philosophical chaosmos

八百万のものを哲学する
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+1と-1の関係:+1と構造主義との関係:-1/-0/Media Point/+0/+1

2008-04-29 18:29:55 | プラトニック・シナジー理論
先の検討は、影-1と光+1と原光(+i)*(-i)という三元性を説くことになったが、まだ判明ではない感じがあるので、さらに検討することにしたい。今日は、簡単に触れるだけである。
 問題は、光(+1)と構造主義を一致させることになったが、それだと、構造主義と原光が関係することになり、整合性を欠くように感じられるのである。なぜなら、前者は本来、超越性が欠けていると思われるからである。この点をどう説明するのか、である。
 おそらく、光(+1)自体は構造主義と見ていいように思う。というのは、⇒+1となって、超越性が開けると考えられるからである。
 そうならば、先にレヴィ=ストロースの構造主義の「ゼロ記号」をMedia Pointの実軸のゼロ度と見たが、それと光(+1)とはどう関係するのか、説明する必要がある。
 「ゼロ記号」とは特異点であり、余剰・過剰であった。それは確かにMedia Point的である。では、+1はどうだろうか。これは、やはり、水平的な差異共振性であり、Media Pointは欠いている。しかしながら、⇒+1とすると、⇒がMedia Pointなので、光は言わば、崇高さを帯びるのではないだろうか。とまれ、⇒の先端がおそらく、「ゼロ記号」であろう。真に虚軸には開いていないのである。
 とまれ、さらに問題は、+1が光ならば、それはどういう光なのか。私は、宗教的に、エローヒームであると考えたが、どうだろうか。それは、端的には、正しくない。エローヒームは、端的に、自己認識方程式であろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが光の神エローヒームの公式であろう。そして、この両辺を否定する自己同一性主義の公式、即ち、-[(+i)*(-i)]⇒-1、これが、影の神ヤハウェーの公式であろう。
 では、+1の光とは何か。構造主義の光とは何か、となろう。これは、なかなか、難問である。思うに、単純に日常目にする光でいいのではないだろうか。そして、-1の影とは日常目にする物である。あるいは、単純に前者は日常の自己であり、後者は日常の自我主義ではないだろうか。
 左辺が入るときに、超越性が入るのであり、天使的であったり、悪魔的であったり、狂気的であったりするのではないだろうか。だから、例えば、ネオコン/ブッシュとは、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。つまり、イラクへの差異共振性(+i)*(-i)⇒+1を否定しているのである。真の民主主義は差異共振主義にあるだろう。
 例えば、アメリカがイラクを真に他者=差異と認識するならば、差異共振性(+i)*(-i)⇒+1が成立するだろう。しかし、他者=差異を否定したので、-[(+i)*(-i)]⇒-1となったと言えよう。-1は、自己同一性主義=ロゴス中心主義(例えば、ロゴスとしての民主主義である)である。光=自己(+1)は排除されているのである。
 思うに、-1と+1はエンテレケイアと考えられいいのではないだろうか。そして、左辺はエネルゲイアでいいのではないだろうか。だから、光(+1)を構造主義と見るのは、正に、エンテレケイアとしての構造主義であり、結果としての二元的構造であろう。ここには、エネルギー作用の結果があるのみではないだろうか。
 だから、構造主義の「ゼロ記号」とは、+1とは異なるだろう。それは、デリダ的に言えば、痕跡ではないだろうか。やはり、Media Pointの実軸点であると思われるのである。
 しかしながら、「ゼロ記号」と+1は、結局は、同じことになるのではないだろうか。何故なら、構造主義(+1)の、言わば、支点が「ゼロ記号」であるからである。つまり、支点の「ゼロ記号」と+1とで均衡がとれているのである。「ゼロ記号」があることで、構造主義(+1)が成立すると考えられるのである。言い換えると、構造主義(+1)の原点・発生点・起点としての「ゼロ記号」である。
 ここでポスト・モダンについて言及すると、ドゥルーズは、「ゼロ記号」を差異としての理論化したのである。これでは、当然、差異が連続化されるだろう。何故なら、差異の対立がゼロ度で融合するのであり、正に、微分としての差異になるだろうからである。
 デリダは、先に述べたように、-1と+1の差異(ズレ)を差延と考えたように思われる。(これは、ほとんど、ハイデガー存在論を踏襲していると思われるのである。)
 今はここで留める。後で再考したい。

p.s. 以上の思考実験は、先の直感とはズレている。私は、+1を差異共振光と見たのであり、+1には差異共振性を見たのであり、構造的対立ではないのである。齟齬をどう見るのか、である。思うに、構造主義をどうみるのかが問題である。例えば、山口昌男の神話構造主義は、両義性の理論であるが、この両義性がいわば、+1の差異共振性であると考えられないだろうか。思うに、これは、また、メルロ=ポンティの両義性の身体現象学と通じると思われるのである。あるいは、初期デリダのパルマコン(ファルマコン)の考え方に通じるのではないだろうか。
 直感では、+1の差異共振性とは、一種の即非性であるが、不十分な即非性である。山口昌男の神話学では、例えば、スサノオは、光であり、且つ、闇であるという両義性を帯びる。これは、スサノオは光であるから、闇ではないが、同時に、闇であるという、即非の論理には達していないだろう。光であり、且つ、闇である、というのは、いわば、未分化の論理である。そう、だから、+1の差異共振性とは、未分化様態と言えるだろう。つまり、連続性を帯びているということである。ならば、+1の光=自己とは、未分化であり、連続性をもっているのであり、まだ、真の自己ではないと言えよう。左辺の差異共振性(+i)*(- i)を認識して、真の自己認識を形成すると考えられるのである。
 だから、+1の光とは、トワイライト(薄明)ではないだろうか。つまり、光と影、光と闇の中間的な「光」ということになるのではないだろうか。

p.p.s. 後で再考する予定であるが、ここで簡単に補足すれば、自己認識方程式において、右辺だけを取り出して、純粋に+1を見ると、それが意味するのは、Media Pointを介した虚軸性(超越性)の喪失(隠蔽)であると考えられる。あるいは、Media Pointの断絶である(参照:三島由紀夫の「断絃の時」)。
 だから、+1は、必然的に、自己同一性主義=自我主義(-1)の影響を被って、いわば、曇る、濁る、混濁すると考えられるのである。正確に言えば、混淆・混合化、そして、連続化である。
 精緻に見ると、自己認識方程式の左辺とMedia Pointが隠蔽されるとは、言い換えると、自己同一性主義(-1)が作用することである。差異共振性が否定されるときに、自己同一性主義(-1)が形成されるのであるからである。つまり、(+i)*(-i)が否定されると、当然、結果は、⇒-1となる。これは、Media Pointの否定・抑圧でもある。
 すると、-1より先行すると思われる+1はどうなるのだろうか。それは、これまで検討してきた通り、差異共振性は否定・抑圧・隠蔽されるのである。内的身体に隠蔽されるのである。正確に言えば、(+i)*(-i)⇒+1が内的身体に隠蔽されるのであるが、このとき、Media Pointを介した虚軸性=超越性が隠蔽されるのである。
 問題は、隠蔽された差異共振性が賦活されるときである。教養的形成や内省(端的にこれが哲学である)を伴う人生経験を経ることで、そのようになると考えられる。自己同一性主義=自我主義(-1)の支配にあって、その賦活された差異共振性はどういう様態をもつだろうか。
 当然ながら、活性化された差異共振性は、自己同一性主義=自我主義(-1)を否定するのである。ここに葛藤・内的闘争が生じると言えよう。(ロマン主義の問題、さらには、反近代主義等の問題はここに収斂するだろう。)即ち、

差異共振性VS自己同一性主義

である。これは、端的に、二項対立の闘争である。19世紀や20世紀初期の文化で言えば、ロマン主義(神秘主義)VS近代合理主義となろう。【ベルクソン等の、いわゆる、生の哲学は前者に入れることができるように思えるが。とまれ、構造主義は、この二項対立を乗り越えた、偉大な理論と言えよう。さらに言えば、フッサール現象学は、構造主義をも超えているだろう。ハイデガー存在論はそれを看過してしまったと私は考える。】
 この内的闘争において、問題は、差異共振性が先行してはいても、自己意識においては、自己同一性主義が支配的、優位であるので、差異共振性が従属的、劣位にあるという点である。このいわば転倒した倒錯した優劣性が支配的であることに留意しないといけない。
 言い換えると、否定性(-1)が支配的であると言えよう。だから、賦活された差異共振性は、内的身体に存しても、否定性(-1)が支配的であるために、その影響を被ると考えられる。自己同一性主義の影響を受けるのである。
 それは、端的に、反動化であろう。否定性を受けるのであろう。つまり、差異共振性は、自己同一性主義を否定して、「自己」を肯定しようとするのである。これは、-(-1)=+1 であろう。
 これは、確かに、差異共振性を意味するだろう。しかしながら、問題は、否定性の存在である。自己同一性主義=自我主義(=近代合理主義=近代自我主義)を否定しているので、物質性を否定することになると考えられるのである。極言すれば、一種、オカルト主義や神秘主義になるのである。【私はドゥルーズ哲学とシュタイナーの霊学は類似すると思っている。】
 何が問題なのか。実はこれこそ、不連続的差異論が問題にした連続性である。端的に、連続性とは、否定的連続性である。つまり、自己同一性主義という否定性が支配的であるので、賦活された差異共振性も正に反動的に否定性を帯びてしまい、連続性を帯びると考えられるのである。これは、非常に矛盾的な事態であると言えよう。
 差異共振性は本来、肯定的な事象であるが、自己同一性主義という否定性の支配下においては、否定性を帯びるのである。これは、どういうことなのか。本来の差異共振性が否定性を帯びるとはどういうことなのか。
 直感で言えば、矛盾した言い方になるが、自己同一性主義化された差異共振性であるということである。-1化された+1である。これは、何か。ここでは、推測ないしは作業仮説で言うが、和になるのではないだろうか。即ち、(-1)+(+1)⇒±0ではないだろうか。
 このゼロこそ、構造主義の「ゼロ記号」ではないだろうか。ゼロ度、ゼロ・ポイント、ゼロ場等々と言えるだろう。そして、これが、ドゥルーズの差異であると考えられる。連続化された差異=微分ということである。また、内在平面という考えも、ここから生まれるだろう。【何故、平面なのか。後で検討。】
 そのように考えると、+1が光であり、構造主義であると先に述べたことは、間違いであることになるだろう。+1が光であることは正しいのである。しかし、それは、構造主義ではないのである。構造主義は、やはり、ゼロ度に存すると考えられるのである。つまり、差異共振主義(+1)が連続的に否定されて(和算)、ゼロになると考えられるのである。
 整理すると、-1/±0/+1である。言い換えると、自己同一性主義/構造主義/差異共振主義である。これが、「内在的な」哲学の様相と考えられる。ドゥルーズ哲学は完全に構造主義の進展に過ぎないことがわかる。では、初期デリダ哲学はどうだろうか。先には、-1と+1の差異が差延であると言ったが、それも訂正されなくてはならない。
 デリダ哲学の源泉の一つであると考えられるハイデガー存在論はそれなりに複雑多様であるが、直感するに、いわゆる世界内存在とは、ゼロ・ポイントをもった自己同一性主義(近代合理主義)ではないだろうか。有体に言えば、ハイデガーの存在とは、ゼロ・ポイント(「ゼロ記号」)ではないだろうか。つまり、本来的存在がゼロ・ポイントであり、頽落した存在は、-1となるだろう。【ただし、構造主義とは異なり、自己意識がある。しかしながら、構造主義とは、差異共振性の連続化なので、そのゼロ度は、自己意識をもつと思われる。後でさらに検討したい。】
 そして、初期デリダは、これを継承して、脱構築主義理論を立てたが、その差延とは、結局、先に述べた+1と-1の差異ではなくて、-1と±0との差異であるように思えるのである。例えば、時間を例にとれば、現在は-1であるが、過去や未来が±0であるように思えるのである。そして、両者から差延が発生すると考えられるのである。
 整理すると、ポスト・モダン理論は、ハイデガー存在論と構造主義の影響下において、ドゥルーズは構造主義のゼロ度の進展として「差異」哲学、デリダはハイデガー存在論の進展としての脱構築主義を立てたと言えよう。
 最後に問題は、+1にあったと言えよう。これが、ポスト・モダン理論では把捉できなかったと考えられるのである。何度も繰り返すことになるが、フッサール現象学が、+1を現代哲学において明晰に認識したと考えられるのである。超越論的主観性とは、それだと考えられるのである。また、キルケゴールやニーチェが、特異性という視点で取り出したものは、不連続性であると思う。つまり、彼らは、不連続性という特異性を明確に指摘した大哲学者であると考えられるのである。不明確ではあれ、Media Pointを示唆した哲学者であると考えられるのである。

3p.s. 内在・即非・超越的哲学としてのPS理論を数的に図式化すれば、

      +i
      ↑
-1/-0/Media Point/+0/+1
       ↓
      -i


となるだろう。

+1と-1の「現象学」について:光と影の超越的現象学

2008-04-27 18:13:50 | プラトニック・シナジー理論
+1と-1の「現象学」について:光と影の超越的現象学

テーマ:プラトニック・シナジー理論

「-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己」http://ameblo.jp/renshi/entry-10091501933.html
先の以上の論考は我ながら、思考の赴くまま実験したので、これまでの考え方とは齟齬を来してしまっているので、ここで、もう一度「冷静に」、eliot-akira氏のコメントを参考にしながら、検討したい。
 先ず、eliot-akira氏の意見を見てみよう。

『■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10091501933.html#cbox

「ゼロの両面鏡」という考え方は刺激的である。また、光と影が相互に見つめるということ、光と影の不対称性(非対称性)、そして、自己意識の「反射」と「屈折」等も同様である。
 また、『 グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10090935683.html#c10122297117
ということも、意味深長である。とりわけ、『ヤハウェによって「反射」または「屈折」され』という点が興味深い。(因みに、私はグノーシス主義はPS理論の観点から見直すべきように感じている。)
 「反射」と「屈折」、これがポイントであろう。私は先に、自己同一性の鏡像は差異のスクリーンに映出すると言った。これは、本来、+1の光を-1の映像に同化することではないだろうか。これが、同一性主義・自己同一性主義の発生ではないだろうか。
 このとき、当然、他者=差異は排除・否定されるのである。つまり、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。ここでは、明らかに、錯視があるのである。視覚の不思議である。しかし、不「思議」ではなく、明確に解明されるのである。つまり、本来、+1である光を-1の自己同一性鏡像=影として見てしまうということではないだろうか。
 これが、端的に、仮象としての現象界、ドゥルーズ的に言えば、模像(シミュラクル、シミュラークル)としての現象界である。【参考:http://matsuura05.exblog.jp/7663184/
http://www.asahi-net.or.jp/~dq3k-hrs/simulacre/simframe.htm 因みに、偽装流行であるが、偽装とは、端的に、同一性仮象である。

