未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




9月入学

この問題に興味のない者にとっては、コロナ禍による学校再開の目途が立たない中での思いつきのように捉えられているようだ。

実際に「思いつきでやるようなことではない。」との批判がある。

だが、ニュースでも報道されている通り、東大が2015年の9月入学を、本気で画策していた時期がある。

この動きに対し、上位の難関大学も賛意を示していた。

その大きな目的は、少子化の影響で減った学生を確保するために、海外からの留学生を迎えるに当たって、他の国とは違う4月入学という制度が、大きなハンディキャップとなっている。との考えだ。

大学の運営サイド、それも定員割れしているような弱小大学ではない、一見まともに運営されているかに見える大学ですら、その先行きには暗雲が垂れ込めている。

既にかなりの時間をかけて、議論がされている。

大きな障害は恐らく、3月卒業の高校生を、9月までどう過ごさせるのか?

どうせなら、小学校から全部、9月入学にするべきではないのか?

はたして、その半年間のギャップを、どう埋めるか?その現実的な策が実行されることはあるのか?

長年、この問題に取り組んで来た者にとって、今回は絶好の機会である。

最大の問題が、コロナ禍による学校閉鎖という形で、先に実現してしまった。

「良く検討して実行するべき」との声もあるが、今年実現出来なければ、日本にはもう、2度とチャンスはない。

今年出来なければ、来年や再来年に実施することは、どう考えても不可能である。

10年後に実現したとしても、もう、9月入学になったからと言って、日本の大学が海外の「留学してまで学びたい」との意欲のある学生の留学先として、検討されることはない。

新入学の大学生が「コロナで自宅待機。サークルに加入したり、歓迎コンパがあったりなど、自分の思い描いていた学生生活とは違う。することがないので実家に帰りたい。」と、堂々とインタビューに答えていた。

日本の大学生の80%、いや90%は、こんな感じだと思う。

海外の映画などで見る、教師が指揮を執って学生同士が討論するような光景は、日本の大学にはない。

3年間、単位を取得することに専念し、なおかつ楽に単位を集めること、楽に授業をこなすことに専念する。

就活時期に、就活仲介企業の作ったルールを妄信し、「100社受けて全部落ちた」と、100社落ちてもまだ、何が悪いのかを自分で解決出来ない大学生。

高卒でも覚悟を決めて働いている者の方が、よほど頼りになるのだが、企業の採用担当も、100社受けてるいるような連中が押し寄せる中、まともな判断など出来ない。

人生、大きな企業で高所得で暮らしたい。

大学を出ればなんとかなる。いや、大学すら出ていなかったら、まともな生活など出来ない。

と、その割には勉強する、他の者にはない力を付ける、との発想がない。

9月入試にしただけで、日本の大学に明るい未来が訪れるわけではないが、それがまず第一歩であり、踏み出してみれば新たな問題が噴出し、一歩一歩それを改善して行くしかない。

税金で無料で若者に大学に通わせても、その効果は極めて薄い。

その程度の策しか打ち出せない政治、そんな目先のことしか支持出来ない国民による民主主義国家。

やはり、未来はないな。

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NHKのニュースで、沖縄に観光に来ている人にインタビューをしていた。

「俺は家でじっとして居るのが嫌いなので、」と、言っていた男性の口調には、すまなさそうな素振りは微塵もなく、むしろ誇らし気であった。

「俺は家に閉じこもっているような(弱っちい)奴らとは違って、アウトドア派の活動的な性格なので、」と、その口調はむしろ、自分は国家元首の言うことなどに屈しない強い人間であることを、世間アピールしたいようであった。

また、別の者は、

「どうせ何しても感染を防ぐことが出来ないなら、ちょっとぐらい来ても、」

と、こちらは言い訳がましくも、自分の言っていることが正論であるとは、信じているようであった。

確かに、あなた1人の行動で、日本の状況が変わる訳ではない。

だが、今問題にするべきは、このような状況であっても、

「オレ1人位が守らなくても、体制に影響はない」と、のこのこと出かけてしまう人が、10万人くらいいても大丈夫なのか、1万人くらいに収まらないとダメなのか、である。

野党議員が首相に「8割削減すれば2週間で収束すると言いましたよね?この状況はいったいどういうことなのか?」と、詰め寄っていたが、質問の趣旨が全く分からない。

ちゃんと「8割削減出来れば、2週間程度で効果が現れる。」と、言っている。

もちろん安倍個人の考えではなく、専門家の見識によるものであり、誰が首相を務めても、同じことしか言えない。

「8割削減出来れば」の部分が、NHKの特設サイトを見ると、調査出来ている繁華街ですら、せいぜい6割削減程度である。

パチンコ屋以外にも、要請に従っていない施設は沢山あるだろうし、夜8時まではやっている居酒屋などでは、飲み食いするのでもちろんマスクなしで、店外にまで聞こえる大声で(飛沫飛びまくりで)の会話が続けられている。

