大切な友人をなくした。その名は、下境英夫(以下、しもさん)。私の友人であり、先輩であり、そして互いを刺激し合える良い意味でのライヴァルであった。
彼は、埼玉県の地震対策課長、防災局長(いずれも初代)を務めた行政マンであった。だが、よく言われるところの、また批判の対象となるような行政マンではなく、仕事に誇りを持ち、受益者である県民の視点を常に念頭に置いて職責を全うした誉れ高い役人であった。
彼との出会いは、阪神淡路大震災が起きて間もない頃であった。
消防防災課長になりたてのしもさんのもとに、被災地で汗と粉塵にまみれた私が最初に訪れたのは、1995年4月であった。
救援活動から埼玉に戻ってきた私は、地元埼玉の防災体制を刺激するには今しかないと、自治体を巻き込んだシンポジウムを企画、役人に市民の前で本音を語らせようと役所周りをしていた。
だが、声をかけた埼玉県主要都市の防災担当者は、いずれもが出席に難色を示し、中には「そんな市民の前で恥をかくような事は絶対にしませんから」とまで言う者も出る始末。
そんな中で、しもさんだけは違った。
「今回の震災で、市民の力無くしては救助救援活動が出来ないことが良く分かりました。埼玉県としては、恥をかくことになるかもしれませんが、参加させていただきます」
県の課長が参加表明をすると、市の防災担当者たちは、その態度を豹変させた。断り方が酷かった自治体に対しては、半分意地悪をして、もう締め切りましたと言うと、「上から出るようにと言われましたので出させてください」と哀願してきた。
シンポジウムにおけるしもさんの発言も際立っていた。だめなところは正直に認めた上で、考慮している改革案や改善すべき点を整理して市民に説明した。また、実際にその後、彼は県の防災体制に大鉈を振るった。
私の様々な提案にも真摯に耳を傾けて、防災行政の改革に役立ててくれた。私が紹介した防災社会学の学者たちを囲んで課員に勉強会をさせたのもその一つである。また、学校の防災体制の充実の必要性を訴えると、教育局を動かして私をあちこちの県立高校に紹介して改革に着手させた。
そんな人物である。金銭に関しては、潔癖とも言えるほどきれいであった。当時はまだ金銭的に余裕があり、「奢り体質」そのものであった私は、誰彼構わずおごっていたのだが、清廉潔白の彼は、そんな私に困ったのだろう。一度、私がおごると、そのお返しに一席を設けて私におごり返してきた。もちろん、そのやり方はこちらに十分な配慮をしてのものであった。
数多あるヴォランティア・グループやNPOの中で、一ヴォランティア団体の代表にしか過ぎない私が彼とそこまで深く付き合えたのは、彼にすれば、私が利権に無縁の人間だという安心感もあったと思う。彼のような力を持った役人には、利権がらみで近寄る団体や人物が後を絶たないからだ。
生前よく言っていたが、「退職したら、ACTNOWのメンバーにならせてもらいますよ」というのは私にとっての最大の褒め言葉であった。だが、残念なことに、しもさんの退職より前にACTNOWは消滅してしまった。
阪神大震災の約2年後に起きた、ロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」の座礁事故がもたらした大量の原油流出の際も、救援活動を現地で行なう我々に、しもさんはトラックに満載した県の救援物資を託した。これは、下手をしたら責任問題にまで発展する可能性があり、行政の常識ではあり得ないこと。彼の部下もその豪胆さに舌を巻いた。
私のグループが打ち出す新機軸にも理解を示してくれ、その普及に力を貸してくれた。必要とあらば、県外の自治体にまで声掛けして協力を惜しまなかった。部下が、「他の自治体に借りを作ることになる」と心配しても、「いい事をやるのに臆病であってはならない」と、ぶれる事はなかった。
