philosophical chaosmos

八百万のものを哲学する
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村上春樹の日本語は機械的で、不自然である。彼の文体は日本語言語意識を破壊する。

2007-08-22 18:51:12 | 文学/哲学
村上春樹の『ねじまき鳥クロニカル 第1部 泥棒かささぎ編』を読んでいるが、先に触れたが、声の文体と身体性の希薄さを感じているが、違和感を感じつつ読んでいて、日本語が不自然であると感じた。とりわけ、会話の日本語が不自然であると思った。なにか、機械が話しているような人工的な日本語である。言語機械が話しているようである。日本語の会話の不自然さが、おかしさを直接生んでいる原因だと思った。
 例をあげて実証しよう。次は、加納マルタが主人公の岡田亨に電話してきた場面である。

『十一時に加納マルタから電話がかかってきた。
「もしもし」と僕は受話器をとって言った。
「もしもし」と加納マルタが言った。「そちらは岡田亨様のお宅でしょうか?」
「そうです。岡田亨です」電話の相手が加納マルタであることは最初の声でわかった。
「私は加納マルタと申します。先日は失礼いたしました。ところで本日の午後は何かご予定がおありでしょう?」
 ない、と僕は言った。渡り鳥が抵当用資産を持たないのと同じように、僕も予定というものを持たない。
「それでは本日の一時に妹の加納クレタがお宅にお邪魔します」
「加納クレタ?」と僕は乾いた声で言った。
「妹です。先日写真をお見せしたと思うのですが」と加納マルタは言った。
「ええ、妹さんのことでしたら覚えています。でも-----」
「加納クレタというのが妹の名前なのです。妹が、私の代理としてお宅に伺います。一時でよろしいでしょうか?」
「それはかまいませんが」
「それでは失礼します」と加納マルタは言って電話を切った。
加納クレタ?』 p. 154~p. 155


一見何の変哲もない、ごく普通のように思える電話での会話である。日本語の文法がおかしいわけではない。しかし、注意するとおかしいのである。以下、私が添削する。


『十一時に加納マルタから電話がかかってきた。
「もしもし」と僕は受話器をとって言った。
「もしもし」と加納マルタが言った。「そちらは岡田亨様のお宅でしょうか?」
「そうです(⇒はい)。岡田亨です(⇒不必要)」電話の相手が加納マルタであることは最初の声でわかった。
「私は加納マルタと申します。先日は失礼いたしました。ところで(⇒ところで、不躾で失礼しますが、あるいは、⇒ところで、突然ですが)本日の午後は何かご予定がおありでしょう?」
 ない(⇒いいえ、ありませんが)、と僕は言った。渡り鳥が抵当用資産を持たないのと同じように、僕も予定というものを持たない(⇒持たなかった)。
「それでは(⇒それでは、まことに突然で、失礼しますが)本日の一時に妹の加納クレタがお宅にお邪魔します(⇒妹の加納クレタをお宅にお邪魔させていただきたいと思っていますが、よろしいでしょうか)」
「加納クレタ?(⇒失礼ですが、加納クレタってどなたでしょうか)」と僕は乾いた声で言った。
「妹です(⇒私の妹です)。先日写真をお見せしたと思うのですが(⇒先日写真でお見せした妹ですが)」と加納マルタは言った。
「ええ、妹さんのことでしたら覚えています。でも-----」
「加納クレタというのが妹の名前なのです(⇒加納クレタというのが妹の名前です)。妹が、私の代理としてお宅に伺います(⇒伺うことになります)。一時でよろしいでしょうか?(⇒一時にお伺いしてよろしいでしょうか?)」
「それはかまいませんが(⇒ええ、かまいませんが)」
「それでは失礼します(⇒それでは、勝手なお願いをして失礼しました。よろしくお願いします)」と加納マルタは言って電話を切った。
加納クレタ?』 p. 154~p. 155

(⇒・・・)の箇所が私の添削である。ざっと添削したので、完全ではないが、それでも、村上春樹の文体が、不躾な、機械的、無機的な言語であることが理解されるだろう。そう、端的に、敬語が崩壊しているのである。恐ろしい悪魔的な作家である。日本語/日本破壊の国賊である。