この状況で、8割減に「協力出来ている者」VS「協力出来ていない者」とした場合、5月6日の期限が延長されたならば、それは「協力出来ていない者」全員に責任があることを、自覚するべきである。

それは、決して、首相個人の責任ではないし、自民党の一党の責任でもない。

外出派、および、

「なんで医者は医療崩壊だぁーとか言って騒いでるんですかね?結局、雇われの身で、自粛ムードに乗って休みたいだけなんですかね?」
「ICUとか救急だけ崩壊しかけてるのさ」

との間抜けな遣り取りをしている人々には、コロナにかかわらず、重篤な怪我や病気になったとしても、医療従事者が通常の生活を送れるようになるまでは、病院に行ったり、救急車を呼んだりなどの行為は慎んで欲しい。

「謹んで欲しい。」と言っても、こういう自分のことしか考えられない者に期待するのは無理なので、全部断って良いと思うよ。

保健所の職員さんに罵声を浴びせるようなヤツもね。

どうも、こういう人って、顔が見えない分、みんな同じ連中に思えて、仕方ない。

この一部の人々のために、なんで善良な人々が、いつもでも辛い思いをしなければならないのか。

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「ステイホーム週間」

「オンライン帰省」

この手の言葉が嫌いだ。

この言葉だけ聞いても、何を意味するのかが明確ではない。

前後の文脈を聞いて初めて、何を意味しているのかが、何となく解る。

仕事がIT関連なのだが、お客さんや非IT部門の者から「専門用語で言われても解らない」と、言われることが良くあった。

「専門用語というほどの、専門用語ではないのでは?」と、思うのだが、一応気を付けてはいる。

エンジニアが専門用語を使う時、エンジニア間での共通語であるために、うっかりと使ってしまうこともあるのだが、その概念を意味するもっと適当な言葉が他にない場合もある。

例えば「クラウド」。

これを「雲」と訳しても、意味が通じない。適当な他の日本語も見当たらない。

「クラウド」は「クラウド」だ。

だがそれは、まずはエンジニアに広まり、企業経営に与える影響が大きいため、報道やセミナーで盛んにその意味するところの解説などがなされてビジネス用語となり、徐々に一般に使用しても意味の伝わる言葉になる。

「ステイホーム週間」

同じ理由で、このコロナ禍による自粛要請下の長期の休みを象徴する言葉として、GW(黄金週間)に変わる言葉として、考案されたものと思われる。

その言葉には「家で過ごすことは『我慢』することではなく、家族全員で楽しく休日を過ごす、一つの形態である」との意味合いが含まれている。

「ホーム」という言葉に、「家族」、「安らぎの場」との意味が、日本語においても含まれているからだ。

恐らくは、役人が会議が決めたのではなく、それなりの大手広告代理店などの、その手の専門チームにそれなりの金額で発注して、戦略を立ててもらい、その戦略の一環として、「名前は『ステイホーム週間』でいーんじゃないでしょうか。」と、決められたものと思う。

人々に外出せずに家に居てもらうためには、どうしたら良いのか。

ただ、「自粛自粛」「命を守るため」と言っても、強制されている、我慢しろと言われている感が強いので、反発を招いているために、守られていないのではないか。

などなどの経緯を経て、生み出された言葉であろう。

いや、悪くは、ない。

だが、もう来週に迫っているこの時期に発報(?)しても、浸透するのか?