 この仮象的現象界は、差異共振的光+1を排除しているのであるが、しかしながら、実際は、差異共振的光+1は生起しているのである。光を発現しているが、同時に、それを影=仮象・模像(シミュラクル)として、知覚するということではないだろうか。実際は光+1は発現しているのに、それを排除して影-1 として見てしまうということだろう。【この+1と-1との関係をどう公式化すればいいのか。後で検討したい。】
 この影による自己同一性=自我形成は、正に、自己陶酔(ナルシシズム)であるが、ここには、差異(差異共振)を排除する暴力があるのである。これを父権的暴力と言っていいだろう。原罪があるとするなら、これが原罪であろう。端的に、悪魔的である。悪魔的現象界である。
 この同一性主義メカニズムが、近代的自我主義、近代合理主義、封建的官僚制にあるのである。これが、また、差別のメカニズムである。ポスト・モダンが攻撃した二項対立のメカニズムである。
 この排除のメカニズムであるが、差異共振エネルギーを排除しているので、-1のエネルギーをもつと言っていいのではないだろうか。つまり、-1が+1のエネルギー(差異共振エネルギー、光のエネルギー)を排除すると考えていいのではないだろうか。【宇宙物理学で言えば、-1がブラックホールであり、それが、+1の光を排除するということと考えていいのだろうか。後で検討。】
 問題は、影(闇)が光を排除したとき、端的に、排除された光はどこに行くのか、何処に存するのか。何処に潜在するのか、である。思うに、内的光と外的光は共振する(共一という言葉を造語したいが)。そして、影が内的光・共一・外的光を排除するのであるが、直感で言えば、排除された光は、身体に潜在すると思われるのである。ここは微妙な問題である。排除された光はMedia Pointに潜在するとも言いたい気がするが、身体とMedia Pointとの関係を考えなくてはならない。
 その前に、確認しておこう。影とは実は、光の裏面ということではないだろうか。ここで、D. H. ロレンスの「われわれは光の背中を見ているに過ぎない」という言葉を想起していいだろう。つまり、dark sun(黒い太陽ではなく、不可視の太陽であろう。いわば、霊的太陽である。)こそ、真の光であるということである。光の現象面(仮象面・模造面)としての影ということである。これは、光と影の即非関係と見るのである。プラトン哲学で言えば、分有であろう。(こう考えると、これまでの考え方と整合化する。)
 では、いわば、光の先端である影が排除する光はどこに行くことになるのかという問題に戻ろう。光の排除とは、端的に、差異共振が否定排除されることである。だから、当然、Media Pointの排除である。私は先に、Media Pointにおいて、差異共振性は精神的身体を形成すると言った。だから、光の排除は精神的身体の排除であり、それは、端的に、内的身体の排除である。だから、排除された光は内的身体に行ったと考えていいだろう。
 そして、直感で言うと、Media Pointが差異共振的精神(心)であり、+1が差異共振的身体ではないだろうか。思うに、以前、モームの『月と六ペンス』の主人公の絵画や態度に関して(画家ゴーギャンをモデルとしたストリックランド)身体的霊性ということを言ったが、排除された光は内的身体における差異共振的精神であり、この身体的霊性に関係すると思われるのである。
 端的に言えば、排除された光は内的身体に潜在するということになるだろう。これで解明できたこととしよう。
 結局、光を排除する、影を中心化する同一性主義であるが、それは光を内的身体に排除しているということになる。そして、内的身体に、人間の徳、魂、精神、霊、心、善が存しているのである。プラトンの善のイデアは正に、ここに存するのであるし、カントの実践理性もここに存するのである。【カントは同一性知性批判(純粋理性とは、純粋同一性知性だろう)を原基としたので、差異共振性を不可知にしてしまったと考えられる。また、東洋哲学は、内的身体の哲学、即ち、内的身体哲学と言えよう。西洋哲学はトランス・モダン化するためには、東洋哲学の内的身体論を取り入れる必要があると考える。単に、抽象観念的知性では、差異共振性は捉えられないからである。鈴木大拙や西田幾多郎の理論は、禅という内的身体論に基づいているのである。また、ウスペンスキーは、東洋神秘主義から内的身体論に到達しているのではないだろうか。】
 だから、近代合理主義・近代的自我主義・封建的官僚主義とは、内的身体である善性を排除しているので、当然、悪性=悪徳=悪霊なのである。善性なき近代主義(もっとも、封建的官僚制は、純粋な近代主義ではないが、日本近代化においては、存続したのである。思うに、近代合理主義・近代的自我主義も官僚主義も父権主義という点では共通である。)なのである。【問題は民主主義や自由主義であるが、それは、基本的には、ルネサンス的Media Pointのエネルギーとプロテスタンティズムの含むイエス的差異共振主義を同一性的に基礎付けたものだと思う。だから、それは、基盤は内的身体=善性であると考えられる。端的に、自由とは、本来、この内的身体の精神性に存するのである。内的自由と言う方が明快であろう。】
 以上の検討から、本稿のテーマがより明快に解明されたと言えるだろう。結局、光と影(闇というより、eliot-akira氏の指摘通りに、影が的確である)の即非様相があるということである。これは、既述済みであるが、これで、これまで、私が経験してきた。差異共振的視覚経験をより明確に説明できるだろう。即ち、「私と立山連峰の銀嶺と一体である」という一種神秘的な経験は、影である銀嶺と「わたし」が内的身体の霊を介して、差異共振して、光(+1)を放出した精神現象であると言えるだろう。【そう、神秘主義はこの視点から確認されるべきである。反近代主義の芸術家は、多くが神秘主義的であるが、それは、差異共振的精神現象である光の体験を意味しているだろう。】
 ここで、銀嶺というのがポイントであろう。端的に、光が焦点化されているだろう。雪を頂いた山嶺は強度の光を放出していると言えよう。通常の影を超えて、光を放出していると考えられよう。この放出された光を私は視覚を介して、内的身体で共鳴して、差異共振体験を起したと考えられるのである。
 この銀嶺の強度の光とはどういうことなのだろうか。おそらく、単なる白い光では強度の光にはならないだろう。蛍光灯の白光を見ても、差異共振体験は起らない。何が異なるのだろうか。【ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を想起する。】
 思うに、白ということが一つのポイントである。これは、本来、色ではないのである。無色である。ということは、根源的な光、即ち、超越光を意味しているのではないだろうか。ここは実に微妙な問題である。先に、+1が光であると言い、それを影-1として見ると言った。だから、本来、光は差異共振エネルギーの現象化である。ということは、影を仮象ならば、光が超越光ということではないのか。ここは難問である。
 整理すると、影=同一性光とするなら、光=差異共振光=超越光である。用語が混淆してしまい、紛らわしいが、言わんとすることはわかるだろう。
 思うに、影=同一性光の場合は、色彩をもつのである。しかしながら、白光とは、本来、無色彩である。つまり、これは、根源的光、即ち、端的に、光ではないだろうか。
 銀嶺の白とは、この光を意味しているのではないか。だからこそ、「わたし」は視覚を介して、内的身体が賦活されて、銀嶺と差異共振化体験をもったのではないか。つまり、Media Resonance(メディア共鳴)であろう。即ち、雪を頂く山嶺におけるMedia Pointと「わたし」の内的身体のMedia Pointが共鳴したということではないのか。
 ならば、蛍光灯の白光はどうして当てはまらないのだろうか。端的に、強度の問題ではないだろうか。銀嶺の白光と蛍光灯の白光とは、強度が異なるのではないだろうか。端的に言えば、銀嶺は太陽の光を反射しているのであり、蛍光灯は光子を放出しているのである。確かに、銀嶺も光子を放出しているとは言えよう。同じ光子でも、何が異なるのか。
 強度が異なると言ったが、それは、言い換えると、Media Pointの開放の有無に存するのではないのか。思うに、太陽光の場合、Media Pointが開いた光であり、蛍光灯の白光は、Media Point が閉じた光ではないだろうか。いわば、後者は影ではないのか。この問題は難しいので、ここでおいておきたい。
 最後に問題は、色彩の問題である。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。(長い論述となったので、稿を改めて検討を続けたい。)
 

参照:
ゲーテの色彩論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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色彩論(しきさいろん Zur Farbenlehre)は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ が1810年 に出した著書。
ゲーテによる光のスペクトル
ゲーテによる光のスペクトル
ゲーテによる闇のスペクトル
ゲーテによる闇のスペクトル

教示篇・論争篇・歴史篇の三部構成からなり、教示篇で色彩 に関する己の基礎理論を展開し、論争篇でニュートン の色彩論を批判し、歴史篇で古代ギリシアから18世紀後半までの色彩論の歴史を辿っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86%E3%81%AE%E8%89%B2%E5%BD%A9%E8%AB%96

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色彩と差異共振性:色彩の構造主義とトランス構造主義

テーマ:美術・アート

以下は、次の考察の最後の色彩の問題を取りあげて、考察を継続したものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10091680213.html

*******************************

色彩の問題を検討したい。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。
 差異共振「光」は対極的な「光」である。これは原型(これは、原光と呼んでいいと思う)である。しかるに、現象化するときに、-1と+1を発現する。例えば、緑は-1である。そして、思うに、緑*赤が+1ではないだろうか。それは、差異共振「光」である。しかし、虚軸では、原光であり、純粋な差異共振性である。
 つまり、問題の核心はMedia Pointの様態にあると思われる。Media Pointにおいて、虚軸の差異共振「光」、即ち、差異共振原光が発出するが、それは同時に、実軸化して、+1と-1を発生させる。+1は純粋な太陽光である。それに対して、同一性に傾斜した「光」=影が発生する。整理するため、+1を差異共振光と、-1を同一性光としよう。即ち、最初に、差異共振原光があり、次に、差異共振光と同一性光が発生するということになる。
 そして、差異共振原光とは、(+i)*(-i)であり、差異共振光とは、具体的に言えば、例えば、赤*緑のような補色的共振関係である。そして、同一性光が当然、個々の色彩である。
 ここで、本題に戻れば、緑の同一性光とは、見る人に対して、緑の視覚と同時に、残像として、赤の視覚を生む。この残像現象であるが、それは、差異共振光の原理に基づくと言えよう。即ち、赤*緑の差異共振光があり、緑の受容に対して、バランス的に、赤を発生させるということではないだろうか。
 だから、色彩論は三元構造である。差異共振原光⇒差異共振光⇒同一性光である。そして、差異共振光の項であるが、ここでは、補色の極性原理がある。これを二元論的な構造と見たのが、構造主義ではないだろうか。だから、ゲーテの色彩論は構造主義の前身であると言えるのではないだろうか。とまれ、整理すると、差異共振原光は、虚軸の垂直原理であるが、差異共振光は実軸の水平原理である。これを確認しておきたい。
 さて、ゲーテの色彩論が構造主義であるということが出たついでに、ゲーテの原植物論等の原型論を考えてみたい。これは、ルドルフ・シュタイナーの霊学(人知学)の霊の問題とも通じるのである。
 原植物とは、有体に、植物のイデアを想起する。都合もあるので、簡単に触れると、これは、色彩論と同様に、差異共振光のレベルに通じるのではないだろうか。つまり、言わば、実軸水平的差異共振原型ではないだろうか。つまり、+1の差異共振性である。言い換えると、Media Pointの実軸的な差異共振性である。そして、これが、理論的には、構造主義と捉えられてきたものと考えられる。そして、プラトンのイデアの一端もこの構造主義であると考えられるだろう。同一性としてのイデアである。
 そして、これは、同一性の構造であり、差異の構造ではないのである。差異共振性とは言え、この差異は同一性的差異に過ぎないのである。
 ここで、ポスト・モダン理論について触れると、結局、ドゥルーズは構造主義の発展に留まり、初期デリダは、思うに、構造主義内の差異に留まったのではないだろうか。おそらく、+1と-1の差異を差延として、-1の同一性主義を解体したのである。しかしながら、これでは、これでは、構造主義内のことではないだろうか。(思うに、ハイデガーもほとんど構造主義ではないだろうか。)
 結局、実軸の差異共振性=構造主義を乗り越える必要があったのである。【山口昌男の神話学も両義性の神話学ということで、結局、構造主義内部である。構造主義のもつ水平的極性を説明しただけだと思われる。】差異ないしは差異共振性の不連続化(即非化)が必要だったのである。この点は既述済みなので、これ以上言わない。
 最後に、シュタイナーの人知学であるが、これは、ほとんど哲学的である。霊的観念論である。彼の悪魔論はほぼ正確ではないかと思う。いったい何が問題なのか。それは、その二元論、霊主体従論にあるのではないだろうか。これでは、精神と身体が分裂しているのである。PS理論では、精神的身体である Media Pointを考えて、いわば、精神・即・身体である。これは、物質的身体の原型でもある。
 この精神と身体との一性(いつせい)があるのであるが、これをシュタイナーの人知学は否定していると思うのである。言い換えると、Media Pointがないのである。垂直性と水平性が分離しているのであり、垂直性が優位であり、水平性が劣位にあるのである。これでは、伝統的な二元論である。だから、それは、水平的な現実に働きかけることができないのである。いわば、逃避的なのである。これは、身体を単に物質的身体としか捉えていないことにも現われているだろう。物質的身体は精神的身体を核としているのである。

超越エネルギーと一神教:差異共振性の光と一神教の闇:トランス・キリスト教と新東西文明

2008-04-24 20:32:35 | プラトニック・シナジー理論
先に、超越的叡知存在の感受に関して考察したが、多神教的感性と一神教的感性では違いがある。この点を精察したい。
 今思ったが、前者はハイデガー的存在的感性であり、後者は自我的感性ではないかということである。ただし、ハイデガーは後者に傾斜してはいると思う。
 言い換えると、存在論的感性と一神教/自我的感性である。しかしながら、ヤハウェは「我在りて、・・・」であるから、自我存在の神である。デカルトのコギトの前身のようなものである。だから、ハイデガーの存在論を前者に適用するのは問題がある。やはり、ハイデガーの存在論は後者の方に近いだろう。
 端的に言えば、後者はMedia Pointから同一性志向性のエネルギーを指すと言えるだろう。これは、自己同一性=自我志向性であり、これは、Media Pointの差異共振エネルギーを反転させた同一性エネルギーと考えられる。つまり、差異共振性を否定抑圧した自己同一性(自我)エネルギーであり、この否定抑圧の力動は差異共振エネルギーに対する反動エネルギーであり、絶対的衝動であると考えられる。だからこそ、これが、一神教エネルギーと考えられる。差異共振性、多神教性を否定する一神教エネルギーである。
 これは端的に、狂暴なエネルギーである。野蛮なエネルギーである。これこそ、闇のエネルギーではないのか。聖書では「光あれ」というが、これは、闇ではないのか。問題は自己同一性志向性は光の放出なのか、それとも、闇の放出なのか、である。
 これは実に根本的問題である。自己認識方程式は、光の放出でもあるが、そこでは、自我が自己であることを確認することを意味しているのである。
 しかしながら、同一性志向性はそうではなくて、左辺を否定抑圧しているのである。だから、同一性志向性=自己同一性志向性=一神教的自我志向性とは、⇒+1ではなくて、⇒-1ではないだろうか。-1としてのヤハウェ(超越神・唯一神)ではないのか。
 思うに、-1を闇ないしは月と象徴していいのではないだろうか。そして、+1を光ないしは太陽としていいのではないだろうか。【イスラム教が月をシンボルにしているのが参考になるのではないだろうか。また、神道が太陽をシンボルにしているのも参考になるだろう。】
 そうすると、闇の神であるヤハウェが「光あれ」というのはどういうことなのだろうか。ずいぶん以前に、エローヒーム(神の複数)とヤハウェを区別したことがあり、そのとき、創造神はエローヒームではないかというようなことを言ったかもしれない。
 とまれ、ヤハウェを闇の神とすると、光の神は別に考える必要がある。それがエローヒームではないだろうか。この点の問題に関して、以前何度も考察したことがあるが、思うに、差異共振的同一性を形成する神があり、それは、例えば、イシスとオシリスであろう。イシスが差異共振エネルギーであり、オシリスが⇒ +1の光である。これが、母権多神教の「創造」=造化である。
 それに対して、一神教の創造神が発生して、差異共振エネルギー=イシスを否定し、当然、光のオシリスを否定して、天地創造を行なうが、このときの太陽神とは何か。例えば、バビロニア神話におけるマルクトによるティアマトの殺戮による天地創造と太陽神シャマシュの場合である。
 英雄マルクトと太陽神シャマシュを結びつけて考えていいだろう。この統合態の帰結に一神教形成を見ていいだろう。つまり、ヤハウェの形成である。ならば、太陽神シャマシュの光とは、本来の光ではなく、ヤハウェの闇ではないだろうか。
 自己同一性主義は闇であるが、光と表象されるのは、何故か。この自己同一性主義=自我主義とは自我合理主義であり、物質的合理主義に帰結すると考えられる。
 この自我合理主義=物質的合理主義が光と表象されるのであろう。言い換えると、本来、闇である-1が光と錯視されるのである。
 思うに、これは物質的光と見ていいだろう。同一性の光である。これは、古典物理学の光と見ていいだろう。ニュートンの光である。
 ということで、近代主義は、本来、闇を光と見ているということになる。ここで、私が10代終わりの頃言った「光は暗く、闇は明るい」【記憶があいまいで言葉が違っているかもしれない。光は冷たく、闇は暖かいであったかもしれない。もっとも、言わんとしていることは同じである。】というアフォリズム的な言葉が証明されるだろう。近代主義の光は実は暗く、反近代主義の闇の心性に本来の光があるという意味になる。
 とまれ、一神教の帰結である近代合理主義は闇であるとここで証明されたであろう。また、物質主義も闇である。資本主義も同一性交換価値を至上価値とする限り、闇である。
 最後に整理すると、一神教の問題は、結局、光と闇が混淆していることであり、また単に混淆しているだけでなく、倒立転倒倒錯していると考えられることである。光と闇となり、闇が光となっているのである。つまり、例えば、キリスト教のいう光とは本来、闇であり、闇が光になるということである。だから、ヨハネの黙示録の最後の審判は、悪魔主義的である。悪魔の最後の審判である。神が悪魔となり、悪魔が神となっていると考えられる(参照:D.H.ロレンスの『黙示録論』)。
 【キリスト教の問題は、複雑であり、既述したように、二種類のイエスを想定するのが妥当だと考えられるのである。一つは、闇のイエスである。自我主義のイエス、悪魔のイエスである。戦争狂のイエスである。もう一つのイエスは、光のイエスであり、差異共振性のイエス、天使のイエスである。平和のイエスである。言い換えると、ヤハウェの子のイエスであり、太母の子のイエスである。】
 結局、一神教によって、差異共振理性=叡知(ソフィア・般若)が否定抑圧されたのであり、そこで、人類の叡知文化が否定されたと考えられるのである。叡知文化は異教や異端として否定されてきたのである。悪魔的キリスト教が暴虐野蛮な世界を生んだのである。
 父権一神教の狂気にあって、差異共振理性=叡知は、少数者によって探求され、保持されてきたと言えよう。哲学者、芸術家、詩人・作家、宗教者、革新的科学者、真民衆等はこれらのために戦ってきたのである。
 しかしながら、近代・現代西洋文明にあって、一神教的同一性主義が中心化して(ロゴス中心主義)、全体主義が生起しているのである。資本主義、とりわけ、国家統制主義と結びついた巨大資本主義が、同一性主義を中心化させて、世界は牢獄的になっているのである。
 問題は、差異共振理性=叡知の喪失にある。これをこれまで、証明できなかったのであり、単なる理想としか理解されなかったのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は、Media Pointという概念によって、この差異共振理性=叡知の実在性を解明したと考えられる。
 ここを精神の起点とすることで、キリスト教的西洋文明の分裂性を乗り越えて、トランス西洋文明、新東西世界文明が創造されると考えられるのである。

ユダヤ教とプラトニック・シナジー理論:トーラーとイデア

2008-04-19 17:38:24 | プラトニック・シナジー理論
ユダヤ教とプラトニック・シナジー理論:トーラーとイデア
テーマ:一神教/多神教

ユダヤ教の誕生―「一神教」成立の謎 (講談社選書メチエ) (単行本(ソフトカバー))荒井 章三 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%95%99%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E2%80%95%E3%80%8C%E4%B8%80%E7%A5%9E%E6%95%99%E3%80%8D%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%AE%E8%AC%8E-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E8%8D%92%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%89/dp/toc/4062581140

【・・・「伝承はトーラーの垣根である」という言葉がある(ミシュナ「アボト」[父祖の言葉]三章十三節)。ここでの「トーラー」は本来的な意味での「神の教え」であって、「モーセ五書」を意味するトーラーを初め、預言者も諸冊も含めて、すべての伝承が、本来的な意味での「トーラー」の境界を示し、これを守る垣根としての働きをなすことを意味している。】p.17

【・・・ユダヤ人たちは、トーラーを、単に「モーセ五書」や『聖書(タナッハ)』(・・・)以上のものとして理解している。タルムードを含め、今日までの、あるいはこれから生じる未来のユダヤの伝承や教えの総体なのである。
 トーラーの冒頭の言葉「初めに」(「初めに、神は天地を創造された」「創世記」一章一節)ですらトーラーと結びつけられている。すなわち、トーラーは初めであり、創造原理そのものだった。神はトーラーによって世界を創造し、創造者と被造物との結びつきを初めて可能にしたのである。
「神はトーラーによって天と地とを創造された」。ここには、「箴言(しんげん)」八章二十二節以下の「主は、その道の初めにわたし(知慧)を造られた。いにしえの御業(みわざ)になお、先立って、永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って、わたしは生み出されていた。深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」という「知慧」とトーラーの同定が見られるかもしれないが、トーラーが宇宙の根本原理として世界以前に存在したように、これからも過ぎ去ることなく存在し続けるであろうことが主張されているのである。】p.18~p.19(色文字強調renshiによる)

