有田芳生の『酔醒漫録』

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「むきだしの暴力」による無効採決

2015-09-20 13:44:51 | 日記
 【15年安保闘争の記録 1】

 騒乱のなかから抜け出すと、そこには黒灰色の物体が残っていた。怪しげな姿態だ。それはむしゃむしゃと何物かをむさぼっている正体不明の甲殻動物のようでもあった。もぞもぞと動いている。とっさにカフカの「変身」が浮かんだ。「どうしたのかな、おれは、と彼は思った。夢ではなかった」。ある朝青年ザ厶ザが目覚めると、自分がバカでかい毒虫に変わっていることに気づいた、というあの小説である。ここまで生きてきて、かくも奇妙で愚劣なモノを見せられるとは思わなかった。不気味でもある。よく観察すれば触覚のようなモノが、どこまでも暝い穴のなかに向って灯を発している。その物体の中をついさきほどまでのぞいていた。見てはならないものを見てしまったのだ。

 穴のなかには小柄な男がいた。その背中に溶け込んでいるかのように密着しているのは剣道6段で宗教を精神的支柱とする大男だった。くしゃくしゃになった紙片の束を小柄な男が手にしている。そのうち左手上方からオレンジ色をした小型懐中電灯が細い光を発して紙片を照らしだした。うめきもおののきもない。音がない。暝い穴のなかにあるのは人間疎外と孤独だった。ここにいてはならない。そう思い物体から離れた。音が戻ってきた。多くの人間が叫んでいる。バネが壊れたブリキ人形のように、ひょこひょこと立ったり座ったりしている人間がいる。どうもぎこちない。能面のように表情がない。さっきまでいた物体から合図があると自動的に動いている。まるでモグラたたきゲームのようだ。立ったり、座ったり。何ともせわしない。

 さっきまで物体のすぐ近くにいたのは「内閣総理大臣」とこの国で呼ばれる男だった。いつの間にか姿を消している。挙措がコソコソなのか、颯爽なのかも見ることができなかった。ましてや内心のざわめきが怯えなのかどうかも知る由はない。おそらく遁走したのだろう。その前に見た顔貌は、眼の周囲が赤味を帯びて膨らんでいた。眼をつむっては薄目を開ける。その繰り返しだ。どこまでも落ち着きがない。最後まで残って物体のなかで何が蠢いてるかを見たかったのだろうか。計画は知らされていただろう。しかし怪しげな物体が誕生するとまでは通知されていないはずだ。ひょこひょこと立ったり、座ったりの機械人形が、歓声をあげた。うれしそうかというとそうでもない。報道機関出身で黒塗り車を愛用する小男は、どんぐりのまなこを見開いて罵声を発しつつ、そそくさと出口に急いでいる。小毒虫だ。

 物体を動かす卑劣な司令塔たちは、抗議者たちの厳しい叱声から視線を逸らしていた。「行けー!」と暴力命令を発した男も視線を逸らすだけだ。なべてみんな眼が泳いでいる。いつしか物体は溶けている。崩壊し、ばらけた。なかにいた小男は大男たちに囲まれて、そそくさと引きずられるように姿を隠した。残骸があちこちに散らばっていた。卑劣と屈辱と、何よりも人間としての恥である。もしも恥と自覚していたならばである。それも覚束ない。ーーこれが2015年9月17日夕刻に参議院安全保障特別委員会で起きた「むきだしの暴力」である。参議院記録部の公式記録にはこうある。「議場騒然、聴取不能」。

