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たたら製鉄の謎。南方由来の弥生製鉄

 

 弥生期における鉄器生産は韓半島から輸入された鉄挺(てってい)を原料として北部九州域に集中している。のちの「たたら製鉄」は5、6世紀に韓半島より齎されたという。
 近年、カラカミ遺跡(壱岐)や小丸遺跡(広島)など、弥生期の製鉄遺跡とされる遺構の発見が相次いでいる。が、史学は弥生期の製鉄を認めようとしない。

 そして、韓半島より伝わったとされる「たたら製鉄」に関して不思議な事象がある。

 たたら製鉄は直接製鉄法とされる。直接製鉄法とは砂鉄や鉄鉱石を低温で半溶融のまま還元し、炭素の含有量が少ない錬鉄(れんてつ)を生成する。これを加熱、鍛造して不純物を搾り、強靭な鋼(はがね)を得る。
 が、その時代、中国や韓半島で行われていた製鉄技術は間接製鉄法であった。鉄鉱石を高温で溶融、還元させるが鉄は炭素を吸って脆い銑鉄(せんてつ、ずく)となる。これを再度、加熱溶融、炭素調整をして鋼を得る方法である。中国では大量に鉄を生産できるこの方法が古代より発達している。

 韓半島より齎された筈のたたら製鉄がなぜか日本独自の技法といわれる所以。そのルーツとされる中国や韓半島の製鉄法とは技術が異なるという謎。古く、中国や韓半島とは異質の製鉄文化が列島に伝わっていた可能性が考えられる。


 太古、鉄器文化はBC1400年頃の西アジア、ヒッタイトに始まったとされる。鉄鉱石による製鉄で炭を使って還元し、鍛造して鋼を得る直接製鉄法であった。
 BC1200年頃にヒッタイトが滅亡するやその技術は周辺に拡散、エジプトやメソポタミア、インドなどに伝播している。中央アジアではBC800年頃のスキタイが製鉄技術を得ていたとされる。
 中国においては「殷」の遺跡で鉄器が発見されているが金属器の主体は青銅であり、本格的に製鉄が始まるのは春秋戦国期(BC770年~BC221年)の頃とされる。


 奈良、富雄丸山古墳で発見され、その巨大さで世間を沸かせた「蛇行剣(だこうけん)」の存在がある。蛇行剣は剣身が蛇のように曲がりうねったもの。その形状から儀礼用のものとされる。
 全国の古墳などから出土しているがその半数は九州であり、とくに南九州、日向などの地下式横穴墓から集中的に出土することで南九州の発祥ともされる。そして、この域の地下式横穴墓は隼人系集団の墳墓ともされる。

 民族学の先駆、鳥居龍蔵は蛇行剣がインドネシアやマレーシア、フィリピンあたりのクリス短剣を連想させるとして、その原初は東南アジアにあると考察している。南方系海人に由来するという隼人の拘わり。奈良、富雄丸山古墳出土の巨大な蛇行剣は初期天皇の親衛として皇宮を守護した隼人系武人の象徴に相応しい。
 隼人とは南九州の海人。神話において隼人の祖とされる火照命に纏わる海幸山幸の説話や火中出産説話などは東南アジアや南洋にルーツがあり、隼人の楯の渦巻紋や鋸歯紋の類は東南アジアにおいて悪敵を払う魔除けとされる。隼人は東南アジアあたりの海人に由来する。

 そして、前述のクリス短剣(蛇行剣)の原初は、BC300年頃から紀元前後にかけて繁栄したベトナム北部のドンソン文化に由来するともいわれる。ドンソン文化は東南アジア初期の金属器文化。特徴的な銅鼓などの青銅器が発達、鉄器の使用も知られる。そして、ドンソン文化の特徴的な銅鼓は中国南域からマレー半島、タイ、インドネシアなど東南アジア全域に拡散している。

 古く、百越の倭人と呼ばれる存在がある。「百越(ひゃくえつ)」は大陸南域からベトナムに到る広大な沿岸に在った諸族。北方の漢人とは言葉、文化を異とする民で、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、倭人との類似が多いとされる。当に、隼人の原初。
 偏西風が西から東に吹き、黒潮が南から北に流れることで、古い時代、列島に拘わる事物の主体が南方から東シナ海を北上したことは自明の理。日本の基層文化は飽くまで南方系のものであった。
 つい最近まで大陸から韓半島を経て北部九州へ伝播したといわれていた水田稲作でさえ、大陸南域から直接、東シナ海を経て列島に伝わったことが最新の遺伝子研究などで解明されている。

 而して、ヒッタイトより東アジアへの製鉄技術の伝播ルートにおいて、中央アジアを経た北方の黄河ルートに対して、南方のインドルートがあった。ヒッタイトの初期の技術、直接製鉄法は古く、インド、ミャンマーからタイ、ラオス北部、雲南を経て、ベトナムなどへ伝わったともされる。
 タイ東北部のバンドンブロン遺跡ではBC300年頃の製鉄遺構が発見され、遺構や鉄滓の分析により直接製鉄法であったことが解明されている。

 「たたら製鉄」のルーツが5、6世紀に韓半島より齎されたものではなく、古い時代に大陸南域、東南アジアあたりから伝わっていたものであれば、弥生期の製鉄遺跡の存在やその製鉄技法の主体が中国や韓半島の製鉄法と異なるという謎は解ける。


 弥生期の鉄器について、韓半島輸入の鉄挺(てってい)を原料として北部九州域が鉄器生産を集中させている。が、弥生後期に中九州域、火(肥)北部の鉄器出土が激増、とくに鉄鏃(てつぞく)など鉄製武器の出土数では火(肥)が北部九州域を圧倒している。
 菊池川流域の盟主とされる大規模集落、方保田東原遺跡や大津の西弥護免遺跡などでは弥生後期の鍛冶遺構や鉄製武器が大量に出土、この域における圧倒的な鉄器の集積は際立っている。

 而して、邪馬台国九州説において、鉄製武器の集積を背景にした弥生後期の火(肥)北部域が、女王国の南に在ってその存在を脅かしたとされる「狗奴国」にも比定される。
 魏志倭人伝によると正始8年(248年)、邪馬台国の女王、卑弥呼は狗奴国との戦いを魏に報告、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。邪馬台国が大量の鉄製武器(鉄鏃)を駆使する狗奴国に苦戦していた様子を思わせる。


 阿蘇の狩尾遺跡群の存在がある。狩尾遺跡群は阿蘇谷北西の遺跡群の総称。周辺の弥生集落は鉄に拘わる遺構が列島で最も密集する域とされ、大量の鉄器を集積したことで知られる。
 狩尾遺跡群周辺では「阿蘇黄土(リモナイト)」と呼ばれる褐鉄鉱を大量に産出し、鉄滓などが検出されることで褐鉄鉱による産鉄の可能性が示唆される。
 褐鉄鉱とは鉄の酸化鉱物、天然の錆(さび)。沼地などに鉱床をつくり、採取が容易で低い温度で溶融できるため古代製鉄の原料になり得るという。
 大和の古墳出土の刀剣類で、褐鉄鉱や赤鉄鉱(ベンガラ)を原料にするものも多いというデータがあり、古く、わが国には褐鉄鉱による古代製鉄が存在したとする説は根強い。

 そして、褐鉄鉱による製鉄法は、古く、東南アジアなど南方系の技術ともされる。前述のタイ東北部のバンドンブロン遺跡の製鉄遺構においては、この域の紅土(ラテライト)由来の原料を使ったともされる。ラテライトの主成分とは褐鉄鉱(リモナイト)であった。


 古く、阿蘇において、褐鉄鉱由来の産鉄、鍛冶の民ともみえる阿蘇祖族、山部氏族の存在がある。姓氏家系大辞典は山部を隼人同族とし、新撰姓氏録は山部を久米氏の流れとしている。
 また、阿蘇には大鯰(なまず)の伝承が遺され、阿蘇の古宮には「鯰」が祭祀されて、阿蘇祖族、山部氏族は鯰トーテムともされる。そして、久米氏の氏寺、橿原の久米寺に鯰の奉納額がみられることで、久米氏も鯰トーテムの氏族とされ、阿蘇の山部が久米氏の流れであることを補完する。

 久米氏族は隼人系の海人といわれ、阿多海人の本拠、上加世田遺跡の墨書土器には久米の名がみられる。久米氏は久米族と呼ぶほうが相応しい異能の集団。神日本磐余彦尊に従った大久米命は黥利目(入墨目)であり、入墨は海人の習俗であった。
 そして、久米氏族の原初を東南アジアのクメールとする説がある。クメールはカンボジアを中心とする東南アジアの民。古く、メコン川の中下流域、タイやベトナムにも分布、高床式の住居に住んで稲作を行い、精霊信仰をもつ。また、タイでは鯰を神使として、カンボジアのアンコール遺跡やアンコールトムのバイヨンには鯰のレリーフが描かれ、神聖視されている。

 倭人に拘るとされる「百越」の民とは大陸南域からベトナムに到る沿岸に在った諸族。百越のいくらかは東南アジアのモン・クメール語派とされ、クメールと同化していたともされる。

 弥生期の阿蘇の褐鉄鉱(リモナイト)による製鉄の痕跡が東南アジアをルーツとする海人、久米氏族に由来するとみえ、その原初が、古く、東南アジアから伝わった直接製鉄法であるとも思わせる。のちの「たたら製鉄」がその技術を引き継ぐものであれば、中国や韓半島の製鉄法と異なるという謎は不都合なく解ける。

 

◎神武東征の実証。神日本磐余彦命と久米氏族の謎

 戦後の古代史研究は記紀神話の否定から始まる。戦後の施策、WGIPにおいて、民族主義的な史観が否定され、古事記や日本書紀の記述は創作であるとされた。が、神武東征において皇軍の主力ともされる久米氏族が橿原久米町に濃い痕跡を遺すことで神武東征の史実性を実証している。

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大いなる海人の系譜。

 
 神話において、邇邇藝命と木花之佐久夜比売は火照命、火須勢理命、火遠理命の三子をもうける。兄弟のうち、三男の火遠理命(彦火々出見尊)が海幸山幸説話における山幸彦で、長男の火照命が海幸彦である。
 海幸山幸の兄弟はそれぞれの猟具を交換、山幸彦は漁に出て釣針を失くす。海幸彦に釣針を返せと責められ、困り果てた山幸彦は塩椎神(しおつち)に教えられて、綿津見の宮へ赴く。そこで海神の女(むすめ)、豊玉姫に失った釣針と潮干珠、潮満珠を与えられる。
 山幸彦はふたつの珠の霊力で海幸彦をこらしめ、海幸彦(火照命)は山幸彦(火遠理命、彦火々出見尊)に忠誠を誓い、隼人の阿多君の祖となる。


 薩摩半島の西岸、金峰町の阿多郷は海幸山幸の説話にいう隼人の阿多(あた)君の本地とされる。
 縄文晩期から弥生、古墳期にかけて、琉球や奄美産のゴホウラ、イモガイなどの貝輪が西日本各地で出土する。その時代、貝輪は支配層の人々によって邪を払う呪具として珍重され、南西諸島から九州西岸を経て、北部九州や山陰、瀬戸内にまで齎された。
 また、肥前、伊万里の腰岳産の黒曜石が琉球、奄美にまで流通し、それらの事象は南西諸島から北部九州を繋ぐ「貝の道」と呼ばれる海上の交易ルートを想定させた。

 南薩、金峰町の高橋貝塚は縄文晩期~弥生中期の貝塚。籾痕のある土器や石包丁などの出土は早期の稲作を示し、鉄鏃など最古級の鉄器が出土して、九州南端の文化様相を明らかにしている。この貝塚から加工途中の貝輪が大量に出土して、阿多が琉球や奄美産の貝輪の加工、交易の拠点であったことを示した。

 神話において、海幸彦に由来するのちの阿多隼人とは海人。そして、この海上の交易ルートは、南薩、阿多を基点として南西諸島から北部九州まで、潮流にのって自在に移動した海人集団を想起させる。金峰町の中津野遺跡では日本最古、弥生前期後半の準構造船の部材が出土、外洋航海を示す傍証とされた。
 そして、阿多海人が系譜的に九州西岸を北上した痕跡がみえる。


 九州西岸、八代海の北端、宇土半島の郡浦(こうのうら)で奉祭される蒲池比売命(かまち)の存在がある。蒲池比売命は八代海の海神、潮干珠、潮満珠で潮の満ち引きを操る女神とされる。潮干珠、潮満珠の玉とは豊玉比売由来。

 郡浦の蒲池比売命は阿蘇の母神とも呼ばれ、阿蘇神社の元宮ともされる阿蘇北宮、国造神社にも祀られる。
 阿蘇の古族、山部氏族の存在がある。姓氏家系大辞典は山部を隼人同族とし、新撰姓氏録は山部を久米氏の流れとする。久米氏族は邇邇芸命の降臨を先導した隼人系の海人とされ、阿多の上加世田遺跡の墨書土器には久米の名がみられる。

 そして、山部の初見が「景行天皇の九州巡幸の折、葦北の小嶋で山部阿弭古が祖の小左(長)に冷水を求めた」という日本書紀の記述。葦北の小嶋とは八代の水島。古く、南方や大陸との交易の拠点であった。
 阿弭古(あびこ)とは阿彦。葦北は阿多海人の地ともされ、「阿」の郷、阿蘇の山部が阿多海人との拘わりをみせる。
 また、水島の対岸が天草の阿村。「阿」の名をもつ港は古く、天草第一の港湾であった。そして、阿村の航路の先は蒲池比売命の故地、郡浦。


 古墳期の有明海に在って、大陸交易で活躍したとされる水沼氏(みずま、みぬま)の存在がある。
 水沼氏は禊の巫女を出す神祇の家柄。古く、有明海は三潴(みずま)のあたりまで湾入して、水沼氏の三潴は東シナ海交易の拠点であったといわれる。
 水沼氏はのちに日下部(くさかべ)を称する。日向の都萬神社で木花之佐久夜比売を奉祭する日下部神主など、九州の古い日下部氏族は中南九州の海人に纏わる神祇の氏族とされ、新撰姓氏録は日下部を阿多御手犬養同祖、火闌降命之後也とする。火闌降命とは阿多君の祖とされる火照命、海幸彦。
 そして、阿蘇古族、山部氏族がやはり、日下部(草部吉見)であった。


 また、筑後の名族とされる蒲池氏において、祖蒲池(あらかまち)と呼ばれる古族が水沼氏族と重なり、祖蒲池は宇土半島、郡浦の蒲池比売命(かまち)を祖にすると伝わる。
 そして、有明海沿岸には與止比売命(よとひめ)の存在がある。有明海沿岸にはこの與止比売命を祀る社は多く、中でも嘉瀬川流域には6社が鎮座する。
 與止日女命も潮干珠、潮満珠の玉で有明海の干満を司る海神とされ、ともに鯰トーテムの比売神であることで、蒲池比売命と重なっている。

 水沼氏はのちに始祖を玉垂神(たまたれ)として筑後国一宮、高良玉垂宮(久留米、高良大社)を奉祭している。高良玉垂宮の元宮ともされる三瀦総社、大善寺玉垂宮では玉垂神は比売神ともされ、玉垂神の名義とは潮干珠、潮満珠に纏わるという。
 そして、高良玉垂宮には玉垂神の裔を称する日下部神主(草壁、稲員)の存在があり、古く、高良(こうら)は郡浦(こうのうら)の転化であり、山麓は来目(くめ、久米)と呼ばれて、久留米の地名由来とされる。(古代妄想「高良玉垂神の秘密。」参照)


 水沼氏の本拠とされる高三潴の塚崎に高良御廟塚と呼ばれる墳墓が在る。 弥生期の墳丘墓で、高良玉垂命の墳墓と伝承される。墳丘には貝殻が葺かれていたといわれ、周辺に白い貝殻が散在する。 当に、海人の比売神の墳墓。 
 阿多海人の系譜が九州西岸、八代海を経て、有明海の水沼氏に繋がっている。