退職されてからもしもさんの防災に対する信念と情熱が変わることはなかった。防災士の資格を取り、埼玉県の防災士会の発展に尽力した。そんなしもさんだから昨年4月、私がさいたま市議選に、「防災」を争点に立候補すると、力強く応援してくれた。
呼びかけ人に名を連ねるに止まらず、しもさんは街頭活動にも駆けつけてくれた。マイクを握ることも厭わなかった。その演説内容は秀逸で、聞く人の心を打った。特に、選挙戦の終盤に武蔵浦和駅前において演説した内容は、秀逸を通り越して凄みさえ感じさせた。
しもさんは、自分が役人であったことを明らかにした上で、候補者たちが当選して議員バッジをつけた途端、選挙活動で使ったカネを取り戻そうと、利権に群がる実態を明らかにした。彼の感情を抑えた冷静な口調は、明かされる事実に重みを感じさせた。
埼玉県庁の幹部であったしもさんは、議員たちが汚いやり取りをするのを見聞きする機会が多かったのだろう。抑えた口調の中に垣間見せる義憤に、彼の怒りの大きさを感じさせた。それを役人や候補者たちが聞いていたらその過激な内容にぶっ飛んだに違いない。幸か不幸か、聴衆が少なく、大きな問題になることはなかったが、私は彼の胆の太さに感動した。
私が選挙の後も、さいたま市内の学校の建物の耐震化の促進を働きかけようと、集まりを持つと、資料を手に駆けつけてくれた。その資料からは、彼の防災に対する真摯な姿勢がうかがえた。
これからもしもさんと共に埼玉県の防災体制に刺激を与えようと想いを馳せていた時に飛び込んできた訃報である。残念などという表現では尽くせない悔しさだ。しもさんは25日夜、他界した。享年66歳。くも膜下出血による急死であった。電話で話した奥様の言葉に、早く先立たれた悔しさが、長年連れ添った伴侶への慈しみが滲み出ていた。また、今日の昼に行なわれた告別式で、会葬者への挨拶の際に号泣したご長男の姿に、しもさんへの愛情の深さがうかがわれた。多くの会葬者の涙を誘ったのは言うまでもない。
棺の中で眠るしもさんの表情は、いつものように穏やかであった。今にも目を開いて語り掛けてきそうであった。私は、棺に花を手向けながら、しもさんに、学校の耐震化をやり遂げると誓った。
彼は、埼玉県の地震対策課長、防災局長(いずれも初代)を務めた行政マンであった。だが、よく言われるところの、また批判の対象となるような行政マンではなく、仕事に誇りを持ち、受益者である県民の視点を常に念頭に置いて職責を全うした誉れ高い役人であった。
彼との出会いは、阪神淡路大震災が起きて間もない頃であった。
消防防災課長になりたてのしもさんのもとに、被災地で汗と粉塵にまみれた私が最初に訪れたのは、1995年4月であった。
救援活動から埼玉に戻ってきた私は、地元埼玉の防災体制を刺激するには今しかないと、自治体を巻き込んだシンポジウムを企画、役人に市民の前で本音を語らせようと役所周りをしていた。
だが、声をかけた埼玉県主要都市の防災担当者は、いずれもが出席に難色を示し、中には「そんな市民の前で恥をかくような事は絶対にしませんから」とまで言う者も出る始末。
そんな中で、しもさんだけは違った。
「今回の震災で、市民の力無くしては救助救援活動が出来ないことが良く分かりました。埼玉県としては、恥をかくことになるかもしれませんが、参加させていただきます」
県の課長が参加表明をすると、市の防災担当者たちは、その態度を豹変させた。断り方が酷かった自治体に対しては、半分意地悪をして、もう締め切りましたと言うと、「上から出るようにと言われましたので出させてください」と哀願してきた。
シンポジウムにおけるしもさんの発言も際立っていた。だめなところは正直に認めた上で、考慮している改革案や改善すべき点を整理して市民に説明した。また、実際にその後、彼は県の防災体制に大鉈を振るった。
私の様々な提案にも真摯に耳を傾けて、防災行政の改革に役立ててくれた。私が紹介した防災社会学の学者たちを囲んで課員に勉強会をさせたのもその一つである。また、学校の防災体制の充実の必要性を訴えると、教育局を動かして私をあちこちの県立高校に紹介して改革に着手させた。