メルロ=ポンティの身体論について:連続的身体と超越的身体

2007-02-27 03:28:08 | 文学/哲学
『メルロ=ポンティ 可逆性』を拾い読みしているが、ここで、乱暴だが、直観で、メルロ=ポンティの思想を考えてみたい。

 リヴァーシブルな「襞」や両義性という用語が、裏表紙に書かれている。これは、PS理論から見ると、実にわかりやすいことである。

 これは、i*(-i)の即非事相を、メディア・ポイントの連続面で捉えた観念用語であろう。

 メルロ=ポンティの身体とは、メディア・ポイントの連続的身体面であるように思える。ここでは、対立であり、且つ、一如(いちにょ)であるという事相が発生する。しかし、力点は、後者の一如・一体性にあるように思える。だから、メディア・ポイントの連続面の思考であると思えるのである。

 問題は、身体性である。なぜ、身体論なのか。それは、思うに、先に、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と言ったことと関係するように思えるのである。

 近代合理主義は、元知中心主義であり、個体において、元身体を排除しているのである。この排除は、単に、元身体の排除だけでなく、元知・即非・元身体という超越的差異共振性(霊性)を排除しているのである。そして、近代主義が飽和状態になると、否定された元身体が反動して発動するが、それと同時に、超越的差異共振性も発動するようになると考えられるのである。

 この観点から見ると、メルロ=ポンティの身体論は、身体的連続的同一性と超越的差異共振性との混淆であるように思えるのである。そう、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と同質であると思えるのである。

 ここには、身体的連続的同一性と超越的即非性との未分化的混淆があると考えられるのである。身体的連続性は感覚的であり、超越的即非性は思想・観念的である。思うに、前者が文学的レトリックとなり、後者が理論的考察となり、混淆して、あのような文体を生んでいるように思えるのである。

 だから、ポスト・モダン的なのである、メルロ=ポンティは。そう、作家に近い表現であると言えよう。

 私の言葉で言えば、内身体性や大地性なのである。ここに、超越性が内在(内蔵)するのである(参照:如来蔵)。思うに、メルロ=ポンティは、明確に、内身体性=大地性を捉えていない。外在的身体と未分化である。外在的身体は連続性を発生させるのである。内身体性と外在的身体性との未分化混淆様態において、メルロ=ポンティは、思考しているのである。

 内身体性は、不連続なのである。だから、思うに、メルロ=ポンティは、超越的即非性に達するまで、後一歩であったと思うのである。

 フッサールは大天才だから、初めから、超越性(イデア)に達していた。しかし、一般には、身体において、超越性は始動すると考えられるのである。そのとき、連続性と不連続性の混淆様態になるのである。この様態にメルロ=ポンティは留まったように思えるのである。

 思うに、身体とは何だろうか。大乗仏教、とりわけ、『大乗起信論』は鋭敏である。それは、阿頼耶識(あらやしき)と如来蔵(にょらいぞう)である。しかし、前者は連続態と不連続態の中間混淆態である。後者が、超越的身体であると思う。

 ついでながら、差異共振シナジー通貨制度としての銀本位制であるが、現代の通貨制度が完全に連続性であるのに対して、不連続性の通貨制度であると思うのである。なぜなら、銀という個物は、特異性であるからである。特異性は、不連続性であるからである。また、それは、超越的身体である。超越的身体の通貨制度としての銀本位制である。

参考:
モーリス・メルロー=ポンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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メルロー=ポンティ
メルロー=ポンティ

モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908年3月14日 - 1961年5月4日)は、フランスの哲学者。現象学を学び、その発展に尽くした。

彼の哲学は「両義性の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれ、従来対立するものと看做されてきた概念の<自己のの概念>と<対象の概念>を、知覚における認識の生成にまで掘り下げた指摘をしている。例えば、「枯れ木」があるとします。子供の頃(最初に見た時)は、「枯れ木」という存在を眼で見て、「枯れ木」は<名前のない現象として>知っていますが、「枯れ木」という言葉(記号)を知って初めて、恒常的に認識出来るのですね。そして、「枯れ木」という現象が「枯れ木」というものの(同一言語下で)共通した認識を得るのですね。