 物体からばらけた男たちはいま何を思っているだろうか。誇らしげなのだろうか、それとも恥の欠片ぐらい生じただろうか。スポーツ選手だった男は「ああ、気持ちよかった」と口にしていた。そこには恥の欠片さえなかった。「自分が他人から物と見なされる経験をしたものは、自分の人間性が破壊されるのだ」(プリーモ・レーヴィー)。アウシュビッツの極限から生還した作家の言でいえば、参議院で物体となってしまった男たちは、人間性がどこかで破壊されてしまったはずだ。「鉛のように無神経なもの」(武田泰淳、「審判」)を無理やりか率先して呑み込んだからだ。国家権力の本質は暴力である。そのシステムの小さな駒として物体と化すことを命じられ、拝跪した男たちに真の人間的回復はあるのだろうか。わたしの人間観はわずかな時間で大きく変更を余儀なくされた。

 2015年の安保闘争は、1960年や1970年のそれとは異なる様相を呈した。そこにいたひとりの抗議者として、印象に残ったことどもを随時記録しておきたい。現代史の記録として次はSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)について記す。(2015/9/20)

 
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時代の先端に押し出されたSEALDs(シールズ)の歴史的意味

2015-09-05 10:43:19 | 日記
 
     時代の先端に押し出されたSEALDs(シールズ)の歴史的意味

                   有田芳生(参議院議員)

 SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy/自由と民主主義のための学生緊急行動)が話題になっている。ところがその実態をよく知らず、あるいは知ろうとせずさまざまな憶測が流されている。意図的で歪められた内容の報道やツイッターの書き込みもある。たとえばSEALDsを背後で動かしている組織があるなどという報道は、悪意ある典型だ。「調査なくして発言権なし」。評価は自由だが、まず基礎的知識として事実から出発することだ。

 この団体は2015年5月3日に行動をはじめた。もともと政治に関わりのなかった大学生が中心となり、高校生もふくめ、10代後半から20代前半の有志のメンバーによって結成された。SEALDsには、いまでは関東に約180人、関西に約150人、東北に30人、沖縄に20人が所属している。関東のSEALDsに代表はいないが、広報、映像、会計、デモなど15ほどの班があり、責任者を「副司令官」と呼んでいる。「人民こそが司令官」だとするメキシコのサバティスタ民族解放軍の影響だという。このメンバーがSNSを通じて集会を呼びかけると、少なくとも数千人の人たちが集まるようになった。

わたしは何人かの中心メンバーに話を聞いた。これまで政治に関わったことはあるかという問いに、24歳の女子学生はこう語った。「人生で最初の経験です」。さらにご両親はと聞くと「父も母も政治には関わってきませんでした」という。同席した男子学生もうなずいた。メンバーの中心に、ヘイトスピーチ(差別の煽動)に抗議する現場でみた顔もあった。それとてことさらに取り立てて言うことではない。メンバーは千差万別、先天的に政治性をおびていたわけではない。

 公安当局はSEALDsの人脈を調べたという。背後に組織やセクトがいないかーーそれが調査対象だった。結果は「シロ」。しばしばメディアの取材を受けている奥田愛基(23歳)はこう語っている。「僕はツイッターでも書いていますが、民青も共産党も嫌いだし、シールズを立ち上げるときに周辺に革マルや中核がいないかって調べて、そのへんの人たちとは距離を置きましたよ。だって怖くないすか、そういうの」(「週刊文春」9月10日号)。

 SEALDsは、日本の戦後70年間の自由と民主主義の伝統を尊重し、日本国憲法のもつ価値を守りたいという理念を共有している。特定のイシュー(問題、論争点)に特化するのではなく、立憲主義、安全保障、生活保障など、包括的なアクションを目指して活動している。いわゆる「改憲か護憲か」という議論ではなく「立憲主義」という近代国家に不可欠な価値を根拠に、自民党改憲草案や解釈改憲に反対していくという。

 SEALDsの前身団体がSASPL(サスプル:Students Against Secret Protection Law/特定秘密保護法に反対する学生有志の会)だ。彼らは街頭での抗議行動だけでなく、映像や文章による宣伝、イベントや解説サイトの作成などを行ってきた。2014年10月に主催した渋谷のデモでは学生を中心に2000人が集まっている。法施行日前日から抗議の声を上げ合計3000人を越える人たちが集まり、数十年ぶりに大手新聞3社で学生デモが新聞の一面を飾った。以上の基礎的データは、SEALDsが記者会見のために準備した文書とその後の取材による。

 SEALDsは、2015年6月27日に東京・渋谷のハチ公前で集団的自衛権行使の解釈改憲に反対する集会を開いた。わたしは写真家の藤原新也さんたちと現場に行った。藤原さんの関心は、どんな若者がそこに集まってくるかにあった。香港の「雨傘革命」を目撃した藤原さんは、日本での兆候を自分の眼で確認したかったのだろう。8月30日に国会周辺で行われた集会に行った藤原さんによれば、集会参加者でもなく、取材者でもなく、「空気」のような立場で現場に立ち会ったという。渋谷でもそうした視点だったのだろう。

「どうでしたか」と聞くと、「集会の周りを歩いているような若者がもっといるかと思った」という感想が戻ってきた。渋谷集会でマイクを持ち、スピーチをする学生たちには、明らかに知性を感じさせた。就職前の学生もいただろう。彼らは自ら名乗って堂々と、あるいは大きな深呼吸をしてスピーチをしていた。政治家たちに交じって語る彼らを見ていて小さな発見があった。スピーチ内容を紙に書いて手にしていたのはたった一人。みんなスマートフォンを左手に持ち、ときおりそこに眼をやりながら語っている。わたしは院内集会で一度だけスマートフォンを手にスピーチをしてみた。難しいというより、おそらく新しい機器に対する世代感覚と慣れの違いなのだろう。発言内容を事前にメモして語る旧来の方法がずっとやりやすかった。

組合など組織が前面に出たデモや集会では、いまもかつてもこんな光景が日常的だ。「シュプレヒコール!」「おーっ!」「われわれは○○を許さないぞー!」ーーこうしたアピールは、戦前、戦後から変わることなく続いてきた。ところがSEALDsはそうではない。ラップ調のリズム感あふれたかけ声はとても新鮮だ。渋谷で行われた高校生のデモ(8月2日)で、中年女性がそのスタイルを真似していたが、テンポがとても追いつかない。近くで聞いていて御愛嬌だった。SEALDsは戦後の日本で続いてきた社会運動の文化を確実に変えている。

6月24日に参議院議員議員会館でSEALDsが記者会見を開いたとき、入り口でパンフレットを配っていた。そこには細かい文字でなぜ集団的自衛権行使の解釈改憲に反対するのかが、詳細に分析されていた。余談だが記者会見の開始が遅れた。しばらくして中心メンバーが慌ただしく会議室に入ってきた。どうしたのかと問うメンバーに彼は答えたーー「授業だったんだから仕方ないだろ」。SEALDsの象徴的な素顔だ。国会正門前で毎週金曜日の19時半から21時半まで行われている集会の様子を聞いて、ときに過激な発言があることをことさら批判するむきもある。運動とはそういうものだ。問題があれば批判をすればいい。誤解してはならないのは、感情の発露の背後には彼らなりの分析と理論があるということである。

 スローガンやシュプレヒコールは論文ではない。現場の言葉は「なまもの」であって「干物」ではない。ひとの心に届く言葉とは単純にして明解でなければならない。確信ある言葉でなければ届く前に揮発してしまう。SEALDsの多くの学生たちが本気で運動に参加していることは、その様子を観察していればすぐにわかる。国会前の集会でムードを作ってきたのは、SEALDsの持つ時代の流れに沿った勢いなのだ。もちろん戦後の長きにわたって、いまでは中高老年の年齢になった世代の、何十年にもわたる民主主義を実現するための地道な営みがあったことを忘れてはならない。その土壌のなかから新しい社会運動としてのSEALDsが誕生した。意図せずして時代の先端に押し上げられたSEALDsの歴史的意味を、たとえ嫉妬や批判があったにしても、過小評価するべきではない。
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2015・8・30。国会正門前でスピーチをしました。