「GWだがら、海行きた~い!」

と同じように、

「SH週間だから、家で映画見た~い!」

との会話がされる日は、恐らく来ない。

せめて、子供が「外行きた~い!」と、言われた時に、「ステイホーム週間だから、家で映画でも見ていない。」との、親の言い訳程度にしか、使われないであろう。

その割には「ステイホーム週間」には、そのお気楽な響きから、人々から危機意識を奪うという、逆の作用も十分にある。

問題は「週間」だ。

「交通安全週間」と言われても、様々な関連イベントや、交差点で町内会の人が旗振りしたりなどの光景が見られるが、一般の人が、特にその時期に何かしたり、特別なことを気に留めたりしない。

ましてや「あー、交通安全週間のおかけで、今週は安全だったわ。」と、思う人は、まずいない。

一過的なもの、あまり真剣に取り組む必要のないもの、との印象を与えかねない。

並行して、もっと人々に危機意識を持たせる施策も必要なのではないか。

新しい言葉が一般に普及するまでに、それなりの時間がかかる。

かつての「E電」や「ズレ勤」のように、かなりの金額と期間をかけても、定着しない言葉も沢山ある。

なんとなく政府なり、官僚なりの「ちゃんと対策は打ちました」との、言い訳のために実施されている感が満載だ。

一方、今朝のNHKの「あさイチ」で、「家で家族で楽しみたいお勧めのドラマ」が紹介された。

「ストレンジャーシングス」(Netflix限定)
「ロスト・イン・スペース」(Netflix限定)
「魔法のレシピ」(AmazonPrime限定)
「リラックマとカオルさん」(Netflix限定)

いずれも特定企業のサービスに加入しないと見れない作品ばかりだ。

「Netflix」や「AmazonPrime」への加入を勧めている。

NHKでこのような「お勧め」の仕方をするのは、本来はあり得ないはずだ。

苦情の電話が来るのは承知でこれに踏み切った背景には、恐らくは都なり国なりの要請、つまりは対策チームの戦略の一環であると思われる。

「Netflix」に加入させる。

確かに、一番効果があるかもしれないし、民放でお勧めしてもらうのは、難しいと思われる。

だが恐らく、このご時世で「パチンコ」に行ったり、海に行ったりしている人々には、通じない。

楽しいキャンパスライフを夢見て上京して来たがすることがないので、里帰りしようとしている寂しがりの若者にも通じない。

その行為が、全国民が取り組んでいるこの1ヶ月間の、自分の生活が成り立たなくなるのを覚悟してまで取り組んでいる善良なる人々の、身を切る様な思いの全てを、「ムダ」にすることになることを、もっと知らしめる必要がある。

99%の国民の、廃業や失業を伴う1ヶ月間の努力を、お前たち1%の無責任な行動が、「全てをムダにした」んだ。と。

そう、はっきりと伝え、99%対1%の対立を生ませ、1%に対する99%の監視体制を引かないかぎり、無為な1ヶ月が繰り返されることになる。

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「スピード感を持って」

私の嫌いな言葉だ。

いや、私の「大嫌いな言葉」だ。

「スピード感を持って」

私の認識では、「何のプランもない者が、かつ、プランのないことに何の正当な理由のない者が、その場しのぎで、あたかも自分が真剣に取り組んでいるかのように見せかけたい時に使う言葉」だと思っている。

なので、「スピード感を持って」と言われれば、

「現時点で何のプランもありません。プランのない事に正当な理由はありません。少なくとも私は知りません。でも私は真剣に取り組んでいるんです。本当ですよ。信じて下さい。」

と、そう言われているようにしか、感じない。

真顔で、公の場で、堂々と言うような言葉ではないと思うのだが、どうなのか。

ビジネスの場で、少なくとも目標のはっきりとしているプロジェクトを遂行中の会議で、「スピード感を持って」などの発言は許されない。

「スピード感を持って対応させて頂きます。」
「スピード感?具体的にいつまでに出来るんですか?」
「現時点では決まっておりません。」
「決まっていない理由は?」
「理由ですか?」
「はい。スケジュールが決められない、その理由です。中国からの部品が手に入らないとか、何か障害があるのでしょうか?」
「いえ、そういうわけではありません。」
「では、どういう『ワケ』でしょうか?」
「現在社内で検討中ですので、方針など決まり次第、はっきりとしたスケジュールを共有させて頂きたいと考えております。」
「それは、いつ頃はっきりしますか。」
「ですから、現在社内でスピード感を持って検討中ですので」
「ご理解頂けていると思いますが、1カ月先とかにスケジュールが出てきても、間に合いませんよ。」
「1カ月とか、そのようなことは、ございませんので。」
「では、来週のこの時間に検討しますので、前日までに、全員に資料の送付をお願いします。」
「それは、ちょっと、なるべく努力させて頂きます。」
「無理なようであれば、代替策を検討しなれればなりません。1週間後に代替策の検討を始めても間に合わないので、確約が出来ないのであれば、今、そう言って下さい。」
「いえ、大丈夫です。」
「来週までに、1カ月以内に実施可能な、根拠のあるプランのご提出をお願い致します。よろしいですね?」
「はい。承知致しました。」

