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クロアチア・スロベニアを巡って 7: 遥かなりスロベニア 後編

2015年10月21日 | 連載完 クロアチア・スロベニアを巡って


< 1.首都リュブリャナ >

スロベニアはシリア難民の通り道でした。
この事がスロベニアの誕生と関わりがあります。
駆け足でこの国の歴史を見ます。


遥か昔からバルカン半島は・・・




< 2. 民族移動 >
上図: 新人類の移動。
中央の図: ゲルマン人の移動。
下図: スラブ人の移動。

数万年前、新人類がアフリカを脱出しヨーロッパに向かう時、バルカン半島を通った。
また西アジアで誕生した農耕文化もこの地を経由してヨーロッパに広がった。

5世紀、ゲルマン人がバルカン半島の北部を通り西ローマ帝国を崩壊させた。
さらに7世紀、東・西スラブ人がロシアやポーランドに、南スラブ人がバルカン半島に定着した。





< 3. 地形図と帝国の勢力図 >
両地図の赤い楕円がスロベニアです。

上図: 東西に流れる長大なドナウ川は民族の移動ルートとなり、またオーストリアとハンガリー帝国を育んだ。
一方、バルカン半島は山勝ちな為、大国への成長が困難で、かつ帝国の狭間で喘ぐことになった。

下図: バルカン半島に影響を与えた帝国を示す。
勢力A: 10世紀からドイツ語圏の神聖ローマ帝国、次いでオーストリア帝国。
勢力B: 10世紀に興ったハンガリー帝国。
勢力C: 5世紀に西ローマ帝国が滅亡し、13世紀以降、海洋を支配したベネチア。
勢力D: 15世紀に東ローマ帝国が滅亡し、取って代わったオスマントルコ。
勢力E: 17世紀以降のロシア。

スロベニア人は初期に小さな王国を築いたが、勢力Aから独立することが出来なかった。
オーストリア(勢力A)にとってスロベニアは地中海進出の要であり、オスマン(勢力D)に対してクロアチアに次ぐ防衛線であった。
一方、クロアチアはハンガリー(勢力B)の庇護の下にオスマンやベネチア(勢力C)と対抗した。
16世紀以降、ハンガリーはオーストリアに組み込まれて行き、クロアチアとスロベニアは共にヨーロッパと一体化されていった。

一方、南スラブ人として最大の王国を築くことになるセルビアは東ローマ(勢力D)の庇護下に入り、次いでオスマンに支配された。
これにより人々は難民となりバルカンに混住し始め、後に民族問題を引き起こす要因になった。

この間に、宗教も入り乱れることになった。
勢力A・B・Cではキリスト教のカトリックが主になった。
勢力Dでは初期に東ローマの正教会であったが、次いでオスマンによりイスラム教が主流となった。

こうしてバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになった。







< 4. スロベニアの歴史 >
上図: オーストリア・ハンガリー帝国、1880年。
中央の図: ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、1943~1992年。
下図: 現在のスロベニア共和国。

現在のスロベニア誕生の経緯
19世紀になると、ヨーロッパからの影響で、バルカン各地で言語と文芸の再興により民族意識が高まります。
ここで始めて、南スラブ人による連合国家が想起され、最初のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が1918年に誕生した。
その後、第二次世界大戦の混乱を経て、さらに大連合したユーゴスラビア社会主義連邦共和国が誕生します。
しかし要のチトー大統領が死去すると、主に経済的不平から連邦に亀裂が生じた。
1991年、スロベニアが最初に独立を宣言し、この連邦は10年間の内戦の末、瓦解した。

結局、スロベニアは他の文化圏に属していた南スラブ人―ハンガリー圏のクロアチア、オスマン圏のスロベニア、と一線を画しオーストリア圏の南スラブ人の国として独立する道を選んだ。


バルカン半島では、千年にも及ぶ民族への熱情と激しい憎悪が渦巻くことになった。


次回に続きます。



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