2015-09-01 22:54:50 | 日記
国会正門前で「過剰警備監視」をする国会議員(約20人)として次のようなスピーチをしました。人生ではじめて経験する規模の集会です。
 戦後70年のなかでもっとも歴史的瞬間であるこの日に国会周辺にお集まりのみなさん。お疲れさまです。今日は憲法違反の「安保法制」、すなわち戦争法案に反対する「立憲フォーラム」の呼びかけで20人のほどの議員がこのたすきをかけています。「過剰警備監視」と書かれています。
 じつはこんな経過がありました。安倍政権に反対する人たちがこの国会正門前に集まってくるとき、しばしば過剰な警備が行われ、参加者との間でトラブルが起きてきたのです。たとえば7月24日のことです。「シールズ」の行動に呼応して多くの人たちがこの国会正門前に来るために桜田門の駅で降りました。その人たちが道路を渡たったところで、警察官によって通行をとめられてしまったのです。
 参加者は「通してくれ」と要求しました。警察官は「ダメだ」と繰り返すばかりです。その騒動のなかで逮捕者まで出てしまいました。明らかに過剰警備です。今日もそうですが、現場の警察官は指示されたとおりに行動します。つまり指揮官が柔軟な対応をしないかぎり問題が起きてきたのです。
 この過剰警備に対して弁護士たちが警視庁に改善の申し入れを行ってきました。そして戦争法案の行方がもっとも緊迫する9月を前にして、この国会周辺の10万人集会、そして全国100万人の集会が行われています。この重要な日に過剰警備が行われないようわたしたちは監視を行っています。いまのところ問題は起きていないことをここにご報告いたします。
 みなさん。今朝の「東京新聞」の社説は「デモの民主主義」と書きました。そう、わたしたちが国会周辺で、そして全国で憲法違反の「安保法制」に反対しているのは、民主主義を破壊しようとしている者たちへの強い抗議なのです。これまでにも組織の動員ではなく、自由で独立した個人が続々と声を上げてきました。中学生や高校生、シールズの大学生、そして女性の姿が多いのも大きな特徴です。天下の半分は女性です。女性が動けば社会は変わります。男性も頑張ります。93歳の瀬戸内寂聴さんも、100歳になったジャーナリストのむのたけじさんも戦争法案に反対しています。「戦後70年」の平和をまるごと消滅させようとする安倍政権にさらに抗議の声を高めていきましょう。
 残された1時間、弁護士とともにわたしたち国会議員は「過剰警備」を監視します。そして明日からの院内の闘いでも悪法を廃案にさせるよう全力を尽してまいります。みなさんかつてスペインでファシズムに反対するひとたちが「奴らを通すな」を合言葉にしました。この日本でも戦争法案を推進する勢力に対して「奴らを通すな」という声をさらに高めようではありませんか。奴らを通すな!ありがとうございました。
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北朝鮮による拉致事件ー実行犯逮捕の現場を歩く