そんな人物である。金銭に関しては、潔癖とも言えるほどきれいであった。当時はまだ金銭的に余裕があり、「奢り体質」そのものであった私は、誰彼構わずおごっていたのだが、清廉潔白の彼は、そんな私に困ったのだろう。一度、私がおごると、そのお返しに一席を設けて私におごり返してきた。もちろん、そのやり方はこちらに十分な配慮をしてのものであった。
数多あるヴォランティア・グループやNPOの中で、一ヴォランティア団体の代表にしか過ぎない私が彼とそこまで深く付き合えたのは、彼にすれば、私が利権に無縁の人間だという安心感もあったと思う。彼のような力を持った役人には、利権がらみで近寄る団体や人物が後を絶たないからだ。
生前よく言っていたが、「退職したら、ACTNOWのメンバーにならせてもらいますよ」というのは私にとっての最大の褒め言葉であった。だが、残念なことに、しもさんの退職より前にACTNOWは消滅してしまった。
阪神大震災の約2年後に起きた、ロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」の座礁事故がもたらした大量の原油流出の際も、救援活動を現地で行なう我々に、しもさんはトラックに満載した県の救援物資を託した。これは、下手をしたら責任問題にまで発展する可能性があり、行政の常識ではあり得ないこと。彼の部下もその豪胆さに舌を巻いた。
私のグループが打ち出す新機軸にも理解を示してくれ、その普及に力を貸してくれた。必要とあらば、県外の自治体にまで声掛けして協力を惜しまなかった。部下が、「他の自治体に借りを作ることになる」と心配しても、「いい事をやるのに臆病であってはならない」と、ぶれる事はなかった。
退職されてからもしもさんの防災に対する信念と情熱が変わることはなかった。防災士の資格を取り、埼玉県の防災士会の発展に尽力した。そんなしもさんだから昨年4月、私がさいたま市議選に、「防災」を争点に立候補すると、力強く応援してくれた。
呼びかけ人に名を連ねるに止まらず、しもさんは街頭活動にも駆けつけてくれた。マイクを握ることも厭わなかった。その演説内容は秀逸で、聞く人の心を打った。特に、選挙戦の終盤に武蔵浦和駅前において演説した内容は、秀逸を通り越して凄みさえ感じさせた。
しもさんは、自分が役人であったことを明らかにした上で、候補者たちが当選して議員バッジをつけた途端、選挙活動で使ったカネを取り戻そうと、利権に群がる実態を明らかにした。彼の感情を抑えた冷静な口調は、明かされる事実に重みを感じさせた。
埼玉県庁の幹部であったしもさんは、議員たちが汚いやり取りをするのを見聞きする機会が多かったのだろう。抑えた口調の中に垣間見せる義憤に、彼の怒りの大きさを感じさせた。それを役人や候補者たちが聞いていたらその過激な内容にぶっ飛んだに違いない。幸か不幸か、聴衆が少なく、大きな問題になることはなかったが、私は彼の胆の太さに感動した。
私が選挙の後も、さいたま市内の学校の建物の耐震化の促進を働きかけようと、集まりを持つと、資料を手に駆けつけてくれた。その資料からは、彼の防災に対する真摯な姿勢がうかがえた。
これからもしもさんと共に埼玉県の防災体制に刺激を与えようと想いを馳せていた時に飛び込んできた訃報である。残念などという表現では尽くせない悔しさだ。しもさんは25日夜、他界した。享年66歳。くも膜下出血による急死であった。電話で話した奥様の言葉に、早く先立たれた悔しさが、長年連れ添った伴侶への慈しみが滲み出ていた。また、今日の昼に行なわれた告別式で、会葬者への挨拶の際に号泣したご長男の姿に、しもさんへの愛情の深さがうかがわれた。多くの会葬者の涙を誘ったのは言うまでもない。
棺の中で眠るしもさんの表情は、いつものように穏やかであった。今にも目を開いて語り掛けてきそうであった。私は、棺に花を手向けながら、しもさんに、学校の耐震化をやり遂げると誓った。