 古く、魏志倭人伝が描く邪馬台国の風俗が、黥面文身など南方系海人のものであった。
 邪馬台国を有明海沿岸とする説は根強い。有明海の最奥、吉野ヶ里遺跡の弥生中期後半の甕棺墓からは腕に36個もの貝輪をつけ、絹の衣を着けたシャーマンとされる女性の骨が見つかっている。
 太古の有明海沿岸に邪馬台国を建国した集団とは、南薩あたりを基点として、南西諸島から北部九州まで潮流にのって自在に移動した、女神を奉祭する海人集団を想起させる。
 有明海域の地理的意義とは、韓半島からの事物と南方系の観念が出会う地であったことに由る。(了)

 

 

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◎連鎖する九州の比売神信仰。

九州には太古より続く比売神の信仰がある。その信仰に纏わり多くの比売神が習合、離散して、異名似体の女神群が生成されている。阿蘇の母神、蒲池比売や有明海の海神、與止日女、高良の玉垂媛、御井、香春の豊比売命、そして、宗像の田心姫命や宇佐の比売大神。古代九州の謎を秘める比売神の連鎖とも呼ばれる事象とは、邪馬台国の台与(とよ)の神霊に由来するとも思わせ、古代九州の謎を秘めている。

 

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古事記、日本書紀への回帰。記紀神話の復元

 

 古代史の探求をするうちに、何故か通説とされるものに違和感を感じるようになっていた。それをはっきりと感じたのは、奈良、橿原市の神武天皇を奉斎する橿原神宮を参拝した時だった。
 記紀神話によると、この国を治めるために日向の高千穂宮を発し、東行した神日本磐余彦命(神武天皇)は数年を費やして熊野から大和に入り、畝傍山の麓、橿原宮で即位する。が、現在の史学は神武天皇の存在を含め、神武東征説話は史実ではないとする。

 橿原神宮より橿原神宮前駅へと向かう参道の右手は久米町。古えの大和国高市郡久米邑であり、神武二年の天皇による神武東征の論功行賞において、大久米命に与えたとされる地である。久米町の久米御県神社は大久米命を祀った式内社。隣接して古刹、久米寺。久米氏族の氏神と氏寺が町中に並ぶ。

 神武東征において、神日本磐余彦命の側(そば)に在って能く藩屏とされた大久米命の存在がある。大久米命配下は神武東征において皇軍の主力であったとも。
 久米は古代日本の軍事氏族、のちの隼人系の海人とされ、大久米命は黥利目(入墨目)であったと記される。入墨は海人の習俗とされる。橿原における久米氏族の痕跡は神武東征説話の史実性を感じさせる。


 現在の史学は神武東征は内容が神話的であるという、理由にもならぬ理由で神武天皇の実在を否定し、神武東征は史実ではないとする。が、荒唐無稽な話をわざわざ作り上げたわけでは無く、神武東征説話に何らかの史実が投影されていることも事実であろう。
 今、史学はこの国の正史である古事記、日本書紀を真摯に見つめ直し、その記述を検証することが重要。記紀神話に投影された史実を復元し、古代史を再構築することで、国家生成の大いなる謎が解ける。

 

 

第1話 天照大御神と邇邇藝命。天孫降臨の歴史的意義


 古事記の冒頭において、「天地(あめつち)のはじめ」で始まる天地開闢の折、高天原は天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神(造化三神)の登場に始まり、つづく神代七代の生成の末に二柱の国産みの神、伊邪那岐命と伊邪那美命が生まれる。

 伊邪那岐命(いざなぎ)と伊邪那美命(いざなみ)は矛で混沌をかき混ぜ、大八洲国と多くの島々をつくる(国産み)。そして、二柱の神は多くの神々を生成し(神産み)、最後に天照大神、月読命、須佐之男命の三貴神を生み、天照大神に高天原を治めるように命じる。

 やがて、高天原の天津(あまつ)神によって大国主神が治める葦原中国が平定され、天照大御神と高木神(高御産巣日神)は天忍穂耳命と高木神の娘、万幡豊秋津師比売命との子、邇邇藝(ににぎ)命に葦原の中つ国を統治するため天降りを命じる。
 邇邇藝命の天降りには天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒が従い、さらに、天照大御神は三種の神器と思金神、手力男神、天石門別神を副えた。
 邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、天忍日命と天津久米命が武装して先導し、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降る。


 記紀神話において、邇邇藝命が降臨した筑紫とは九州のこと。日向とは、古く、南九州の総称。日向より薩摩、大隅が分割されるのは8世紀以降のこと。

 邇邇藝命は高天原から日向の高千穂に天降り、そして、笠沙(かささ)の岬へ到ったとされる。天上から舞い降りたという話はあまりにも非現実的。東アジアの建国神話は王権の神聖さを示すため、天上からの降臨を類型とする。が、舞い降りて笠沙の岬へ到った話はリアリティがある。笠沙の岬とは南薩の野間半島。ここは黒潮が洗う域、東シナ海を北上する船団はこの域に辿り着く。
 南九州を舞台とする降臨説話が何らかの史実を投影しているとすれば、東シナ海より南薩への上陸が最も整合性が高いとされる。

 神話は政治的な意図を持って創作されたといわれる。が、荒唐無稽な話をわざわざ作り上げた訳では無く、史実を投影して創作されたことも事実であろう。

 史学は日向神話の意義として、記紀編纂の時代、頻繁に叛乱を繰り返す隼人に対し、彼らが王権に服属する理由として、隼人の祖、海幸彦が天皇の祖、山幸彦に服従するという神話の創作に拘わり、南九州を降臨の地とする必要があったとも述べる。が、国家生成の大叙事詩がそのような姑息な意図で構想されるものではあるまい。


 降臨(上陸)した邇邇藝命は「此の地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の崎まで真の道が通じて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国で良き地である」と述べ、その地に宮処を営む。(古事記)
 笠沙の岬とは南薩、旧笠沙町の野間半島。江戸期の三国名勝図絵に笠砂御崎(かささみさき)と表記される。東シナ海に突出する野間半島は亜熱帯のヘゴが自生し、常緑広葉樹林が広がる。そして、半島中央部には特徴的な山容をみせる野間岳(591m)が聳え、東シナ海航路の目印となっている。

 野間半島の南、リアス式海岸が連なる域に坊津がある。ここは鑑真和上が漂着した港。フランシスコ・ザビエルも初めはここに上陸している。南薩西岸は東シナ海を北上した黒潮が洗う浜。大陸南岸を発して、東シナ海で黒潮にのった船団はこの浜に辿り着く。
 そして、此の地は韓国(からくに)に向かうと謳われる。韓国(からくに)とは唐(から)の国、大陸のこと。笠沙の彼方には長江の河口が広がる。


 邇邇藝命をはじめとする天津(あまつ)神と呼ばれるものは、水田稲作の技術を携えて大陸南岸を発し、南薩に上陸した人々を想起させる。

 水田稲作の起源は約1万年前の長江流域とされる。長江下流域の草鞋山遺跡では約6000年前の水田遺構が発掘され、黄河流域を北限として大陸南域に広がっている。
 日本最古の水田跡は縄文晩期の唐津、菜畑遺跡であり、板付遺跡や江辻遺跡など縄文晩期に始まる稲作集落が北部九州沿岸に集中することから、日本の水田稲作は大陸から韓半島を経て北部九州へ伝播したとされていた。

 が、温帯ジャポニカの遺伝子分析において韓半島に存在しない種があり、大陸南岸から直接、列島へ伝わったとする説が有力になっている。そして、北部九州へは江南から対馬海流によって伝播した可能性が示唆される。
 鹿児島(錦江)湾奥、国分平野の東、都城盆地に坂元遺跡がある。2000年(平成12年)に発掘された遺跡群から縄文晩期の水田跡が検出され、北部九州と同時代の水田遺構とされた。

 そして、笠沙の北、金峰町に縄文晩期に始まる高橋貝塚がある。籾痕のある土器や石包丁などが早期の稲作の痕跡を示し、鉄鏃など最古級の鉄器が出土して九州南端の文化様相を明らかにしている。
 また、金峰町の中津野遺跡では日本最古、弥生前期の準構造船の部材が出土、古い時代の外洋航海を示す傍証ともされている。

 古事記や日本書紀が述べる南九州を舞台とした日向神話の意義とは古代最大の画期、弥生人による水田稲作の伝播のひとつとも思わせ、また、そのような記憶が天孫降臨の説話を生んだとも思わせる。
 日向三代あたりのストーリーも3世代に限定されたものではなく、もっと長い時代に亘る記憶が日向三代のストーリーに投影されたものかも知れない。


 記紀神話において、降臨(上陸)した邇邇藝命ら天津神が在ったとされる高天原には天ノ安河が流れ、水田が広がって、人間界と変わらぬ暮らしが営まれている。

 素戔男命が乱暴を働く場面では、素戔男命は天照大御神が営む水田の畦(あぜ)を壊し、水を引く溝を埋めてしまう。高天原には水田や用水路があり、天照大御神が新嘗(収穫祭祀)を行う神殿さえ在った。
 高天原を天上界とするのは非現実的。高天原に古く、祖先が在った原郷の記憶が投影されている可能性は高い。今、必要なことは古事記、日本書紀を真摯に見つめ直し、その記述の実証を試みること。

 水田稲作の技術を携えて列島に至り、列島本来の縄文人と融合して日本の基層文化をつくった弥生人と呼ばれるものは、大陸南岸から東シナ海を経て渡来した民が主体。水田稲作は米を作る技術だけでなく生活様式を含めた文化。弥生期の水田稲作域でみられる高床式の建築などは、高温多湿の域から直接、水田稲作が齎された痕跡。


 古史によれば、大陸南岸からの民の渡来は幾度にも亙ってあった。BC1000年頃とされる百越(ひゃくえつ)の諸族の渡来。古く、百越と呼ばれる民は江南からベトナムに到る広大な大陸沿岸に在った諸族。かつての長江文明の担い手であった。北方の漢人とは言葉、文化を異とする民で、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、倭人との類似が多いとされる。

 そして、BC473年に春秋期の越に滅ぼされた句呉(くご、こうご)の遺民の渡来があったという。また、BC300年頃には楚に滅ぼされた越(えつ)の民、BC223年には秦に滅ぼされた楚(そ)の遺民の渡来があったとされる。いずれも大陸南岸に在って蛮とされ、北方の漢人に追われた民。

 彼らの渡海は多岐にわたる。東シナ海で黒潮に流されて九州南西岸へと渡った民、また、対馬海流に乗って北部九州沿岸へ到った民も。その一部は韓半島南岸にも辿り着く。そして、北上する黒潮に沿って弧を描く南西諸島を島伝いに移動し、有視界で航行して南薩へ上陸した民もいたのであろう。

 南西諸島において、水が豊富な久米島などでは古い時代より水田稲作が行われて、沖縄、宜野座村では縄文晩期の天水田らしき遺構も報告されている。

 記紀神話において、邇邇藝命などの天津神が降臨した歴史的意義とは、水田稲作の技術を携えて大陸南岸から東シナ海を北上した民の列島への上陸というメモリアル。それは、この国の基層文化をつくった弥生人と呼ばれる民による国家生成ストーリーのプロローグでもあった。

 

(追補)天照大御神とアマミキヨ(アマミク)。高天原神話の考証


 民俗学者、柳田國男は著作、「海上の道」において、日本文化の基層が南方由来であることに着目し、弥生稲作が大陸南域から南西諸島を島伝いに北上したと述べて、日本人の起源を琉球をはじめとする南西諸島の習俗や信仰と絡めながら解き明かそうとした。

 記紀神話と琉球神話の比較において、琉球の創世神話、アマミキヨ、シネリキヨの兄妹神が日神から命じられて降臨し、国づくりをする説話などは伊邪那岐命、伊邪那美命神話の異体であり、記紀の開闢(かいびゃく)神話は琉球神話を中間に置いて、南方の創造型神話と関連するといわれる。

 琉球神話の女神、アマミキヨ(アマミク)は島々をつくり、稲を齎した神、その子孫は天孫氏として琉球王となる。日本人の氏神とされる天照大神も神田の稲を作り、新嘗祭を行う。その子孫は天皇として列島を統治する。天照大神(アマテラス)とアマミキヨ(アマミク)は多くの共通点をもち、その関係は興味深い。

 そして、日本の神社祭祀の原初を琉球や南西諸島に求める説がある。琉球の御嶽(うたき)は神籬(ひもろぎ)の形態で、自然の聖域を拝する場。琉球では村ごとに御嶽があり、祖霊や守護神が宿るとされて、祭祀は司祭である神女「ノロ」によって行われる。本土の神社の原初も自然崇拝の神籬の形態であり、村ごとに氏神を祀り、古く、巫女が神託を伝える神女であった。神社における氏神と氏子の関係は、琉球の御嶽の神と住民が血縁関係である姿を投影するともみえる。

 また、琉球の最高聖域、旧知念村の斎場御嶽(せーふぁうたき)はアマミキヨの創祀で、琉球の国家祭祀とされる。そして、神女、ノロの最高位、聞得大君(きこえおおきみ)が祭祀を行う。伊勢神宮においても、倭姫命を斎王として創祀され、古く、祭祀を斎王が行っていた。琉球の御嶽祭祀の構造と重なる。

 御嶽は男子禁制で、聞得大君は琉球王の姉妹から選ばれ、琉球王兄妹による治世が行われた。琉球の基本概念として、姉妹はその兄弟の守護神である「おなり神」の信仰があり、姉妹は兄弟のおなり神として神格化される。
 おなり神の信仰やノロの存在は女性優位や母系社会の痕跡とされ、魏志倭人伝に記された邪馬台国の女王、卑弥呼が鬼道を行い、弟が佐けて国を治める話を彷彿とさせる。琉球や南西諸島には日本の古代世界の象徴、母性原理の文化が色濃く遺っている。


 そして、南西諸島の民間伝承とポリネシア神話などの比較において、南西諸島の伝承が記紀神話より古い形を遺し、オオゲツヒメや海幸山幸モチーフにおいて、記紀神話に無いエピソードが南西諸島に遺されるという。
 また、南西諸島の考古において、宮古、八重山諸島などは台湾東部と同じ文化圏を形成して、フィリピン周辺と類似する貝斧などが出土して、南西諸島の文化の南方由来を実証する。

 これら琉球や南西諸島の民俗学的な事象は記紀神話における天津(あまつ)神と呼ばれる存在が、大陸南域、東南アジア、ミクロネシアなど、多岐に亘る民が琉球や奄美をはじめとした南西諸島あたりで集団化、独自の文化を派生させたとも思わせる。
 黒潮が南から北に流れることで、古い時代、列島に拘わる事象の主体が南域から南西諸島を北上したことは自明の理。日本の基層文化は飽くまで南方系のもの。

 国生み神話において、高天原に在った伊邪那岐命と伊邪那美命の二神は淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の大八洲国を生み、続けて児島、小豆島、周防大島、姫島、五島列島、男女群島の島々を生む(古事記)。高天原が実在の地を象徴しているのであればこれらの域外。当に、琉球、奄美をはじめとした南西諸島あたりが相応しい。それとも、彼らの原郷である大陸南岸、東南アジア沿岸、ミクロネシアの島々など、それぞれの域を投影するのかも知れない。

 日本語は独自に発展した言語とされる。が、比較言語学において音韻体系や語彙の類似に依り、日本語の起源を南方系のオーストロネシア語族とする説がある。その域は台湾を始め、東南アジア沿岸、ミクロネシアの島々とされる。

 

 

第2話 邇邇藝命と木花之佐久夜比売(阿多都比売)。阿多海人の考察


 考古学以外の史学の周辺領域を考えた場合、古文献や地方神話、神社縁起などといったものを含めて、「口碑」と呼ばれるものをそのまま歴史解釈とはできぬのだが、必然に口碑と考古の情報を類比することで、「歴史理論」なるものを描くべきと考える。大切なのはその整合性。


 記紀神話において、笠沙に在った邇邇芸命は大山祇神の女(むすめ)、阿多都比売(あたつひめ、木花之佐久夜比売)と出会って求婚する。阿多は旧阿多郷(南さつま市金峰町)、阿多都比売とは阿多のヒメの意。そして、邇邇芸命はこの地で阿多都比売と笠沙の宮を営む。