2015-08-10 14:49:39 | 日記
のと里山空港から宇出津までタクシーで移動しました。東京よりも気温は低く30度。北朝鮮による拉致事件で実行犯が逮捕された現場を歩くことが目的です。時代は1977年9月19日。ふたりの男が海辺に近い旅館に泊まりました。その挙動がおかしいというので、女将は警察に連絡します。70年代は能登半島でしばしば不審船が確認されていたので、旅館には警察から注意が行われていたのです。二人の男は午後10時すぎに外出しました。街灯もありません。目的地は15分ほど歩いたところにある「船隠し」です。午後11時半をすぎて旅館に戻ってきたのはただひとりでした。金沢県警から捜査員が駆けつけ、男に外国人登録証の提示を求めましたが、拒否、現行犯逮捕となります。行方を消したのが三鷹市役所でガードマンをしていた久米裕(ゆたか)さんでした。逮捕された「李」の供述は酷くもあり、哀しいものでした。帰国事業で北朝鮮に戻った病身の妹を人質にして工作員に仕立てられていったのです。この「宇出津事件」についてもっとも詳しく記録したのは、捜査資料を根拠にしたであろうと思われる石高健次さんの『金正日の拉致指令』(朝日文庫)です。結局事件は不起訴で男は釈放されました。地元紙では報じられましたが、全国紙に出ることはありませんでした。「船隠し」からゴムボートで沖に向った久米さんの消息はそこで途切れました。2002年9月17日に北朝鮮が発表した安否情報では「未入境」、つまり北朝鮮に入っていないというものでした。この事件が大きく報じられていれば、その2か月後(1977年11月15日)に新潟で起きた横田めぐみさん拉致事件はなかったのではないか。それがぼくの問題関心です。警察庁の判断の問題です。いずれ国会で質問する予定です。翌日は金沢駅にある「黒百合」に寄りました。昭和28年に開店した名居酒屋です。カウンターのお隣で焼酎を飲んでいた男性から「昨日テレビに出ていましたね」と声をかけられました。「人種差別撤廃施策推進法」の審議で質問しているニュースをご覧になったようです。この法案の行方も今国会での重要な問題です。(2015/8/9)
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鶴見俊輔さんと

2015-07-27 09:43:50 | 日記
2006年6月。場所は京大会館です。
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鶴見俊輔さんは素晴らしい「悪人」でした

2015-07-27 08:23:35 | 日記
鶴見俊輔さんと会うためには往復ハガキで連絡するのがいちばんだと、中川六平さん(13年に63歳で逝去)に教えられました。2006年のことです。BC級戦犯として処刑された木村久夫さんについて、鶴見さんの父である鶴見祐輔さんの手紙を発見したので、この機会にお会いして戦犯についてご意見を伺いたいと思ったのでした。指定されたのは京大会館。2006年6月24日の午後でした。クラブサンドを注文した鶴見さんは、いきなり「私は悪人なんです」と語り出したので、びっくりしました。その意味は、『言い残しておくこと』(作品社、2009年)でも語られています。

「善人は弱いんだよ。善人として人に認められたいという考えは、私には全然ない。I AM WRONG. 悪人で結構だ!」

鶴見さんのいう「悪人」とは、藤田省三さんの「不良精神の輝き」とも重なるものです。戦犯の問題だけでなく、あらゆる関心を語ってくれた贅沢な個人授業でした。鶴見さんにはさらにお聞きしたいことが出てきました。翌2007年に同じように往復ハガキで連絡をしたところ、疲れているのでいまは会えないと返事をいただいたのです。思想界の自由人で「小さなもの」の大切さを身体で知る人でした。ぼくが鶴見さんを意識したのは、上田耕一郎さんの論文「プラグマチズム変質の限界ーー『思想の科学』の示すもの」でした。いまからの出張に鶴見さんと上田さんの対談(上田耕一郎『人生の同行者』)を持っていくことにしました。深い影響を受けたお二人がすでに在天にあることはとても残念なことです。(2015/7/25)
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新国立競技場問題とは予算のことだけではない

2015-07-20 21:45:10 | 日記
安倍首相が世間の批判が多い新国立競技場の建設を「デザインコンペをはじめ、白紙から見直す」ことを表明しました。正直に言って「いまさら」の思いが強いです。国際的な建築家が問題ありと指摘したのは、2年前の9月でした。昨年の2月5日の予算委員会で新国立競技場の問題点を1時間ほど質問しました。ところが質問の冒頭でNHKの経営委員だった百田尚樹氏による都知事候補への「人間のクズ」発言を取り上げたため、テレビや新聞の報道はそこに集中し、現地取材をふくめ、いちばん重点を置いた新国立競技場問題は、北海道新聞が小さく記事にしてくれた以外は、残念ながらまったく報道されませんでした。この取材の準備には、森まゆみさんやいまテレビで引っ張りだこの建築エコノミスト・森山高至さん、さらには多くの現地住民から話を聞き、国立競技場の現地調査も行いました。質問では膨大な予算規模をかかえる問題はもちろん、ザハ・ハディド氏にデザイン監修料を13億円も支払うことへの疑問や、環境破壊問題など、新国立競技場をめぐる課題を詳細に問うています。いま社会的関心が高まり、政権も計画を変更せざるをえないところに追い込まれました。この問題をはじめて国会でまとめて取り上げた質問として、該当部分を掲載します。https://www.facebook.com/yosihifu.arita(2015/7/20)
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立憲主義を破壊する安倍政権に正統性はない

2015-07-16 11:24:55 | 日記
 安倍晋三首相は憲法に違反する「安保法制」を数の横暴で強行採決しました。2015年7月15日は、戦後70年でもっとも屈辱的な1日として歴史に刻まれたのです。しかしこれで終わりではありません。参議院での審議をはじめ、9月27日の会期末まで院内外の闘いはさらに高まります。アジア2000万人、日本人310万人の犠牲のうえに戦後日本社会はいままで持続し、その象徴として日本国憲法があります。ひとりひとりの戦後の営々たる営みをいっきょに覆そうとするのが安倍政権の歴史に対する犯罪行為です。この歴史的瞬間に生きるわたしたちは、政権基盤である内閣支持率をさらに下げていかなければなりません。なぜなら立憲主義を破壊する安倍政権には、もはや正統性がないからです。夕方からは国会正門前で抗議する人たちのなかに入りました。背広姿で右腕をつきあげ安倍政権に怒りを表明する男性。たったひとりで駆けつけたのでしょう、中年の女性は小さな声でシュプレヒコールに唱和していました。小さなこどもをだっこした夫婦がいました。背中に抗議のゼッケンをつけて自転車で走る若い女性もいます。タクシーで国会正門前に駆けつけた人たちも多く見ました。大阪でヘイトスピーチと闘う市会議員は安倍政権批判のスローガンを貼りめぐらした派手な車で、何度も国会前を走っていました。SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)のラップ調のシュプレヒコールはもはや当たり前になってしまいました。時代は確実に回転しました。新しい時代に新しい抗議のスタイルが生まれたのです。政治家も古い上着を脱ぎ捨てて、新しい言葉や行動スタイルを探求しなければなりません。そして一刻も早く亡国の安倍政権を打倒することです。(2015/7/16)
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日朝交渉延長の背景にあるもの