会議後

「ありゃ、ダメだな、すぐに他の業者をあたってくれる?」

本来なら、このような遣り取りがあってしかるべきなのだが、誰もそれに突っ込まないのは、「スピード感を持って」という言い回しが、つまりは「何ら具体的な検討が出来ていません。少なくとも、おおよそのスケジュールですら、発表出来るような状況ではありません」との言い訳であり、突っ込んでも不毛なやりとりで時間を浪費するだけであることが、その場の全員で共有されているからであろう。

「スピード感を持って」

この言葉が使われ始めたのは、いつ頃からであろう。

「迅速に対応致します。」少なくとも、「迅速な対応を検討中です。」が、最低限許される発言ではないのか?

ここに「感」が入ることにより、一気にその言葉の信憑性が失われる。

「スピード感」

そもそも、この言葉の意味するものは何か?

「感」とは何なのか?

「感」が付く言葉だと「達成感」「満足感」などがある。

だがこれは、「達成」した時、「満足」した時に「感じられる」気分のことである。

「スピード」した時に感じられ気分。と言うのはおかしいので、この意味ではない。

「臨場感」

これが近いと思われる。

【臨場感】
実際にその場に身を置いているかのような感じ。「臨場感あふれる画面」

スピード感に置き換えると、

【スピード感】
実際にスピードがあるかのような感じ。「スピード感あふれる映像」

日本語にすれば「疾走感」か。

【疾走感】
きわめて速く走っている感覚。 疾駆する感覚。 特に音楽や映像が高速に快く進んでいくような感じを形容する表現として用いられる。

もうちょっと、砕いた表現にすると、

【スピード感】
実際にはスピードがあるわけではないのだが、あたかもスピードがあるかのような感じられること。その感覚。

【スピード感を持って】
実際にはスピードがあるわけではないのだが、あたかもスピードがあるかのような感覚を伴って、何かを実施すること。

私の場合、どう考えてもこの解釈しか思いつかないし、「スピード感を持って」と言われれば、国会中継などで見られるように、本題を差し置いて、些末なことをあーだ、こーだとやっている姿しか思いつかない。

「石橋を叩いて渡る」と言う言葉がある。

背後に野獣の群れが迫っているような危機的な状況であれば、木造の橋であろうが、つる草で作られた橋であろうが、必死になって渡らざるを得ない。

「つる草の橋を渡って、途中で落ちて死んでしまえば、元も子もないではないか?」

確かにそうだ。だがこの場合、その橋を渡るのは危険が大きすぎることを即座に判断し、間髪置かずに別のプランに移らなければならない。

だが、「スピード感を持って」仕事している人々は、野獣に食い尽くされてしまうまで、いつまでも「石橋を叩いて」いるような人々である。

もし、リーダーがいつまでも石橋を叩いていたら、それを捨て置いてさっさと渡ってしまえば良い。

だが、国家規模での対応が必要な事態、個人の行動では限界があるような非常事態では、我々の命なり生活なりは、それなりの権威ある存在に委ねられてしまっている。

「スピード感を持って」

2度とそんな言葉は聞きたくない。

冒頭の画像のような光景が、日本中に広がってからでは遅い。
ライオンが路上でお昼寝、「人間ゼロ」を満喫 ロックダウン中の南ア国立公園



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新型コロナウィルス対策として発令された「緊急事態宣言」

それを受けて発令された「外出自粛要請」

だが、まだまだ、呑気な人が多すぎる。

その大きな要因には、国民に現在の危機的な状態が、正しく伝わっていないことが挙げられる。

「何のために外出自粛が要請されているのか。」
「なぜ、外出自粛が必要なのか」

その2点が、全く伝わっていない。

最大の要因はそれを伝えたのが「安倍首相」であり、「小池都知事」であることだ。

今まで数々の疑惑の追及に対して、国会の場や記者会見などで、平然と嘘を並べ立てて来た「安倍首相」

本人は上手く躱せているつもりかもしれないが、それが嘘であることを国民は皆、真実として実感している。

そんな者が何か言っても、「どーせまた、テキトーな事言ってるんだろう。」としか思わない。

嘘つきが(それも誰からも嘘と解るような嘘を、しかも国家の一大事ではなく個人的な些末なことにもかかわずだ)頭を務める集団に未来はない。

「小池都知事」は、あの能面の様な、ファンデーションを1cmくらい塗り固めたかのような、そして長年の真意を探られないための対策として養われた、死んだ魚のような目つきで、無表情を通り越した不気味な表情で語られても、心には全く響かない。