私は、特に、シュタイナーによって、ユダヤ教の神の原理が能動的原理であることを知っていたが、以上の荒井氏の明快な言葉で、今更と言うか、目から鱗が落ちた。トーラーとは、通常、モーセ五書を指しているが、単にそれだけではなく、知慧と同定される根源的原理であるということである。すると、これは、イデアとイデア・エネルギー(エネルゲイア)とつながると考えられるのである。端的に言えば、トーラー=イデアであると考えられるのである。
 私は、先に、超越神とは、イデア化の宗教的あり方ではないのかと疑問を提起したが、この図式を使えば、超越神=イデアとなりそうである。もっとも、ユダヤ教では、ヤハウェとトーラー=知慧は区別しているようではあるが。少しこの点を考察してみよう。
 荒井氏の記述では、神がトーラーによって創造したのであり、また、トーラー=知慧(叡知、ソフィアと呼んでいいだろう)は創造以前から存していたとあることから、端的にトーラー=イデアと考えることができそうである。
 問題は、超越神とイデアとの関係である。イデアをデュナミス(潜在態)とエネルゲイア(活動態)に分けて、イデア・デュナミスとイデア・エネルゲイアとしよう。トーラー=知慧はイデア・デュナミスになるだろう。では、イデア・エネルゲイアにするのは何かである。これが、創造である。ユダヤ教では、当然、ヤハウェの意志(光あれ)である。
 プラトニック・シナジー理論(PS理論)では、イデア・エネルゲイア化とは、自然(じねん)と考えるのではないだろうか。つまり、1/4回転によって創造が為されるのであり、それは、自然(じねん)だと考えられる。即ち、差異共振化による1/4回転が生起・発生するのであり、それが創造(天地創造)と考えられるのである。言い換えると、PS理論では、創造神が必要ないのである。イデア・デュナミス=「トーラー」が自然(じねん)にイデア・エネルゲイアとなり、天地を生み出すのである。そう、創造ではなく、産出である。もっとも、広義では、創造も産出も同じことと考えられるが。
 とまれ、ここには、西洋文明と東洋文明の区別が存すると言えるだろう。つまり、創造神が存するのか、否かである。
 ここでは簡潔に直感で言いたい。イデア・エネルゲイアとは確かに、自然(じねん)ではあるが、能動的行為である。だから、この能動的自然(参照:スピノザのナトゥーラ・ナトゥーランス、能産的自然)は、当然、創造的であると言えるのである。自然=創造である。つまり、自然自体がいわば、創造神であるということであり、ユダヤ教のように、イデア=「トーラー」以外に創造神を「設ける」必要はないと考えられるのである。端的に、イデア・即・「創造神」である。有体(ありてい)に言えば、創造神は不要なのである。
 そう考えると、先に私が、イデア知性とはエネルギーを包摂・内包した知性であるということの意味がより明瞭になるだろう。能動・創造性を内包した知性(智慧・叡知・ソフィア)がイデア知性ないしはイデアなのである。【ここで神道を考えるにふさわしいだろう。神道の神ないしは神々とは何か。それは、端的に、イデアであると思うのである。イデアを古代人は神ないしは神々と呼んだと思われるのである(あるいは、超越エネルギーを神ないし神々と呼んだのである)。では、神と神々の区別はどう考えることができるだろうか。これは三柱の神と八百万の神々の区別と言えるだろう。根源的神と被発生的神の相違である。仮説であるが、おそらく、前者の振動数の相違によって後者が説明されると思われるのである。多様な振動数を前者をもちうるのであり、それが、八百万の神々として発現すると考えることができるのではないだろうか。】
 では、イデア=「トーラー」と区別される創造神はどうして発生した(と考えられる)のだろうか。(ヨハネの福音書の「はじめに言葉ありき」の言葉(ロゴス)は、イデア=「トーラー」に相当すると言えよう。p.s. 否、違うかもしれない。以下、参照。)主導的原因と叡知との分離は何を意味するのか。
 PS 理論から見ると、Media Pointの実軸において、同一性=言葉(ロゴス)が形成される。これは、また、同一性志向性=同一性能動性である。つまり、同一性自体が同一性志向性でもある。だから、同一性志向性は同一性主義と言えるだろう。そして、これが、父権的志向性である。
 ここで仮説するに、創造神とは、Media Pointのエネルゲイアであり、それが、同一性志向性=同一性能動性=同一性主義と結びついて発現したものではないだろうか。【だから、フッサールのノエシスに似ているのである。】
 そして、エネルゲイアとは別に、イデア・デュナミスがあるのであり、これが、根源的叡知と考えられるのである。そして、これが、トーラーに相当するのではないかと思われるのである。
 整理すると、Media Pointの同一性エネルゲイアが創造神であり、イデア・デュナミスがトーラーである。イデア・エネルゲイアが同一性エネルゲイアへと転換しとき、イデア・デュナミスと分離したと思われる。これで創造神がトーラーとは区別されることの説明がついたことになる。これは、明らかに、父権的傾斜の衝動である。即ち、同一性傾斜である。【母権的傾斜は、イデア・エネルゲイア=差異共振性の保持ないしは再帰性であると考えられる。】
 そして、ここで、キリスト教を考えると、イデア=トーラーと同一性=言葉(ロゴス)とが「癒着」し、混淆・混同されてしまったのではないだろうか。
 再度整理すると、ユダヤ教の超越神=ヤハウェは、Media Pointの同一性エネルゲイアであり、イデア・デュナミスがトーラーとして存している。しかるに、キリスト教の場合は、イデア・デュナミス=トーラーが同一性=言葉(ロゴス)と混淆されてしまい、知慧と同一性知性(ロゴス)との区別がつかなくなってしまい、また、同一性の強化に伴い、知慧を喪失していったと考えられる。【因みに言えば、ハイデガーが唱える存在の忘却であるが、それは、知慧の喪失ないしはMedia Pointの喪失と見るべきではないだろうか。】ここには、既に、プロテスタンティズムの原型が見られるだろう。
 さて、最後に、先に述べたユダヤ系の東洋性ないしはイデア知性のことであるが、以上から、端的に、ユダヤ教においては、トーラーという形で、イデア知性が存していると考えられるのである。だから、ユダヤ系ロシア人を祖先とするバーンスタインの演奏にイデア知性を感じることはありうることである。
 また、東洋性ということであるが、端的に、それは、Media Point的精神知性の存在のことだと思われる。神道、道教、仏教、ヒンドゥー教等は、これをそれなりに体現していると考えられるのである。
 そうすると、ユダヤ教とは東洋性と西洋性との境界に位置すると言えるだろう。そして、キリスト教は、東洋性を喪失していった宗教と言えよう。それは、ユダヤ教よりもルサンチマン的であると考えられる。【だから、ここでもニーチェの慧眼が確認されるのである。ニーチェはユダヤ教を評価していて、キリスト教を弾劾呪詛したのである。】
 因みに、聖書のエローヒーム(神の複数)とは何だろうか。それは、思うに、本来のイデア・エネルゲイアがもちうる多神教性ではないだろうか。つまり、神道の八百万の神々と同質ではないだろうか。だから、ユダヤ教とは母権的多神教と父権的一神教との混淆宗教であるということになると考えられる。D.H.ロレンスが晩年、旧約聖書は神々に満ちていると述べたのは、妄想ではなくて、真実であると考えられるのである。
 結局、以上から、最大のルサンチマンはキリスト教にあると言えよう。ユダヤ教は、トーラーという叡知をもっているので、ヤハウェのルサンチマンをそれなりに統御できると考えられる。しかし、キリスト教は、イデア=トーラー=叡知を同一性=ロゴスと混淆して、同一性主義=ロゴス中心主義によって、前者を喪失していき、ルサンチマンを過剰にしたと考えられるのである。それが、ヨハネの黙示録の最後の審判に結実していると思われるのである。
 端的に、イデア=トーラー=知慧(般若・ソフィア)の喪失は、キリスト教に拠ると考えられる。人類の狂気化はここに根因があると考えられる。トランス・キリスト教が必要であるし、そうなると考えられる。

イデア的知性について再考:ディオニュソスとアポロ:プラトニック・シナジー理論とプラトンのイデア論

2008-04-17 20:40:14 | プラトニック・シナジー理論
イデア的知性について再考:ディオニュソスとアポロ:プラトニック・シナジー理論とプラトンのイデア論
テーマ:メディア・ポイントMedia Point
イデア的知性とは、考えると、不思議なものに思える。まだ、完全にクリアになっていないので、さらに考察を続けたい。
 ここでは、先の考察に、ニーチェの『悲劇の誕生』の有名なディオニュソスとアポロの視点を加えて、多角的に検討したい。
 ニーチェのディオニュソスとアポロの概念は一見明快なようでいて、実は複雑であると考えられる。先にも言及したが、これは、実は、ニーチェが攻撃したイデア論に通じるものをもっていると考えられるのである。そう、だからこそ、ここで、それらの概念の視点を持ち出すのは有意義だと考えられる。
 ここで、簡単に見取り図を言えば、ディオニュソスが差異(差異共振性)であり、アポロが同一性であるという図式が考えられる。ここで、問題はなのは、アポロの意味なのである。ニーチェ自身の叙述から、アポロがソクラテスの合理主義と結びつけられて、いわば、アポロが同一性主義と一致するように述べられている点である。
 しかしながら、よく読めば、アポロはヴィジョンなのである。同一性合理主義ではないのである。それが注意する第一点である。
 次に、母権神話/父権神話の二重構造の視点から見ると、ディオニュソスが母権神話に、アポロが父権神話に属すると見ることができよう。これが第二点である。
 これらの視点をふまえて、本件のテーマに返ってみると、情動・情感・情緒等(リリシズム)を包摂・内包するイデア(理念)とは、端的に、ディオニュソス的イデアであり、同一性的イデアではないということになろう。プラトン自身の記述から、イデアは、同一性的イデアに限定される恐れがあるし、事実は、そのように、いわば、通俗的に理解されてきたと考えられる。(プラトン自身、差異と同一性の間で揺れ動いていたと考えられる。)
 このディオニュソス的イデアであるが、これは、実は、ヴィジョンとしてのアポロに通じると考えられるのである。同一性のアポロではなく、ヴィジョンとしてのアポロである。
 思うに、このディオニュソス的イデア=ヴィジョン的アポロと考えると、音楽=美術になると考えられる。ニーチェは音楽の源泉から悲劇の誕生を考えたのであるが、しかし、音楽は美術と一如になると思われるのである。
 そうすると、ヴィジョン的アポロと同一性的アポロを区別しないといけないだろう。思うに、極言すれば、ここに母権多神教と父権一神教、差異と同一性の問題の核心があるだろう。
 ヴィジョン的アポロとは言い換えれば、ディオニュソス的アポロということになるだろう。これは、母権的視覚である。それに対して、同一性的アポロが発生したのである。これが、父権的視覚であろう。同一性的視覚である。そして、この両者が古代ギリシア文化において、結合ないし融合したと考えられるのである。そして、この心的事態が、『悲劇の誕生』の中核ではないだろうか。母権文化と父権文化の結合・融合としての『悲劇の誕生』である。
 結局、その結合・融合の本質は何か、である。おそらく、即非の論理に類似するのである。矛盾論理のように思えるのである。一方では、母権=ディオニュソスであり、他方では父権=アポロなのである。しかし、ヴィジョン的アポロは、同時に、母権=ディオニュソスの側に存するのである。このような複合体であるように思えるのである。
 思うに、ギリシアの古典主義/合理主義とは、後者の父権=アポロから発生したものであろう。しかしながら、ギリシア神話は、母権=ディオニュソス文化を色濃く反映していると言えよう。また、父権=アポロであるが、それは、同一性主義と言っていいだろう。それは、ギリシア悲劇では、支配的な政治として表現されているだろう。有名なアンチゴネーであるが、それは、明らかに、母権=ディオニュソス文化を体現していると言えよう。
 では、主題のイデア的知性について考察しよう。最初に私が考えるイデア的知性について、次に、プラトンのイデア論について述べたい。
 結局、イデア的知性とは、母権的ディオニュソスを「叡知」化したものだと考えられる。端的に、母権的ディオニュソスとは、エネルゲイア、即ち、エネルギーである。動的なものである。さらに言えば、超越エネルギーである。それは、現象界を創造するエネルギーである。根源的エネルギーである。だから、これは、同一性的知性・合理性(現象界・物質界の知性)によっては、捉えることができないのである。【近代合理主義は、アイロニカルに、非合理主義・狂気にいわば復讐されるのである。それが、全体主義であり、自然・精神破壊であり、また、戦争・犯罪の蔓延である。】
 この超越エネルギーである母権的ディオニュソスを、知性において把握しようとするのが、イデア的知性である。これは、イデア界を仮構して、その理念・イデアがこの母権的ディオニュソスとなり発現すると考えるのである。現象界を超越したイデア界を仮構することで、この母権的ディオニュソスをイデア知性として把握しようとするのである。しかしながら、イデア知性は母権的ディオニュソスのエネルギーを包摂・内包しているのであるのであるから、単純な知性・合理性ではないのである。エネルギー包摂・内包的知性・合理性である。
 そして、母権的ディオニュソスとは、差異ないし差異共振性と考えられるので、イデア的知性=ディオニュソス的知性=差異的知性ということになる。ここで想起されるのは、ドゥルーズの差異論である。それは、差異的イデア論を目したものであるが、連続性の囚われていたので、差異的イデアを同一性的知性へと連続化してしまい、イデア的知性を取り逃がしてしまったと考えられるのである。
 とまれ、以上のようにイデア的知性を考えると、ニーチェのディオニュソスとは、イデアの動態であるが、ニーチェ自身は、イデア的知性までは達していなかったと言えよう。晩年の力への意志とは、思うに、基本的には、ディオニュソスの別の言い方であると見るべきだと思う。
 次に、プラトンのイデア論であるが、それは、母権的ディオニュソスを初めて、イデアとして捉えた試みであろう。そして、それは画期的であった。イデア的知性が誕生したのである。しかしながら、以上検討したように、古代ギリシアにおいて、母権的ディオニュソスがアポロ的ヴィジョンを介して、同一性的アポロと矛盾同一化していたと考えられるのである。即ち、アポロ的ヴィジョンとは、ディオニュソス的ヴィジョンであり、それは、ディオニュソスが発現させる同一性のヴィジョンであり、それは、未だ、霊的なヴィジョンである。
 そして、古代ギリシアにおいて、この霊的な同一性ヴィジョンと現象的同一性的アポロとが結合・融合していたと考えられるのである。この結合・融合は、即非的である。前者は霊的同一性であり、後者は物質的同一性である。
 そして、プラトンのイデア論は、単に、母権的ディオニュソスのイデア化だけでなく、この霊的同一性をイデア化したと考えられるのである。前者が善のイデアであり、後者が同一性のイデアであり、通俗的には、後者が中心化されたのである。
 後で整理する予定であるが、私が先に述べたイデア的知性とは、母権的ディオニュソスのイデア化であり、主に差異、差異共振性の知性を意味する。しかし、プラトンにおいては、ディオニュソスだけでなくて、ディオニュソス的アポロ(ディオニュソス的同一性)も、イデア化していると考えられるのである。
 この相違をどう見るのか、である。私は、母権文化とは、同一性が差異共振性において存しているのであり、同一性主義には至っていない、いわば、未分化の文化と言った。言い換えると、母権文化は、同一性を内包した差異共振文化である。
 そう考えると、私がいうイデア的知性はまったくプラトンのイデア的知性と一致することになると言えよう。ただ、私は、今日的に、差異・差異共振性を強調しているが、同一性は含んでいるのであるし、プラトンは、差異よりは、同一性の側面、視覚的側面を強調していると考えられるのである。強調の違いに過ぎないと考えられるのである。
 そうすると、この差異・差異共振性における同一性、ディオニュソス的アポロとは何か、ということになるだろう。同一性のイデアとは何か、である。上では、霊的同一性と言った。
 これは、端的に、プラトンのエイドスに当たると考えられるが、これは一体何なのか。まだ、完全には、現象化していないが、原現象であるような同一性である。それは、Media Pointにおける同一性志向性に当たるように思えるのである。あるいは、先の作業仮説の図式では、ハイデガーの存在に当たるかもしれない。先の図式を訂正すれば、⇒の先端が、この同一性のイデアないしはエイドスかもしれない。とまれ、原同一性と言う方が明快であろう。
 さて、直感では、この原同一性・エイドスとは、「気」になるのではないかと思われるのである。シュタイナーの霊学で言えば、エーテル体である。霊性としての「気」である。「霊気」である。
 【そして、さらに考えると、ディオニュソスとは、シュタイナーのアストラル体(情動・情感身体)に当たるのではないだろうか。そして、ディオニュソスのイデア的知性が、シュタイナーの自己に当たるのではないだろうか。これらは、まだあいまいなので、後再考したい。】
 とまれ、以上、試行錯誤の跡が見られるが、とりあえず、本件の検討をここで終える。

フッサール現象学とハイデガー存在論と構造主義とポスト・モダンの関係:PS理論の視点から

2008-04-13 14:54:52 | プラトニック・シナジー理論
PS理論の視点から諸哲学の秩序化を試みているが、これまでかなり混乱を起している。以下も一試論であるが、構成を整合化するためには、試行錯誤が必要である。ラディカルにチャレンジすること、リスクを冒すことである。

 差異共振理性(正確に言えば、超越的差異共振理性)であるMedia Pointを⇒で表記すれば、フッサール現象学は、この⇒で表記できるだろう。ハイデガー存在論は、作業仮説であるが、⇒の先端ではないだろうか。つまり、虚軸性(超越性)を喪失したMedia Point、換言すると、Media Point自体の終点であり、そこから同一性志向性が発生する始点である。つまり、⇒同一性志向性→+1における、⇒の先端と同一性志向性との境界ではないだろうか。図示すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→+1

の★が存在ではないだろうか。
 そして、構造主義であるが、それは、同一性志向性→☆+1の☆に当たるのではないだろうか。つまり、同一性志向性と同一性の境界としての構造である。以上の図式を整理すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