 野間半島の東、加世田の万之瀬川の左岸、宮原の丘陵に笠沙の宮跡がある。御座屋敷とも呼ばれる地に二段の広場があり、その奥に笠狭宮跡の碑が建つ。
 付近には古代祭祀の跡とされる磐境が遺され、前方、竹屋ヶ尾は阿多都比売(木花之佐久夜比売)の火中出産の地と伝承される。そして、万之瀬川を隔てた対岸は阿多都比売の本地、旧阿多郷。何よりも、万之瀬川の下流域には太古の水田稲作の痕跡を遺す前述の高橋貝塚の所在があった。


 神話において、木花之佐久夜比売は一夜で身篭り、邇邇芸命が国津神の子ではないかと疑ったため、木花之佐久夜比売は誓約をして産屋に火を放ち、その中で火照命、火須勢理命、火遠理命の三人の御子を産む(古事記)。
 兄弟のうち、三男の火遠理命(ほおり)が海幸山幸説話における山幸彦の彦火々出見尊(ひこほほでみ)。長男の火照命(ほでり)が、のちの隼人の阿多君の祖とされる海幸彦である。

 この域の伝承では邇邇藝命は晩年、木花之佐久夜比売と海路を北上して、薩摩川内へ移り、そこで没したとされる。薩摩川内の中枢、神亀山には邇邇藝命の可愛山陵(えのやまのみささぎ)と木花之佐久夜比売の端陵(はしのみささぎ)が遺される。


 降臨(上陸)した邇邇芸命がこの国でまず行ったことは、大山祇神の女(むすめ)を妻に迎えること。この国で最も重要な神が大山祇神であった。神話や伝承において、大山祇神は多くの神々の親神とされ、素戔嗚命の妻となる奇稲田姫の祖父であり、伊予、大三島の大山祗社では天照大神の兄神ともされる。
 大山祇神(オオヤマツミ、大山津見神)とは大いなる山神の意。別名の和多志大神の「ワタ」とは海のこと、すなわち、この列島の山と海、すべてを司る神。また、大山祇神は里に在って、恵みを齎す田の神ともされる。大山祇神を祀る社は系列に拘らず全国に分布して、その数は一万社を越えるともいわれる。
 その茫洋とした神格は海神、豊玉彦命や国土神、大国主命など、他の国津神たちとはニュアンスを異としている。

 大山祇神とは在地の地主神として、渡来の民(弥生人)によって象徴化された神格ともみえる。そこには縄文の流れをくむものに対する渡来の人々の畏怖が感じられる。在地の民との融合の象徴として邇邇芸命が阿多のヒメを妻に迎え、そして、この地の山海を司る神の女(むすめ)とすることで、列島古来のものに敬意を示したとも思わせる。

 筆者が住む九州北部でも山中の神妙な場所には、必ずといってよいほど大山祗神が祀られている。それは、小祠(ほこら)であったり、時には大岩などの神籬(ひもろぎ)の形態であった。当に、縄文以来の祭祀。南九州では縄文と弥生文化の重なりが極めて長いといわれる。

 そして、記紀神話は天孫、邇邇藝命から御子の彦火々出見命(ひこほほでみ、山幸彦)、孫の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)へと到る。日向三代と呼ばれる悠久のストーリー。南九州を舞台として、この国の生成を大らかに謳う。

 

(追補)南九州は南方海人の坩堝。


 記紀神話において、大山祇神は邇邇芸命に姉の石長比売(磐長姫)と妹の木花之佐久夜比売を嫁がせる。が、邇邇芸命は醜い石長比売を帰し、美しい木花之佐久夜比売とのみ結婚する。木花之佐久夜比売は天孫の繁栄の象徴とされ、石長比売は天孫の長寿の象徴とされて、石長比売が帰されたために天孫(天皇)は短命になったといわれる。この説話は「バナナ型神話」と呼ばれ、東南アジアに類型がみられるという。

 また、南薩沖に浮かぶトカラ列島では家の傍に草や竹で編んだ産屋を建て、そこで出産する産屋出産の風習が遺り、産後は産屋に火を放ったとされ、当に、木花之佐久夜比売の火中出産を思わせる。そして、その原初はやはり、東南アジアにあるといわれる。南薩には東南アジア由来の民の痕跡がみえる。

 そして、邇邇芸命の御子、火遠理命(ほおり)と火照命(ほでり)の説話、海幸山幸のストーリーは南洋の神話をルーツにするといわれ、釣針を失う説話はインドネシアのケイ諸島やミクロネシアのパラオ島の神話に酷似するといわれる。降臨(上陸)した天津(あまつ)神と呼ばれる氏族の構成には大陸沿岸や東南アジアのみならず、ミクロネシアなど南洋由来の民の存在までもみえる。神話の舞台、太古の南薩あたりは東シナ海に面して南方海人の坩堝であったようだ。

 

(追補)阿多海人の系譜。


 邇邇藝命と木花之佐久夜比売の子、火遠理命(ほおり、彦火々出見命)が海幸山幸説話における山幸彦で、火照命(ほでり)が海幸彦であった。

 神話において、海幸山幸の兄弟はそれぞれの猟具を交換し、山幸彦は漁に出て海幸彦の釣針を失くす。海幸彦に釣針を返せと責められ、困り果てた山幸彦は塩椎神(しおつち)に教えられて、綿津見の宮へ赴き、海神の女(むすめ)、豊玉姫に失った釣針と潮干珠、潮満珠を与えられる。
 山幸彦はふたつの珠の霊力で海幸彦をこらしめ、海幸彦は山幸彦(彦火々出見命)に従い、隼人の阿多(あた)君の祖となる。

 薩摩半島西岸、金峰町の阿多郷は海幸山幸の説話にいう隼人の阿多君の本地とされる。

 縄文晩期から弥生、古墳期にかけて、琉球や奄美産のゴホウラ、イモガイなどの貝輪が西日本域で出土する。その時代、貝輪は邪を払う呪術として珍重され、南西諸島から九州西岸を経て、北部九州や山陰、瀬戸内にまで齎されている。
 そして、肥前、伊万里の腰岳産の黒曜石が奄美、琉球にまで流通し、それらの事象は南西諸島から北部九州を繋ぐ「貝の道」と呼ばれる海上の交易ルートを想定させた。

 金峰町の高橋貝塚は縄文晩期に始まる貝塚。籾痕のある土器や石包丁などの出土が早期の稲作を示し、鉄鏃など最古級の鉄器が出土して、南九州の文化様相を明らかにした。この貝塚から加工途中の貝輪が大量に出土して、阿多が琉球や奄美産の貝輪の加工、交易の拠点であったことを示した。

 阿多隼人とは南方系の海人。この海上の交易ルートは南薩、阿多を基点として南西諸島から北部九州まで、潮流にのって自在に移動した海人集団を想起させ、金峰町の中津野遺跡では弥生前期の準構造船の部材が出土、外洋航海を示す傍証とされた。

 そして、阿多海人が系譜的に九州西岸を北上した痕跡がみえる。

 九州西岸、八代海の北端、宇土半島の郡浦(こうのうら)で奉祭される蒲池比売(かまち)の存在がある。蒲池比売命は八代海の海神、潮干珠、潮満珠で潮の満ち引きを操る女神とされる。潮干珠、潮満珠の玉とは海神の女(むすめ)、豊玉比売由来。

 郡浦の蒲池比売は阿蘇の母神とも呼ばれ、阿蘇神社の元宮ともされる阿蘇北宮、国造神社でも祭祀される。
 阿蘇の古族、山部氏族の存在がある。姓氏家系大辞典は山部を隼人同族とし、新撰姓氏録は山部を久米氏の流れとする。
 降臨神話において、久米氏族の祖とされる天津久米命は邇邇藝命の降臨を先導した神。久米氏族は隼人系の海人とされ、阿多の上加世田遺跡の墨書土器には久米の名がみられる。

 また、山部の初見が「景行天皇の九州巡幸の折、葦北の小嶋で山部阿弭古が祖の小左(長)に冷水を求めた」という日本書紀の記述。葦北の小嶋とは八代の水島。古く、南方や大陸との交易の拠点であった。
 阿弭古(あびこ)とは「阿彦」。葦北は阿多海人の地ともされ、阿の地、阿蘇の山部が「阿」の観念において、阿多海人との繋がりをみせている。
 また、水島の対岸が天草の阿村。「阿」の名を冠する港は古く、天草第一の港湾であった。そして、阿村の航路の先は蒲池比売の故地、郡浦。

 古墳期の有明海に在って、大陸交易で活躍したとされる水沼氏(みずま、みぬま)の存在がある。水沼氏は禊の巫女を出す神祇の家柄。古く、有明海は三潴(みずま)のあたりまで湾入して、水沼氏の三潴は東シナ海交易の拠点であったといわれる。
 水沼氏はのちに日下部(くさかべ)を称する。日向の都萬神社で木花之佐久夜比売を奉祭する日下部神主など、九州の古い日下部氏族は中南九州の海人に纏わる神祇の氏族とされ、新撰姓氏録は日下部を阿多御手犬養同祖、火闌降命之後也とする。火闌降命とは阿多君の祖とされる火照命、海幸彦。そして、阿蘇古族、山部氏族がやはり、日下部(草部吉見)に纏わる。

 また、筑後の名族とされる蒲池氏において、祖蒲池(あらかまち)と呼ばれる古族が水沼氏族と重なり、祖蒲池は宇土半島、郡浦の蒲池比売(かまち)を祖にすると伝わる。
 そして、有明海沿岸には與止比売(よとひめ)の存在がある。有明海沿岸にはこの與止比売を祀る社は多く、中でも嘉瀬川流域には6社が鎮座する。與止日女命も豊玉比売由来の潮干珠、潮満珠の玉で有明海の干満を司る海神とされ、ともに鯰トーテムの比売神であることで、與止日女と蒲池比売が重なっている。

 水沼氏はのちに始祖を玉垂神として筑後国一宮、高良玉垂宮(久留米、高良大社)を奉祭したと伝わる。そして、高良玉垂宮の元宮ともされる三瀦総社、大善寺玉垂宮には筑後国神名帳による玉垂媛神の存在があり、玉垂神は比売神ともされ、與止日女命とも重なっている。玉垂神の名義とは潮干珠、潮満珠の玉に由来している。

 高良玉垂宮には玉垂神の裔を称する日下部神主(草壁、稲員)の存在があり、古く、高良(こうら)は郡浦(こうのうら)の転化であり、山麓は来目(くめ、久米)と呼ばれて、久留米の地名由来ともされる。

 水沼氏の本拠とされる高三潴の塚崎に高良御廟塚と呼ばれる古い墳墓が在る。 弥生期の墳丘墓で高良玉垂命の墓とも伝わる。墳丘には貝殻が葺かれていたといわれ、周辺に白い貝殻が散在している。 当に、海人の比売神の墳墓に相応しい。

 阿多海人の系譜が南薩から九州西岸、八代海の海神、蒲池比売や有明海の與止日女に拘わり、有明海の海人氏族、水沼氏や筑後の国魂、高良玉垂命にまで繋がっている。
 律令期に薩摩国府が置かれたのは、邇邇藝命の可愛山陵が遺される薩摩半島西域の川内(せんだい)であった。古く、薩摩の要地は飽くまで薩摩半島西岸であり、阿多海人による九州西岸の海上ルートの存在は無視できない。

 有明海を臨む吉野ヶ里遺跡の弥生中期後半の甕棺墓からは腕に36個もの貝輪をつけ、絹の衣を着けたシャーマンとされる女性の骨が出土している。

 

 

第3話 彦火々出見命と豊玉姫命。枚聞の海人集団の考察


 野間半島の東の海岸に「仁王(二王)崎」がある。ここは海幸山幸説話において、山幸彦と海幸彦が猟具を交換し、釣針を失った山幸彦が塩椎神(しおつち)に教えられて、綿津見の宮に赴いた浜と伝承される。また、野間半島の南、枕崎は山幸彦が無間勝間の小舟に乗って初めに着いた浜。枕崎の旧名、鹿篭(かご)はそれに由来するといわれる。

 山幸彦は潮路にのって枚聞の綿津見の宮(龍宮)に到り、海神、豊玉彦命のもてなしを受ける。そして、綿津見の宮で3年ほど過ごし、豊玉彦命の女(むすめ)、豊玉姫命に失くした釣針と潮盈珠、潮乾珠を貰って戻り、ふたつの珠の霊力で海幸彦を懲らしめる。海幸彦は山幸彦(彦火々出見命)に忠誠を誓い、のちに隼人の阿多君の祖となる。


 南薩、指宿の開聞岳北麓に薩摩国一宮、「枚聞神社(ひらきき)」が鎮座する。朱垣に囲まれた神域に島津義弘が慶長期に再興した朱塗りの社殿群が佇む。神代の創祀ともされ、大日霊貴命(天照大御神)を主祭神として、天之忍穂耳命など五男三女神を配祀する。が、古史は祭神を枚聞(ひらきき、開聞)神として、南薩の総氏神、開拓祖神であるとする。
 枚聞神社は開聞岳を神体として、山頂に奥宮とも思われる御嶽神社を鎮座させる。参道から望むと拝殿の後背に開聞岳が聳え、山体を遥拝する配置になっている。

 開聞岳は薩摩半島南端、鹿児島(錦江)湾の湾口に聳える標高924mの火山。美しい円錐形の山容から薩摩富士とも呼ばれる。東シナ海に突出して、古く、航路の目印ともされた。枚聞(ひらきき)とは「開聞(かいもん)」の読み。「かいもん」とは、即ち、鹿児島(錦江)湾の海門の意とされる。

 また、古伝では枚聞神社は和多都美神社とも称される。和多都美(わたつみ、綿津見)神とは海神、豊玉彦命。伝承ではこの宮は海幸山幸説話において、山幸彦が訪れた海神の宮、龍宮とされ、傍の玉ノ井には海神の女(むすめ)、豊玉姫命と彦火々出見命(山幸彦)の婚姻伝承を遺す。

 枚聞(ひらきき)神祭祀とは、古く、開聞岳を神体とする航海神として、海神、和多都美(綿津見)神を祀っていたものを明治の神社整備の際に皇祖を祭神にしたといわれる。


 綿津見神を祀る社の総本社は博多湾口に浮かぶ志賀島(しかのしま)の志賀海神社とされる。志賀海神社は古代海人氏族、阿曇氏(あづみ)の祭祀で、阿曇氏の氏神として綿津見神を祀る。また、阿曇氏は「鹿」トーテムの氏族とされ、志賀海神社には鹿角堂があり、鹿の角が奉納される。

 そして、能登の志賀、安津見(あづみ)など、阿曇氏は日本海沿岸にその氏族名や鹿(しか)由来の地名、綿津見神祭祀を遺している。阿曇氏は日本海沿岸に「越(えつ)」の故名を遺した海人の流れ、航海に優れた大陸南岸の越人に由来するともいわれる。

 鹿トーテムの越人とは、永遠の地へ鹿に導かれた台湾のサオ族や、美しい娘となった鹿と結ばれて繁栄したとされる海南島のリー族など、大陸南域に多くの「鹿」の伝承を遺した民の流れ。
 而して、枚聞神社にも「鹿」の伝承が遺される。孝徳天皇の時代、開聞岳の麓で鹿が美しい姫を産む。その姫は入京し、十三歳で召されて天智天皇の妃となる。そして、姫には鹿のひずめがあったとされる(大宮姫伝承)。鹿児島とは鹿の子の島。鹿屋に鹿ノ子、当に、鹿だらけ、鹿児島の名の由来。

 枚聞神社で和多都美神(綿津見神)を祭祀する民とは、阿曇氏と同じ流れ、大陸南岸の越人の裔ともみえる。紀元前に始まる「百越(ひゃくえつ)」の民の列島への渡来、また、BC300年頃には楚に滅ぼされた春秋期の「越(えつ)」の遺民の渡来があったとされる。南薩沿岸は東シナ海を北上する黒潮が洗う浜。大陸南岸を発し、東シナ海で黒潮にのった船団はこの浜に辿り着く。


 そして、彦火々出見命(ひこほほでみ)は枚聞(ひらきき)で豊玉姫命と結ばれる。枚聞は天孫の氏族、彦火々出見命に与した海人の里。やがて、彦火々出見命は枚聞の海人を率いて鹿児島(錦江)湾を北上、湾奥の国分平野に上陸して、神話にいう高千穂宮を営む。