さきほど放送されたNHK特集「新型コロナウイルス 瀬戸際の攻防 〜感染拡大阻止最前線からの報告〜」

素晴らしい番組であった。

「クラスター対策班」の活動(『活躍』ではない)を追って、彼らが何を心配し、何を防ぐために、どのようにして「外出自粛要請」に至ったのか。

新型コロナを封じ込めるには、何をしなければならないのか、どうしてその結論に至ったのか。

それがはっきりと解る。

当然であるが、「安倍首相」や「小池都知事」が全てを判断して、「そろそろ、自粛した方がいいんじゃね?」と、決めたわけではないのが、ちゃんと伝わる。

いやいや、漠然と、そう(政治家がテキトーに決めたこと)思っている者が、少なからず居る。

なのでニュースで流れる街角インタービューでの呑気なやりとりが放送されることになり、呑気さに拍車がかかっている。

残念ながら、NHKが新たに始めたサービスのおかげで、登録していないと見逃し配信を見れないようだ。

何してるんだ、NHK!!

こんな時こと、重要な番組は無料で無期限で見れるようにしておかないといけない。

もう一点、「何のためにしているのか?」が伝わっていない。

昨日、NHKのニュースで「イタリア 医師100人超が死亡 新型コロナウイルス」とのニュースが流れた。

衝撃的なニュースだ。

もはや、医師は「命がけ」ではなく「命と引き換え」に患者に向き合っている。

「医療崩壊を防ぐため」との一言では、ほとんど何も、その重要さも悲惨さも伝わらない。

テレビでそのニュースを見たのも一度だけだ。

日本と国土面積も人口もほとんど変わらないイタリア。

そのイタリアで起こっていることは、日本でも簡単に起こり得る。

ちょっとした油断、「緊急事態宣言」下で「自粛要請」が出ているにもかかわらず、呑気な生活をしていれば、あっと言う間に日本も同じ状況になることを、そして、その悲惨な状態が、一体どんな状態であるのかを、もっとニュースで流して、リアルな危機意識を国民に与えなければならない。

そうでなければ、大規模な経済危機という犠牲を払ってまで実施した対策が、「ちゃんと対策は実施した。国民の皆さんの理解を十分に得ることが出来なかったため、十分な結果を残すことが出来なかった。」と、後の世で「安倍首相」が言い訳するための口実を与えるためだけに終わってしまう。

「クラスター対策班」

彼らも、どんどん状況が悪化し、しなければならない事が爆発的に増えているにもかかわらず、人数が増えていない。崩壊も間近であることを訴えている。

映画の様に、緊急事態に召集されたスペシャリストのチームの英雄的な『活躍』によって、地球を襲う危機が、あっと言う間に解決されるようなことは、ない。

彼らの判断が、政治家の軟弱な対応で弱められ、マスメディアの弱腰な報道で、全く効果を発揮出来ない。

少なくとも我々は、今求められているのが「安倍首相」や「小池都知事」の個人的な、政治的な処世術からなるものではなく、「クラスター対策班」という専門家が、どうしたら感染を食い止めることが出来るのかと、それこそ何日も家にも帰らずに検討している結果であることを、忘れてはならない。


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コロナ関連のニュースで、イマイチ良く解らないのが、

「子供がすることがない」「YouTubeばかり見ている」「家にばかりいてストレスが溜まっている」

など、などの声。

家ですることがない。という状況が良く解らない。

今の子は恵まれている。高機能のPCが10万円程度で手に入る。

プログラム作成や、イラスト作成、動画編集、DTMなどなど、高機能だが無料で利用できるソフトが充実している。

家にPCがあれば、いくらでもやることがあるはずだ。

YouTubeはミュージックビデオ以外はあまり見ないので、偏見だけで言わせてもらうと、ちょっと「アハハ」と笑って終わり、ただ消費するだけのものが人気のような感じている。