≪それは、「枯れ木」を含む場景を見て知っていたが、「枯れ木」という言葉を知らなかったので、「枯れ木」を知らなかった。≫という言葉に理解を求めたい。

また、精神と身体というデカルト以来の対立も、知覚の次元に掘り下げて指摘し、私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的である。」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは、<どちらともいえない>。しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。そして、その状態が、<私という世界認識><根源的な世界認識>であるとした。そこには、既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察なのですね。それは、論理実証主義哲学、分析哲学、プラグマティズムなどの<言語が知られている次元>からの哲学に厳しい指摘をしたといえる。そこには多くの哲学の垣根を越える試みが見られ、また、異文化理解や芸術、看護学などに大きな影響を与えた。

また、そういう知覚の優位性からの、新しい存在論の試みが『見えるもの見えないもの』で見られる。しかし、彼の絶筆が『見えるもの見えないもの』であるので、志途中での彼の死は、惜しまれるものである。しかしながら、後世の哲学者による彼の思考の継承は、誤謬の修正から真理の起源まで幅広く影響を与えるものである。

[編集] 邦訳主要著作

・『知覚の現象学』 中島盛夫訳 (叢書ウニベルシタス) 法政大学出版局

・『意味と無意味』 永戸多喜雄訳 国文社

・『ヒューマニズムとテロル』改訂版 森本和夫訳 現代思潮社

・『知覚の本性初期論文集』 加賀野井秀一編訳 (叢書ウニベルシタス) 法政大学出版局

・『見えるものと見えざるもの』 クロード・ルフォール編/中島盛夫監訳(叢書ウニベルシタス)法政大学出版局

・『行動の構造』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1964)

・『眼と精神』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1966)

・『知覚の現象学1』 竹内芳郎・小木貞孝共訳 みすず書房 (1967)

・『知覚の現象学2』 竹内芳郎・木田元・宮本忠雄共訳 みすず書房 (1974)

・『シーニュ1』 竹内芳郎監訳 みすず書房 (1969)

・『シーニュ2』 竹内芳郎監訳 みすず書房 (1970)

・『弁証法の冒険』 滝浦静雄・木田元・田島節夫・市川浩共訳 みすず書房 (1972)

・『言語と自然』コレージュ・ド・フランス講義要録 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1979)

・『世界の散文』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1979)

・『見えるものと見えないもの』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1989)

・『メルローポンティの研究ノート』新しい存在論の輪郭 菊川忠夫編訳 御茶の水書房(1981)

[編集] 関連図書

・『現象学』 ジャン・フランソワ・リオタール著 高橋允昭訳 文庫クセジュ 白水社 (1965)

・『現代フランスの哲学』実存主義・現象学・構造主義 ピエール・トロティニョン著 田島節夫訳 文庫クセジュ 白水社 (1969) 

・『現象学』 木田元著 岩波新書 (1970)

・『現象学』 新田義弘著 岩波全書 (1978)

・『メルローポンティの哲学と現代社会』(上・下) L・スパーリング著 菊川忠夫訳 御茶の水書房 (1981-1982)

・『知の最前線』 現代フランスの哲学 ヴァンサン・デコンブ著 高橋允昭訳 TBSブリタニカ(1983)

・『メルローポンティの思想』 木田元著 岩波書店 (1984)

・『現象学の射程』 フッサールとメルローポンティー 水野和久著 勁草書房 (1992)

・『「自分」と「他人」をどうみるか』 滝浦静雄著 NHKブックス (1992)

・『メルローポンティ』 可逆性 鷲田清一著 講談社 (1997)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3" より作成