 開聞岳の西麓、山川町に弥生期から古墳期の埋葬遺跡、成川遺跡がある。100を越える土坑墓(どこうぼ)から350体もの人骨が出土している。
 ここで長い自然石を立てた特徴的な墓制、「立石土坑墓」が発見されている。また、開聞岳に連なる枕崎、花渡川河口の松ノ尾遺跡からも同じ土坑墓群が発見されている。
 南薩のこの域の生活文化には強い地域性が指摘され、この独特の墓には鉄剣、鉄刀、鉄鏃などが副葬され、枚聞で綿津見神を祭祀する海人集団の墓制とも思わせる。
 そして、鹿児島湾の最奥、彦火々出見尊が高千穂宮を営んだとされる国分平野の中央、亀ノ甲遺跡からも同様の土坑墓が検出されている。

 神話は政治的な意図を持って創作されたといわれる。が、総べてがまやかしを並べた訳では無く、史実を投影して創作されたことも事実であろう。口碑とも呼ばれる伝承や考古の遺構が神話を標榜してそれを確信させる。

 彦火々出見命が南薩より転進した国分平野とは鹿児島(錦江)湾岸最大の平野、当に、九州南域の中枢。天孫氏族の都邑に相応しい楽土であった。神日本磐余彦命(神武天皇)に繋がる日向三代のストーリーは佳境に入る。

 

(追補)鹿トーテムの海人。


 博多湾の湾口に浮かぶ金印の島、志賀島(しかのしま)は古代の海人族、阿曇氏(あづみ)の本拠とされる。そして、志賀海神社には阿曇氏が奉祭する海神、綿津見神(わたつみ)が祀られる。玄界灘沿岸は古代より大陸との交流が活発で、志賀島はその海路を見守る神として神格化されたという。

 志賀海神社には鹿角堂があり、鹿の角が奉納される。釣りに使う鈎は太古、鹿の角でつくられ、志賀島の海人たちは鹿の角を貴重とし、祈願成就の折に鹿の角を奉納したとも。

 常陸の鹿島神宮も「鹿」を神使とする。祭神は国譲りにおいて、天孫に先立って降臨した神、武甕槌命(たけみかづち)。社伝では天照大御神の命を鹿神の天迦久神が武甕槌命へ伝えたことに由来するという。また、藤原(中臣)氏による春日大社の創建に際し、祖神の武甕槌命の神霊を白鹿の背に乗せ、一年をかけて奈良まで運んだとされる。ゆえに春日大社でも「鹿」は神使とされる。

 八幡愚童訓に「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名にて」と記される。磯良とは阿曇磯良で阿曇氏の祖神とされる。この磯良が藤原(中臣)氏の祖神、武甕槌命と同一であるという。藤原氏は阿曇氏の流れであるらしい。志賀島と鹿島神宮、春日大社の「鹿」の信仰がここでも繋がる。

 潮流にのって移動する鹿トーテムの海人は、黒潮の道が尽きる浜、常陸まで到ったとみえる。常陸の「鹿島」も鹿ノ子の島(鹿児島)由来であった。


 福井の鳴鹿という里に鹿の伝承がある。新田を造りたいと春日の神に祈願したところ、白鹿が現れ、その地に堰を作って鹿が導く跡に溝を掘って田に水を流したという。
 奥州、毛越寺にも鹿の伝承がある。奥州、藤原氏全盛の頃、慈覚大師がこの地で道に迷う。が、大師は白鹿に導かれ、到った地に堂宇を建立したという毛越寺の縁起。いずれも藤原氏と拘わる。

 大陸にも鹿の伝承がある。北方の如寧古塔呉姓が祀る鹿神は女狩人が神の力によって鹿となり、氏族の守り神とされるなど、満洲族の多くが鹿神を氏族の守護とする。また、台湾のサオ族の祖先は白鹿に導かれて美しい日月潭に辿りつき、神から与えられた地として移住する。海南島のリー族は鹿を追って海南島の中心、三亜へと到って繁栄する。

 大陸の鹿信仰には二通りの系統がある。ひとつは満洲族など北方狩猟民族のもの。鹿に霊力があり、鹿を氏族の守護神とする信仰。そして、大陸南岸の信仰は鹿を神の使い、導きの神とする。鹿島神宮、春日大社など鹿を導きの神とする藤原氏の伝承は大陸南岸の信仰に依るとみえる。


 「越」の中枢、能登を中心に阿曇海人がその氏族名や鹿(しか)由来の地名、そして、綿津見神祭祀を遺している。能登の志賀の安津見(あづみ)や赤住をはじめ、鹿島、志加浦、鹿磯、鹿頭、鹿波。そして佐渡の鹿伏など。阿曇氏は日本海沿岸に展開し、氏族が拘る「越」の故名を遺している。

 大陸南岸からの「越」の民の渡来は幾度にも亙ってあった。BC1000年頃とされる「百越(ひゃくえつ)」の諸族の渡来。古く、百越と呼ばれる民は江南からベトナムに到る広大な大陸沿岸に在った諸族。多くは海人で、倭人との拘わりが示唆される。また、BC300年頃には楚に滅ぼされた「越(えつ)」の遺民の渡来があったという。いずれも大陸南岸に在って蛮とされ、北方の漢人に追われた民であった。

 

 

第4話 彦火々出見命から鵜葺草葺不合命へ。日向三代ストーリーの実証


 綿津見の国、枚聞で綿津見神の女(むすめ)、豊玉姫命を娶った彦火々出見命は枚聞の海人を率いて鹿児島(錦江)湾を北上、国分平野に上陸して神話にいう高千穂宮を営む。
 やがて、彦火々出見命と豊玉姫命は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)をもうける。出産の際に豊玉姫命が産屋を覗かぬように告げるが、彦火々出見命は産屋を覗き、豊玉姫命の本性が八尋和邇(やひろわに)であることを知る。それを恥じた豊玉姫命は綿津見の国(南薩、枚聞)へと帰る。

 彦火々出見命は高千穂宮で久しく過ごし、やがて崩じて、高千穂山の西に葬られたという。北西、溝辺の地には彦火々出見命の陵墓とされる高屋山陵が遺される。


 彦火々出見命が高千穂宮を営んだとされる鹿児島(錦江)湾最奥に広がる国分平野は湾岸最大の平野。当に、九州南域の中枢、のちの大隅国府もこの地に置かれている。
 平野の中央を天降川が南流し、後背には高千穂峰が聳え、前面、鹿児島(錦江)湾には桜島が浮ぶ。而して、天孫氏族の都邑に相応しい楽土であった。

 その国分平野の西域、旧隼人町の日向山と呼ばれる台地の麓に鎮座する大隅国一宮、鹿児島神宮は彦火々出見命と豊玉姫命を主祭神とする。創祀は遠く神代とされ、社伝では神武天皇の代に彦火々出見命の宮処であった高千穂宮を社(やしろ)にしたと伝わる。

 東より西へまっすぐに延びた参道に朱塗りの大鳥居が聳える。神域の入り口には三之社の3つの祠。境内に入り、石段を上りつめると南向きに社殿群が鎮座する。漆塗りの社殿群は宝暦6年(1756年)に、7代薩摩藩主、島津重年により再建されたもの。社殿群前方には鹿児島(錦江)湾がひらけ、桜島が噴煙を上げている。その向こうは南西諸島が連なる東シナ海。

 境内には豊玉彦命を祀る雨之社、武内宿禰の武内神社、大山祇命の山神神社など、14の摂末杜が祀られる。特筆すべきは神域入口の三之社。一ノ社に豊姫命と安曇磯良、二ノ社は武甕槌命と経津主命、三ノ社には火蘭降命(阿多君の祖)と大隅命、隼人命と興味深い祭神群が神域の外に訳ありげに祀られる。

 社地の奥に鎮座する石體神社(しゃくたい)は鹿児島神宮の元宮ともいわれ、高千穂宮の旧跡とも伝承される。彦火々出見命を祀り乍ら、神体を石(石像)として、謎めいた雰囲気を漂わせている。古く、彦火々出見命祭祀以前の土着の神を祀っていたとも。傍からは縄文早期の貝塚が検出されている。


 神話において、彦火々出見命と豊玉姫命の御子の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)は叔母の玉依姫命に育てられ、のちに玉依姫命との間に四子をもうける。その末子が神日本磐余彦命(神武天皇)であった。

 鵜葺草葺不合命の宮処は西洲(にしのしま)の宮ともされ、大隅、志布志湾に面した肝付の桜迫神社がその旧跡とも伝承される。神日本磐余彦命の生育の地ともいわれ、「神代聖蹟西洲宮碑」が建つ。
 肝付のこの域には南限の前方後円墳で知られる塚崎古墳群の存在がある。それらの前方後円墳は4世紀の築造であり、弥生期の住居跡なども発見され、太古のこの域の繁栄が示唆されている。
 また、志布志湾の対岸、串間から大陸王侯の象徴、玉璧(へき)が出土している。BC2世紀頃に中国南域で作られた完品で、国宝になっている。同様のものが広州の「南越王墓」から出土しており、興味を唆られる。

 鵜葺草葺不合命は西洲(にしのしま)の宮で崩じ、姶良川上流の吾平山上陵に葬られたとされる。また、鵜葺草葺不合命は日向、日南の鵜戸神宮でも祭祀され、鵜戸神宮後背の速日峯上にも吾平山上陵の参考地がある。

 

(追補)太伯説話の謎。


 古記に鹿児島神宮には呉(句呉)の祖とされる太伯(たいはく)を祀ると記される。太伯とは古代中国の伝説上の人物。太伯説話によると、周王の長子であった太伯は英明とされた末弟に王位を譲るべく南に去り、自ら文身、断髪して蛮となり、後継の意志が無いことを示す。文身(刺青)、断髪とは海人の習俗。

 やがて、太伯は長江下流域に国を興し、句呉(くご、こうご)と号す。荊蛮の人々がこれに従がい、のちに「呉」を称す。春秋末期、長江下流域で呉と越は抗争を繰り返し、BC473年、呉は越に滅ぼされ、呉の遺民は海沿いに逃れたという。そして、倭人を太伯の子孫とする説がある。東夷伝などに倭人は「自謂太伯之後」と記される。

 海幸山幸説話において、邇邇藝命の三柱の子神のうち、末子の彦火々出見命が王権を継ぎ、長子の火照命が隼人(海人)の祖となる話や、神日本磐余彦命(神武天皇)が鵜葺草葺不合命の末子であることが、末弟に王位を譲って海人となる太伯説話の投影ともみえ、古代王権における末子継承の由来とも思わせる。

 3世紀の倭国において、邪馬台国と対峙していたとされる狗奴国(くな)の存在がある。大宰府天満宮に伝わる国宝、唐の類書、翰苑(かんえん)は「女王国の南の狗奴国は、自ら太伯の後であると謂った」と記す。
 南九州に在った句呉(く、こう)の裔が列島本来の民と同化、中南九州において同じ狗(く)の名をもつ集団、狗奴国を建国したとも思わせる。また、隼人など中南九州の民が狗(く)人とも称される訳もそれに由来するのであろうか。

 最も秀逸な弥生土器とされる免田式土器(重孤文土器)が蛮夷とされる熊襲の地に分布し、熊襲の本地、球磨(くま)の免田から3世紀の江南で鋳造された秀品、鍍金鏡が出土する訳、また、大陸王侯の象徴、玉璧(へき)が日南の串間から出土する意義も、太伯の拘わりに由来するとも思わせる。免田式土器は金属器を模倣したものともいわれ、その起源は江南にあるとされる。

 そして、神武東征を九州中南の狗奴国に拘わる勢力の東遷、王権樹立を投影するという説が、東夷伝などに倭人が呉の祖、太伯の後裔であると記される訳とも思わせる。

 鹿児島神宮の由緒は神日本磐余彦命が東征に先だち、皇祖発祥の地として祭祀したと記す。鹿児島神宮は本殿、拝殿の前に勅使殿が置かれる独特の造り。勅使殿とは皇室の使者を迎える場。鹿児島神宮には2回に亘る昭和天皇の行幸をはじめ、勅使、皇族の参拝は20回以上に及ぶといわれる。

 

 

第5話 神日本磐余彦命のストーリー。国家生成への軌跡


 邇邇藝命に始まる日向三代の説話は南薩から南九州を北上している。邇邇芸命と阿多都比売の御子、彦火々出見(ひこほほでみ)命は綿津見の国、枚聞で海神の女(むすめ)、豊玉比売命を娶り、枚聞の海人を率いて鹿児島(錦江)湾を北上、湾奥、国分平野に上陸して高千穂宮を営む。
 豊玉比売命は高千穂宮で鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命を産み、鵜葺草葺不合命は豊玉比売命の妹、玉依比売命との間に四子をもうける。その末子が神日本磐余彦命(神武天皇)とされる。この国の生成を象徴する皇祖のストーリー。


 彦火々出見命が高千穂宮を営んだという国分平野の北東に高千穂峰が聳える。霧島山群の南端に聳えるこの成層火山は御鉢(おはち)と二ツ石の寄生火山を東西に従えた美しい山容をみせる。邇邇芸命の降臨伝承を遺し、南九州を象徴する峰とされる高千穂宮の名称由来。

 その高千穂峰の北東麓、諸県(もろかた)の高原町あたりに神日本磐余彦命の伝承は濃い。高原町の狭野(さの)地名は命の別名、狭野命に由来し、神日本磐余彦命を奉斎する狭野神社が鎮座、上方の皇子原には皇子原社の旧跡を遺す。そして、神日本磐余彦命はこの地から日向、宮崎へ遷ったと伝わる。


 高原町あたりは霧島火山群の東麓に位置し、噴火の影響を最も受ける域。狭野神社は古く、皇子原に鎮座していたが6世紀の噴火により下手に遷ったとされる。その後も延暦7年、文暦元年、享保3年と3度も社殿を焼失するほどの噴火に見舞われている。
 この域の伝承において、神日本磐余彦命は霧島火山の噴火災害から逃れるために日向、宮崎へ遷ったともみえる。

 日向三代の伝承が南薩から南九州を北上する理由(わけ)とは、南九州域で噴火をくり返す火山群に因るとも思わせる。南薩、開聞岳は2世紀の大噴火以降、数度の噴火が記録され、9世紀の噴火では村落が放棄されている。桜島に至っては有史以来、30回以上の大規模噴火が記録されている。

 そして、南九州全域にシラス台地が分布する。シラスとは火山噴出物の重層。透水性が高いため雨に脆く、また、土壌は栄養分に乏しいため水田稲作には不向きであった。日向三代や神日本磐余彦命は火山災害から逃れ、水田稲作に適した肥沃な地を求めて南薩から日向へと北上したともみえる。


 やがて、諸県の民を率いた神日本磐余彦命は宮崎へと遷り、日向を統治したとされる。宮崎の西方、金崎の大崎山には神日本磐余彦命が狭野より宮崎へ遷る折、山上より東方を望んだとする伝承が遺される。

 宮崎の地名は神日本磐余彦命の宮処の所在に由来し、市街域の皇宮屋(こぐや、皇宮神社)がその旧跡とされる。神日本磐余彦命は皇宮屋で兄の五瀬(いつせ)命と東征の戦略を立てたと伝承され、傍には「皇軍発祥の地」の碑が建つ。
 皇宮神社には神日本磐余彦命と日向妻の吾平津(あひらつ)媛、子の手研耳(たぎしみみ)命が祀られ、宮崎の人々は神日本磐余彦命を神武さまと呼んで篤く奉斎している。

 その皇宮屋の東に宮崎神宮が鎮座する。神日本磐余彦命の旧跡を子孫の建磐龍命(たけいわたつ、阿蘇主神)が祭祀し、景行天皇が社殿を造営したと伝わる。皇宮屋から宮崎神宮のあたりは皇軍の拠点であったという。


 弥生期の考古において、日向には青銅器が無く、遺構も少ないため、弥生文化の空白域ともいわれる。故に、史学は当時の日向に軍事力を伴う勢力があった可能性は無いとして、日向より発したとする神武東征を否定する。