没頭出来るほどの満足感がないので、次から次へとコンテンツを漁っても、心が満たされることはない。

子どもにクリエイティブな体質を付ける。

親にとって重大なことだと思うのだが、世間ではあまり重視されていない。

自分で何かやりたいことがあれば、放っておいても、いつまでもそれをやっている。

逆に、特にやりたいことがないと、暇だヒマだと、なんとなく近場にある娯楽を消費するだけの生活しか出来なくなる。

今こそ、子供にクリエイティブな体質=クリエイティブなことに興味を持てること。自分で創らなくとも、他人の創ったものの凄さが理解出来て、素直に感動出来ること。

何かの作品を見ても、それを感動することが出来なければ、得られる満足度は低い。

普段食べられないような極上の料理を食べたとき、その美味しさが解れば得られる満足度は高い。

それが数万円であっても、金額相当の満足度が得られるので、「また、こんな料理が食べられるように」と、明日の活力にも繋がる。

だが、味覚音痴であれば、その良さが分からないので、ただ「量が足りない」ぐらいの感想しか得られない。

映画、音楽、ドラマ、マンガ、アニメ、小説、ミュージックビデオ、絵画、舞台、・・・。

全てに、同じ理屈が当てはまる。

アニメであっても、「これ、面白いね。」と、1本見ただけで高揚感が得られる者と、30分間時間潰しただけ。との感想しか持てない者もいる。

これからの人生を通して、様々な作品から喜びを得られるか、暇潰しのためにコンテンツを消費するだけで終わるのか。

そんな中、素敵な番組を見つけた。

テクネ「映像の教室」


私が見たのは「同ポジ2」だった。

「同ポジとは?」との技法の説明。
「同ポジ」で作成された素敵な作品の紹介。

そして、「同ポジ」で作品を作る方法。

これが、素敵だ。

先に制作風景を紹介して、次に小学生によって、実際に作成してみる。

アニメ「映像研には手を出すな!」を見て、「私もアニメ作ってみた~い!」と思っても、実は結構ハードルが高い。

絵心も必要だ。

だが、これなら、カメラかスマホがあって、pcに無料の編集ソフトを入れれば、割と簡単に出来そうだ。

映像編集は、初めは親がしてあげる必要があるだろうが、すぐに子供たちが高度な映像編集が出来るようになる。

まずは、この辺からかな。

つくろう!コマ撮りアニメ | コマコマ隊のコマドリル

めざせ!!

Her Morning Elegance / Oren Lavie





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コロナ禍は今や、感染リスクよりも、経済に与える影響の方が深刻になりつつある。

実際にコロナと戦っている医療現場や関連企業の人々は、その悲惨さに日夜苛まれていることであろが、他の一般の人々にはその実感がない。

「感染しても、軽く済む確率の方が高そうだ。」

「どうせ何しても一定数の人は感染するし、そのうち何割かの死者が出るのは防ぎきれない。」

と、感染リスクに対する脅威は、正直な所では、

「自分が社内で一番最初に感染したら、後々面倒」との心配ぐらいだ。

その反面、休業を求められて店を閉めている人々にとって、現在の状況は深刻だし、コロナの影響で仕事が減って、減給や失業の危機に直面している人の方が、感染リスクを心配している人よりも遥かに多い。

最近の議論で主に野党から「補償をしっかりとやるべき」との声が多く聞かれる。

予算が無限にあるのであれば、高額補償を打ち出して、経済危機を逃れることは、た易い。

問題はその財源を、どこから充てるか?だ。

一般家庭であれば、緊急事態で金が必要になった場合、十分な蓄えがなければ、借金をして充てることになる。

日本に今、どれだれの蓄えがあるのか?