となる。⇒がフッサール現象学、★がハイデガー存在論、☆が構造主義である。
 次に、ポスト・モダン哲学を考えてみよう。デリダの脱構築主義とドゥルーズ(&ガタリ)の差異哲学で代表させよう(後期デリダやジャン=リュック・ナンシーの哲学は、トランス・モダン哲学と見るべきだと考える)。
 ポスト・モダン哲学は、明らかに、構造主義を出発点にした哲学であり、それの深化や進展と言えるだろう。だから、ポスト構造主義という用語は不正確である。
 以上の図式から、構造主義は、☆である。そして、ポスト・モダンの「差異」(ここに、差延も含める)であるが、デリダの差延は、ハイデガーの存在と構造主義の二重性のズレを意味しているのはないだろうか。★と☆のズレである。
 そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、⇒★同一性志向性→☆において、牽強付会に、知的に不誠実に、⇒★と同一性志向性を同一視したものだと思われるのである。この同一視が、いわば、連続的差異というキメイラを生んだと考えられ、ドゥルーズ哲学全体が、グロテスクに誤謬に満ち満ちたものになったと考えられるのである。
 つまり、⇒★があるから超越性や存在性をもつし、同時に、
同一性志向性→☆、即ち、同一性志向性(おそらく、カントの超越論的形式)と構造主義をもつのであり、途方途轍もない、奇妙奇天烈な哲学になったと考えられる。非常にもつれた哲学になっていると考えられる。言い換えると、フッサール現象学あり、ハイデガー存在論あり、カントの超越論哲学あり、構造主義ありで、不誠実な混淆様態なのである。(こうなった原因は、ドゥルーズ自身の知性に問題がある。一流の知性ではありえない。二流・三流である。ただし、感性はあったと言えよう。それで、文学の引用が多いと考えられる。)
 さて、以上の図式で、→の意味が抜けているので、考察しよう。同一性志向性→☆同一性において、☆が構造主義ならば、→はその力動性を意味するのではないだろか。つまり、力動的構造主義ではないだろうか。おそらく、情動的構造主義と言えるのかもしれない。以上で、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

の説明が終ったが、ここでまとめて整理すると、

1) (+i)*(-i)は差異共振性、イデア・魂・精神
2)⇒はMedia Pointないしはフッサール現象学
3)★はハイデガー存在論の存在
4)同一性志向性はカントの超越論的形式
5)→は力動的構造主義
6)☆は構造主義
7)+1は同一性(自己同一性、自我)

となり、3と6のズレがデリダの差延哲学、3~6の混淆がドゥルーズの差異哲学となる。
 さて、後、身体性の問題がある。メルロ=ポンティの身体現象学をどう考えるのか、ということになる。あるいは、-1の問題がある。
 先に、差異的身体ということを言った。つまり、Media Pointにおける身体が考えられるのである。ここは、イデア=差異共振性があるが、その魂・精神とは、差異共振的身体を形成因だと思われるのである。
 問題は、魂・精神とは何かということにもなる。有体(ありてい)に言えば、直感で言えば、魂・精神とは、また原身体なのである。物質的身体とは、現象化過程において、発生するのである。Media Pointにおいて、原身体が(物質的)身体化すると言えよう。
 だから、端的に言えば、イデア・魂・精神とは、魂的原身体、精神的原身体と言えよう。そして、Media Pointにおいて、物質化が開始されるのである。だから、Media Pointとは、イデア的身体、魂的身体、精神的身体と言えるだろう。
 そして、連続的同一性化によって、精神と身体が二元論化(心身二元論)されると言えよう。だから、メルロ=ポンティの身体現象学とは、精神的身体である Media Pointを捉えようとした試論であると思う。そして、精神と身体の両義性を把捉したと考えられるが、Media Pointのもつ即非性、差異と同一性の即非性の理解までは達しなかったと思われる。
 次に、-1の問題であるが、これは、端的に、難問である。+1は自我、自己同一性である。先に想起したことは、-[(+i)*(-i)]⇒-1という数式である。つまり、自己認識方程式における左辺、差異共振性の否定が、-1になると考えられるのであり、それは、差異共振性の否定であるから、自我中心主義、自己同一性中心主義ではないだろうか。近代合理主義/近代的自我主義は、そう考えられるのではないだろうか。
 そう作業仮説すると、近代主義の世界は、-1と+1の二重性の世界である(参照:双魚宮)。近代合理主義/近代的自我主義と差異共振的自我主義の二重性であり、この間に民主主義、自由主義が存していると言えよう。簡単に言えば、同一性主義と差異主義の二重性の世界である。
 今日、グローバル経済は、+1を否定して、-1に邁進しているのである。これは、差異主義の破壊となっているのである。もっとも、差異共振主義は、技術革新という側面では進展しているだろうが。
 端的に、-1とは、倒錯であり、精神病理である。闇・無明である。ジェンダー論的に言うと、-1は父権主義であり、Media Pointが母権主義であり、+1は、父権主義と母権主義の超克である、いわば、両権主義ないしは新母権主義ではないだろうか。
 最後に神秘主義・オカルト主義について言及しよう。今日では、スピリチュアルなものとして流行しているが、それを明確にしておく必要があるだろう。
 先には、-1が神秘主義ではないかと言ったが、それは、間違いということになっった。では、神秘主義はどこに位置しているだろうか。
 それは、霊的な融合体験を意味するだろう。霊とは、Media Pointのイデアのことである。そして、そこには、差異共振性がある。しかしながら、差異共振性は、融合ではないのである。それは、即非感覚認識である。
 端的に、神秘主義の場合は、同一性主義=自我主義が崩壊すると考えられる。つまり、±1が消滅すると考えられる。これは、思うに、一種先祖返りなのである。つまり、Media Pointへの反動的回帰なのである。これは、螺旋的回帰とは区別されなくてはならない。同一性=自我の形成以前のMedia Pointへの退行である。幼児・胎児への回帰、子宮回帰である。
 反動ではあるが、これは、-1の近代合理主義/近代的自我主義に対する反動である。(参照:懐かしい、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』)つまり、一種、同一性主義に対する、原差異の反抗・反逆と言えないことはないだろう。いったい何がここでは問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義=物質主義化に対するイデア・精神・魂・超越性の側からの無意識の、いわば、本能的な反抗・反逆である。これは、情動的である。知性的ではないのである。ここに問題がある。
 反近代主義的な芸術家の多くは、神秘主義的である。モームの『月と六ペンス』の主人公の身体的霊性もそうである。シャガールの絵画もそうである。もっとも、そこには、根源的な差異共振性があるのである。これは確認しなくてはならない。
 だから、結局、イデア論がここで登場する必要があるのである。近代主義は、精神次元を否定してきた。古代、中世、ルネサンスと精神次元を確認してきたのであるが、それが、近代主義において、否定されたのである。形而上学の否定ということに現われている(形而上学の問題は、それを経験性から独立させてしまうことだろう。本来は、形而上学とは、経験性と結びついているのである。)イデア論を仮説することで、精神の無意識な、本能的な反抗的な情動は、イデアによって、知的に包摂されることになると考えられる。
 それによって、精神は知性的となり、情動性は知的に抑制されることになるのである。そのイデア的知性であるが、知性とは本来、同一性的なものである。だから、近代主義のもつ同一性主義ではなく、近代的同一性、近代合理性、物質的合理性をも包摂したイデア知性がここに生起すると考えられるのである。これは、先にも述べたが、Media Point 知性と言えよう。
とまれ、言い換えると、神秘主義やオカルト主義は、ゼロ度のMedia Pointの様態と言えるのではないだろうか。

「市場国家」とトランス・モダン自由共同体主義(民主自由主義)

2008-04-12 18:20:52 | プラトニック・シナジー理論
「市場国家」とトランス・モダン自由共同体主義(民主自由主義)

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

グローバリゼーションによって、独立(sovereign)国民国家に取って代わって、「市場国家」が出現しているという考えをフィリップ・ボビット(米国英語なら、バビット)が述べているということであるが、どうだろうか。
 自由主義的発想であるが、これは、私見では、巨大資本主義的自由主義であり、大資本・中小資本は、淘汰される可能性が強いものである。私は、民主主義的自由主義ないしは共同体主義的自由主義を唱える。しかも、トランス・モダン民主主義的自由主義、トランス・モダン共同体的自由主義である。
 だいたい、イラク占領を肯定しているというのが、間違いだと思う。いかにもアメリカ主義的巨大資本主義的自由主義である。
 問題は、民主主義の理念にある。それを、近代主義のままにすると、形式主義を免れない。普通選挙を行い、代議制を敷くのである。これは、形式的な民主主義的法制を意味するのであり、民主主義の実質が巨大資本的自由主義に破壊されるのである。だから、トランス・モダン民主主義的自由主義である。
 トランス・モダン民主自由主義(共同体自由主義)とは、個・差異・特異性の立場に立って、自由な共同体を創造・構築することを目指している。だから、巨大資本的自由主義に対しては、政治的規制を設けることになるだろう。そして、自由共同体資本への転換を促すものである。だから、政治の独立機能が重視されるのである。
 このためには、哲学が必要である。近代主義を乗り越えた哲学である。それを基本にしたトランス・モダン政治が一つのセンターとなると考えられる。
 自由主義経済中心主義から、自由共同体政治経済主義へと転換するのである。簡単に言えば、経済中心主義から政治経済主義への転換である。近代経済主義からトランス・モダン政治経済への転換である。
 
War Plans

By NIALL FERGUSON
Published: April 13, 2008

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In his last book, “The Shield of Achilles” (2002), Bobbitt advanced a bold argument about the history of international relations since the time of the Treaty of Westphalia (1648). His central argument was that, in the aftermath of the cold war, the traditional post-Westphalian ideal of the sovereign nation-state had become obsolescent. In the increasingly borderless world we associate with globalization, something new was emerging, which Bobbitt called (and continues to call) the “market-state.” This state’s relationship to its citizens resembles that between a corporation and consumers. Its counterpart ― and enemy ― is the terrorist network. The central problem raised in “The Shield of Achilles” was how far the market-state could and should go to defeat such networks, particularly when they were in some measure sponsored by traditional nation-states.
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http://www.nytimes.com/2008/04/13/books/review/Ferguson-t.html?_r=1&8bu&emc=bua1&oref=slogin


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検討問題:諸テーマ

テーマ:検討問題

1)人法という発想:自然法に近いと思うが、単純に言えば、言葉に文法があるように、人間においても、人法があると考えられる。思うに、人法を、これまで、人類はさまざまに解釈してきたのではないだろうか。宗教であれ、神話であれ、掟であれ、哲学であれ、芸術であれ、道徳であれ、倫理であれ、叡知であれ、法典・法律であれ、科学であれ。
 問題は、カントの純粋理性と実践理性の乖離にあるだろう。PS理論の差異共振理性(差異共振合理性、差異共振知性)は、理性を統一するので、純粋理性も実践理性も、それに包摂されることになると思われる。
 思えば、カント哲学は、自我主義と自己主義に分裂しているのである。本来は、自己を基盤とする自我を構築するべきなのである。とまれ、近代主義がはっきりそこには見られると言うべきであろう。

p.s. 先ほど、人理という言葉が浮かんだ。考えたら、どうして、これまで、人法もそうだが、この言葉がなかったのか不思議である。仁義、人道、人徳、人情等では、今日では、いかにも古風である。人文科学とは、人理学ないしは人法学となるべきである。これに基づいて、諸宗教、政治理念等を批評できるようになるだろう。例えば、イラク戦争は、イラクの民主化という大義があるが、しかし、人理・人法の見地から見たら、それは、明々白々に邪道・邪悪である。
 
2)同一性の原形ないしは基盤とは何か:同一性の鏡像とは何か:競争とは何か。つまり、自己同一性主義=自我主義の同一性の基盤となる同一性構造があるが、同一性鏡像とは何か。
 
p.s. 問題は、差異を劣位を置く同一性主義の優越主義の力学を再考したい。

3)宗教と差異共振理性の関係について:「神」・「仏」とは、人法なしいは、生命法、魂法の、連続的表現に近いのではないのか。

4)Media Pointと身体との関係について

5)トランス・モダン・キャピタリズム:差異共振的資本主義とは何か。同一性金融資本と差異共振金融資本。差異共振価値のための金融資本。

6)-1の問題。

7)近代教育からトランス・モダン教育へ:同一性主義教育から差異共振教育へ:個としての魂や精神の導入

8)近代主義的細分化・専門分化とトランス・モダン的総合:前者は何がもたらしたのか。これは愚問だろう。近代主義のもつ経験現象世界のもつ客体性がもつ多様性において、知を精緻にするために、起ったと考えられる。
 ここにおいて、フッサールの『危機』が重要な論考である。つまり、連続的同一性化された対象、すなわち、同一性=物質=数量=客観性を基礎として、諸科学が構築されたのであり、差異=精神=質=主観性への探求が忘却されたと言えよう。
 ポスト・モダンは、その延長にあると言えよう。フッサール現象学であるが、以前指摘したが、二重性をもっているのである。思うに、差異共振性を直感していたが、それを同一性の概念で説明しているように思われるのである。生活世界がその直感の概念化だと思うが。
 換言すると、フッサールは、Media Pointの作用を直感していたが、それを理論的には、十全には捉えていなかったと思う。ついでに、ハイデガー哲学について言うと、存在は、メルロ=ポンティが明らかにしたように、身体存在と見るのが正しいように思える。
 どうも、-1が身体存在ではないのか、という思いつきが浮かぶ。+1が自己同一性=自我である。Media Pointが自己=個=差異=魂=精神である。だから、身体ないしは存在は、-1ではないだろうかと思えるのである。また、無意識も-1ではないだろうか。
 先に試行錯誤したように、+1が光ならば、-1は闇である。西洋哲学は、前者中心であり、19世紀後半からようやく、闇の存在を対象とするようになったのではないのか。
 しかし、-1を身体存在としたとき、物質身体との関係はどうなるのか、ということがあるだろう。しかしながら、それは同じではないだろうか。
 さて、フッサールとハイデガーに戻ると、前者は、合理性の根拠を追求したのであり、根源的合理性を超越論的主観性に求めたと言えよう。しかしながら、超越論的主観性とは、Media Pointにおける同一性志向性であり、Media Pointの超越性には達していない。しかし、微妙なことは、繰り返しになるが、フッサールの直感においては、Media Pointは開いていたと思われるのである。だから、間主観性や生活世界の発想が生まれた思われるのである。
 ハイデガーの存在論は、西洋哲学の合理主義的志向性によって看過されてきた「存在」を提唱したこととなっているが、ハイデガー哲学の暗さは、やはり、-1の闇から来ているのではないだろうか。
 そうだとしても、ハイデガーは、フッサールが直感したと思われるMedia Pointを外していると思う。そして、想像では、後期ハイデガーは、今度は、実軸を否定した虚軸だけの存在性を説いているように思えるのである。いわば、前期が水平軸のマイナスを説き、後期が水平軸を無視した垂直軸の様相を説いているのではないのか。【p.s. 思うに、後期ハイデガーは、-1の存在(身体)の闇からMedia Pointの開きを垣間みたのかもしれない。】

p.s. あるいは、-1において、神秘主義、オカルト主義のように「光」を考えているのかもしれない。闇の中の光である。それは、実は、Media Pointのことである。身体的霊性である。
 
9)死について:イデア(=「魂」)を考えると、死とは、純粋イデアないしはデュナミスとしてのイデアに復帰・回帰・再帰することと考えられる。言い換えると、生とは、イデア(=「魂」)の現象相なのであり、死とはイデア(=「魂」)の純粋相であると考えられる。プラトンが説いたように、魂は不死である。つまり、魂の純粋相(原形相)と現象相の二相の循環があり、それが螺旋的回帰していると思われるのである。そう、ニーチェの永劫回帰である。ただし、ニーチェの反復は、現象相に傾斜していると考えられる。
 イデア界=「魂」界と仮象界としての現象界の複合体としての総合界があると言えよう。
 そうならば、問題は、知や認識や感覚・知覚等のことである。知や感覚の主体とは何か。PS理論は、イデア的主客論であり、イデアには、認識作用があると考えている。原ノエシス/原ノエマである。すると、差異だけでなく、同一性の認識もイデアが行っている可能性はあるだろう。
 例えば、「わたし」の認識であるが、それは、イデアに基盤があるのではないだろうか。そうならば、現象での認識も永遠である。

10)自由主義経済とは、グローバル経済では、詰まるところ、巨大資本主義的自由主義であり、大資本、中小資本にとっては、淘汰される自由主義である。結局、資本の多寡が権力となっているのである。もっとも、単に量的なものだけでなく、巨大資本とは、質的な価値においても、大資本・中小資本を凌駕しているのである。この点をどう見るのか、である。

ショート=没入の二つの相:賦活された差異共振エネルギーの二つの非合理的衝動:パラノイアと全体主義

2008-04-11 23:02:36 | プラトニック・シナジー理論
ショート=没入の二つの相:賦活された差異共振エネルギーの二つの非合理的衝動:パラノイアと全体主義

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

先に次のように書いたが、まだ、十分明晰になっていないので、さらに整理したい。

【ここで否定とショート(短絡)と没入の関係を整理しておきたい。否定とは、差異共振性の否定のことであり、連続的同一性化においては、同一性主義=自我主義を形成する。
 ショートとは、差異共振理性を自我主義が否定抑圧し、自我主義が中心化されることである。
没入とは、賦活された差異共振エネルギーに対して、自我主義が反動的な態度をとり、自我主義を過剰化すること、あるいは、差異共振エネルギーを連続様態において、肯定するために、差異共振性が連続化されて全体主義になることである。】
http://ameblo.jp/renshi/entry-10087388417.html

問題点は、いわば牽強付会の点である。否定が差異共振性の否定であるというのは、はっきり言っておかしい。否定は否定であり、説明はいらないのである。これがまず一点である。
 次に、ショートと没入の区別であるが、これは、以前は、区別しないで、同じ心的事象を意味する用語として用いたのである。それで問題ないと思えるので、そうしておきたい。
 簡単に説明すると、ショート=没入とは、差異共振エネルギー(差異エネルギー)を抑圧している同一性主義=自我主義が、活性化した差異共振エネルギーを抑圧し切れずに、エネルギーが衝動化して、同一性主義=自我主義の攻撃性が暴発することであり、他方、それとは逆方向に、活性化された差異共振エネルギーが同一性主義=自我主義に規制されて、全体主義化することである。

チベット問題とオリンピック:真相は何か:USAの覇権的ご都合主義的外交が一番問題である

2008-04-09 23:06:49 | 新東洋文明
チベット問題とオリンピック:真相は何か:USAの覇権的ご都合主義的外交が一番問題である

テーマ:東アジア:朝鮮半島・中国・台湾・ロシア

この問題は、さまざま説明されているが、真相がわからない。とまれ、状況・文脈を考えよう。

1)アメリカは中国と経済的友好関係を維持したい。
2)中国は、アメリカと組んで経済開発を行いたい。チベットには、地下資源がある。
3)英米中心主義は、中国を押さえたい(田中宇氏)。
4)中国はオリンピックを成功させたい。
5)欧米の民主主義イデオロギーがある。
6)欧米には、オリエンタリズム(西洋中心主義)がある。
7)チベットは、欧米の民主主義派の支援を受けている。チベットは自治を行いたい。
8)中国は、少数民族の独立を抑えたい。覇権主義。暴力で押さえつける。

ざっとあげるとこのようになる。何がわかるだろうか。一つは、中国の反民主主義的支配があり、一つは、欧米の利害関係があり、一つは、チベットの自治の動きがあるということであろう。大きな問題の一つはアメリカの二股膏薬性・二枚舌である。自己中心主義である。
 私は中国の暴力的支配に、確かに問題があり、それは、非難されるべきであると思うが、それ以前にアメリカの二股膏薬、覇権的ご都合主義が一番の問題ではないかと思う。三番目には、欧米の民主主義に基づくオリエンタリズム的イデオロギーである。もっとも、正しい面は否めないが。
 アメリカが自分の経済的都合から、中国の政治を甘やかしたのが一番問題だと思う。イラクへの民主化を言うならば、中国や北朝鮮への民主化を要求する必要があるにもかかわらず、それには蓋をして、経済的利益から友好性を結んでいることである。つまり、自国中心主義的戦略に問題がある。
 理論的には、巨大資本主義的自由主義に問題があると言えよう。つまり、経済中心的自由主義に問題がある。必ず、民主主義的自由主義を理念的にもつ必要がる。これは、政治がチェックする必要があるのである。
 ということで、現段階では、私見では、本件において、一番問題があるのは、アメリカの覇権的ご都合主義的外交であるということになる。

Proteste gegen Chinas Tibet-Politik
San Francisco wappnet sich für Fackellauf

San Francisco bereitet sich auf Massenproteste beim olympischen Fackellauf vor. Heute soll das olympische Feuer durch die Stadt getragen werden. Schon gestern protestierten dort mehrere tausend Menschen friedlich gegen Chinas Tibet-Politik.