 皇宮屋の大淀川対岸、跡江の弥生後期の墓域からこつ然と鉄鏃や鉄剣などの鉄製武器が出土している。また、小規模な墓域しか無かったこの域に、その時代、大規模な墳墓群が現れ、有力者のものとされる周溝をもつ大型墳墓が検出されている。
 弥生期の日向には青銅器文化は無く、弥生後期にいきなり鉄器が出現するのである。この弥生後期の画期が神日本磐余彦命説話の痕跡とも思わせる。

 

(追補)神日本磐余彦命の大義。


 桜島は日々、噴煙をあげ、巨大な霧島の火山群は空を灰で覆っていた。南九州は安住の地ではなかった。

 日向三代の伝承が南薩から南九州を北上する意義とは、南九州域で噴火を繰り返す火山群に因るとも思わせる。南薩、開聞岳、桜島、霧島火山群、共に有史以来、度重なる大規模噴火が記録されている。
 そして、南九州全域にシラス台地が広がる。シラスは火山噴出物の重層。雨に脆く、土壌は栄養分に乏しいため水田稲作に不向きであった。日向三代や神日本磐余彦命の伝承は火山災害から逃れ、水田稲作に適した肥沃な土地を求めて南薩から日向へと北上している。

 また、南薩から九州西岸を北上すれば、(のちの時代の)狗奴国や相克する邪馬台国など、九州北半の強力な国々の存在があり、そこは戦いに明け暮れる域であった。


 神日本磐余彦命は日向、宮崎へと遷るが宮崎も安住の地では無かった。宮崎周辺も不毛なシラス台地が広がり、水田適地は少ない。
 そして、塩土老翁(しおつちのおじ)は遙か東方に美しき青山が四方に周り、稲がたわわに実る楽土が広がると語った。

 日向、一ツ瀬川流域台地からは弥生中期の瀬戸内海沿岸の土器が出土して、日向と瀬戸内を結ぶ海上ルートの存在を想起させる。また、畿内で造られた弥生後期の庄内式土器も検出されている。
 瀬戸内海沿岸や畿内には水田稲作に適した地が広がるという情報は弥生後期の日向に齎され、また、畿内に鉄の文化は未だ無く、脆弱な青銅の武器しか無いという情報も伝わっていたであろう。

 やがて、神日本磐余彦命は肥沃で平穏な地を求めて畿内あたりに遷ることを選択する。
 何よりも、この大八洲(おおやしま)を平定し、統治するための地へ遷ることは神日本磐余彦命の大義であり、それは、邇邇藝命以来の天津(あまつ)神たちの大いなる思いでもあった。

 

 

第6話 神日本磐余彦命と久米氏族。神武東征の実証


 神話において、日向に在った天照大御神の五世孫、神日本磐余彦命はこの国を治めるため、塩土老翁が語った東方に在る青山四方に周る美しき地を宮処とすべく、皇子たちと舟師(水軍)を帥(ひき)いて日向を発する。


 弥生期の考古において、日向は不毛の地、空白域ともされる。青銅器は無く、墓域も小規模なものしか検出されない。史学は弥生期の日向に軍事力を伴う勢力があった可能性は無いとして、日向より発したとする神武東征説話を否定する。
 が、弥生後期の日向中枢、一ツ瀬川流域に大量の鉄製武器を集積した大規模な遺跡がこつ然と現れる。日向、児湯(こゆ)郡の川床遺跡である。

 川床遺跡は一ツ瀬川の中流域左岸、台地上に位置する日向最大の弥生墓域。弥生後期の円形周溝墓や方形周溝墓、土壙墓などの墓域より、鉄鏃(てつぞく)を中心に刀剣類など100点近い鉄製武器が検出された。
 弥生後期の列島において、鉄製武器の出土は火(肥)の菊池川流域、方保田東原遺跡や大津の西弥護免遺跡、阿蘇の狩尾遺跡群などが卓越している。そして、次に出土が多い遺跡としてこの日向、児湯の川床遺跡が指摘される。

 川床遺跡の一ツ瀬川対岸に鎮座する都萬(つま)神社は日向国総社ともされ、日向に降臨したとされる天孫、邇邇藝命夫妻を奉斎して、周辺に旧跡を散在させる。
 後背の台地には日本最大級の西都原古墳群が広がり、4世紀初頭に始まる300基以上の古墳が犇(ひし)めく。また、律令期にはこの地に日向国府が置かれ、日向の中枢ともされている。古く、この地は特別な域であった。


 そして、この域には神日本磐余彦命(神武天皇)の伝承が濃い。妻(都萬)の下流域、佐土原の西に広がる丘陵は佐野ノ原と呼ばれる。佐野とは狭野、神日本磐余彦命の別名、狭野命に由来する。

 また、川床遺跡の所在、児湯郡新田には彦火々出見命の濃い伝承が遺る。新田の鎮守、新田神社は彦火々出見命を祭神とし、古く、彦火々出見命は一ツ瀬川の対岸、佐土原から新田の舟津に渡り、御仮屋の地に行宮を設けたと伝承される。
 「彦火々出見命、ひこほほでみ」とは邇邇藝命の御子、火遠理命(ほおり、山幸彦)のこと。が、神武天皇の「諱、いみな」が彦火々出見命であった。孫が祖父と同じ名とされる。児湯の彦火々出見命とは神日本磐余彦命のこと。皇統の古い伝承においては、「諱、いみな」が使われる。

 日向、児湯にみえる神日本磐余彦命の濃い伝承と特異な集団の痕跡。弥生後期の日向において、鉄製武器を大量に集積した域とは、当に、神日本磐余彦命が群臣を帥(ひき)いて東征へと発したとされる地に相応しい。
 児湯郡新田の伝承において、神日本磐余彦命が行宮を設けたとされる成法寺の御仮屋の地は、古く、「やまと、大和」と呼ばれたと伝承され、いまは新田大和の字名や大和池などにその名を遺している。

 辛酉の歳、一月、この国を治めるために日向より東行した神日本磐余彦命は畝傍山の東南、橿原宮で践祚(即位)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を称する。そして、神日本磐余彦命はその日下(ひのもと)の地に自身が発した日向、児湯の宮地に由来して「やまと、大和」の称(よびな)を付したものかも知れない。

 史学は神武天皇の存在を含め、東征説話は内容が神話的であるため史実とは考えられないとする。が、荒唐無稽な話をわざわざ作り上げたわけでは無く、神武東征説話に何らかの史実が投影されていることも事実であろう。


 神話において、始馭天下之天皇(神武天皇)が践祚(即位)したとされる畝傍山東南の地に、今は神武天皇を奉斎する橿原神宮が鎮座する。明治23年、国は神武天皇の橿原宮があったという畝傍山の麓に橿原神宮を興し、桜井の多武峰で奉斎されていた神武天皇の神霊を遷している。

 橿原神宮から橿原神宮前駅へ向かう参道の右手は久米町。古えの大和国高市郡久米邑であり、神武二年の天皇による論功行賞において大久米命に与えたとされる地。町の中央の久米御県神社は大久米命を祀る式内社。社前に「来目邑伝承地」の碑が建つ。隣接して久米仙人の説話を残す古刹、久米寺。久米氏の氏神と氏寺が町中に並ぶ。

 神武東征において、常に神日本磐余彦尊の側(そば)に在って、能く藩屏となりし「大久米命」の存在を想起する。大久米命配下は皇軍の主力であったともいわれる。

 久米氏は古代日本における軍事氏族。祖神とされる天津久米命は大伴氏の祖神、天忍日命とともに武装して邇邇藝命の降臨を先導したとされる。そして、神武東征においては大久米命が大伴氏の祖、道臣命と共に活躍し、「撃ちてし止まむ」の久米歌は古代戦闘歌の代表とされる。

 久米氏はのちの隼人系海人ともいわれ、久米族とも呼ぶほうが相応しい異能の集団。大久米命は黥利目(入墨目)であったと記され、入墨は海人の習俗とされる。そして、神日本磐余彦命が発したとされる日向、一ツ瀬川流域の佐野ノ原(佐土原)の丘陵域には久米地名が遺されている。

 多くの歴史学者が神武天皇の存在を否定し、記紀の神武東征説話は創作であるとする。が、日向中枢、宮崎や一ツ瀬川流域、児湯に遺される神日本磐余彦命と武装集団の記憶、また、橿原に遺る久米氏族の痕跡などは神武東征説話の史実性を、当に、実証している。(了)

 

(追補)「大和、やまと」地名の謎。


 神日本磐余彦命が東征へ発したともみえる日向、児湯の伝承において、神日本磐余彦命が行宮を置いたとされる成法寺の御仮屋の地は、古く、「やまと、大和」と呼ばれたと伝えられ、いまは新田大和の字名や大和池などにその名を遺している。

 邪馬台国九州説において、その国邑ともされる肥前、吉野ヶ里域にも「やまと、大和」地名が遺る。吉野ヶ里域(神埼)の西は旧、大和町であった。

 魏志倭人伝にいう邪馬台国は、古く、「大和国、やまとこく」の音訳とされていた。が、江戸期の学者、新井白石が通詞の今村英生が中国語に基づいて「やまたいこく」と発したことで「邪馬台国、やまたいこく」の読みを広めたとされる。
 また、魏志倭人伝では「邪馬壹国」と記されるが、他の史書や類書はすべて「邪馬臺国」と表記されており、魏志倭人伝における「壹」の字は「臺(台)」の誤記とする説が主流。而して、邪馬台国とは「やまとこく」の音訳(表記)であったと思わせる。(wikipedia)

 そして、吉野ヶ里域より有明海を隔てた域に筑後三潴、西牟田の「大和、やまと」。邪馬台国筑後山門説の比定地、瀬高町の「山門、やまと」。また、肥後、菊池郡にも旧郷、「山門、やまと」の存在がある。いずれも弥生期の遺跡、遺物を大量に出土させて、古い時代の繁栄を想起させる域。九州において、その時代、「やまと」は国々に在った。

 「山門、やまと」という地名は、山の麓(ふもと)、山へ向かう域のことともされる。太古、山は神々が宿る域であり、畏敬の念をこめた称(よびな)であったとも。が、前記の有明海周辺の「やまと」地名は平野や沿岸域。九州の「やまと」には別の意味があったとも思わせる。

 アイヌ語で「ヤ」は接頭語、「マト」は讃称で高貴を意味するムチや吉祥を意味するミツ等と同じであるという。アイヌは縄文人の遺伝子を色濃く残すとされ、縄文人の直裔ともいわれて、列島の古い言語とアイヌ語の関連を指摘する説がある。

 また、大陸において「やまとこく」に邪馬臺国と宛てられた「臺(台)」の字は高く造った建物や構造物。また、周囲が見渡せる高台の意とされ、相手に対する敬称ともされて、役所、朝廷の意味さえあるという。つまり、古く、「やまと」とは国の中枢、宮処を表わした敬称や美称であったとも思わせる。

 東征した神日本磐余彦命は畝傍、橿原の地に宮処を置き、そこに宮地を表わす美称として、「やまと」を称したとも思わせる。日本書紀において、神武東征以前の奈良盆地は「内つ国」と呼ばれる地であった。
 「やまと」の称(よびな)を付された大王(天皇)の在地は、大倭、大和とも表記され、やがて、「やまと、日本」の国号(表記)が生まれたともみえる。

 

(追補)褐鉄鉱による弥生製鉄の話。


 弥生期の鉄器生産については、韓半島から輸入された鉄挺(てってい)を原料として、北部九州域が鉄器生産を集中させている。のちの砂鉄を原料とする「たたら製鉄」は、5、6世紀に韓半島より齎されたとして、弥生期の製鉄は認められていない。史学はこの国の文化は韓半島に依存するという思考に固執する。

 が、弥生後期の製鉄遺跡ともされる小丸遺跡(広島、三原)の発見や大和の古墳出土の刀剣類の多くが、褐鉄鉱や赤鉄鉱(ベンガラ)を原料にするというデータもあり、古く、わが国には褐鉄鉱(かってっこう)による製鉄が存在したとする説は根強い。

 弥生後期の鉄器出土において、中九州域、火(肥)の鉄器出土が北部九州域を圧倒し、とくに鉄鏃など鉄製武器の出土数では火(肥)北部が突出している。
 而して、邪馬台国九州説において女王国の南に在って、その存在を脅かしたとされる狗奴(くな)国とは、火(肥)北部の鉄製武器の集積を背景にしているともいわれる。

 弥生後期の火(肥)北部における鉄器の生産遺構としては、阿蘇の狩尾遺跡群が注目される。狩尾遺跡群は阿蘇谷北西の外輪山麓遺跡群の総称。周辺の弥生集落は鍛冶工房を持ち、大量の鉄器を集積したことで知られる。

 そして、阿蘇の鉄器生産に関しては、韓半島輸入の鉄挺を原料とするだけではなく、阿蘇に産する褐鉄鉱を使ったといわれる。
 褐鉄鉱とは天然の錆(さび)。沼地などに堆積して鉱床をつくり、低い温度で溶融できるため古代製鉄の原料になり得るという。狩尾遺跡群周辺では「阿蘇黄土、リモナイト」と呼ばれる褐鉄鉱を大量に産出する。

 時代は異なるが日向、児湯の川床遺跡の下流域、三納代のベンガラ工房の遺構から褐鉄鉱の残滓が検出されて、児湯でも褐鉄鉱の産出、製鉄が行われた痕跡をみせている。そして、その技術は東南アジアや江南など南方系のものとされる。

 

後記


 太平洋戦争終結後、連合国の占領下にあった時代、「WGIP (ウォーギルトインフォメーションプログラム)」と称するGHQによる施策があった。
 この施策は当時の軍国主義の残影を日本から排除し、国民に戦争に対する贖罪意識を持たせることを目的としている。軍国主義に繋がる国家主義的、民族主義的なものをすべて否定する世論操作が行われ、心理戦(洗脳)の手法が使われたといわれる。

 GHQは教育、宗教、芸術などの分野でも国民の意識の再構築を謀り、教育において修身、国史などの授業を停止、教科書から国家主義的なものを排除した。また、民族主義的な歴史文献などが没収(焚書)されている。

 そして、国家の中核にあった20万人が公職追放され、東大や京大などでは教授の交代が行われ、コミュニズム的な人々が抜擢されるなど、旧態解体が行われた。また、第三国人と呼ばれた在日朝鮮人などが戦勝国人待遇とされて、公職などの社会的な地位を得ている。(wikipediaなど)

 歴史学においては民族主義的とされる史観をすべて否定、研究者たちの思想は規制され、出版物も検閲を受けている。古事記や日本書紀の記述は史実ではなく、創作されたものとして歴史学の対象から外された。戦後の古代史研究は記紀神話の否定から始まっている。
 それまでの国家史観に対する信頼は失なわれ、日本人としてのアイデンティティは喪失している。

 万世一系とされた皇統もその断絶を説く歴史学者たちが説を競い、1948年(昭和23年)には応神天皇は大陸からやってきたとする「騎馬民族渡来説」が唱えられ、1952年(昭和27年)には欠史八代の非実在や崇神、応神、継体の「三王朝交代説」などが唱えられた。
 また、戦前の日韓併合を円滑に行うための理論、日韓が同じ先祖から別れたとする日鮮同祖論は、韓半島よりの渡来人が日本文化をつくったとする韓国起源論へと変化、韓半島文化の優位性を示す理論とされている。

 このWGIPの存在はGHQ文書の中で公開されている事実。そして、WGIPの実施において主導的な役割を担った新聞社やNHKなどのマスコミや大学、歴史学の学者たち、そして、教育現場など、彼らはWGIPの思考を転換できないまま現在に至っているといわれる。
 結果、多くの歴史学者は大和王権の生成は韓半島勢力に依るという思考に固執、そのため記紀で述べられる南九州における日向三代の国家生成のストーリーや神武東征説話の否定は今だに続いている。


 今、史学はこの国の正史である古事記、日本書紀を真摯に見つめ直し、その記述を検証することが最も重要。記紀神話に投影された史実を復元し、古代史を再構築することで、国家生成の大いなる謎が解ける。
 偏西風が西から東に吹き、黒潮が南から北に流れることで、古い時代、列島に拘わる事象の主体が南域から東シナ海を北上したのは自明の理。わが国の基層文化は飽くまで南方系のものであった。記紀が述べる南九州を舞台とする国家生成のストーリーが示す意義とはこの国のアイデンティティ。