財務省発表の「公債残高累積」グラフを見てみよう。


蓄えどころか、日本は既に膨大な借金を抱えている。

グラフ中に「一般会計税収の約14年分に相当」との注釈がある。

年収500万円の世帯が、7,000万円の借金を抱えていることになる。

年収500万円の世帯が、一度に2軒分の住宅ローンを抱えているようなものだ。

普通に考えれば、生活出来ない。

そして、何の担保もなければ、それ以上金を貸してくれる所はない。

これは流石にヤバいので、健全な経営のために、借金を減らそうと、そう唱えて来た人も、もちろんいる。

借金を返すには、収入を増やすか、支出を減らすか、どちらかしかない。

収入を増やす施策として、過去に消費税の導入が行われた。

そしてそれは、何度かに渡って、値上げされた。

同じく「一般会計税収、歳出総額及び公債発行額の推移」


と、消費税増税と経済的な大きな事件を並べた。上のグラフと比較してみよう。

1986年(昭和61年)12月 バブル経済始まる
1989年(平成元年) 4月 消費税法を施行。税率は3%。
1991年(平成 3年) 3月 バブル崩壊
1997年(平成 9年) 4月 消費税率を5%に引き上げ。
2008年(平成20年) 9月 リーマンショック
2011年(平成23年) 3月11日 東日本大震災発生
2014年(平成26年) 4月 消費税率を8%に引き上げ。
2019年(令和元年)10月 消費税率を10%に引き上げ。

リーマンショックや東日本大震災で新たな借金の金額が増えるのは仕方がない。

だが、消費税がUPされたタイミングで、新たな借金の金額には、あまり変わりがない。

大きな要因として、消費税アップのタイミングで実施される、各種の経過措置によるバラ撒きだ。

何のためにUPしたのか分からなくなる。

さて、何が言いたいのか。

消費税UPの度に、野党は反対を繰り返して来た。

「消費税反た~い!!」と。

そして有権者も皆、それに迎合して来た。

消費税UP=悪、消費税反対=正義

そんな図式が出来上がっている。

何のために消費税UPが必要なのか。その意味を考えて欲しい。

「消費税をUPしなくても、行政のムダをなくせばやって行ける。」

そう、野党は叫ぶ。だが、それを実行した人がいるのか。

私は橋本知事しか知らない。

ただ、与党の政策に反対を唱えるだけの野党。

そんな単純な図式で、世の中が回って来た平和な時代は、そろそろ終わりを迎えようとしている。

今回はなんとかなるかもしれない。

だが、次はない。

与党と野党がそれぞれの立場で、真剣に討議を行い、どちらがどこまで譲歩するかを決めて行く。

そんな命がけの真剣勝負とも言えるような政治を行い、国民の理解を正しく得る。

もっと借金が少なければ、今回は思い切った借金をして、早期の経済復旧が望めたであろう。

だが、今後何が起こるか分からない状況で、そこまで思い切った借金をしてしまうと、次回で日本は終わってしまうかもしれない。

消費税UPに、野党の何の策も工夫もないシュプレヒコールに侵され、ただ反対するだけの国民ばかりであれば、それは国の終わりである。

政治家には政党の垣根を越えて、真剣に日本の将来を考え、ちゃんとした判断が国民が出来るようにする義務がある。

堅牢なようで、実は経済など、簡単に崩壊してしまう。

チャップリンの映画の時代のような、世界大恐慌がやって来てから慌てても遅い。

朝の情報番組で「食べられる靴と食べられない靴の見分け方」とかが放送されるような世界。

民主主義でそれを防ぐためには、国民一人一人にも自覚と責任が必要である。

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学校の再開が大型連休明けとの発表を受け、ニュースで

「休みが長期になると、子供の勉強が心配」

との、「街の声」を垂れ流している。

それに対する何のコメントもないので、あたかもそれが正しい考え方であるかのような印象を、見ている親に与えてしまっている。

「新型ウィルスの蔓延を防ぐことより、子供の勉強の遅れを心配をする方が大事」と。

この考え方は即ち、

「他の家の子供が2・3人死んだところで、自分の子供の勉強が遅れるよりはまし。」

との考え方とイコールなのだが、それを指摘する者がいないので、誰もそれに気付いていない。

いつもニュースで気になるのが、この手の垂れ流しの報道だ。

当然、色々な「街の声」を収録しているので、その時の番組の思惑に沿ったものを選択して流している。

だが、あくまでも、そういう発言があった。と言う真実を伝えている。の体(てい)で、責任逃れをしている。

本来であれば、

「子供の勉強が遅れることを心配するのは大事なこと。親御さんにとって大問題である。だが、それ以上に、今はコロナウィルスの蔓延を防ぐことが、何を以てしても必要なことであり、これが失敗して、今の世の中がどれほど危機意識のない、平和なものであったかを、後の世で思い知らされることになるような絶望的な状況に陥るようなことは、絶対に避けなければならない。」

そう、誰かに解説させなければ、ならない。

自分の子供が亡くなって初めて「あぁ、勉強の遅れなんか、どーでもいいことだったんだ。」と、その時初めて気付いも遅い。


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