< 火焔土器、新潟県、日本、縄文中期(約5000年前) >
今回は、日本と中国の原初美術を見ます。
その特色ある縄文美術から日本列島の原初の姿が見えて来ます。
また中国美術の源流に簡単に触れておきます。
< 左、最古の土偶、高さ約6cm、茨城県、約8000年前。右、「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶、長野県、高さ27cm、約5000前。 >
日本列島では12000前頃から世界で最初に土器が作られた。
当時、狩猟採集漁労生活ではあったが、山野の恵みが豊なことにより定住を行っていた。
このことが土器や土偶の製作を可能にし、土偶は約8000年間作られ続け、水稲栽培が普及すると終焉を迎えた(弥生時代のはじまり)。
上述の最古の土偶は約15000年前のシベリア出土のビーナス像に似ている。(原初美術の誕生3:動産美術の展開に詳しい)
しかし縄文時代後半になると土偶の人物像は女性の特徴が目立たなくなり、種々の姿勢、模様が施された体表面、強いデフォルメが目立つようになる。また動物像も作られるようになるが、比較的写実的であった。
その出土総数は15000体ほどあるが、大半が破損しており、祈祷目的で故意に壊したものらしい。
< 遮光器土偶、青森県、約3000~2300年前 >
これは後半の土偶の一つであるが、目が強調されている。
< 最古層の土器 >
土器は煮炊き用に製作されたが、やがて装飾が重視されるようなった。
巻頭写真の火焔土器は縄文時代の中期に突如として出現し、千年ほどすると炎のような飾りは消えた。
これは実用品ではなく祭祀用のものと考えられる。
縄文美術の特徴
日本では、写実的な描画や生活場面が描かれることはなかった。
もちろん洞窟壁画も大きなロックアートもない。
その理由は、小動物と木の実、遡上する魚などに依存する狩猟採集と定住生活が大きく影響したのでしょう。
材料がすべて粘土である土偶や土器は、生活と共にあった。
各地が交流しながら、この美術は列島全体で発展していった。当時、王権は存在していなかった。
これらを育んだ日本列島はどのような所だったのか。
縄文のビーナスや火焔土器が作られた長野県や新潟県は日本列島の中心にある。
< 「縄文のビーナス」が発掘された八ヶ岳の麓、長野県 >
当時の人々も、この変わらぬ山野で暮らした。
< 縄文時代の再現住居、尖石縄文考古館、八ヶ岳の麓、長野県 >
当時の人々は、家族単位で、この草葺き小屋に住み、数家族以上、最大は数百名が暮らす村もあった。
中国の原初美術
中国の土器は水稲栽培が1万年前に始まったのと同時に作られ始め、少し遅れて女性の土偶も作られた。
< 左、人面魚文彩陶盆、約7000年前、黄河中流域。右、玉人、玉製、高さ8.6cm、長江下流域、5500年前 >
これら彩陶の表面には多産の祈りを込めて魚が多く描かれた。
この人物像は副葬品で、宗教的指導者の衣類に縫いつけられていたらしい。
この後、中国では玉製品と紀元前2千年期に始まる青銅器が美術の華やかな主流になっていく。
このようにして東アジアでは、他地域とは少し異なる原初美術が生まれた。
次回はアメリカ大陸の美術を見ます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます