おまじない
あたしとあなたは繋がっている
そんな気がする
魔法の言葉
地蔵も弥勒もみんな菩薩。
崇拝の対象になるけれど、意味するものが違うだね。
悟りを求め、また悟りを具えた人とか、
自分も他人にも功徳があるように、良い方向に行くように導き修行する人らしい。
心広く優しい、慈悲深い人を菩薩のようだと表現する。
あたしもたまにご真言のいくつかを口にする。
おまじないみたいなもんで、意外に落ち着く。
自分の痛みなんか他人には分からないし、逆もまたそうだ。
だからいたわり、大切に出来るんだと思う。
だからと言って、自分の事をおおっぴらに話そうとはおもわなんだ。
鷺沢萌の「私の話」の中に
質問として「もし、彼が出来たときに自分の中に朝鮮の血が混ざっている事を話すか」
というくだりがある。
彼女の答えは「Yes」
それは「告白」でも「卑下」からでもない。
相手に対して、自分に対しての「配慮」という。
不用意な言葉を相手が言って、あとで嫌な気持ちにしてしまわないように、
そして自分も傷つかないように。
あたしは昔からこれから好意を持ちそうな人を試す。
相手も自分も傷つけないようにと思う怯臆な気持ちが底にある。
そしてこれからお付合いすることになった人には5つの事を話すと思う。
それで駄目なら仕方が無い。
ただ、今までの失敗をまた繰り返すという結論に至ったのだから。
けれどもその5つ全てはその人にしか話さない。
他の誰にも話せません。
話した後、その人の心の中にあたしが居たら嬉しいなという希望もありつつ、
「配慮」と「告白」をしてみようと思っている。
人間多かれ少なかれ誰しも母性や父性を持っている。
それがすべてにならないのは、生きてるんだもの、あたりまえ。
優しくない人なんて居ないと思うし。
ただ、女性のほうが如実に現れるのかもしれないけれどね。
女性の中の観音菩薩。
出来れば両方好きな殿方へ向けたいものです。
観音様のすす払い、自分で蜘蛛の巣払いつつ、
あんまりご利益はなさそうだと罰当たりな事を考えてしまう秋の夜長だったりします。
あたしとあなたは繋がっている
そんな気がする
魔法の言葉
地蔵も弥勒もみんな菩薩。
崇拝の対象になるけれど、意味するものが違うだね。
悟りを求め、また悟りを具えた人とか、
自分も他人にも功徳があるように、良い方向に行くように導き修行する人らしい。
心広く優しい、慈悲深い人を菩薩のようだと表現する。
あたしもたまにご真言のいくつかを口にする。
おまじないみたいなもんで、意外に落ち着く。
自分の痛みなんか他人には分からないし、逆もまたそうだ。
だからいたわり、大切に出来るんだと思う。
だからと言って、自分の事をおおっぴらに話そうとはおもわなんだ。
鷺沢萌の「私の話」の中に
質問として「もし、彼が出来たときに自分の中に朝鮮の血が混ざっている事を話すか」
というくだりがある。
彼女の答えは「Yes」
それは「告白」でも「卑下」からでもない。
相手に対して、自分に対しての「配慮」という。
不用意な言葉を相手が言って、あとで嫌な気持ちにしてしまわないように、
そして自分も傷つかないように。
あたしは昔からこれから好意を持ちそうな人を試す。
相手も自分も傷つけないようにと思う怯臆な気持ちが底にある。
そしてこれからお付合いすることになった人には5つの事を話すと思う。
それで駄目なら仕方が無い。
ただ、今までの失敗をまた繰り返すという結論に至ったのだから。
けれどもその5つ全てはその人にしか話さない。
他の誰にも話せません。
話した後、その人の心の中にあたしが居たら嬉しいなという希望もありつつ、
「配慮」と「告白」をしてみようと思っている。
人間多かれ少なかれ誰しも母性や父性を持っている。
それがすべてにならないのは、生きてるんだもの、あたりまえ。
優しくない人なんて居ないと思うし。
ただ、女性のほうが如実に現れるのかもしれないけれどね。
女性の中の観音菩薩。
出来れば両方好きな殿方へ向けたいものです。
観音様のすす払い、自分で蜘蛛の巣払いつつ、
あんまりご利益はなさそうだと罰当たりな事を考えてしまう秋の夜長だったりします。
それがあたしには手の届かないものであっても、
届く人の手に包まれたらいいなと思います。
だったかな。私のおばあちゃんの家のトイレに貼ってあったお地蔵さんの写真つきの言葉。
トイレに行きながらこうして憶えたけれど、今でも意味は一切わからないのよね。
世の中の一切の汚れ、不浄を焼き尽くすっていう神様で、
おんくろだのぅ ぅんじゃくそわか
って唱えながらトイレを掃除すると良い運が廻ってくるんじゃなかったかしら。
あくあ、本当に良く知っているねぇ~(凄い感心)。そうか、トイレ掃除用のおまじないだったのか(なんか笑える 笑)。
で、気になって調べたんだと思う。
こいうおまじないって言うか、信心とはちと違うけれど、ちょっと嬉しくて、支えてくれるものを自然に受け容れられる環境って悪か無いなって思うよー。
失敗に対しての指摘、注意は最初は落ち込んだり、自分を卑下したりとなかなか頭から離れないものですね。
言い方は人それぞれですが、注意をしてくれるのはありがたいものだなと思います。
またそれを受けて反省できるアイリーンさんはきっと、ほかの人が自分と同じ失敗をしたときに、違う言い方で伝えることが出来るのではないでしょうか。
それも、きっと「優しさ」なのかも知れないですね。