方で、100人以上の国会議員が小泉首相に続けとばかりに靖国を参拝した。これはとても危険な流れだ。今すぐにでもこのような「スパイラル現象」に歯止めをかける動きを作り出す必要があるであろう。だが、日本には今のところ「止め役」はいない。
かつてわれわれ日本人は、戦前から戦中はもちろんのこと戦後まで、中国人や朝鮮人を、チャンコロ、バカチョン、三国人と呼び、蔑んできた。われわれの(団塊)世代でも結婚相手どころか、交際相手に在日中国・韓国(朝鮮)人を選ぶことすら奇異な目で見られ差別の対象とされた。また、それら在日の人たち(以下、在日)に対して日本の企業や役所、そして教育界さえもが門戸を堅く閉じて、就職の機会を与えようとしなかった。それに不満の声を上げる人たちには、「それなら(祖国に)帰れ!」と罵声を浴びせたものだ。
そんな不当な差別を受けてきた在日にも時間の経過と共に少しずつ人権が認められるようになってきた。それは、日本社会が在日の人権確立に積極的に取り組んできたというよりも、外圧や在日の人たちの頑張りに押し切られた格好でしぶしぶ認めたものが多い。
在日の社会進出は、国内事情だけではなく、中国や韓国の高度成長に助けられた部分もある。両国に「貧しい」「汚い」とのイメージを持ち続け、蔑んでいた「経済大国日本」も80年代から両国にすごい勢いで追い上げられ、いつの間にかいくつかの分野では後塵を拝する立場になった。今や両国を大切なビジネスパートナーと認めざるを得ない状況になっている。また、外交の舞台では「アジアの指導者」の座は今や完全に中国に奪われた形だ。その勢いを得て、在日の人たちの元気な姿が最近特に目立つようになってきた。
逆にそれを快く思わない日本人も反比例して増えている。ただ、以前のような目立った民族差別が許される時代ではない。その差別感情は自然と内面的なもの、つまりは潜在的な意識として多くの日本人の心の中に内包されてきた。
小泉首相の靖国参拝を支持する人たちと話していると、表面的には民族差別を口にしないもののそういった在日に対するねじれた感情や、中国や韓国の成長に悪感情を持っている人が少なくないことが分かる。だから、小泉さんの一貫した姿勢に共感を覚え溜飲を下げるのだ。これは、一種の民族主義の形態で、「潜在的ナショナリズム」と言っていいと思う。ところが、この民族主義、たちの悪いことに本人たちがはっきり認識していない場合が多い。
国会に跋扈していた有象無象をぶった切る小泉首相と、戦後60年も経っているのにいつまでも「歴史」を“うだうだ言う”中国や韓国・北朝鮮に対して妥協姿勢を見せない小泉さんとが、その人たちの目には同じように映るのであろう。
「小泉首相は独立国家の首相として当然のことをやっているだけだし、それをとやかく言う相手国は内政干渉だ」と不快感を募らせる。
「小泉流(マジック)」というのは、ひと言で言えば、この潜在的ナショナリズムの操作にある。つまり、小泉首相は、前回の総選挙の際もそうだったが、潜在的ナショナリズムを高揚させておいて、その後「頃や良し」とばかりにこの日本人の中にくすぶっている感情をはっきりとした形にして、そこに「清涼剤」をかける手法をとる。すると、もやもやとした不満や不安を目の前でばっさりと切ってくれたと多くの国民は喝采を送る。
だが、このナショナリズムの高揚は、相手国に相当強い刺激を与えることを覚悟しておくべきだ。相手国の人たちには、その「潜在的ナショナリズム」がはっきりとした形のナショナリズムに見えているからだ。「え、そんな強いものじゃないよ」と思われるかも知れぬが、それが「加害者」と「被害者」の意識のずれだと言える。これまでの反日運動は、まだ一部で言われているように「官制」に近いものが多いかもしれない。だが、両国間でナショナリズムが高揚し、互いを刺激していけばどのような結末を迎えるか。それはこれまでの歴史がはっきりと証明している。18日、中国政府は予定されていた町村外相の訪日を断ってきた。その一方で、100人以上の国会議員が小泉首相に続けとばかりに靖国を参拝した。これはとても危険な流れだ。今すぐにでもこのような「スパイラル現象」に歯止めをかける動きを作り出す必要があるであろう。だが、日本には今のところ「止め役」はいない。
マスコミに出てくる参拝に批判的な意見の多くは中国・韓国などへの配慮の無さを挙げていますが、これで却って「内政干渉に迎合するな」という賛成派ナショナリズムの主張が説得力を得ているように見えます。
中国・韓国を引き合いに出したり国益や外交がどうのこうのと言う前に、自分自身の政治的意思としての批判の視点はないのか.ちょっともどかしく感じている次第です。
靖国参拝で「二度と戦争をしないという決意を表明した」という小泉首相に対し、「靖国は国のために敵と戦って死ぬことを賛美する所だ。平和のための参拝なんてデマゴギーだ」と正面から批判するのが野党の仕事であり、そうした論調も紹介していくのがマスコミの役割だと思うのですが。
「国立の戦没者追悼施設の建設議連、自公民3党が合意」という読売新聞の記事をヤフーニュースで目にしました。今の時期にこういうグループができたことが、歯止めのひとつになっていくのではと期待します。宗教を持つ人も持たない人も、また、公的立場にある人もない人も、死者に哀悼の意を捧げることのできる場所が必要だと思います。A級戦犯は、合祀された状況を以前の浅井さんの記事でも読みましたが、その経緯からも、靖国神社でそのまま弔うということですっきりしますね。
実現が早く具体的になるといいですね。
あとは歴史認識でしょうか。こちらは欧州の例を参考に、日中韓の3か国で協議を行ってほしいものです。