Von Jan Tussing, HR, ARD-Hörfunkstudio Los Angeles

Über 500 Polizisten standen bereit, als die olympische Flamme in der Nacht zum Dienstag das amerikanische Festland erreichte. Es besteht höchste Sicherheitsstufe, denn der Druck auf die Stadt San Francisco wächst stündlich. Tausende von Demonstranten haben sich in San Francisco mit Protestplakaten und tibetischen Flaggen eingefunden.
Pro-Tibet Demonstranten in San Francisco (Foto: dpa) [Bildunterschrift: Auch gestern gingen im Stadtzentrum von San Francisco wieder tausende Demonstranten auf die Straße.
http://www.tagesthemen.de/ausland/olympia122.html

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「気」とは何か:超越エネルギーと精神生命とMedia Point Intelligence

テーマ:新霊性new spirituality

「気」とは何か。これは、実は、簡単に誰でも感覚することはできるのである。合掌するようにして、両手の指先を接近させて、先端を意識するのである。そうすると、磁力のようなものが感じられるだろう。これが「気」だと思われる。思うに、電磁気力である。あるいは、生命電磁気である。
 私は先に、「気」を同一性エネルギーと考えた。つまり、同一性=物質を形成するエネルギーである。しかしながら、同一性=物質は、それ自体では、生命にはならないだろう。生命体は単なる同一性=物質ではない。
 Media Pointの様相を考えよう。ここでは、垂直の超越エネルギーが水平の現象エネルギーへと変換される。いわば、質的エネルギーを量的エネルギーへと変換させる回路がそこにある。
 これは、単に物質現象の説明にしかならないだろう。生命現象を説明できないだろう。では、生命現象とは何か、である。
 作業仮説ないしは思考実験であるが、生命と物質との違いとは、差異の様態に違いにあるのでではないだろうか。即ち、物質の場合は、差異⇒同一性であり、同一性で終結するのであるが、生命の場合は、差異⇒同一性⇒差異という循環回路があるのではないだろうか。
 換言すると、物質は直線的であるが、生命は回帰的であるということである。物質の場合、差異が同一性化すると、そこでエネルギーの終焉するのであるのに対して、生命に場合は、差異が同一性化した後も、差異のエネルギーが残っていて、それが、新たに、同一性化を発現させるように思えるのである。わかりやすく、比喩的に言えば、差異が種であり、それが、同一性化するとは、生長することであるが、それがいったん終了すると、種を結実する。これが、いわば、再差異化である。そして、これが循環するのである。差異が同一性に対して過剰なのが、生命ではないだろうか。
 だから、ここで「気」について考えると、それは、過剰な差異エネルギーのことではないかと考えることが可能である。思うに、それは、物質を有機的に秩序化する情報エネルギーでもなくてはならないだろう。直感では、差異から同一性への変換のプロセスが「気」ではないだろうかと思われるのである。いわば、精神と物質との中間態が「気」のように思われるのである。即ち、「気」とは、純粋な精神でもないし、純粋な物質でもないが、精神に関係するし、物質にも関係すると考えられるのである。おそらく、量子に近いもののように思えるが、結局、両義的であり、精神の側面と物質の側面をもつということである。おそらく、造語した方がいいのかもしれない。とりあえず、メディア子(し)としよう。メディア子としての「気」である。それは、自己認識方程式では、⇒に相当するだろう。
 ということで、「気」=生命についての検討はここで終えることとして、次に、少し、広義の情について考察しよう。私が考えているのは、シュタイナーのアストラル体である。これは端的に、広義の感情である。
 直感で言えば、精神エネルギーである。すると、それは、超越エネルギーということになるだろう。そうならば、自我ないしは自己はどうなるのだろうか。
 自我とは、連続的同一性意識である。物質的意識である。それに対して、自己とは、差異共振的意識、精神的意識である。
 だから、情と自我/自己との違いは、エネルギーと意識の違いであると言えようか。言い換えると、エネルギー様態と知的様態の違いということになる。
 ならば、エネルギーと知とはどう異なるのだろうか。知ないしは合理性・理性とは、思うに、差異共振性と同一性との緊張関係にある認識であり、差異共振性を内包した同一性認識のことではないだろうか。つまり、差異共振的同一性認識が知ないしは合理性・理性のことではないだろうか。言い換えると、自己的自我認識である。
 ここには、差異共振エネルギーは包摂されているのである。つまり、情は包摂されているのである。そうすると、知・合理性・理性は、情を包摂した高次元的な認識様態と言えるのではないだろうか。
 問題は知・合理性・理性の高次元性であるが、それは、差異共振エネルギーがイデア・エネルギー、即ち、高次元エネルギーであるから、超越的なイデア界とその理念知を仮説したときに、そのエネルギー(情)が包摂可能となるだろう。
 このイデア界の理念知であるが、それは、エネルギー(情)に基づく、それに即した、仮説された高次元的知であり、この知と同一性の認識(現象認識)とが結合・融合したものになると考えられる。垂直性と水平性を結合させた知であり、端的に言えば、Media Pointの知(インテリジェンス)、Media Point Intelligence(略して、MPI)と言えるのではないだろうか。比喩的に、十字知性でもいいだろう。【ここで、バラ十字を想起した。七つの薔薇の花と黒い十字架との結合である。七次元ということだろうか。七次元とは、根源の三次元[(+i)*(-i)乃至は三柱の神]とMedia Pointの四元性(+i, -i, +1, -1)を足したものか?】そして、これが、新知(性)・新理性・新合理性であろう。
 これで、アストラル体である超越エネルギーと自己/自我知であるMedia Point Intelligenceとの違いを説明できたとこととしたい。
 最後に、まだ、不鮮明な感のある「気」の解明であるが、もう少し説明を進展させるならば、段階を設けると明快になるように思われる。即ち、生命エネルギーとしての超越エネルギーの段階と精神エネルギーの超越エネルギーの段階を分けることである。
 最初に、おそらく、生命エネルギーとしての超越エネルギー振動があり、それが、「気」となる。そして、その基盤の上に、新たに精神エネルギーとしての超越エネルギー振動が発動すると仮説すればいいと思われるのである。おそらく、両者は振動の質が異なるように思われるのである。簡単に言えば、生命エネルギーの振動がより低く、精神エネルギーの振動はより高いのでではないだろか。今はここで留めたい。

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ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』の中の情動に関する概念と、超越性との関係について

テーマ:検討問題

この主題は、つまり、ドゥルーズ&ガタリ(以下、D/G)の情動論とプラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)の超越性との比較は、ポスト・モダン(ポ・モ)の探った領域を確認することを意味するのである。
 D/Gの『哲学とは何か』は、凝縮され過ぎて、説明が不足しているような箇所が多いが、とても興味深い書である。
 とまれ、これまで、D/Gのポスト・モダンの差異を連続的差異として捉えて、自己認識方程式では、-1と先に考えたが、どうも、情動論を見ると、そこには、即非に近いものがあると思われるのである。
 たとえば、生成変化論があるが、それは、端的に、差異と差異の即非論によって明快に説明できると思われるのである。女性、子ども、動物に生成変化するというが、それは、即非論的である。
 しかしながら、根本的に、連続論であるのが欠点である。そこでは、フッサールや現象学の超越論性が批判されている。そして、内在論を説くのである。即ち、内在平面の仮説を説くのである。
 だから、PS理論の観点から見ると、D/GはMedia Pointを連続化させているように思われるのである。つまり、超越性が連続化して、内在化されていると思われるのである。
 つまり、ゼロ度である。ゼロ度のエネルギー空間として、内在平面を仮説しているように思えるのである。差異の不連続性を消去してしまった空間である。
 そうすると、これは、ほとんど、ヘーゲル哲学になるように思われるのである。差異の連続化が同一性であり、それは、ヘーゲルの観念形式となるだろう。
 それに対して、(後期)デリダの場合は、超越性は否定しつつも、ゼロ度の不連続性を説いていると思われるのである。言うならば、超越性を否定したMedia Pointである。
 だから、D/Gの超越性とデリダの不連続性を結びつけると、哲学としてのPS理論にほぼなるように思われるのである。

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同一性について:仮象的同一性と特異的同一性:多様な現象世界とイデア論

テーマ:差異と同一性

これまで、差異と同一性の関係について検討に検討を重ねてきて、結局、同一性を包摂する差異共振性ないしは、同一性を包摂する超越的差異という考え方に達したが、果たして、同一性を同一性として固定していいのか、という問題がありうるのである。
 まず、具体的にするために、明快な例をあげよう。親指は英語では、a thumbである。そして、厳密には、a fingerではないのである。だから、片手には、普通、英語では、four fingers and a thumbがあるのであり、five fingersではないのである。
 ありていに言えば、親指は指ではないのである。日本語で親指とは、ある対象に対する同一性概念であり、指という同一性概念に入る。しかし、英語では、親指(同一性)の対象は、「指」a fingerではない。
 これは、対象としての親指の同一性は、英語と日本語では成立しないことになるだろう。親指は、「指」(同一性)ではないのである。
 そうすると、この場合、同一性とは何か、という問題が生じるだろう。親指は、同一性ではないということになるのである。同一性の破綻がここにあるだろう。
 すると、すぐ考えられるのは、親「指」とは、仮象の同一性ではないかということである。ないしは、仮構の同一性ではないかということになる。(さらに極端化すれば、幻想の同一性ではないか、となるだろう。この点はおいておく。)
 つまり、「指」という実体をもった同一性が存するのではなく、仮象・仮構として、「指」という同一性があるのではないのか、ということである。言い換えれば、バーチャルなものとして、乃至は、シミュラクラとして同一性が存するのではないのか、ということになる。
 この問題は実に伝統的な問題でもあり、たとえば、見立てということも、これに関係するだろう。いったい、見立てとは何か。やはり、仮象であるが、そのものとして、認知するということである。
 そうならば、この仮象認識とは何なのだろうか。思うに、主体・主観性において、同一性形式があるのであり、その同一性形式を対象に当てはめる認識行為のことではないのか。
 「指」の場合は、「指」という同一性形式を対象の親指に、いわば、投影すると考えられる。つまり、内的な心的な観念として、同一性形式があると言えるのではないだろうか。だから、これは、観念論の勝利である。フッサールの志向性の概念通りである。
 だから、同一性とは、仮象・仮構的同一性であるということになる。結局、同一性志向性ないしは同一性構造に基づく志向性が基盤にあるということである。つまり、超越論的主観性である。同一性主観性と言ってもいいだろう。
 しかし、これは、当然、内的な差異、外的な差異を否定・排除したものである。内的な同一性志向性に基づいて、外的な差異(特異性)を同一性化するのであり、同一性志向性は、また、内的な差異(特異性)を同一性化しているのである。
 この同一性志向性を、これまで、連続的同一性と呼んできた。これは、差異を否定しつつも、差異と連続している同一性への志向性というものである。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽することが、差異との連続性を保持しているのである。
 主題にもどると、仮象同一性とは、観念性であるから、物質的実体性はないということになるだろう。ここで、同一性としての物質との関係が問題になる。
 古典物理学は、同一性としての物質を基礎としていた。しかし、これが、相対性理論や量子力学において、崩壊したと言えよう。前者では、観測地点によって、ある対象の速度等が異なるのであるし、後者では、位置と速度の数値が同時に決定できないことになったのである。
 だから、現代物理学においては、やはり、同一性の物質ではなくて、仮象の同一性としての物質概念が生まれたと言えよう。
 そうすると、同一性とは、少なくとも、仮象的同一性と見るのが適切であると言えよう。だから、仮象としての現象というイデア論的視点が現代的に、正当化されると言えよう。
 そうすると、同一性を包摂する差異共振性という概念はどうなるだろうか。結局、仮象である同一性現象を包摂する差異共振イデアという理論になるだろう。
 そして、これを量子論的に言えば、仮象同一性物質を包摂する差異共振イデアが量子・素粒子であるということになるだろう。
 そう、量子・素粒子とは、端的に、物質ではないのである。それはイデアなのである。あるいは、イデア的エネルギー(いわば、イデネルゲイアないしはイデネルギー)である。(後で、イデアとイデア的エネルギーの区別を明晰にしたい。)
 それでは、いったい何がそこから帰結されるのか。それは、いわゆる、現象なしいは現実とは、多様な仮象同一性現象であり、複数現象であるということではないだろうか。ありていに言えば、個Aと個Bが見る現象世界は異なるということである。個Aの現象世界Aと個Bの現象世界Bが存するということである。この二つの現象世界は、端的に、同一ではないということになろう。
 いわば、複数多数現象世界があるということになるだろう。そして、それらは、相互に不連続ではないだろうか。個Aが見る桜の花と個Bが見る桜の花は一致しないだろう。確かに、桜の花という形式においては一致するが、個における桜の花の仮象同一性は、相互に一致しないのではないだろうか。なぜなら、個においては、仮象同一性は、個独特の構成があると考えられるからである。たとえば、私が、バッハ音楽を聴くときは、私の中の経験の蓄積において、聴くのであり、その経験の多様性の構成の中におけるバッハ音楽となるのであり、それは、単純な仮象同一性バッハ音楽ではないのである。特異性における仮象同一性バッハ音楽である。
 言い換えると、仮象同一性は、特異性化されているのである。特異な仮象同一性なのである。そして、特異な仮象同一性とは、端的に、特異的個体ではないだろうか。
 そう仮定して考察を続けると、たとえば、アリストテレスの形相とはどうなるだろうか。それは、仮象同一性形式ではないだろうか。そう、アリストテレスの「形而上学」は、既に近代主義的である。そこには、特異性が抜けているのである。
 ここで、プラトンのエイドスないしはイデアとについて考えると、それは、特異的同一性形式ではないだろうか。これは、ほとんど、フッサールの超越論的主観性形式であろう。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point的同一性形式である。
 思うに、プラトンのイデアは、この面と差異共振性の両面が混淆していると思われるのである。たとえば、善のイデアは、後者であると思われる。また、花のイデアや机のイデア等は、前者だと思われる。
 いわば、超越論的構造主義者としてのプラトンと、超越的構造主義者(超越的差異主義者)としてのプラトンが存すると思える。『国家』における芸術家を追放したプラトンは、前者であり、いわば、悪しきプラトンである。
 では、最後に、ヒンズー教やインド哲学で言われるマーヤーについて考えてみたい。そこに、幻想としての同一性という主題も含めたい。
 まやかしとしての現象という考えでもある。仮象と幻想は似たものがある。しかしんがら、たとえば、オフィスの窓外に見える桜の木であるが、これは、仮象であるが、さらには、幻想であるのだろうか。
 幻想とは、空想的であり、非現実的であろう。しかし、桜の木は仮象とは言え、現実的である。だから、幻想としての同一性ということは言えないと思われるのである。
 補足として、仮象の同一性について考えると、仮象は変動・流転・流動等するので、流動仮象とも言えるだろう。だから、仮象としての同一性は、生成流転するものとなる。だから、幻想とまでは言わないしても、幻的とは言えるだろう。そうすると、仮幻象としての同一性となるだろう。
 この意味では、仮象はマーヤーと言えようか。

日本の政治の様態:自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義:差異民主自由主義へ向けて

2008-04-08 21:08:36 | ポスト近代的自我/ポスト唯物論
日本の政治の様態:自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義:差異民主自由主義へ向けて

テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義

以下の大規模店の問題は、日本の政治層の構成を考えるのに役立つ。
 結局、1)財界型政治層、2)官僚主導型政治層、3)アメリカ中心的政治層、4)民主主義的政治層、他があるのだろう。
 1~3は亡国売国層でもある。問題は政官財+米国の複合体になっていることである。
 これらの政治層は、国家集権主義(官僚制)と大資本中心的自由主義と米国中心主義の複合体であるが、これらに共通するのは、端的に、父権的同一性合理主義ないし同一性価値中心主義(ロゴス中心主義)である。
 民主主義は従位であり、イデオロギーとして使用される。例えば、ブッシュのイラク民主化政策である。端的に、今日、政治理念では、自由主義、民主主義、国家主義の三つが主要な構成要素であるが、自由主義と国家主義が癒着していて、自由国家主義とでもいうものになっている。
 日本では、国家主義にアメリカ中心主義が結びついているのだろう。だから、日本では、自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義の四つが存していて、民主主義は従位的な位置に貶められている。(これには、いろいろ問題があるが、ここでは言わない。)
 結局、自由主義・国家主義・被植民地主義の複合体が政治の中心であり、それらは、父権的同一性主義である。近代合理主義と言ってもいいだろう。【ただし、自由主義の場合は、近代自由主義と言うべきである。トランス・モダン自由主義の場合は、差異共振主義になると考えられる。】
 とは言え、正確には、大資本主義的自由主義・国家集権主義・被植民地主義の複合体、いわば、三重苦である。そして、思想的には、父権的同一性中心主義(ロゴス中心主義)である。
 ここには、恐ろしいばかりに、差異がないのである。ほとんど、全体主義に近いと言えよう。その複合体には、マスメディアが入るが、それが実質的に情報コントロールしているのである。
 結局、民主主義は普通選挙や代議制という形式があるだけであり、民主主義を精神的に支える差異価値がほとんど見られないのである。
 結局、支配的な複合体は、同一性中心主義で動いているので、差異価値のことがわからないのである。だから、個民ないしは差民が覚醒して、政治を動かして、自らを救済するしかないだろう。
 差異民主主義ないしは差異自由主義を実現する政治を形成する必要があるだろう。略して、差異民主自由主義である。乃至は、差異共同体自由主義である。
 差民一人一人が政治を動かす気概をもつ必要があるのである。近代主義的同一性中心主義からトランス・モダン差異価値へと転換させることがポイントである。
 
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郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、それを中央(東京)
に持って行ってしまう。地元から、商品を仕入れるわけでもない。

2008年4月4日 金曜日
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、
それを中央(東京)に持って行ってしまう

◆地方都市の商店街の衰退は「格差」の象徴 1月11日 高根文隆

 仕事柄、地方都市によく出かけます。そして、ほぼ例外なく、壊滅状態となった駅前の商店街を目撃します。その度に、哀しいような切ないような感覚に襲われます。
 
 私が生まれ育ったのは山口県の中堅都市で、20年ほど前までは、中心部は県内有数の賑わいでした。

 小さい頃、両親の手を握りドキドキしながら歩いた目抜き通りの賑わい、暖かい人情や独特の雰囲気を発散させていた商店街の人たち…。

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080404

株式日記と経済展望


検討問題:諸考察:1)「気」とは何か:2)心の病と国家集権主義的似非改革、等々

テーマ:検討問題

1)「エーテル体」ないしは「気」(気エネルギー)とは何か

2)心の病と国家集権主義的「新自由主義」との関係:心の病の蔓延は単に内因だけのことではないと考えられる。外因として、国家集権主義(国家統制主義=官僚制)による「新自由主義的構造改革路線」による反民主主義の実態があると考えられる。

3)太母と太父:陰陽と陽陰:これは先に述べた、まったくの思考実験であるが、父権的一神教とは母権的多神教の反転であり、基本は太母主義であり、結局、今日、太父主義が失われているのではないのか。太父主義は、陽から陰、同一性から差異へと転移する志向性である。
 先に述べたが、聖書において、ヤハウェが太母の反転であり、エローヒームが太父ではないのか。二つの原神があるのはないのか。
 精緻な検討を後で行いたい。

4)ラディカルな差異主義の可能性:私は同一性を包摂する差異(差異共振主義)を唱えているが、同一性を仮象と見る立場からすると、いわば、差異絶対主義が考えられるだろう。プラトン哲学には、この面が見られる。現象への強い懐疑である。
 結局、問題は、同一性とは何か、ということになる。有り体に言えば、果たして、同一性とは幻想ではないのか、という疑問が浮かぶということである。これは、ヒンドゥー教を含めたインド哲学や仏教の考え方に近い。
 そう、端的に言えば、現象はマーヤーであるという問題である。これは、また、「見る」とは何かという問題でもある。また、物質感覚身体の問題でもある。
 情の問題でもある。情はエネルギーの取得の欲望がある。本来的に欠落しているのである。現象化とは、エネルギーの不足の事態であり、エネルギー獲得がいわば生存の意味である。
 このエネルギー獲得の方法が人類の知を発達させたと言えよう。これは、当然、戦争の発展も意味するのである。
 内的なエネルギーの不足とは、根源的なルサンチマンを意味するだろう。とまれ、端的に、同一性とは何か、である。

性格と精神感覚現象について:性格が相貌に発現するのは、どう説明できるか

2008-04-06 21:51:12 | プラトニック・シナジー理論
性格と精神感覚現象について:性格が相貌に発現するのは、どう説明できるか

テーマ:精神

http://ameblo.jp/renshi/entry-10086015761.html
で、性格と精神現象との関係について論考したが、不十分なので、ここで再検討したい。
 問題は、性格という精神性がどうやって相貌において感覚現象化するのかということである。つまり、端的に言えば、精神が視覚・可視化されるのは、どういう力学なのかということである。
 この問題は一見、超越的光が視覚されることに似ている。通常、現象光を視覚する。しかし、特異な時空間においては、現象光は超越光ともなるのである。これは、Media Pointが開かれる時空間と考えられる。Media Pointが開かれると、単に現象光があるだけでなく、超越光が直接放出されると考えることができるのである。つまり、現象光と超越光が重なるのである。
 しかし、本来、不可視の超越光がどうして、可視化されるのだろうか。思うに、精神的視覚を仮説することが必要なのかもしれない。あるいは、超越的視覚である。いわば、第六感覚である。それを仮定すれば、問題はなくなるのである。
 この視点から、性格の視覚化の問題を見ると、同様に、問題はなくなるだろう。即ち、精神的視覚によって、性格の相貌を見ていることになる。
 しかし、それでいいのだろうか。超越光の場合は、精神的視覚を考えていいように思うが、性格の相貌化の問題に関しては、違うのではないかと思われるのである。なぜなら、Media Pointにおいてではなくて、性格が直接可視化されると考えられるからである。
 問題は、性格が差異ならば、それが視覚化されるとは、どういうことなのかである。それは、同一性化なのだろうか。それは違うだろう。問題は、魂が同一性化によって視覚化=相貌化するときには、単に、同一性化だけではなくて、差異共振性をベースにした同一性化が本来的であると思われるのである。源泉の差異共振性があって同一性化するときには、相貌は善なる性格を反映したものになると思われるのである。
 しかるに、ベースの差異共振性が抑圧されて、同一性化するとき、つまり、同一性主義化するとき、相貌になんらか歪みが現われると思われるのである。
 思考実験的に考えると、魂の波動の問題があると考えられる。同一性化とは、いわば、粒子化である。しかるに、魂の波動は波動として、同一性化された粒子においても存していると考えられるのである。つまり、超越エネルギー(「電磁波」)は、粒子的には、同一性化して、物質化するが、同時に、波動は波動として同一性化すると思われるのである。つまり、エネルギーの二重の様相があると思われるのである。粒子化と波動化である。そして、性格の相貌化については、魂の波動の形態が性格相貌になるのではないだろうか。言い換えると、精神波動形態が性格相貌ということである。
 さらに言い換えると、精神波動の場合は、物質現象化されないということではないだろうか。精神波動は波動として、発現するということではないだろうか。今の段階ではそのように作業仮説しておこう。
 ところで、魂の物質化と波動化の二様を想定することになると、これは、超越光の場合にもあてはまることになるのではないだろうかと思われてくるのである。
 電磁波は端的に、粒子であり、波動でもある。そして、粒子が現象光を形成し、波動が超越光を反映するということにならないだろうか。そうならば、Media Pointを想定する必要がなくなるのである。
 しかしながら、波動感覚ないしは波動知覚があるなら、それは、Media Pointを介して、感覚知覚するということではないだろうか。例えば、性格相貌の場合、主体の開いたMedia Pointの感性として、他者の性格相貌を知覚するのではないのか。そして、陽光の場合も、同様に、主体の開いたMedia Pointの感性において、超越光を視覚するのではないのか。これまで、超越光に関しては、特異な時空間において、Media Pointが開いて、視覚すると考えてきたのである。それは客観的な事象であり、主体性・主観性ではないのである。
 そうすると、齟齬が生じている。思うに、超越光の場合、Media Pointの開きは、外界の場合、内界の場合、そして、両者の場合の三様があるのではないだろうか。そして、性格相貌ではあるが、この場合は、主体の Media Pointが中心であると思う。とりあえず、このように考えておく。
 簡単にまとめると、性格相貌とは、魂の波動形態であり、同一性化ではないということである。

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感覚現象と精神現象の関係:心と感覚身体の連続的同一性と即非性:ロゴス中心主義とルサンチマン

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

先に、性格が相貌に現われるということをいい、理論化しようとしたが、不明瞭であったので、ここで再検討したい。
 問題は、精神現象と感覚現象が即非態であることの意味を明快にすることである。
 もう一度、性格が相貌に現われるという現象、いわば、感覚精神現象を出発点にして考察しよう。性格的相貌ということであるが、それは、顔貌という感覚現象において、性格という精神ないし心的要素が現われるということである。単に、目鼻立ち云々ではなくて、顔全体において、ある相貌があるということである。これは常識的な事柄である。
 これは、表面であると同時に、深部を意味する。そう、サインやシンボルと言ってもいいだろう。私見では、心や魂という内部の力学が表面に現われているのである。つまり、心や魂がある感覚的な力ないしは身体的な力を起して、顔の表面に影響しているのである。
 そう、表情というものとつながる面があるだろう。広義の情を考えると、性格的相貌とは、正に、表情である。
 とまれ、心的力学が身体へと転換して、相貌を形成するということである。心と感覚身体との繋がりである。あるいは、精神と感覚身体とのつながりである。あるいは、魂と感覚身体(顔)とのつながりである。
 これは、プラトニック・シナジー理論から明快に説明できる。即ち、Media Pointの魂が、同一性志向性をもち、同一性感覚身体を構成・構造化すると考えられる。この同一性志向性とは連続性であり、魂と感覚身体は連続化するので、魂と感覚身体(顔)が繋がるのである。魂を精神とすれば、精神と感覚身体の繋がりである。
 結局、魂=精神のもつ連続的同一性志向性が、魂=精神と感覚身体とを結びつけているのである。【所謂、心身論であるが、心と物質的身体とのつながりは、この視点から説明できよう。すなわち、物質性は、同一性を介して、心(魂=精神)に影響を与えるのであり、また、逆も同様である。この同一性は微妙である。これについては、後で考察したい。p.s. 結局、同一性は物質であるので、ここの説明は間違っている。結局、心は同一性=物質化されるということになる。しかし、心・即非・物質ということである。】これで、性格が相貌に現われることの解明ができたと考えられる。【p.s. これは、あまりに不注意な言明であるので、訂正して、さらに考察したい。つまり、魂=精神が連続化して感覚身体になるということだが、これでは、性格が相貌に発現することを説明していないのである。それでは、単に、顔の形成にしかならない。
 問題は、当然、顔の物質的な形成だけでなく、性格という精神性が相貌に現象化することの力学の解明である。連続的同一性化は顔の物質形成を説明するが、性格の現象化はどう説明できるのか。
 思うに、身体現象化と精神現象化を分ける必要があるように思える。身体現象化とは、端的に、物質身体化である。それは、遺伝子情報で説明できるが、それは、魂の原物質的波動の現象化のように考えられないだろうか。そして、精神現象化であるが、それは、魂の精神的波動の現象化ではないだろうか。即ち、魂(心・精神)において、波動の区別を考えるのである。ある波動が精神現象となり、別の波動は身体現象となると考えるのである。そして、性格の場合であるが、それは、前者が現象化すると考えることになる。
 しかしながら、問題は、ある波動が精神感覚現象となるとき、その波動が連続化すると考えるならば、それは、物質化となり、精神ではなくなるというように考えられてしまうのではないか。しかしながら、連続化が精神性を発現すると考えることはできるのであるが、それはどういうことなのであろうか。この問題は、重要なので、別稿で論じたい。http://ameblo.jp/renshi/entry-10086132005.html 】
 ここで、精神と感覚との即非態のことを考えると、それこそ、真相・真実であると考えられる。即ち、連続的同一性によって、心=魂=精神と物質感覚身体とが繋がる(連続化する)。それは、「即」の側面である。心・即・身体である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論から見ると、連続的同一性とは半面に過ぎず、実際は、心=魂=精神と物質感覚身体とは不連続性をもっているのである。連続性であり、且つ、不連続性であるということである。これで、本テーマの解明を終えたこととしたい。

 さて、上記で残しておいた、魂と物質を仲介する同一性について、ここで検討したい。この問題は、心(魂=精神)と物質との関係の本質を問う問題であり、実に興味深い。
 問題は、同一性、乃至は、連続的同一性とは何か、である。心=魂=精神がMedia Pointから発生させる同一性であるが、それは、Media Pointにおいては、構造と言えるだろう。即ち、同一性構造である。
 しかし、これは、あくまで、心的構成であり、物質ではないと考えられる。では、この同一性構造=心的構成と物質はどう関係するのか、ということになる。
 思うに、同一性志向性とは、感覚物質(感覚器官)を形成するのではないだろうか。だから、同一性構造とは物質構造であり、ほぼカントの超越論的形式に相当するのではないだろうか。
 とまれ、端的に、同一性とは物質ないしは感覚器官のことであるということになる。だから、魂=精神は、連続的同一性志向性(構造性)によって、物質的感覚器官になるということになる。そして、同一性構造がMedia Pointにおいて、存しているのであり、それは、超越論的形式と考えることができそうである。簡潔に言えば、同一性=物質=感覚器官である。
 だから、端的に言えば、物質とは、心=魂=精神の顕現なのである。正に、イデア論である。しかしながら、物質現象は、根源の差異を抑圧否定しているのである。つまり、差異共振的心・魂・精神を抑圧しているのである。
 この問題は、多神教的魂から一神教的魂への変換にも関係することで、実に重要な問題である。思うに、多神教的魂においては、同一性は差異に包摂されていて、いわば、未分化である。しかしながら、一神教的魂は、差異を否定した、ルサンチマン的同一性である。これは、自我主義の発達と関係するのである。
 連続的同一性による物質化は、最初は、未分化的である。しかし、自我の発達においては、同一性の中心化が起り、差異を抑圧否定するのである。この同一性中心化の意味を考察しよう。
 これは、端的に、差異共振化の排除である。自我中心化・自己同一性中心化(ロゴス中心主義)である。そして、ここには、ルサンチマン(原ルサンチマン)が駆動していると考えられる。この力学を考察しよう。
 この問題も難問の一つであり、また、情の問題から見ても、重要なポイントである。端的に、何故、差異を排除するのか、である。連続的同一性志向性においては、最初は、差異を排除するというよりは、差異をおいて、同一性形成を行うというものであり、差異は否定されていない。しかし、同一性中心化においては、それは否定され排除される。
 この問題は大難問で、明快な解答が出ずに、いわば偏執的に検討を重ねてきた問題である。これまでの答えは、父権的な同一性傾斜が原因となり、差異を否定する同一性中心化が行なわれたというものである。これはこれで、実に明快であり、単純である。
 しかしながら、今は、より精神現象的に考察したいのである。ここで、情の問題で考察したい。最初の連続的同一性においては、多種多様な同一性が形成されるが、根源の多様多元的な差異は残っている。ここでは、ギリシア神話を考えるといいだろう。多様なものが混淆しているのである。それは、差異の情報性(波動・振動)で説明がつくのはないだろうか。あるいは、回転速度かもしれない。
 では、この多様多元的な差異や同一性を否定する同一性中心主義の意味は何か。これは端的に、統一性志向性ではないだろうか。では、この統一性志向性はどこから発するのだろうか。思うに、これは、完全なショート(短絡)ではないだろうか。最初の連続的同一性は、根源の差異を残していたが、統一性志向性は、差異=同一性というショートの状態を志向しているのではないのか。
 ここで思考実験すると、最初の連続的同一性状態においては、差異と同一性が未分化的に併存している。そして、魂は、差異と同一性に間をいわば揺らいでいるのではないだろうか。ある意味で中途半端である。そして、同一性/差異の魂は、現象界における苦・悲哀を経験するのである。「わたし」(自我)は、未分化的であるが、それは、同一性において存すると言えよう。
 先に述べたが、差異共振性は、歓喜であり、そこにおいては、ルサンチマンはありえない。しかしながら、連続的同一性化において、差異と同一性が並存するが、そのとき、現象界において、魂は、苦・悲哀を感受するのである。苦・悲哀とは、差異である。それに対して、同一性(自我)は、怨むのである。そう、これが原ルサンチマンではないだろうか。現象界における差異が受苦するが、それに対して、同一性(自我)は怨恨を覚えるのである。ここがポイントである。
 この怨恨(ルサンチマン)が憎悪の反動力を生むのではないだろうか。つまり、同一性のもつ反動力としての同一性中心化(自我中心化)が発生するのではないだろうか。つまり、反動的同一性力が、同一性中心化、統一性志向性の原動力ではないだろうか。
 ということで、同一性化における怨恨の発生から反動的に同一性中心化が生起すると考えられるのである。この同一性中心主義(ロゴス中心主義)=一神教が生起するには、ルサンチマンが契機となっていると考えられる。この真因であるが、それは、やはり、男性的な同一性傾斜と同時に、言語を絶した酷烈苛烈な苦・悲哀の体験ではないだろうか。砂漠の父権的遊牧民が一神教を生んだのは、それで説明がつくのではないだろうか。砂漠における生存競争のおぞましい苛烈凄惨さがあると考えられるのであり、そこでは、怨恨が過剰に強化されて、統一性志向性が発生すると考えられるのである。そう、凄惨無惨酷烈苛烈な民族闘争があったと考えられるのである。そういう修羅場から怨恨が発生して、統一性志向性(同一性中心主義、ロゴス中心主義)が生まれたと推察できるのである。
 ショートであるから、統一性志向性は、Media Pointを同一性化して、超越神に化すと考えられるのである。