2015-07-05 09:44:50 | 日記
北朝鮮が拉致問題など「すべての日本人問題」を解決すると特別調査委員会を設置したのは2014年7月4日。日本の菅官房長官は、調査のめどは「1年」と語りました。それは北京の北朝鮮ルートでも確認されたことです。その1年を前にした7月2日、北朝鮮の北京大使館を通じて、日本側に「さらに誠実に調査を続ける」との連絡があったと報じられました。岸田外相も閣議後の会見で認め、国会でも安倍首相がさらなる交渉を強く進めると答弁しました。いったい何が起きているのでしょうか。昨年10月末に平壌で行われた日朝政府間交渉から8か月が過ぎました。それを最後に局長級会談は行われていません。しかし水面下での交渉はほぼ月に1回、北京、大連、上海などで続いてきたのです。日本側はそこで拉致問題の調査状況について聞いているとの情報があります。北朝鮮側の抽象的な回答が期待したものよりも芳しいものではなかったのではないでしょうか。すると困るのは安倍政権です。「わたしの内閣で拉致問題をすべて解決する」と豪語してきた首相の立場がなくなるからです。首相が「拉致問題の解決」を具体的にどう想定しているかは不明です。「すべての拉致被害者を帰国させる」という立場は正しいものの、横田滋さんがいうように「亡くなっている人がいてもおかしくない」からです。強硬な主張を繰り返してきた有本明弘さんが「報告を受けなければいけない」と主張するのは、交渉しなければ事態が進まないからです。現状では安倍首相が期待した報告の水準にはならないと判断できるから、北朝鮮側にこれではダメだと通告、その結果が「さらなる調査」というメッセージになったのではないでしょうか。日本の報道は官邸サイドの情報を根拠とするものですから、安倍首相=日本政府の困惑を伝えるはずがありません。そこで国民には北朝鮮がまたまた引き延ばしをしているとしか映らないのです。しかしいつまでも報告を受け取らないわけにはいきません。10月10日には朝鮮労働党創建70周年がやってきます。そこでもし人工衛星(ミサイル)を発射すれば、日本政府は厳しい対応を取らざるをえなくなるかもしれません。もし日朝交渉が途絶えれば、被害者にとっても家族にとっても「最後の機会」が失われます。拉致問題は最優先ですが、残留日本人問題なども切実な人道的課題であることを忘れてはなりません。清津で暮していた残留日本人の丸山節子さんは、特別調査委員会から日本帰国への希望を聞かれ、「帰りたい」と望んでいたものの、1月16日に86歳で亡くなりました。「平壌・龍山会」の人たちのなかにも、この1年で体調が悪化したメンバーもいます。93歳のMさんは娘さんを1歳で亡くし、龍山墓地に埋葬しました。どうしても墓参を果たしたいと、車椅子でも訪朝の希望を表明していましたが、ドクターストップでもはやかないません。拉致被害者やその家族にも時間がありませんが、それは残留日本人や日本人妻、さらに墓参訪朝を望んでいる人たちも同じことなのです。(2015/7/4)
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藤原新也さんのこと

2015-06-30 07:28:50 | 日記
SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)が渋谷のハチ公前で行う集会の前に、近くのホテルで藤原新也さんに会いました。ずっと思案してきたあるお願いをするためでした。意を決して話をすると「お引き受けします」と快諾してくれたのでホッとしました。藤原さんの存在は『東京漂流』を故・山川暁夫さんから薦められて知りました。川崎で両親をバットで殺した少年の分析と、その家の写真がいまでも鮮やかに蘇ります。「文章がうまいねえ」と山川さんは言っていました。何よりも世間を見る眼が違います。それから藤原さんの視点で書かれた著作を熱心に読むようになったのでした。あるとき文藝春秋の編集者から連絡がありました。藤原さんの文庫を出すので、その解説を書いて欲しいというのです。驚いたことにご本人からの申し出だといいます。『空から恥が降る』が発売されたのは2004年5月。ぼくの原稿は「方法としての藤原新也」と題しています。いま読み直してみて、辺見庸さんに影響を受けた文章だと自覚しています。藤原さんが大宅ノンフィクション賞を辞退していたことを思い出しました。「状況が厳しければ厳しいほど人間はユーモアを忘れてはならない」「戦争を批判するにしても、がちがちに硬直した批判は危険である」ーー藤原さんのこんな表現も引用してあります。藤原さんと実際にお会いするのは、この解説を書いたことがきっかけになったのです。藤原さんがハチ公前の集会に行ったのは、どんな若者が集まっているかが気になったからだといいます。そして政治家が渋谷という土地でどんな言葉で語るかも関心の対象でした。「CAT WALK」(6月29日)で報告がありました。藤原さんのアトリエで会員とともに話を聞き、新大久保のタイ料理屋で懇親を終えて、最終電車で帰宅する充実した1日でした。藤原さんとの写真は「師匠」と呼んでいるカメラマンの戸澤裕司さんが撮影してくれました。かつて「朝日ジャーナル」で江川紹子さんと宗教問題でルポを書いたときにはじめてお会いしました。もう25年も前のことです。(2015/6/29日)
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