【15年安保闘争の記録 1】
騒乱のなかから抜け出すと、そこには黒灰色の物体が残っていた。怪しげな姿態だ。それはむしゃむしゃと何物かをむさぼっている正体不明の甲殻動物のようでもあった。もぞもぞと動いている。とっさにカフカの「変身」が浮かんだ。「どうしたのかな、おれは、と彼は思った。夢ではなかった」。ある朝青年ザ厶ザが目覚めると、自分がバカでかい毒虫に変わっていることに気づいた、というあの小説である。ここまで生きてきて、かくも奇妙で愚劣なモノを見せられるとは思わなかった。不気味でもある。よく観察すれば触覚のようなモノが、どこまでも暝い穴のなかに向って灯を発している。その物体の中をついさきほどまでのぞいていた。見てはならないものを見てしまったのだ。
穴のなかには小柄な男がいた。その背中に溶け込んでいるかのように密着しているのは剣道6段で宗教を精神的支柱とする大男だった。くしゃくしゃになった紙片の束を小柄な男が手にしている。そのうち左手上方からオレンジ色をした小型懐中電灯が細い光を発して紙片を照らしだした。うめきもおののきもない。音がない。暝い穴のなかにあるのは人間疎外と孤独だった。ここにいてはならない。そう思い物体から離れた。音が戻ってきた。多くの人間が叫んでいる。バネが壊れたブリキ人形のように、ひょこひょこと立ったり座ったりしている人間がいる。どうもぎこちない。能面のように表情がない。さっきまでいた物体から合図があると自動的に動いている。まるでモグラたたきゲームのようだ。立ったり、座ったり。何ともせわしない。
さっきまで物体のすぐ近くにいたのは「内閣総理大臣」とこの国で呼ばれる男だった。いつの間にか姿を消している。挙措がコソコソなのか、颯爽なのかも見ることができなかった。ましてや内心のざわめきが怯えなのかどうかも知る由はない。おそらく遁走したのだろう。その前に見た顔貌は、眼の周囲が赤味を帯びて膨らんでいた。眼をつむっては薄目を開ける。その繰り返しだ。どこまでも落ち着きがない。最後まで残って物体のなかで何が蠢いてるかを見たかったのだろうか。計画は知らされていただろう。しかし怪しげな物体が誕生するとまでは通知されていないはずだ。ひょこひょこと立ったり、座ったりの機械人形が、歓声をあげた。うれしそうかというとそうでもない。報道機関出身で黒塗り車を愛用する小男は、どんぐりのまなこを見開いて罵声を発しつつ、そそくさと出口に急いでいる。小毒虫だ。
物体を動かす卑劣な司令塔たちは、抗議者たちの厳しい叱声から視線を逸らしていた。「行けー!」と暴力命令を発した男も視線を逸らすだけだ。なべてみんな眼が泳いでいる。いつしか物体は溶けている。崩壊し、ばらけた。なかにいた小男は大男たちに囲まれて、そそくさと引きずられるように姿を隠した。残骸があちこちに散らばっていた。卑劣と屈辱と、何よりも人間としての恥である。もしも恥と自覚していたならばである。それも覚束ない。ーーこれが2015年9月17日夕刻に参議院安全保障特別委員会で起きた「むきだしの暴力」である。参議院記録部の公式記録にはこうある。「議場騒然、聴取不能」。
物体からばらけた男たちはいま何を思っているだろうか。誇らしげなのだろうか、それとも恥の欠片ぐらい生じただろうか。スポーツ選手だった男は「ああ、気持ちよかった」と口にしていた。そこには恥の欠片さえなかった。「自分が他人から物と見なされる経験をしたものは、自分の人間性が破壊されるのだ」(プリーモ・レーヴィー)。アウシュビッツの極限から生還した作家の言でいえば、参議院で物体となってしまった男たちは、人間性がどこかで破壊されてしまったはずだ。「鉛のように無神経なもの」(武田泰淳、「審判」)を無理やりか率先して呑み込んだからだ。国家権力の本質は暴力である。そのシステムの小さな駒として物体と化すことを命じられ、拝跪した男たちに真の人間的回復はあるのだろうか。わたしの人間観はわずかな時間で大きく変更を余儀なくされた。
2015年の安保闘争は、1960年や1970年のそれとは異なる様相を呈した。そこにいたひとりの抗議者として、印象に残ったことどもを随時記録しておきたい。現代史の記録として次はSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)について記す。(2015/9/20)
