先日、Rei worksの「芭蕉精」を観て来た。
このダンス作品を観るのは三回目。映像とのコラボレーションなのだが、前二回は都合により映像ナシ。今回が初めてのフル鑑賞。
会場は大阪阿部野のロクソドンタブラック。小さなビルに看板が掲げてあった。入ったはいいが、ステージがどこにあるのか分からず階段を上ったらトイレ。あ、れ?とそこに居たご夫人に聞いたらステージは1階奥だという。階段を下りて、奥ってどこ?などと聞きながら黒いカーテンをどけると会場。狭い。狭いハコは好きだ。客席も階段状にしてある。舞台が1番低い位置になる。
そして、始まる。
真っ暗闇
虫の音
オンガク
月の映像
何時、レイさんは出て来るのだろう?
と、思ったら静かな照明の中にレイさんすでに居る。何時の間に、あんなに暗い中その位置へ?音もなく。湧いた?降った?
芭蕉を脱ぎ置くときふいに涙腺が緩む。
ダンスを観ているとたまに泣く。あれは、何なんだろう。映画や小説やお芝居と違って、筋がありその物語が泪を誘うのとは違う。かといって、ダンサーの想いをわたしが受取っているとも思えない。残念ながら。そこまで感受性豊かじゃありません。じぃとダンスだけを観ていても、伝えたいことなど、正直言ってワカランよ。ただ、何かがやってくるのだろう。自分でもワカラナイ部分が反応するのだろう。不思議。不可思議。
動きと映像が連動して、ぐんと、見えるようになった。最後、宇宙を内に納め、解き放つ。我と交ぜ合わさって、広がって行くのか・・・。
わたしは人間も、宇宙だと思っている。宇宙を構成するかのごとく、沢山の細胞で何もかも出来ている。彼らにとってわたしは、わたしにおける人間だったり、地球だったり、宇宙だったりするはず。
そしてわたしは「自分」を掌握できない。どこもかしこも、手で触れるのに。あ、と思う。もしかして宇宙もわたしのようだったりして。
例えば。
太陽は宇宙にとって万年の吹き出物みたいな存在で、悩んでたり。吸い込み産み出すブラックホールを、これは何なんだろな一体、と眺めていたり。生きる、てままならない。けどだから、生きるんだろねぇ、なんて物知り顔で呟いてみたり。相似形。大きなものと感じていた宇宙が途端に身近になちゃってちょっと、愉快。
一緒にせんといてぇやぁ、と宇宙、呆れてはるやろか。このような想像をして楽しむわたしは、宇宙にとって、皮膚の下の痒さほどの感覚も与えないであろうが。あれはなかなかにいらつく。わたしが細胞の思いを何一つ知らないように、宇宙はわたしが考えていることなど何一つ、知らない。いや、全て知っていて、嫣然としている?
個体の区切り等、あって、ない
そやけど一心同体ではない