philosophical chaosmos

八百万のものを哲学する
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間接民主主義と不連続的差異論:連続的代表制と不連続的主権制(試論1)

2005-04-19 01:18:15 | 民主制
国民と国会議員・政府との関係について簡単に考えてみたい。間接民主主義では、国政選挙によって、国会議員が選出され、日本では、国会から、内閣総理大臣が選ばれる。この制度では、国会議員は国民の代表とされる。ここで、この制度は、国民を同一性と考えて、一人一票とする。ここにおいて、国民=議員となるだろう。つまり、代表とは、連続的同一性であるからだ。 
 しかし、国民主権に立つと、破綻が生じるだろう。なぜなら、代表と国民は差異があるからだ。すなわち、主権はあくまで、国民にあるのであり、その主権を議員は代表するだけであるから。つまり、主権を差異とするなら、これは、代表されないということになるだろう。主権は、形式として委譲されるだけであり、主権本体は国民に存しているだろう。これをどう考えたらいいのだろうか。結局、先にも述べたが、国民と議員との差異があるということである。あるいは、国民と国家・政府との差異があるということである。差異と同一性との差異と言ってもいいだろう。だから、極論すると、国民は国家権力への「拒否権」をもつということであろう。つまり、不連続的差異という多数の主権が国民にある。それに対して、一つの連続的同一性という代表的国家権力がある。ここに二つ、ないし二種類の権力があるのであり、民主制の根本的な差異と言えよう。これは何を意味するのかと言えば、国民は、差異としての権力によって、水平に連結できるということではないか。つまり、脱国家的に、他者である他の国民と連結できるということである。民主的差異権力とは、脱国家的に連結できるということである。つまり、民主制とは、脱国家的グローバリズム性をもっているということであろう。ということは、脱国民主義でもあるということである。差異としての国民とは、脱国民性・国際性をもつということである。だから、靖国参拝/新しい歴史教科書問題では、中国人と韓国人他と連結できるのである。日本国家を、脱国家・脱国民・国際的日本国民として批判できるのである。(後で、考え直したい。)