同一性主義(同一性中心主義)と視覚の関係について:感覚物質現象と精神現象の即非性再考

2008-04-05 19:47:16 | プラトニック・シナジー理論
この問題は、既述済みであるが、以前とは考えが少し違ってきているので、ここで論考したい。
 先に、私は、精神的視覚と感覚的視覚が即非の様態にあると結論した。例えば、陽光を見るとき、それは、感覚的視覚で見ると同時に、精神的視覚で見ると言ったのである。この考えは、基本的には今でも変わらないが、今は、感覚的視覚と精神的視覚の区別を明確にしたいと思っている。即非的様態を説くと、両者の質的区別が不明確になると考えられるのである。
 簡単な例をあげれば、女性の化粧である。それは、端的に、感覚的視覚における美化であり、精神的視覚は本来関与していない【p.s. 以下の考察から、化粧にもそれなりの精神性、生命精神性があると思われる】。
 そう、ここで、精神的視覚について少し言及した方がいいだろう。私が今思っているのは、心的、魂的、性格的相貌である。これは、感覚的相貌、つまり、容貌・容姿とは関係ないのである。ある意味で「気」的相貌と言ってもいいだろう。
 この精神的視覚であるが、私ははっきりと直観できるのであるが、一般には知覚できないのかもしれない。例えば、ある人物の履歴書の顔写真を見るとき、私には、相貌に胡散臭さを感じた。なにかペテン師的だと思った。その後、その人物をよく知ることになったが、直観は正しく、猫かぶりであり、傲慢な人物であったのである。
 私には、精神的視覚が明瞭に知覚できるのであるが、これは、どうも異能になるようである。とまれ、精神的視覚は、私だけの特殊なものではなくて、心眼をもつ人なら、もっているものと考えられる。
 そう仮定して、精神的視覚を考えてみると、それは、精神を視覚していることになる。極言すれば、一種の霊視である。あるいは、透視である。とは言え、霊・スピリットが見えるわけではない。
 端的に言えば、人物の性格が相貌に現われているということになる。これは、力学的はどういうことなのか。それは、感覚的視覚像において、性格的相貌が現われているということである。つまり、性格的相貌・顔貌力学があり、そのエネルギーが、感覚的視覚像に刻印されているということになる。簡単に言えば、性格的波動が現象化しているということになろう。
 以上のように、精神的視覚を考えると、冒頭にあげた、感覚的視覚と精神的視覚の区別がすこし怪しくなるのである。問題は精神性(性格性、心性、魂性、霊性)が、感覚現象領域に発現することである。これをどう把捉するのかである。
 つまり、端的に言えば、現象とは、単に感覚・物質現象だけではなく、精神現象でもあるということだろう。(ここで、唯物論や近代合理主義は崩壊する。)しかしながら、感覚性と精神性は即非様態である。
 本稿をまとめると、現象とは、感覚物質現象があり、また精神現象がある。両者は質的に異なるのである。しかしながら、精神は感覚物質界に発現するのである。すなわち、感覚物質現象・即非・精神現象なのである。
 そして、認識上の問題は、感覚美と精神美の認識にあるだろう。感覚美は、快楽・快感の強度が強いので、精神的審美眼(心眼)が麻痺させられると考えられるのである。
 端的に言えば、感覚美とは何かである。例えば、桜の花は、新緑は、感覚美の対象なのか。それは精神美の対象ではないのか。あるいは、桜の花、新緑自体に精神美があるのか。
 おそらく、両者には、なんらかの精神美があるだろう。春という季節がもつ生命力の精神美があるだろう。これは、伝統的には、気である。
 そう、生命精神美が両者にあると言えよう。だから、単に桜花や新緑は感覚美の対象だけではないのである。
 結局、感覚美と言われるもの、あるいは、美と言われるものには、なんらか、精神が関与しているということになるだろう。ただし、精神には、生命精神もあれば、魂的精神もあり、また、多様性をもっていると考えられる。
 結局、感覚現象と精神現象の明確な区別と即非性が確認されるが、感覚美と精神美に関しては、美の多様性ないしは複合性があるので、両者は瞭然とは区別できないことになるだろう。【具体的に言えば、デザインの美は、感覚美なのか、精神美なのかということになるだろうが、一般には、感覚美であるが、それは、生命精神をもっているので、それなりに、精神美でもあるのである。即ち、感覚美=精神美である。おそらく、デザインの問題は、それが、精神美への志向性をもたないと早晩皮相・軽薄化することだろう。つまり、デザインは美術への志向をもってデザインたると考えられる。】

p.s. 論の焦点が少しぶれているので、後で明快にしたい。

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検討問題:心情の閉塞している日本人とりわけ東京人:亡魂による醜態
テーマ:検討問題
これまで、近代的自我批判を行ってきたが、考えると、近代的自我主義への批判であり、近代的自我そのものは否定できないのである。今考えている私は、自己をベースにはしていても、近代的自我を介しているのである。
 とまれ、今問題にしたいのは、近代的自我主義によって、心情、精神的感情が閉塞される、ないしは抑圧されることである。
 この証明は実に簡単である。今日の日本の歌、とりわけ、若者の歌を聴けばいいのである。確かに、中にはいい歌もないわけではないが、ほとんど聴くに耐えないものであるが、理由は歌に心情が失せているからである。リリシズムが死んでいるのである。
 近代的自我主義は、自我的観念を強調するので、差異的心情を抑圧してしまうのである。これは、近代合理主義によるとも言える。今日、癒しが流行るのはこの点からもわかることである。
 私見では、70年代後半から今のような近代的自我主義化が強化されたのである。それは、精神的情緒を抑圧しているのである。悪魔的なのである。 
 魂を抑圧して、近代的自我主義化したのである。つまり、今日、日本人、とりわけ、東京人は、魂が埋もれている状態である。魂とは、個である。
 魂=個を喪失すると、醜の状態になる。お花見する日本人の醜態を見よ。魂を喪失しているので、審美意識を喪失しているのである。
 美とは、魂知性による。

p.s. 思うに、問題の根はもっと深いのかもしれない。今、中世の古典とされるチョーサーの『カンタベリー物語』を読んでいるが、実に、愉快である。600年以上前の作品とは思えない溌剌さがある。(やはり、中世にルネサンスの源泉があるのである。もっとも、14世紀はイタリア・ルネサンスの初期に当たる。)
 簡単に言えば、清濁合わせ飲む、ないしは、聖俗混淆の世界であるが、それが嫌みではないのが、楽しいのである。例えば、不倫があるが、大きな生々流転の流れの下で眺められているのである。
 思うに、広義の情が今日抑圧されているのかもしれない。ルネサンスの開放したものは、情であろう。ここには、世俗的情もあれば、神聖な情もあるのである。情は多様多元的なのである。
 そして、また、イデア論の基盤も情にあると思う。ただ、イデア論は、情という現象(情現象)に対して、イデア界を仮説して、情を理念(理念知)的に理解しようとしているように思うのである。
 おそらく、知識人・文化人よりも、庶民の方がイデア論は理解しやすいのではないだろうか。言い換えると、リリシズム(叙情性)とイデア論は深く結びついているのである。
 ニーチェの説くディオニュソスとは、いわば、リリシズムであり、それは、イデア論に近いのである。今、浮かんだが、ニーチェのアポロとは、イデア(語源的には、ideoとvideoは同じである。「見る」とイデアは同根である)ではないのか。この点は後で検討したいが、プラトニック・シナジー理論では、Media Pointにおいて、情が発現していると考えられる。
 また、今思ったのは、ギリシア神話(ローマ神話)であるが、それは、やはり、情の表現ではないだろうか。ギリシア神話は、実に、人間臭いのであるが、神聖なる次元をもっている。情は、超越的かつ現象的である。プラトニック・シナジー理論から言うと、情は超越的、即非、現象的である。
 おそらく、ギリシア宗教は、情を知的・合理的にコントロールできずに、衰滅したのだろう。それにキリスト教が取って代わったのである。キリスト教は、情から世俗性・感覚性を取り除いて、情を神聖化したのである。情の精神化である。ここに、情の神聖性と世俗性の分裂がもたらされたと言えよう。(思うに、プラトン自身にも、この分離がなくもなかったと言えよう。この点は検討したい。)
 とまれ、これが、近代的二元論の源泉であろう。プロテスタンティズム的二元論の源泉である。そして、近代合理主義が進展して、情自体が希薄化したのである。神聖な情は喪失され、また、世俗的な情は、卑俗化したのである。
 とまれ、Media Pointの開きとは、新たな情の発現でもある。それは、イデア論的な知を意味すると同時に、新しい情を意味する。天上的なものと地上的なものとの融合する情であろう。
 これを何と呼んだらいいのだろうか。言葉は、二元論的にできているので、適切な用語がすぐみつからないのである。とりあえず、差異共振情、差異共鳴情とでも言っておこうか。

p.s. わかりやすく言えば、天地情ないしは地天情である。


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参照1:

★ 2008年4月4日 金曜日 、14時更新

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 余談 直して使う (その3)

 我々が、この地球、この人間社会に誕生して、死を迎えるまでに、何を求めて生きてゆくのか? 何のために生まれてきたのか? 人生とは何か? 死とは何か? 我々とは何か?
 我々は、どこから来て、どこへ行くのか? (NHK風で申し訳ないが、気に入ったフレーズだ)

 ただ、あるがままを受け入れて、運命に翻弄される木の葉のように社会の川面を漂う人生もよし、与えられた肉体と頭脳の限りを尽くして、自分とは何か? 何のために存在し、どこへ行くのか? と答えを求めて彷徨う人生もよし、真実を理解することができるなら、複雑怪奇、難解、不可解に見える人生も、少しは安定を増し、座り心地がよくなりそうだ。

 筆者が半世紀を超える人生のなかで見いだした真実、すぐに死んでしまうような、か弱い肉体と、複雑なことを考えられない愚かな頭脳を与えられて、地球に誕生した我々の人生の本当の意味? それは、数百回もの人生、転生輪廻をなかで、人間のすべてを思い知り、その感情を体験し、合理的な自我を確立するということらしい。

 人の本質は、カゲロウのように現れて消える肉体にあるのではなく、人との交流のなかで磨かれる不滅の魂にあるようだ。強い人生も弱い人生も経験し、魂を磨きあい、普遍性を獲得し、やがて宇宙の合理性(ヘーゲル流に言えば「イデー → 絶対精神」)に融合する生命の流れに我々は生きている。
 といっても、相当に長い間、人生の意味を求めて、小さな成果を積み重ねないと、なかなか大きな真理に到達することは難しい。真理は求める意志の彼方にある。求めなければ決して得ることはできない。

 人生の真理は単に長さの問題ではない。肉体を無意味に延命させる必要などない。刹那の瞬間であっても、人は最高の喜び、最大の悲しみ、苦難、充実を体験することができる。体験を「学び」というなら、学びの量ではなく、質が問題なのだ。すばらしい学びを求めて人は生きている。
 数年の命しかなくとも、そのなかに、学びはぎっしりと詰まっている。百年を超す命でも、金儲けだけしか見えない人生は空っぽのままだ。

 これまで繰り返し、人生と社会における唯一で最大の価値は「人情」だと書いてきた。人は人情のなかで生きる意欲を与えられ、人情のために行動し、人情に癒されて生き延び、死んでゆく。人がもっとも癒されるもの、それは友情・人情、そのサインは人の笑顔だ。
 人生最大の秘密は、こんなところに潜んでいそうだ。

 人間社会で、人が問題の本質、人生・社会の本質を見失う最大の原因は、おそらく競争意識にある。
 あらゆるモノが不足するとき、競争意識は多くの人たちの役に立つ。しかし、モノが満たされたとき、それは桎梏(足枷)となる。人は競争によって、必要のないモノを作り出し、無益な浪費に走る。そして愚かな戦いを始めるのだ。
 競争意識、すなわちコンプレックスによって、人は虚構を作り出し、国家を作り出し、上流階級、金持ちという特権意識、優越感、ステータスの幻想を作り出し、社会の不幸を作り出す。
 もし、現代に生まれた我々に共通する大切な学びがあるとするなら、それは競争意識の克服にちがいない。

 2000年前、イエスが指摘したように、金貸しのバリサイ人たちが利息による金儲けを人生の目的として以来、人間社会は彼らユダヤ教徒、バリサイ派の陰謀に翻弄され続けた。彼らは、人生と社会の必要に応じた生産体制を認めず、彼ら資本家だけが肥え太る、金儲け、特権を人生の価値とするよう要求し、特権者が大衆を支配し利用するための国家という装置、虚構の社会を実現してきた。日本におけるバリサイ人の代理人は自民党である。バリサイ人たちは、人間同士の競争を原理とする社会を作り出したといってよい。
 そして現代に至って、「先進国」住民の多くが、他人を蔑むことのできる金持ちになり、人を自分の利益のために利用する社会を求めるようになり、社会を底辺の人情で支える体制が崩壊した結果、今、地球全体が破壊され、人間社会に巨大な破局が訪れようとしている。

 「競争原理の社会」が破滅を迎えようとしている。もはや競争のために、無意味な長時間労働、苛酷労働などする必要もなく、子供たちを成績で追い立てる必要もなく、人を無意味に批判、誹謗する必要もない。
 人は生きる必要に応じて働けばよい。どの程度か? といえば、みんなが、ゆとりをもって食べてゆける労働時間は、おそらく週三日、30時間もあれば十分だろう。人々は、食べるために週30時間働き、自分のために30時間を費やし、週10時間を公共奉仕のために費やせば十分だ。それで、何もかもうまくゆくはずだ。
 愚かな見栄、戦争、競争さえなければ、人々は、笑顔の溢れた、楽しく、ゆとりのある理想社会を建設し、そこで子孫を繁栄させることができるだろう。

 そうして、次にやってくる理想社会は、無駄なモノは作らない。必要に応じて生産する。モノは直して使う社会だ。
 あらゆるモノが直される。あらゆる人も直される。決して使い捨てされることはない。人は過ちを犯すもの。だから、失敗を責めて報復、制裁するのではなく、暖かく、人間として立ち直れるように手をさしのべる社会である。直して使う社会がやってくる!
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm

東海アマ地震予知情報

参照2:
 それでは、日本の国柄とは何か。それは、農耕民族として小さな共同体でお互いが助け合い、共存共栄することである。言い換えれば、「和の精神」を大事にし、共生を旨とする社会である。「勝ち組、負け組」ではなく一人でも多くの「しあわせ組」を作ることが本来の日本人のあるべき姿なのである。
 こうした「和の精神」は決して特殊なものではなく、むしろ紛争が絶えず、弱肉強食型の国際社会にあって日本が率先して普及すべき普遍的な価値である。現にヨーロッパでは、欧州連合の誕生により、日本のお家芸である「共存共栄」、「和の精神」が、ユーロというドルに迫る基軸通貨の発行により先取りされてしまった。
http://www.m-kiuchi.com/2008/04/03/kagayaki04/
城内みのる

参照3:
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、それを中央(東京)
に持って行ってしまう。地元から、商品を仕入れるわけでもない。

2008年4月4日 金曜日
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、
それを中央(東京)に持って行ってしまう

◆地方都市の商店街の衰退は「格差」の象徴 1月11日 高根文隆

 仕事柄、地方都市によく出かけます。そして、ほぼ例外なく、壊滅状態となった駅前の商店街を目撃します。その度に、哀しいような切ないような感覚に襲われます。
 
 私が生まれ育ったのは山口県の中堅都市で、20年ほど前までは、中心部は県内有数の賑わいでした。

 小さい頃、両親の手を握りドキドキしながら歩いた目抜き通りの賑わい、暖かい人情や独特の雰囲気を発散させていた商店街の人たち…。

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080404

株式日記と経済展望

自我主義の乗り越え:資本自由主義と形式民主主義と共同体民主主義:共同体民主主義的自由主義へ向けて

2008-04-04 00:24:06 | プラトニック・シナジー理論
テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

自分の周囲、そして、社会のこと、東アジアのこと、経済のこと、等々の様々な問題において、共通しているのは、自我主義が阻害要因であるということである。
 問題は、自我の否定が必要であるということではないのである。思えば、オウム真理教では、自我の否定が説かれていただろう。問題は、仏教が自我の否定を説いているのか、である。これは難しい問題であるが、私見では、仏教は自我主義を否定しているのであり、自我は否定していないと思う。色即是空、空即是色であるが、色とは、自我主義のことであり、脱自我主義を説いているのであり、自我自体は否定していないと思う。
 とまれ、自己同一性主義である自我主義の乗り越え、これが現代の決定的問題である。これまで、私は自我を否定して、自己を肯定してきたが、私が言いたかったことは、自己同一性主義の解体であり、自己同一性自体の否定ではないのである。自己同一性は否定できないのである。例えば、私は誰々、何々ですの誰々、何々は、否定できない。私は、Oという者で、医師です。と言う場合、この自己同一性=自我は否定できない。問題は、それが中心化されることである。それが諸悪の根源である。
 思うに、ポスト・モダン哲学は、同一性主義批判(ロゴス中心主義批判)であった。そして、広義の差異を唱えたのである。
 しかしながら、同一性主義は解体しなかったのである。冷戦後、グローバリゼーションは、資本の同一性価値を逆に強化して、サブプライム問題を生んでしまったのである。また、日本においては、東京中心主義となり、地方は没落してしまった。
 ポスト・モダン哲学は、流行になったが、有り体に言えば、批判対象として、同一性主義=二項対立性を真に乗り越えられずに、その内部に留まってしまったのである。単にアンチテーゼにしかならなかったのである。極言すれば、いわば、ヘーゲル哲学に逆戻りしてしまったのである。
 不連続的差異論そしてプラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダン哲学の限界を突破して、新しい差異の地平をもたらしたと自負している。即ち、同一性主義を解体して、超越性をもつ差異共振性の根本性を説いたのである。同一性は差異に包摂されることになり、差異が主であり、同一性が従、いわば、差異主/同一性従の理論が生まれたのである。
 これはまた、政治経済に対しては、自由主義と民主主義を共振化させることを説くものである。両者は本来、対立概念なのであり、それらが、先進諸国においては、併存する価値になっているが、それらは本来、異質な価値であると考えられる。即ち、自由主義とは、資本層にとって有利な考え方であり、下層にとっては、不利な考え方である。そして、民主主義は下層にとっても有利な考え方であり、資本層にとってもは、不利な考え方である。
 しかしながら、ブッシュの説くイラクの民主化というイデオロギーがからわかるように、民主主義は先進諸国のイデオロギーになるのである。つまり、民主主義は自由主義のイデオロギーになると考えられるのである。
 ブッシュの言う民主化とは、普通選挙のことであろう。(ならば、どうして、中国に民主化を説かないのか。首尾一貫していない。)それが普遍的な価値であり、それを他国に暴力的に押し付けるのは、どういうことなのか。
 思うに、少なくとも、二つの民主主義がある。以前にも述べたが、繰り返すと、形式的民主主義と内容的民主主義である。ブッシュのいう民主主義は前者に過ぎず、後者ではない。
 形式的民主主義は、普通選挙という形で明快であるが、内容的民主主義について考察しよう。
 端的に、内容的民主主義とは、国民・市民・民衆(以下、三つを含めて、個民とする)の物質的、文化的、社会的生活を向上させる理念である。個民の諸生活を維持し、向上させる理念であり、法的システムである。そこには、医療、福祉、教育、文化、起業等々の領域がある。
 だから、内容的民主主義とは、共同体民主主義と言えよう。結局、今日の世界は、政治経済的には、1)資本的自由主義と2)形式的民主主義と3)共同体的民主主義の三層を混淆していると考えられる。
 大事なポイントは、2と3を明確に区別することであり、また、1を単に自由主義ではなく、資本的自由主義と把捉することである。このように規定することで、今日・現代の問題が明瞭明晰になると考えられる。
 例えば、新自由主義は、1の中心化であり、3を阻害してきたのであることが今日明確になった。しかしながら、これまでの公共投資であるが、それは、一見、3の大義をもつようであるが、実質は1の強化であったのである。
 つまり、現代世界において、1が中心化されていて、2によって、3の実体が等閑にされているのである。
 では、このような傾斜した混淆した政治理念からどう脱皮できるだろうか。それは、広義の政治(単に間接民主主義形態だけではない)によって、共同体的民主主義のための公共投資を肯定する必要があると思われるのである。もちろん、資本自由主義の要素を活かすことが必要でもあるが、思うに、共同体民主主義理念に基づいて資本自由主義を機能させることが重要ではないだろうか。思うに、あえて言えば、共同体民主主義が主であり、資本自由主義は従である。
 これが、今の時点で私が考える実践的なトランス・モダン社会創造の理念である。自由民主主義ではなく、民主自由主義である。

p.s. 今、以上を読み返して、日本における官僚主導国家資本主義のあり方が明確に指摘されていず、資本自由主義を大敵のように説いているのが気になった。
 以上の三つのものに、もう一つ、国家統制型資本主義(国家社会主義?)を付け加える必要があるだろう。即ち、