騒乱のなかから抜け出すと、そこには黒灰色の物体が残っていた。怪しげな姿態だ。それはむしゃむしゃと何物かをむさぼっている正体不明の甲殻動物のようでもあった。もぞもぞと動いている。とっさにカフカの「変身」が浮かんだ。「どうしたのかな、おれは、と彼は思った。夢ではなかった」。ある朝青年ザ厶ザが目覚めると、自分がバカでかい毒虫に変わっていることに気づいた、というあの小説である。ここまで生きてきて、かくも奇妙で愚劣なモノを見せられるとは思わなかった。不気味でもある。よく観察すれば触覚のようなモノが、どこまでも暝い穴のなかに向って灯を発している。その物体の中をついさきほどまでのぞいていた。見てはならないものを見てしまったのだ。
穴のなかには小柄な男がいた。その背中に溶け込んでいるかのように密着しているのは剣道6段で宗教を精神的支柱とする大男だった。くしゃくしゃになった紙片の束を小柄な男が手にしている。そのうち左手上方からオレンジ色をした小型懐中電灯が細い光を発して紙片を照らしだした。うめきもおののきもない。音がない。暝い穴のなかにあるのは人間疎外と孤独だった。ここにいてはならない。そう思い物体から離れた。音が戻ってきた。多くの人間が叫んでいる。バネが壊れたブリキ人形のように、ひょこひょこと立ったり座ったりしている人間がいる。どうもぎこちない。能面のように表情がない。さっきまでいた物体から合図があると自動的に動いている。まるでモグラたたきゲームのようだ。立ったり、座ったり。何ともせわしない。
さっきまで物体のすぐ近くにいたのは「内閣総理大臣」とこの国で呼ばれる男だった。いつの間にか姿を消している。挙措がコソコソなのか、颯爽なのかも見ることができなかった。ましてや内心のざわめきが怯えなのかどうかも知る由はない。おそらく遁走したのだろう。その前に見た顔貌は、眼の周囲が赤味を帯びて膨らんでいた。眼をつむっては薄目を開ける。その繰り返しだ。どこまでも落ち着きがない。最後まで残って物体のなかで何が蠢いてるかを見たかったのだろうか。計画は知らされていただろう。しかし怪しげな物体が誕生するとまでは通知されていないはずだ。ひょこひょこと立ったり、座ったりの機械人形が、歓声をあげた。うれしそうかというとそうでもない。報道機関出身で黒塗り車を愛用する小男は、どんぐりのまなこを見開いて罵声を発しつつ、そそくさと出口に急いでいる。小毒虫だ。
物体を動かす卑劣な司令塔たちは、抗議者たちの厳しい叱声から視線を逸らしていた。「行けー!」と暴力命令を発した男も視線を逸らすだけだ。なべてみんな眼が泳いでいる。いつしか物体は溶けている。崩壊し、ばらけた。なかにいた小男は大男たちに囲まれて、そそくさと引きずられるように姿を隠した。残骸があちこちに散らばっていた。卑劣と屈辱と、何よりも人間としての恥である。もしも恥と自覚していたならばである。それも覚束ない。ーーこれが2015年9月17日夕刻に参議院安全保障特別委員会で起きた「むきだしの暴力」である。参議院記録部の公式記録にはこうある。「議場騒然、聴取不能」。
物体からばらけた男たちはいま何を思っているだろうか。誇らしげなのだろうか、それとも恥の欠片ぐらい生じただろうか。スポーツ選手だった男は「ああ、気持ちよかった」と口にしていた。そこには恥の欠片さえなかった。「自分が他人から物と見なされる経験をしたものは、自分の人間性が破壊されるのだ」(プリーモ・レーヴィー)。アウシュビッツの極限から生還した作家の言でいえば、参議院で物体となってしまった男たちは、人間性がどこかで破壊されてしまったはずだ。「鉛のように無神経なもの」(武田泰淳、「審判」)を無理やりか率先して呑み込んだからだ。国家権力の本質は暴力である。そのシステムの小さな駒として物体と化すことを命じられ、拝跪した男たちに真の人間的回復はあるのだろうか。わたしの人間観はわずかな時間で大きく変更を余儀なくされた。
2015年の安保闘争は、1960年や1970年のそれとは異なる様相を呈した。そこにいたひとりの抗議者として、印象に残ったことどもを随時記録しておきたい。現代史の記録として次はSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)について記す。(2015/9/20)