 

 

*古事記、日本書紀へ回帰する会(twitterコミュニティ)
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叛臣。北原鎮久

 

 龍ヶ城、吉木村に在り。この城は高橋紹運の端城にして、家臣、北原鎮久と云う者住せり。
 鎮久と云し者、勇あれども智無く、ただ貪欲無道の由、秋月種実、伝え聞き、天正八年の比、家臣、内田善兵衛を以って語らいけるに、近日、種実、大宰府に発向すべし、その方、龍ヶ城に此方の人数を呼び入れ置き、岩屋の城の裏切せよ。左あれば紹運、忽に滅ぶべし。その賞には岩屋城を可遣よし。
 云ければ、鎮久、元より欲深く義なき者なれば子細なく同心し、相図の日を定む。紹運、如何して洩れ聞けん、鎮久を誅せらる。(筑前続風土記より)


「お屋形はまだ豊後の大殿に義をお立てなされるか。」
 老臣の聲が響く。
「日向の合戦以来、大殿たるや異教に迷って治政を怠り、嫡子、義統さまは年少、暗愚にて頼りとならぬ。」
 老臣の聲は朗々と響いている。
「古く、この高橋家と秋月家は大蔵党の兄弟家に御座る。今こそ秋月家と和して、共にこの筑前に並び立つとき。」
 老臣は更に聲音を上げる。
「お屋形はこの竃門山の城を護り、大友家の藩屏として能くお働きであるが、三方、敵に囲まれ、戦さ続きにて家臣一同、もはや疲弊。やがて衰亡するは必定(ひつじょう)。」
 老臣は家中随一の臣、その言は重い。

「わしは大友の一統である。高橋の家を与えられ、この筑前を護っておるのもひとえに大友家への義である。たとえ戦さにて屍を晒そうとも、もとより本懐。」
 紹運が負けずに聲を響かせる。
「お屋形の腹はよおく判り申した。家中一統、衰亡に向かう折には、わしがお屋形にとって替わろうぞ。」
 老臣のその言葉に館に在った家臣たちが顔を見合わせた。

 

 その年はいつに無く暑い夏であった。鬱蒼とした樹叢が頭上を覆っていた。風は無い。頭上から蝉時雨が降り注いでいた。進士兵衛は城戸への急坂を駆け上がっていた。首から汗が噴き出て胴丸に滴っている。
 進士兵衛がそれを知ったのは今朝のことであった。
(父が討たれた。)

 北原進士兵衛は高橋紹運の臣である。ことし二十一歳。今は、紹運旗下の物頭を勤める。高橋家は豊後の大友家の大身にて筑前の御笠郡を領し、大宰府の北東に聳える竃門山城を本城とする。
 進士兵衛の父、北原鎮久は高橋家の宿老としてとして重きをなし、吉木村の龍ヶ城を預かる。

 父の鎮久には謀反の噂が囁かれていた。過日、父が紹運に主家、大友家との手切れを進言し、その結果、紹運と口論になったという。そして、遂には父が紹運の放逐さえ画策するに至ったと囁かれていた。
 進士兵衛には父の謀反に心当たりがあった。不審な男たちが屋敷に出入りしていた。何よりもここ数日、父の様子が尋常では無かった。が、同時に進士兵衛は父がそのような比興をする漢(おとこ)では無いとも思っていた。

 何かが動き出そうとしていた。それに進士兵衛も巻きこまれようとしていた。が、一体、何が起きようとしているのか進士兵衛には判らぬ。


 北原鎮久誅伐。その朝、若党が進士兵衛の屋敷に駆けこんできた。
(父が討たれた。)
 北原鎮久は紹運の館に向かう道で、伏せていた紹運の重臣、萩尾大学主従に襲われ、大学の槍に貫ぬかれて絶命したという。さすれば、自身の許にも討手が出るだろう。恐らく、既にこの吉木村へ向かっている筈。


 吉木村の龍ヶ城は高橋家の本城、竃門山城の前衛、愛嶽山と大石の谷を挟んで相対する笹尾山の西尾根に在る。竃門山城の南面を護り、古処山城に拠る秋月勢への備えとされる。

 進士兵衛は一族郎党を纏め、山麓の屋敷を出て尾根上の城に篭った。郎党は百足らず。進士兵衛はその手勢で紹運の討手を迎え撃つ積もりであった。

 北原鎮久は謀反の企てを進士兵衛には明かさなかった。鎮久は紹運に忠勤する進士兵衛を見て、或いは謀反が挫折した時、子へ累が及ぶことを案じたのかも知れぬ。が、謀反においては一族斬罪が常であろう。子の進士兵衛が許されることは有るまい。
 何かが動き出して、進士兵衛は既に巻きこまれていた。

 その日、紹運の討手は現れなかった。

 夕刻、進士兵衛の舅(しゅうと)である今村宗加が単騎、平装で現れた。宗加は紹運の重臣のひとりである。そして、宗加は紹運の書状を携えていた。
 その書状を見た進士兵衛は驚いた。書状には鎮久の密謀を知らぬであろう進士兵衛を咎めないと記されていた。
「はて。お屋形の策謀であるやも知れぬ。」
 進士兵衛は思った。
「討たれても構わぬ。」
 とも、思った。
 もとより、郎党を集めて父の無念を晴らそうと思った訳では無かった。ましてや、父の遺志を継いで謀反に及ぼうとした訳でも無い。紹運の討手を畏れて城に篭っただけであった。その夜、進士兵衛は城戸を開いて城を出た。

 

 天正八年八月、筑前は風雲の中にあった。去る天正六年、豊後の大友宗麟は大軍を率いて日向に出陣、島津勢と耳川で戦い、大敗を喫した。耳川合戦である。大友家は多くの宿将、家臣を失い、結果、その威勢は地に落ちた。
 統領の宗麟はキリシタン異教に迷って政務を怠り、豊後の治政もままならず、嫡子、義統も年少にて頼りにならぬという有りさまにて、旗下の諸将の島津方への離反が相次いでいた。

 肥前に覇を唱える竜造寺隆信は、これを機とばかりに筑前の大友領へ侵攻、昨年、筑前を護る大友五城のうち、荒平城の小田部鎮元を滅ぼし、続いて、志摩、柑子岳城を廃し、那珂川、鷲ヶ岳城の大鶴宗雲をも滅ぼして筑前西半を竜造寺のものとした。筑前の大友方は立花城の立花道雪と竃門山城の高橋紹運のみとなっていた。

 筑前、筑後の国人たちの大友離れはその後も相次ぎ、高橋と領を接する秋月種実も竜造寺に与(くみ)して大友領を侵蝕、その支配領を筑前、豊前、筑後十一郡に広げて威勢を誇った。
 秋月の脅威は既に目前にあり、高橋家は当に窮していた。北原鎮久が紹運に大友家と手切れして、秋月や竜造寺と盟を結べと進言したのも理解できる。

 紹運には千余の家臣がいたがその構成は複雑であった。元来、高橋家は筑後大刀洗、高橋の地に在った。高橋家七代、長種には嗣子が無く、統領、宗麟は一族の一万田のものに鑑種を名乗らせ高橋家の後継とした。
 が、鑑種は宗麟に叛旗を翻して竃門山城を逐われる。そこで、豊前の大友重臣、吉弘家に在った紹運が高橋家を継いで竃門山城に入ったのである。

 ゆえに筑後時代からの旧臣、鑑種の臣、そして紹運譜代の臣と高橋家の家臣構成は多岐に分かれる。特に鑑種以前の旧臣には北原をはじめ、屋山、伊藤、福田、村山、今村と武威をもつ将が多い。

 また、高橋家と秋月家はともに大蔵氏の裔として同族であった。高橋家の旧臣の多くは秋月家に親戚縁者や知己をもち、これらの家臣はともすれば秋月家に通ずる危険を孕んでいた。自身の不安定な家臣団を纏めあげることが今の紹運の急務であった。

 

 翌日、進士兵衛は紹運の館に在った。高橋家の本城、竃門山城は大宰府の北東に聳える宝満山(竃門山)にある。山中に多くの郭(くるわ)を配し、尾根続きの仏頂山が詰めの郭である。南麓の大石と西麓の有智山から城道があり、岩屋、枡形、笹尾、牛頚などの支城を配する要害であった。
 南麓、大石の上手に城主の館があったが、麓の阿志岐は秋月領と接し、秋月勢の脅威が迫る中、紹運は西麓の有智山に館を移している。

 有智山館の紹運の許に家老の屋山中務、今村宗加をはじめ、高橋家の重臣たちが顔を揃えていた。進士兵衛はこの席に何故、自身が呼ばれたのか判らなかった。

 やがて、紹運が徐(おもむろ)に口を開き、鎮久による謀反の次第と鎮久誅伐の顛末を語った。
 そして、鎮久を討った折、鎮久が持っていたという書きものから、その密謀が秋月種実の重臣、内田善兵衛によって齎されたものであり、近く、秋月の兵が龍ヶ城に入り、種実の御笠侵攻に合わせて旗上げするといった仔細が判ったという。
 また、竃門山の僧、林蔵主を使いとして秋月方と接触していることも記されると紹運は語った。

「これなる進士兵衛も父の非を悟り、わしに忠勤を誓って呉れた。ここに至っては秋月を懲らしめねばなるまい。」
 紹運が言った。
「これは秋月を討つよき機でござる。」
 屋山中務が憤っていた。そして、その場で秋月討伐の謀議が相成った。
「この度の秋月討伐はおぬしが働かねばならぬ。」
 紹運が進士兵衛に言った。進士兵衛は不思議と落ち着いていた。
「はい、父の非を償(つぐな)う所存でございます。」

 

 進士兵衛は父の遺志を継ぎ、約定通りに軍勢を差し寄越せば紹運に対して旗上げするといった旨を書状にしたため、竃門山の僧、林蔵主を使いとして、秋月の内田善兵衛に送らせた。
 秋月主従はこれが謀略であることを疑わず、御笠への侵攻の日を定めて進士兵衛に返書を送ってきた。

 果たして、その約定の日の夕暮れ、内田彦五郎率いる秋月兵三百が山家よりの山道を使って隠密裏に龍ヶ城に着陣した。

 そして夜半、満月が龍ヶ城の矢倉の上にあった。

 城の築地が満月に照らされて光っていた。秋月の兵たちは進士兵衛主従に勧められた酒の所為もあって寝入っていた。そして、進士兵衛主従の白刃が月明かりに舞った。
 大手の城戸が開かれ、刃を翳した高橋勢が秋月兵に襲いかった。搦手付近でも咆哮と太刀打ちの音が上がった。
 内田彦五郎は幕舎から飛び出したところを討たれた。高橋の兵は一方的に血刀を振るっていた。腹背より攻められた三百の秋月勢は半刻と持たずに壊滅していた。秋月に逃げ帰った兵は百人足らずであったという。


 この変事を契機として高橋家臣団は結束を強くする。北原鎮久の誅伐事件は、ともすれば不安定であった高橋家中を統一する上で大きな意味があった。そして、高橋勢は立花道雪の遺兵、立花勢と共に大友家の双璧とまで謳われるほどの強軍に成長する。

 北原鎮久が何を考え、何をしようとしていたのか、今となっては進士兵衛にも判らぬ。その日も吉木村は蝉時雨に包まれていた。(了)

 

 主(あるじ)に弓を引こうとした北原鎮久は、紹運にとって無二の功臣であった。先代の高橋鑑種は竃門山城に拠り、大友家の筑前支配を担った。が、永禄十年、鑑種は毛利元就に通じ、大友家に叛旗を翻したため竃門山城を逐われた。
 そして、高橋家の旧臣たちは大友宗麟に高橋家の再興を願い出た。それに応えた宗麟は大友宿老、吉弘鑑理の弟、鎮理を高橋家の後継とした。
 御笠郡二千町を与えられた鎮理は高橋鎮種を名乗り、筑前に入った。元亀元年のことであった。やがて、鎮種は後に剃髪して紹運と号した。

 その折、豊後に赴き、宗麟に高橋家の再興を嘆願した家臣団の首謀が北原鎮久であった。以降、鎮久は紹運の家老として高橋家を支えた。紹運の今日あるは鎮久の力によるところが大きく、紹運は鎮久を兄とも父とも思っていたという。


 貝原益軒は筑前国続風土記で北原鎮久を「勇あれども智なく、ただ貧欲無道。」などと表現している。そして、謀反は一族もろとも死罪が世の常であろう。が、なぜか叛臣、北原鎮久の嫡子、北原進士兵衛は鎮久の家老職を継ぎ、紹運に重用されている。不可解なのである。
 筆者は北原鎮久の謀叛が、果たして紹運と鎮久の共謀による家中統一のための作為ではないかと思っている。そして、この話は「岩屋城玉砕」という戦国九州、最大の変事へと繋がってゆく。


 天正十四年、九州制覇を目論む島津軍は、北部九州の大友勢力を一掃すべく高良山に陣を敷く。北部九州の殆んどの将が島津方に就き、六万にまで脹れ上がった大軍勢は筑紫路を北上、大友方、高橋紹運が篭る大宰府の岩屋城を取り囲む。岩屋城の守兵は紹運以下、僅か七百余。
 紹運は島津軍の降伏勧告に応じず、数日後、島津軍は岩屋城に総攻撃をかける。そして、七百余人の守兵は一人の脱落者も出さずに紹運に殉じる。鎮久誅伐の六年後のことであった。
 この岩屋城攻めで甚大な被害を蒙った島津軍は紹運の長子、立花宗茂が守る立花城を攻略できぬまま、豊臣軍の九州上陸により九州制覇を諦め、薩摩へ撤収する。

 のち、秀吉による九州国割りにおいて、紹運の功により立花宗茂と次子の高橋統増は厚遇され、大名に列せられる。

 北原鎮久の謀叛が紹運と鎮久の作為であったとしたら、家中統一というその目的は見事に実を結んだというべきであろう。そして、鎮久は誅伐されずにどこかで生きていたのかも知れない。(油獏短編小説集、戦国奇譚より)

 

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 戦国期の筑前、高橋紹運の宿老、北原鎮久は義なき叛臣とされる。が、彼の謀反には謎が多い。北原鎮久謀反の真相を探る「叛臣。北原鎮久」。肥前、山内二十六ヶ山の統将となる若者、神代新次郎の伝説を描く「北辰の龍。神代勝利伝」。そして、「赤熊。鍋島清久」、「七人の城。大村純忠伝」など、戦国九州の奇譚、4篇を収録する。

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鉢の木物語。曲渕河内守伝

 

 筑前、曲渕村に謡曲「鉢の木」の不思議な伝説を残した異能の戦国武将、曲渕河内守。百姓鍛冶屋の倅から名将と呼ばれるまでに成り上がった男は、やがて、自身の出自を飾るために奔走する。夢を追い続けた男の悲しい物語。


 一


 百姓あがりの男たちばかりである。軍装は山賊と変わらない異態の男たちであった。

 曲渕衆と呼ばれる男たちは死に物狂いの戦さ働きを見せ、破天荒な奮迅振りで原田家の将士たちを瞠目させた。甚五兵衛が常に男たちの先頭に在った。大きな体躯はその存在を際立たせ、男たちを鼓舞した。
 梅助は智謀の冴えを見せ奇計を諮っては敵を手玉に取った。獰猛な喜久蔵は山刀を掴(つか)んでは敵陣深く躍りこみ、人間技とは思えぬ働きを見せた。
 長太はといえば男たちを巧みに仕切り、甚五兵衛らの働きを支えた。曲渕衆の男たちは村にいた頃からの見知りのものばかり、温厚で面倒見の良い長太は男たちの信頼を一身に集めていた。
 人は自身に無いものを相手に求める。そういう意味ではこの四人は見事に吊り合っていた。


 筑前、早良の平野を南北に貫く早良川を遡ると内野村の上手から両岸に山が迫り、狭い谷内となる。谷に入るとまず石釜村がある。その先で川は大きく湾曲し、深い渕をつくる。そこが曲渕と呼ばれる。その渕の先に曲渕村がある。山間の谷内には人々がひっそりと暮らしていた。
 村の上手で川は二つの流れに分かれる。北からの流れの先に飯場村があり、南からの流れの奥に飯場村の枝村、野河内の里がある。いずれの村も狭い田畑しか持たない。
 この狭い盆地が曲渕河内と呼ばれる。そして曲渕河内の奥には肥前との国境である井原山が聳えている。