1)資本的自由主義
2)国家統制資本主義
3)形式的民主主義
4)共同体的民主主義

と変更する。
 日本の場合、明治維新から2の要素が強大である。そして、今日、日本経済の元凶となっているのである。
 もっとも、先進諸国で考えると、資本的自由主義が、国家統制資本主義を利用する実態があるのではないのか。アメリカの資本的自由主義が日本の国家統制資本主義を利用していると言えるだろうし、また、マスメディアを資本とすれば、マスメディアの支配は一種国家統制資本主義になるだろう。(端的に、国家統制資本主義とは、全体主義である。)
 ということで、訂正して、自由主義と形式民主主義と共同体民主主義と国家統制主義の4つの要素があるということである。
 結局、まとめ直すと、国家統制資本主義と資本自由主義の癒着を無くすために、国家統制資本主義を抑止して、共同体的民主資本自由主義を構築する方向性が現われてくるのである。
 小さな国家論であるが、共同体民主主義の実現のためには、共同体のための行政が必要になる。だから、一概に小さな国家論とはならないだろう。国家統制資本主義における国家統制という意味での国家は当然、小さくなるが、共同体民主主義の構築のための、複数の小さな国家が必要となるのではないだろうか。つまり、複数の共同体国家での必要である。
 後で再考したい。

トランス・モダンの新しい位階の構築へ向けて:新しい霊主体従論

2008-04-02 23:44:11 | プラトニック・シナジー理論
トランス・モダンの新しい位階の構築へ向けて:新しい霊主体従論

今、私の心の中では、私の人生は、現象主義と心的共振主義の争いが中心のテーマであり、また、これは、マクロで言えば、現在の人類史の根本的テーマであるという思いがある。
 簡単に言えば、可視界と不可視界のどちらに価値中心を置くのか、ということである。感覚界なのか、精神界なのか、ということである。この二つの世界の間に人間は置かれている。そして、近代世界においては、前者が中心化されてきたのであり、唯物論に至っては、後者は否定されたのである。
 問題は、私も愚者の一人なので、精神界が主であり、感覚界が従であることをきっぱりと悟ることができないことである。イデア論を説きながら、感覚現象界に囚われることである。
 思えば、同一性(感覚性)を包摂した差異共振性を私は説いているが、これは、まだ必要十分な言い方ではない。根本的には、差異共振性が主であり、同一性は従であるという新しいヒエラルキー(位階)を説く必要があるからである。
 思えば、シュタイナーの霊学は、霊主体従を説いている。精神性が主であり、物質性・感覚性は従であるということである。私はシュタイナーのオカルティズムには批判的なので、その霊主体従論には批判的である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論において、精神性をイデア性・差異共振イデア性として捉えると、それが中心化すると、感覚性・物質性は従・劣位の価値になると考えることになる。
 これは、思うに、いわば、新しい中世であろう。確かに、近代は、中世の宗教的ヒエラルキーを打破して、感覚・欲望を中心化した、近代合理主義を進展させた。そして、これが、唯物論的利己主義・「自己中心主義」を生んだのである。
 資本主義の発展もこの近代主義に基づくと言えるし、また、相乗性があると言えよう。
 結局、感覚性・物質性を中心化することは、悪魔的であり、社会・世界を破壊・破滅させることであるのである。
 このことは、頭ではわかっても、「解脱(げだつ)」的に開悟することができずに、自分の経験として、痛みを通して理解することしかできないだろう。もっとも、学びを介して、教養的に、精神性を涵養させることはできるが、決定的な契機は、自分の心身の痛みである。苦とは偉大である。苦を介して、精神の叡知を身につけるのである。
 これから、サブプライム問題等によって、資本主義経済が解体していくと思われる。資本主義は、感覚・物質性に傾斜した経済形態である。問題は、経済に精神性を取り戻すことである。近代合理性の極致がたとえば、サブプライム問題、新自由主義であると思う。
 経済に精神性を取り戻すことは、明らかに、トランス・モダンである。これは、精神進化である。
 教養とは、精神知性のことである。そして、苦を介して、人間は深刻真剣に学ぶのである。幸福とは何ぞ哉。幸福とは、感覚性・物質性に対する精神性の優位性の実現に基づくものである。
 後で、本件から派生する感覚美と精神美の問題を検討したい。


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<長男絞殺>30歳の母親を逮捕 青森・八戸

4月1日21時1分配信 毎日新聞

 青森県警八戸署は1日、長男を絞殺したとして同県八戸市美保野、無職、西山未紀(みき)容疑者(30)を殺人容疑で緊急逮捕した。容疑をおおむね認めており、同署は動機を調べている。

 調べでは西山容疑者は1日午前9時ごろ、自宅2階の子供部屋で、長男拓海(たくみ)君(9)=市立美保野小4年=の首を電気コードで絞めて殺した疑い。拓海君には布団がかけられ、電気コードは室内で見つかった。

 西山容疑者は50代の父母と拓海君の4人暮らし。母親の通報で署員が駆け付けると、西山容疑者が家の中にいた。

 美保野小の長尾誠治校長らによると、学校周辺は工業化が予定され、新住民の流入が規制されているため在籍児童は増えないといい、07年度は3~5年生の計4人で拓海君は最年少。7日に新1年生4人が入学予定で、拓海君は「お兄さん」になるのを楽しみにしていた。明るい性格で図書委員を務め、将来の夢は「電気屋さんになりたい」だった。

 学校は、子供の安全を考えて下校時は保護者が迎えに来ることになっている。西山容疑者も拓海君をよく迎えに来ており、3月26日の修了式にも出席し、変わった様子はなかったという。

 拓海君をよく知る男性によると拓海君は07年、仙台市の詩人・土井晩翠を記念し、小・中学生の詩作品を集めた第48回「晩翠わかば賞」で佳作を受賞。作品名は「おかあさん」で、男性は「(ふくよかな感じの)お母さんの体に触るとぷよぷよして気持ちがいい、という内容だった。目がくりくりして、人懐っこくて元気で明るい子だったのに……」と驚いていた。【後藤豪、喜浦遊】

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080401-00000164-mai-soci


四大(地水火風)・五大(地水火風空)と自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1:ポスト・モダン哲学の数理化とプラトニック・シナジー理論

四大(地水火風)ないしは五大(地水火風空)について。四大とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、+i、-i、(+i)*(-i)、 (- i)*(+i)の四元で説明できないのか。そして、五大の場合は、それにMedia Point=空(くう)を加えたものということではないのか。また、+1と-1であるが、+1は自己同一性=自我=エゴであり、-1はポスト・モダン的差異、連続的差異のことではないか。
 思うに、これまで、ポスト・モダン的差異はゼロ・ポイントではないかと思ってきたが、ゼロ度とは、自己同一性と連続的差異(ポスト・モダン的差異)の中点ではないのか。ドゥルーズが言う特異性は正に、この中点であり、Media Point ではないだろう。そして、初期デリダの差延であるが、それは、自己同一性(ロゴス中心主義)=+1と連続的差異(ポスト・モダン的差異)=-1との中点・ゼロ度における同一性+1と差異-1との併存性を指しているのではないか。差延においては、同一性と差異とが混淆併存していて、一義的意味が決定不可能ということになる。
 さらに、ハイデガーの存在論的差異であるが、それは、ほとんど初期デリダの差延と等しいだろう。つまり、初期デリダは、ハイデガーの存在論的差異を借用・踏襲しているのではないだろうか。即ち、ハイデガーの存在論的差異とは、本来的存在と存在者(世界内存在)との亀裂を意味すると考えられるが、この亀裂とは思うに、中点・ゼロ度と考えられるのである。そう、初期デリダがハイデガー存在論に付け加えているものがあるとすれば、それは、連続的差異=-1を指摘して、それと同一性との差延を述べていることではないだろうか。つまり、ハイデガー存在論は中点というよりは、ゼロ度=存在としたのであり、連続的差異=-1(ポスト・モダン的差異)までは指摘していなかったということではないだろうか。
 【不連続的差異論やプラトニック・シナジー理論について言えば、前者は中点が不連続であることを発見したことにあるだろう。後期デリダは純粋差異(『死を与える』:「すべての差異はまったき差異である」)を発見したが、それに関連させれば、不連続的差異論は、純粋差異を不連続的差異、しかも、イデアとしての不連続的差異として把捉したことに意義があるだろう。因みに言えば、ここでイデア論が書き換えられたのである。同一性の原型としてのイデアではなく、純粋差異=不連続的差異としてのイデアがここで発見されたのである。これは、新イデア論であると言えよう。
 そして、プラトニック・シナジー理論であるが、それは、イデアである不連続的差異を、差異共振性として捉え直したことに中心的意味があるだろう。それはKaisetsu氏による数理化から、Media Point であることが判明したのである。】
 ということで、四大・五大の意味、そして、+1と-1の意味について、プラトニック・シナジー理論から試論的に説明してみた。

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桜花と星々

桜の花弁の中心に星形がある。桜の花は、星々が地上化したもので、地に向いている。桜花が風に舞い散る。それは、地面に落ちる。そして、腐敗する。春夏秋冬、時は循環し、また春が来るが、星々から桜の花がまた訪れるのではないか。

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検討問題1:神話の神々と超越エネルギー:神話と宗教の関係について:神話は宗教のイデア論的表現ではないか:神々は諸イデアではないのか

神々が諸イデアならば、占星術コスモロジーは、諸イデアの相互関係の宇宙を「体系」化したものではないのか。諸イデアの相互関係とはどういう力学で説明されるのだろうか。占星術や古代宇宙論では、神々と惑星は一致する。これを諸イデアとすると、諸イデア=神々=諸惑星となる。そして、原点として、原イデア=神=太陽となるのかもしれない。
 原イデアは、プラトニック・シナジー理論では、Media Point ではないだろうか。そうならば、諸イデア=神々=諸惑星はどういう力学から生起するのだろうか。
 先に、四大・五大のことを言ったが、四元論・五元論を考えると、四元要素ないしは五元要素が想定でき、要素間の独特の傾斜、あるいは、要素間の諸様相が、諸イデア=神々=諸惑星を生起させるのではないだろうか。つまり、四元論・五元論的イデア・コスモスがあり、それが、現象宇宙を生成消滅させているということになるのではないだろうか。
 そして、この四元論・五元論的イデア・コスモスが現象宇宙のイデアならば、地球・自然・人間界も当然、この原型をもち、それに影響される(influenceはもともと、星の力が流れ込むことを意味した)ことになるだろう。ここで、ヘルメスの言葉、「上にある如く、下も」が肯定されることになるのである。ただし、運命論というよりは、力学である。当然、偶然性があり、自由もあると考えられるのである。必然=運命があり、また、偶然=自由があると考えられる。これは、カントが言うようなアンチノミーではなくて、並存であると思う。必然の網があり、その網の目の透き間として、偶然=自由があると思う。思うに、網の目の透き間とは、Media Point =差異共振性ではないだろうか。言い換えると、神と人間の共振性・協働性があるということになろう。

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検討問題2:差異は平等ではないのではないか:民主主義とトランス・モダン・ヒエラルキー:トランス・モダン民主主義?

差異とは、正に、差異であり、それは個々は異なるということを意味する。問題は平等とはここにおいて何を意味するのかである。個の権利とは、差異の権利であり、それは認められるべきことである。個の権利とは平等なのだろうか。個は差異であり、平等ではないだろう。
 では、平等性とは何を意味するのか。私は個とは差異であり、差異のそれぞれの権利を認めることが必要であると思う。だから、差異共立原理・差異共生原理である。
 医者ならば、患者一人一人の個・差異を確認して、治療行為をするだろう。個・差異という単位においては平等ではある。だから、個・差異単位としての平等性はあるのである。
 しかしながら、個は正に、差異であり、平等ではないのである。つまり、差異単位平等と差異内容的不平等があるのである。
 ここで民主主義について考えると、それは、差異単位平等性に基づくものと言えよう。つまり、形式的平等性であり、内容的、質的平等性ではないのである。もっとも、後者が含まれてはいる。
 思うに、民主主義とは、根本的には、個・差異を確認して、共立する原理ではないだろうか。だから、個・差異がなくなれば、民主主義は衆愚政治になると言えよう。ここで近代民主主義が破綻することがわかる。
 しかしながら、個・差異を確認することは、精神的価値がないとできないのである。だから、近代的自我に留まる限りは、民主主義は不可能である。そう、近代民主主義は不可能である。
 精神化が必要なのである。それは、今のところ、少数者が可能なことである。とまれ、民主主義を可能にするには、トランス・モダン化が必須と言えよう。先に、トランス・モダン・ヒエラルキーについて言ったが、このヒエラルキーを基準とした民主主義となる。それは、精神的民主主義である。精神貴族的民主主義である。

検討問題:太母と太父の二重性とMedia Point:三柱の神の意味

2008-04-01 20:29:14 | プラトニック・シナジー理論
テーマ:一神教/多神教

ヤハウェは、太母の陽化ではないのか:思うに、象徴比喩化における混乱があるのではないだろうか。太母は本来、太陽であり(天照大神)、月というのは、その変容様態を示唆しているのでないのか。とまれ、太陽が陰となったが、「父なる神」ではないのか。一神教の神は月が象徴である。それに対して、神道においては、太陽が象徴である。しかし、逆に言うと、太陰として、いわば、太父があるのではないのか。
 先に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の倒置の可能性を述べた。即ち、(-i)*(+i)⇒+1である。前者の左辺が例えば、太母の「太陽」であり、後者の左辺が太父の「太陰」ではないのか。もしそうなら、二種類の原神が存するだろう。それは、神道の高産霊神と神産霊神に相当しないのか。それとも、イザナミ・イザナギであろうか。そして、根源の中点として、Media Pointとして、天之御中主神が存するのではないのか。だから、天照大神と月読みが太母と太父であり、スサノオがMedia Point に相当するのかもしれない。
 ここで聖書を考えると、ヤハウェが太母であり、エローヒームが太父ではないのか。二重神性である。
 その視点からイエス・キリストを考えるのは実に興味深い。彼は、ヤハウェの子であり、同時に、エローヒームの子となるだろう。つまり、精神的双子ではないのか、ということになろう。神話において、双子ないし兄弟の神話は多い。なにか、これと関係しないのか。これまでは、差異の二元性で説明してきたが。思えば、先に、二人のイエスないしは二重のイエスのことを述べたが、それは、以上の述べたことに通じる。
 しかしながら、以前は、ヤハウェを父、太母を母として、それぞれの子としてイエスを見たのであるが、以上の考察では、ヤハウェ=太母であり、エローヒーム=太父である。太陽の子と太陰の子としてのイエスである。そう見ると、戦争の子は前者であり、平和の子は後者となるのではないのか。
 私は太母が復活しつつあると言ったが、以上の視点から言えば、太母と太父の復活、端的に言えば、Media Point の開きではないだろうか。Media Point の黎明であることは既に述べたが、そこでの超越光とは、二重の超越光になるということではないのか。つまり、「太陽」と「太陰」の二重光ではないのか、ということである。
 この問題は後でさらに検討したいが、今、経験から言うと、真夏の海辺の太陽に陰影を感じたことであるが、この陰影が「太陰」に関係するのではないのか。
 言い換えると、太陽光には、明るい太陽と暗い太陽が重なっているのではないのか。二重光としての太陽光である。
 さらに言うと、ダーク・エネルギー、ダーク・マター、またブラックホールであるが、この二重性の「太陰」の方に関係していないのか。これまで、これらは、超越光、超越エネルギーに関係すると指摘してきたが、さらに超越的二重性に関係するのではないのかということになる。簡単に言えば、太陰がそれらに関係するのではないのか、ということである。
 ここで文学への興味から言うと、D.H.ロレンスのdark Godやdark sunであるが、それは、太陰を指しているのではないのか。また、『死んだ男』の宇宙の暗い薔薇であるが、それは一体何なのか。それは、Media Point ではないのか、等々、さまざま興味深い考えが浮かぶ。