カテゴリ: フランスの哲学者 | 現象学 | 身体論 | 1908年生 | 1961年没

シェイクスピアの『リア王』を読んで:暗い根源的力

2005-04-24 02:05:59 | 文学/哲学
『リア王』について

劇の登場人物、構成や周辺の事柄については、後で触れるが、先に、読後の印象、感想、コメントを述べたい。はっきり言って、現実感の乏しい劇である。言葉が、うわすべりというか、軽薄な感じがする。そう、夢をみているような感じである。なにか強い力に動かされて、劇が動いていて、登場人物は影絵のようである。そう、背後に劇を駆動される力が隠れているのであり、それによって登場人物は善人、悪人、愚者等は、動かされているという印象をもつのである。以前、今から20年前頃、1985年頃に読んだときは、もっとなんらかの精彩を感じたが、今(2005年)、読んでみると、このような影の印象が強いのである。確かに、狂気のリアの吐き出すせりふやその他の人物の言葉には、見るべきものがあるが、それらは、表層に過ぎず、深層が隠れているという印象である。つまり、もっと根源的なものは、この劇には、表出・現出されていず、暗示されているという感じがあるのである。この悲劇は、表面的には、古い王権体制とそれを破壊するエゴイズムとの闘争を表現しているのは誰でもわかることである。中世と近世/近代の戦いと言ってもいい。それは、表層である。
 では、背後の力、根源的なもの、深層の力とは、何なのであろうか。それは、荒野での狂乱のリアが口にする言葉から暗示されると思う。それは、自然や社会を根源的に生成する力、宇宙や世界・地球を動かすような力のように思える。福田恆存は、コスモス的なものが三つの大悲劇(『ハムレット』、『マクベス』、『リア王』)には感じられると言っていたが、確かにコスモス的な力とこの根源の力を呼べないことはないと思う。しかし、私の印象では、この根源力とは、とても暗い力である。そして、この暗い力をシェイクスピアは十分には表現していないと思うのである。この根源の暗い力に駆動されながらも、表象的には、中世と近世との闘争という一般的な形式となっているのである。だから、この劇は、表層と深層とのズレがあるため、言葉が表面的になり、感動までには達しないように思うのである。そう、無意識と意識とのズレと言ってもいい。後者の意識は、どちらかといえば、凡庸であり、軽薄である。思うに、シェイクスピアにとっての不幸は、無意識を表現する適切な媒体が彼にはなかったように思えるのである。演劇は観衆を喜ばせないといけないから、妥協的になる。そこで、根源的な無意識を直截に表現することができないのである。思うに、これらを表現するのは、ロマン派以降ではなかったと思うのである。そして、イギリス文学では、D.H.ロレンスにこの一つの頂点を見ることができると思う。(ロレンスのいわゆる「暗い神」とは、この根源の力と通じると思われる。)
 さて、次に、この暗い根源力を、ニーチェの『悲劇の誕生』の考え方と比較してみよう。当然、ディオニュソス的なものとの比較である。私は以前、比較したことがあるのだが、今から見ても、暗い根源力はディオニュソス的なものと通じると思う。それは、簡単にいえば、宇宙の生成力である。不連続的差異論からいえば、メディア界の強度である。それも、イデア界を指向する強度であって、現象界への連続的強度ではない。時代の転換期にこのディオニュソス的なものが発動すると言えるだろう。差異の強度と言ってもいいだろう。ニーチェの論述だと、合理主義に対する非合理主義の肯定と説かれるが、必ずしもそうではないだろう。差異の力を基礎とする「知」がここにはあるのである。連続的同一性の基礎とする近代合理主義(イデオロギー的合理主義)とは別の知であり、いわば、叡知である。ということで、シェイクスピアのいわゆる四大悲劇の中の『リア王』には、暗示ではあるが、時代転換期に出現するディオニュソス的なものが駆動していると見ることができるのである。そして、この暗い根源力の十全な表出はニーチェやロレンス等を待たなくてはならなかったと言えよう。ポストモダンとは、この力をベースにした叡知を指向しているのだろう。思うに、現代は、ディオニュソス的なものの情動性は、反日デモにも発動しているのだろうし、経済的営為としては、ライブドア/ホリエモンの経営に現れているのだろう。ディオニュソス的なものとは、スピノザ的な心身平行論の叡知性をもつのである。そう、グノーシス主義に近いだろう。後で、ディオニュソス的なもの、グノーシス主義、不連続的差異論を比較してみたい。ディオニュソス的なものと特異性・差異はつながるものである。