 野河内から上は水流が岩を喰む深い渓谷が続く。半里ほども続いた渓谷は突然に開けて、山中に小盆地をつくる。その地を水無という。昔は田畑と数軒の農家があったらしいが、今は小さな猟師小屋があるだけ。その猟師小屋も最近はあまり使われた気配は無い。

「甚五よぉーい。」
 山中に甚五を呼ぶ声が響いた。梅助と喜久蔵が谷を駆け上がってくる。後ろから長太が遅れてやってくる。長太は芋やとうきびが入ったしょいこを背負っている。
「甚五、大変じゃ。山の上で戦さが起きとる。」
 甚五の顔を見るなり、梅助が言った。
「二、三日前に原田様の軍勢が瑞梅寺から山に入ったそうじゃ。山の上には神代の軍勢がおるらしい。」
「そうか、戦さか。」
「それに今朝は小田部様の兵が村に入って来たぞ。物騒なことになりよる。大戦さになるかも知れぬ。」
「そうか。大戦さか。」
 甚五が考えていた。
「うむ。その戦さで手柄を立て、武家になるのも悪くは無いな。」
 甚五が言った。
「ふふふ。無理じゃ。いくら手柄を立てても、わしら百姓は武家にはなれぬ。」
「そんなものか。」
「もっとも、ご先祖様が滅んだ少弐の家に仕えておった。とでも言えば判らんがな。」
「そりゃいい。今は、訳あって鍛冶屋ばしとるとでも言え。ふふふ。」
 喜久蔵が相いの手を入れる。
「ははは。おまえら、家来にしてやらんぞ。」

 永禄の頃。曲渕村に住む鍬作りの鍛冶屋の倅(せがれ)、甚五は殊に悪童であった。体が大きく、身の丈が六尺も有った。腕っぷしが強く、近隣の餓鬼どもを集めては悪戯を重ねる。十四、五歳の頃には石釜村や飯場村にまでその悪童ぶりが鳴り響いていた。
 甚五は喧嘩の強い乱暴者というだけではなかった。胆が太いところもあるかと思えば涙脆く、子どものように泣いたりもする。激しい気性の中に優しい心情をも併せ持っている。故に甚五の許には甚五を慕う悪童たちが集まった。
 梅助は曲渕村きっての俊才であった。村にある長福寺の和尚に気に入られ、学問も習っている。喜久蔵は石釜村の地主の倅。放蕩者にて今は勘当同然である。この二人は甚五と同い年。
 長太は三人より二つ、三つ年長である。面倒見の良い男であるが、人が良すぎて貧乏くじを引く。他にも仲間はいたがこの四人は幼い頃から何をするにも一緒であった。

 「悪たれが手下を集めては悪さをしとる。」
 甚五の許に悪童たちが集まるのを見て村の大人たちは噂した。やがて、名主たちは甚五を村から追放した。
「おおごとにならんうちに、どうにかせんといかん。」
 それが名主たちの理屈であった。甚五の父、甚兵衛は甚五を遠くの親戚に預けようとしたが、甚五が承知しない。

 村を追放された甚五は水無の猟師小屋に住み着いた。仲間たちが一緒に居てくれた。食糧にも困らなかった。山には木の実や野いちごが実り、渓流には山女魚が沸いていた。そして、仲間たちは里の畑から芋や野菜を掠(かす)めては運びこんだ。
 この山は甚五たちにとっては裏庭みたいなものであった。甚五たちは山賊もどきに山中で獣を追い、山暮しを楽しんでいた。が、そのうち仲間たちもひとり、ふたりと村へ戻り、ここ数日はこの山中に甚五ひとりであった。
(冬も近い。この山の雪は深い。そろそろ、考えんといかん。)
 甚五はこの曲渕の里と山が大好きであった。
(この里を離れとうはない。)
 とも思っていた。

 三人が村に戻った後、戦さの話が気になった甚五は山道を少し上ってみた。もう、夕暮れが迫っていた。
 水無の上は谷が狭くなり、流れは再び渓流となる。その渓流を上りつめた先に小さな鍾乳洞があった。夏場には冷気が水蒸気となって吹き出す不思議な洞窟であった。甚五たちは暑い日にはよくここに涼みに来る。
 その鍾乳洞の前にさしかかった時であった。上からひとりの男が谷を下ってきた。足許がふらついている。甚五は草叢に身を隠した。男は甚五が潜む草叢の前まで来ると、渓流の石に足を取られ大きく転倒した。大した鎧具足を着け、ひとかどの武者の身なりをしている。

 上方から人の声が聞こえた。男たちの一団が谷を下ってくる。十数人の男たちが樹間に見え隠れしていた。男たちの背に「立ちの龍」の征旗が見えた。
(梅助が言っておった神代勢の紋じゃ。)
 それを見た武者が岩陰に身を隠した。甚五はその瞬間にすべてを悟り、男の前に躍りでた。突然現れた甚五に男は弾かれたように顔をあげ、驚愕の表情を見せた。
「あんた、原田の者じゃな。助けてやろう。」
 甚五はその男の肩を掴むや、洞口に引き摺り入れた。男たちの一団はすぐ傍まで近づいている。

 鍾乳洞は谷筋から二、三間ほど奥まったところに小さな洞口を開けている。二人は洞窟の奥の暗闇で息をひそめた。男たちの声が間近に聞こえる。
「この先はもう野河内ぞ。小田部領じゃ。こっちではあるまい。」
「うむ。こっちに逃げたと思ったがな。」
「小田部の兵と出くわしても難じゃ。戻るか。」
 神代の兵たちが上に戻るのが気配で判った。

 永禄十年の九月。怡土、高祖山城の原田隆種は雷山の筒城に在った西重国を攻めた。重国は同盟していた佐嘉の竜造寺隆信に救援を求めた。重国は滅ぼされてしまったのであるが、竜造寺隆信はこれを機会とばかり、怡土に触手を伸ばした。
 十月になって竜造寺傘下、山内の神代勢が国境の井原山上に軍勢を集結させ、原田家の本拠、高祖に攻め入る気配を見せたのである。一方、隣国の早良、荒平城の小田部鎮元も敵対する原田勢の窮地に接し、国境付近で不穏な動きを見せていた。


 その夜は冷えこんでいた。甚五が水無の猟師小屋に連れて来たその男は歯を鳴らして震えていた。追われた興奮も残っているのであろう。
(火を熾してやりたいが、この暗い中、薪を集めにいくのも億劫じゃ。)
 甚五は思っていた。小屋の中にここの主の趣味であろう、山樹を盆栽仕立てにした鉢が三つ、四つ並んでいた。甚五はその鉢から山樹を乱暴に引き抜くや、それを薪にして火を熾して派手に燃やした。そして長太に貰った芋をその火で焼いた。

 その武者はまだ若い男であった。甚五より三つ、四つほど年上であろうか。暖をとり、焼けた芋を口にして人心地が着いたのか、やっと口を開いた。
「ここは何処じゃ。」
「ここは水無という里じゃ。野河内から半里ほど山を上った所じゃ。人はわし一人しかおらぬ。」
 甚五が応えた。
「ここから怡土へは行けぬか。」
「山を下って飯場から峠を越えれば怡土に抜けるが、飯場には小田部の兵が入って来ておるらしい。出会うと不味(まず)いじゃろ。」
「うむ。他に道は無いか。」
「ここから怡土の川原に抜ける獣道がある。わしが案内してやってもよい。」
「うむ。頼む。」
 甚五が男の顔をじっと睨んだ。
「なんじゃ。」
「条件がある。」
 男が怪訝な顔をした。
「あんたは名のある大将だろう。わしをあんたの家来にしてくれ。」
 甚五が言った。二人の間に沈黙が流れた。
「いいだろう。家来にしてやろう。おまえには恩がある。」
 男が笑った。

 原田親種。その若い武者は原田家の嫡子であった。甚五が助けたこの原田家の嫡子には元来、無鉄砲なところがあった。
 数日前、当主の原田隆種は山上の神代勢を牽制するために、井原の将、松崎安光に命じて山麓の瑞梅寺に陣を張らせた。そして、嫡子の親種に手勢を与え、安光の加勢を命じた。
 今朝になって血気にはやる親種は安光の制止を無視して、少数の兵で山上へ物見に向かった。山内の神代勢は山岳戦を得意とする。親種主従は山頂直下の谷筋で神代勢の待ち伏せに遭った。親種は血刀を振るって単身その場を脱した。そして、道も判らぬまま山中を逃がれ、水無で甚五と遭遇したのであった。

 怡土、高祖の原田家は中国の雄、毛利家と結んでいる。南は井原山、雷山などの嶺々を国境として竜造寺方の神代領と接し、北には眼と鼻の先に豊後、大友家の志摩代官、臼杵新介の柑子岳城。東には日向峠を境に、同じく大友配下の早良、荒平城の小田部鎮元の所領と接し、三方を敵に囲まれた状態であった。
 とくに柑子岳城の臼杵勢とは周船寺の水道を隔てるだけであり、たびたび小競合いを繰り返していた。
 原田隆種は獅子身中の虫であった雷山、筒城の西重国をやっと攻め滅ぼし、自身の国内を纏め上げたばかり。神代勢の来襲は殊に原田家の窮地であった。


 甚五が親種と出会い、高祖へ入って十日ほどが経っていた。甚五は親種の屋敷内に小屋を与えられ、雑用をこなしていた。あれから親種に会う機会は無かった。

「自分は曲渕の郷士の嫡男であり、父祖は滅んだ少弐家に仕えていた。今は姓を捨て、野に下っておるが、声をかければ手先の数十人も集まる。」
 と、甚五は周りに吹聴していた。甚五は梅助の言葉をよく覚えていた。

 原田家の本拠、怡土、高祖の里は高祖山の麓にある。将士の屋敷が山裾の斜面に犇めき、山上に詰めの城砦が築かれている。高祖山の西には怡土の平野が広がり、村々が散在する。平野の脊背には背振山稜が屏風の様に障壁をつくり、この国を護っている。風雲が迫っているとは思えぬ静かな日々がこの里には流れていた。

 日を置かず、甚五の出番はやって来た。その朝、甚五は親種の許に呼ばれた。その場には井原の松崎安光が同席していた。

「井原山へ抜ける間道を造る。」
 甚五が座るなり、親種が言った。
「この前、おまえが案内してくれた道程じゃ。おまえにその間道造りを頼みたい。」
「はい。」
 甚五が眼を耀かせた。
「神代勢はまだ山上に在ってこの高祖を覗っておる。今、井原村の鹿我子に砦を築いておる。これは山から下ろうとする神代勢に対する備えじゃ。それで、砦から水無を抜けて山上に兵を動かせるようにしたいと思っておる。」
 親種が言った。
「急を要する。四、五日でやれるか。」
 安光が言った。
「はい。」
「わしの郎党が加勢する。」
「お願いがございます。」
 甚五が言った。
「この仕事、曲渕のわしの仲間も加えさせて下され。」
「おまえの手先どもか、よかろう。」
 甚五は曲渕村へ駆けた。

 間道造りの指揮は松崎安光が執った。安光は井原周辺の数か村を預かる旗頭であった。鹿我子の砦も安光が築いていた。
 甚五は安光の許で近郷から集められた農夫たちを使い、木を切り、谷を埋めて、軍勢が移動できるほどの道を親種との約束通り五日で造りあげた。梅助、喜久蔵、長太との四人で道のりを分けて造った。

 間道ができた翌日には、すでに原田家の軍勢が鹿我子の砦に集結していた。そして、親種が率いる主力が瑞梅寺から井原山へと入った。
 翌日の早暁、朝靄の中を松崎安光率いる軍勢が川原からその間道に取りつき、水無を経て井原山上へと隠密裡に向かった。甚五たちは安光の手勢数人を加え、先駆けとして安光勢を先導した。
 山上に着くまでに神代勢の物見と何度か出くわした。甚五たちは物見の神代兵をすべて生け捕りにした。勝手知ったる山中であった。獣のように草叢から襲いかかる甚五たちに不意を衝かれた神代兵は、悲鳴をあげる間もなく押さえつけられた。安光は間道脇に縛られて転がされた神代兵を見つける度に笑っていた。
 安光勢は昼前に井原山の尾根に取りついた。神代勢は山上から尾根を西へ下った「うなぎれが辻」で瑞梅寺から攻め上った親種勢と対峙していた。

 間を置かず、安光勢は山上から神代勢に猛然と襲いかかった。狭い稜線である。うなぎれが辻は大混乱に陥った。あらぬ方向からの突然の攻撃に神代勢は慌てた。山上に叫喚が飛び交かった。
 親種の軍勢も一気に攻め上り、混乱する神代勢を襲う。半刻も持たずに神代勢は総崩れとなり、自領の神水川に潰走した。山岳戦を得意とし、山内での戦さでは無敵を誇った神代勢も、この戦さでは完敗を喫した。
 甚五たちもこの日の戦さで目覚しい働きぶりをみせていた。

 うなぎれが辻の戦さ以来、甚五は親種の馬廻りに取り立てられていた。「この度の戦さのいちばんの手柄である。」といった松崎安光の推賛の言が功を奏していた。
 そして、安光が烏帽子親となり、甚五は曲渕姓を名乗った。小さいながらも高祖の城下に屋敷を与えられ、梅助、喜久蔵、長太の三人も甚五の配下として高祖に残った。

 甚五が曲渕河内三村を扼し、曲渕河内守を名乗るのはまだ八年ほど先のことである。


 二


「甚五、上がるぞぉ。」
 屋敷の玄関先で菊蔵の声が響いた。元旦以来、甚五兵衛主従は昼間から酒を呑む。
「わしを甚五と呼ぶな。」
 甚五兵衛が盃を傾けながら菊蔵に怒鳴った。機嫌は悪くない。
「すまぬ。」
 菊蔵が笑う。
「おるか。甚五ぉ。」
 間をあけず、庭から長兵衛が入ってくる。
「見ろ。おまえが甚五と呼ぶから長兵衛まで呼ぶ。」
「おまえもわしを菊之丞と呼ばんではないか。」
 菊蔵が言い返す。
「菊之丞などとふざけた名前をつけおって。」
「大概にせんか。おまえらは昔と変わらんなぁ。菊蔵、おまえは菊蔵じゃ。菊之丞はやめぃ。」
 梅介が割って入る。
「それから甚五のことはお屋形と呼べ。他の者に示しがつかぬ。」
「そうじゃ。」
 甚五兵衛が頷く。
「ふん。お屋形さまか。」
 菊蔵が嘯(うそぶ)く。

 高祖の城下に屋敷を構える曲渕甚五兵衛は原田家の当主となった原田親種の物頭である。すでに数十の郎党を持つ身であった。甚五兵衛が親種に仕えて七年になる。
 野心に満ちた歳月であった。甚五兵衛主従は親種勢の尖兵として、多くの戦さで獅子奮迅の働きを見せた。曲渕衆と呼ばれる甚五兵衛主従は百姓あがりの者ばかり。その破天荒な奮迅振りは原田家の将士たちを瞠目させた。
 一昨年の大友方の志摩、柑子岳城の臼杵勢との山崎合戦や、池田川原合戦でも功を挙げ、昨年、甚五兵衛は物頭の任を得た。親種の信も厚く、今や親種勢の先手を預かる。

 甚五兵衛が物頭となり、それまで甚五兵衛の郎党の扱いであった梅助、長太、喜久蔵の三人も、乙名(おとな)としてそれぞれ曲渕梅介、曲渕長兵衛、石釜菊蔵を名乗り、身分を得ていた。
 甚五兵衛は三人に、
「わしの一族である。」
 として、同じ曲渕姓を名乗らせようとしたが、
「わしは曲渕じゃなか。石釜村の出じゃ。」
 と、菊蔵は石釜姓を名乗っていた。

 筑前、怡土は肥沃な平野が東西に広がる。平野の東端に高祖山が聳えている。その麓に原田家の本拠、高祖の城下があった。甚五兵衛主従は天正二年の静かな正月をこの高祖の屋敷で迎えていた。

「殿のところに年賀の挨拶に行ってきたが、まだ具合が悪そうであった。」
 盃を傾けながら甚五兵衛が梅介に言った。
「うむ。若が死んでから殿は弱くなられた。無鉄砲と呼ばれていた頃が嘘のようじゃ。」
「殿は若を可愛がっておったからのう。」
「あの時はわしらが迂闊であった。殿と若を守るのがわしらの務めであったものを。」
 甚五兵衛が盃を煽る。

 七年前、井原の山中で出会い、ただの悪童であった甚五兵衛を家臣として拾い上げ、ここまでの身分にして呉れたのはすべて親種である。それだけに甚五兵衛にとって悔やまれる出来事であった。

 さる永禄十一年。筑前、立花山城の立花鑑載が毛利元就の調略を受けて、主家の大友家に反旗を翻した。豊後の大友宗麟は戸次道雪らに命じて大軍を興し、立花山城を包囲した。
 毛利家に組している原田隆種は立花鑑載支援のため、嫡子の親種を立花山城に参陣させた。大友勢との間で激戦が繰り広げられたが、守城勢から裏切りが出て立花山城は陥落した。
 原田勢は城より逃れたが、数日後に兵を集め、再び毛利勢とともに立花山城奪回の挙に出た。が、大友勢に圧倒され、原田勢は高祖山城へと敗走した。これを大友勢は四千の兵で追撃し、早良の生ノ松原で再び、激戦となった。
 高祖山城から一門の原田親秀ら三千が救援に出て、大友勢をうち払ったのではあるが、乱戦の中で多くの将士が討死した。親種の嫡子、小次郎秀種も大友勢に討たれた。初陣の秀種はこの時、僅か十二歳であった。
 この戦さの後、原田隆種は筑前での大友方の攻勢に抗しきれず、遂に大友傘下となった。隆種は隠居して「了栄」を名乗り、親種が原田家の家督を継いだ。


 翌日、甚五兵衛は梅介を伴い、井原村の松崎安光の許を訪ねた。安光は井原勢の旗頭を務め、鹿我子砦を預かっている。安光は甚五兵衛の父ほどの歳ではあるが、甚五兵衛とよく馬が合い、新参の甚五兵衛をよく引き回して呉れた。
 昨年、甚五兵衛が物頭になった時、安光の娘、三記との間に婚儀の話が持ち上がっていた。三記は甚五兵衛よりひとつ年下で、寡婦であった。前夫は原田家の家臣であったが、先年の生ノ松原合戦で討死していた。前夫との間に八歳になる男子がいた。

 甚五兵衛が三記を見染めた。三記は豊潤な心根を持ち、いつも微笑を絶やさぬ情の細やかな女であった。色白で、愛嬌のある顔にも好感がもてた。
「機嫌のよい女子じゃ。」
 甚五兵衛は三記に惹かれ、三記も甚五兵衛の美丈夫振りに惹かれた。
 「甚五兵衛が嫁に。」
 と、父から言われたとき、三記は頬を娘のように紅く染めて、
「あい。」
 と、即座に答えたものだ。

 甚五兵衛は上機嫌であった。三人はすっかり盃が進み、甚五兵衛は酔いも手伝ってその言葉を吐いた。
「わしは何時になれば曲渕で旗上げできましょうや。」
 昔、安光と小田部家から曲渕河内を奪い取るといった謀りごとをしていた。本来、甚五兵衛に曲渕の領主になる夢を持たせたのは安光であった。安光自身が小田部領の曲渕河内に食指が動いていた。曲渕は安光の井原村に隣接している。

「殿が小田部を攻めることはあるまい。原田家はやっと大友と誼(よしみ)を通じたところじゃ。殿とて宗麟は恐い。曲渕が欲しければ、原田の家を辞した上で、おのれの力でやるしかあるまい。」
 安光が言った。

 僅かな間をおいて、安光が思いついたふうに呟いた。
「山内の神代の力を使えば、出来るやも知れぬ。」
 意外な言葉であった。
「しかし、神代とはうなぎれが辻で戦った敵同士。」
「うむ。大殿と神代家とは元来、懇意にしておった。その昔、神代の先代、勝利公が山内の谷川城で竜造寺に敗れ、この怡土に逃れてきたことがある。その折、大殿は勝利公と兄弟の契りを交わしたと聞く。」
 安光の眼が耀いていた。
「あのうなぎれが辻の戦さの折、神代勢は攻めようと思えばいつでも出来た。が、山上に軍勢を集めただけで、攻めようとはしなかった。今、考えれば、神代は竜造寺の命で出陣はしたが、竜造寺に言い訳さえ立てばよいと思ったのではなかろうか。」
「そう言われると、あの折の神代勢の退き方はやけにあっさりしておりました。」
「うむ。神代は原田家を敵とは思っておらぬやも知れぬ。」
「我ら、曲渕の者が旗上げするにあたって、ことが成った暁には神代家の傘下となりましょうとでも言えば、助勢してくれるやもしれませぬな。」
 梅介が眼を耀かせていた。
「うむ。それに殿とてやむを得ず大友の傘下となったが、大友には恨みはあっても恩義は無い。腹の中では一人息子を奪った大友憎しじゃ。助力はできんにしても反対はせぬ筈。」
 甚五兵衛は心の中に熱い思いが沸き上がってくるのを感じていた。
「しかし、わしは原田の家を辞して、殿の傍を離れるようなことはせぬ。」
 甚五兵衛が笑った。

 そして、その不幸な出来事は突然に起こった。
 その年の四月、豊後の大友宗麟が臼杵勢との池田川原合戦の責を問い、なんと、原田了栄の首を要求してきたのである。

 一昨年の正月、今津の毘沙門天詣でに向かった了栄が、周船寺の山崎で臼杵勢の待ち伏せに遭った。了栄は少数の兵で必死に防戦、高祖からも救援の兵が駆けつけて何とか難を逃れた。
 数日後、平等寺に詣でた大友家の志摩代官、臼杵鎮氏を今度は逆に原田勢が襲い、池田川原で両軍二千騎が激突する戦さとなった。そして、鎮氏は原田勢に追い詰められ、平等寺で自刃した。

 同じ大友傘下の臼杵鎮氏を屠ったのではあったが、
「先に手を出したのは臼杵勢である。それも今になってとは言いがかりじゃ。」
 と、親種は宗麟の不当な要求に怒った。そして、親種は逆上、櫓に駆け上るや家臣たちの前で腹を切り、
「わしが原田家の当主じゃ、我が首を大友に渡せい。」
 と叫ぶや、自らの首を撥ねて自害したのである。

 その夜、甚五兵衛は声を上げて泣いた。

 この出来事は原田家に大きな波紋を残した。突然、後継ぎを失った了栄は竜造寺家に人質として出していた親種の兄である草野鎮永の子、五郎を世継ぎとして迎え入れ、原田信種を名乗らせて当主とした。が、信種はまだ十四歳の若さであった。
 了栄は失意の中、六十の齢を過ぎて、再び、原田家の頭領に戻ることを強いられた。

 そして、甚五兵衛が
「我は親種様の生え抜きの臣である。」
として、親種無き原田家を辞し、牢人となったのはふた月ほど後のことであった。
(親種様を追いつめた大友に一矢報いてやる。)
 甚五兵衛の胸に強い思いが渦巻いていた。

 甚五兵衛が曲渕で大友方の小田部勢を屠り、曲渕河内守を名乗る二年前。甚五兵衛、二十五歳の年であった。


 三


 天正三年の三月。
 甚五兵衛と梅介は背振、三瀬の三瀬武家の屋敷に在った。背振の三瀬城は山内の将、神代長良の本城である。三瀬武家は先代の神代勝利の頃からの神代家の家老であり、この三瀬村を本貫とする。

「やはり無理じゃ。会うてはくれぬぞ。」
「諦めるのか。」
「うむ。」
「ここまで来た以上は腹を据えろ。」
「うむ。」
 二人がこの屋敷に来て、もう三日が経っている。三瀬武家にはまだ会えていない。甚五兵衛が諦めようとするのを梅介が留めていた。

 背振山塊の南には広大な山間の地が広がる。山内(さんない)と呼ばれる。山々が重畳と連なり、多くの山郷が散在する。山内の南が肥前の盟主、竜造寺隆信の本拠、佐嘉である。
 三瀬は山内の最奥に位置する。三瀬より峠を越えれば曲渕である。佐嘉から三瀬峠を越え、曲渕を経て早良に抜ける往還は、肥前と筑前を結ぶ最短の道であった。

 その日の夕刻、二人はようやく三瀬武家からの呼び出しを受けた。
「原田家におられた方とな。」
 その老将は二人の若者を吟味するように鋭い眼で射すくめていた。
「曲渕甚五兵衛と申す。昨年まで原田親種様に仕えておりました。」
「ふむ。親種殿はお気の毒であった。その原田様を辞されたお人がこの神代に何の御用かな。」
「我等は縁あって原田家に仕えておりましたが、元来、曲渕に在する者でござる。曲渕河内はその昔、背振山東門寺より我等の父祖が預かりし地。この度、小田部家より曲渕河内を取り戻すべく、旗上げいたす所存。つきましてはご当家のご助力を頂きたく、参上いたした次第。」
 甚五兵衛が慇懃(いんぎん)に言った。甚五兵衛の手には汗が滲んでいた。武家は眼を瞑り、無言で聞いていた。
「いずれ、ご当家は竜造寺様と三瀬峠を越え、筑前の大友領に兵をお進めになられる筈。その折には我等が先駆けとなりましょう。」
 梅介が言った。武家が眼を開き、暫く二人を見ていた。重たい空気が流れていた。

 武家が徐(おもむろ)に言った。
「わしらに小田部と戦さをせいと言うか。誰かこの者たちをつまみ出せい。」
 一瞬、その場が凍りついた。武家が座を立った。
「我等、亡き親種様のご無念を晴らしたく大友に一矢報いる所存。今、筑前の大友勢に立ち向かえるは竜造寺様しかござらぬ。」
 甚五兵衛が叫んだ。武家が甚五兵衛を凝視していた。

 去る元亀元年。豊後の大友宗麟は竜造寺隆信を屠るために、六万の大軍をもって佐嘉を襲った。が、隆信は大友勢の大将、大友親貞を夜襲にて討ち取り、大友の大軍を退けた。今山合戦である。
 やがて、隆信はその勢いをもって西肥前へと進出、松浦の諸家を攻め降し、肥前に覇を唱えた。隆信はいずれ早い時期に、筑前の大友領にまで進出するものと思われていた。

 数日後、三瀬武家は神崎の執行種兼の許に在った。執行種兼は竜造寺隆信の次男、江上家種の家老である。勇猛をもって知られた神崎、城原衆の頭領でもある。今は竜造寺勢に在って、山内や筑前方を纏める軍監ともいえる将である。

「如何、思われますか。」
「ふむ。確かにいずれ近いうち、佐嘉の大殿も小田部攻めを言われるであろう。」
 種兼が言った。
「はい。筑前へは三瀬峠を越え、曲渕を抜けるがいちばんの近道。如何な竜造寺家とて、義の無い戦さでは諸勢もついては来ませぬでしょう。この話、小田部攻めのよき火種となるやも知れませぬ。」
 武家が語った。種兼が暫く考えていた。
「ふむ、相判った。三瀬殿でその者たちの助勢をしてみられよ。が、暫くは竜造寺家の影を見せぬ様にな。」
「承知致しました。」
 武家が答えた。
「何か、先代の勝利公を思い起こさせる様な若者たちでございましてな。」
 武家が嬉しそうに眼を細めた。
「ほほう、三瀬殿。久しぶりに血が騒がれますかな。」
 執行種兼が笑った。

 甚五兵衛主従は原田家を辞して以来、曲渕河内での旗上げの準備を進めていた。甚五兵衛たちは水無に入り、粗末ながらも屋敷を造って本拠とした。
 井原の松崎安光が密かに援助して呉れた。甚五兵衛たちは「水無の間道」を使い、井原との間を行き来した。安光の娘、三記が甚五兵衛の身の回りの世話をして呉れた。
「わしはもう原田家を辞した身であるから。」
 と、甚五兵衛は断るのであるが、
「私はあなた様の許嫁でございます。」
 と、三記は健気に振舞った。
 曲渕では長福寺の和尚が何かと援けてくれた。この頃には曲渕に構える城砦の縄張りも終え、旗上げへの準備をほぼ終えていた。

 天正三年の四月。甚五兵衛は三百の三瀬兵と百足らずの自身の兵を率いて曲渕に入った。
 甚五兵衛主従は自らで作事を行い、半月ほどで城を築きあげた。それは村の裏山に東西十五間、南北二十間ほどの規模で、本丸と二の丸を配しただけの城であった。そして、村の入り口にあたる隘路の両岸の嶺に三つの支塁を築き、本城と城道で繋いだ。粗末で小さいが堅固な構えの城塞であった。

「あの悪たれどもが城を造りおった。」
 昔の甚五兵衛たちを知る曲渕村の年寄りたちは唖然として、目を白黒させるばかりであった。かって、甚五兵衛を追い出した名主も今は甚五兵衛の協力者であった。

 そして、城造りをしている頃に、僅かな手勢を連れた小田部家の役人が甚五兵衛たちを糾(ただ)しにきた。甚五兵衛は内野某というその役人を捕らえ、城が出来上がる頃に小田部鎮元宛の書面を持たせて放した。

 我等は父祖の代から曲渕河内に在する者にて候。この曲渕河内の地は、その昔、我等の父祖が背振山東門寺より預かりし地にて候。よってこの度、この地を貴家よりお返しいただく所存にて候。この旨、お聞き入れ下さること無き折は、やむ無く貴家に抗することと相成りましょう。
   小田部民部大輔殿         曲渕河内守(花押)

 と、その書面にはあった。梅介と長福寺の和尚が作ったものであった。

 驚いた小田部鎮元は曲渕を攻めるべく軍勢を集めた。そして、数日後には七百ほどの小田部の軍勢が早くも動き、小城のひとつ一気に踏み潰せとばかり曲渕に迫ろうとしていた。

 曲渕河内を流れる早良川は、石釜村の上手で滝川が南から流れこむ。そこを一ノ瀬という。その辺りから川の両岸に山が迫り、やがて、川は曲渕の深淵となる。
 曲渕を抜けるまで道は隘路となる。曲渕村に入るにはこの道を抜けるしか無い。甚五兵衛たちはその隘路で小田部勢を防ぐつもりであった。

 その日、谷が騒めいていた。川面を吹き抜ける風は強く、草叢が騒いていた。男たちは藪の中でじっと息を潜めていた。
 小田部勢が隘路に入って来る。百ほどの騎馬。後ろに槍の穂先を揃えた徒兵の群れが続いている。馬の嘶きと馬蹄の響き、甲冑の摺りあう音が騒めきとなって谷をおし包んでいた。(後略、全文は「鉢の木物語。曲渕河内守伝」Kindle版 電子書籍で)

 

 数度に亘り、曲渕に攻め入った小田部勢を奇計を諮って屠った甚五兵衛は曲渕の領主ともなる。やがて、原田家の大友離れによって、甚五兵衛は将として原田家に戻り、曲渕河内守を名乗る。
 翌年、竜造寺勢の小田部攻めにおいて小田部鎮元を討ち取った河内守は、旧小田部領、早良十一か村を領する大身の将となる。

 日々、家臣も増え、曲渕家は当に、勢い盛んであった。そんな河内守に災難が突然に降る。

 筑前、曲渕村に謡曲「鉢の木」の不思議な伝説を残した異能の戦国武将、曲渕河内守。百姓鍛冶屋の倅から名将と呼ばれるまでに成り上がった男は、やがて、自身の出自を飾るために奔走する。夢を追い続けた男の悲しい物語。

 

「鉢の木物語。曲渕河内守伝」Kindle版 電子書籍

 戦国末期の北部九州。筑前、曲渕村に謡曲「鉢の木」の不思議な伝説を残した異能の戦国武将、曲渕河内守。百姓鍛冶屋の倅から十数か村を領し、名将と呼ばれるまでに成り上がった男は、やがて、自身の出自を飾るために奔走する。夢を追い続けた男の悲しい物語。

 

「古代妄想。油獏の歴史異聞」Kindle版 電子書籍

 

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