フレンチ・アメリカン日和

アメリカ在住、フランス人の夫を持つ日本人(女・30代)です。日々のことを綴っていきたいと思います。

オペラ座のオタク (2)

2005-01-05 01:57:19 | 映画・音楽etc.
私の風邪もいよいよ佳境(?!)を迎えつつあります。鼻詰まりと喉の痛みがかなりすさまじい。。。昨日は、ほとんどソファーがベッドで死んでいました。でも熱はないので、助かっています。もっともうちのフランス人に言わせれば、「久々の「オペラ座の怪人」に興奮して具合が悪くなったんじゃないの?」とのこと。おいおい、そもそも誰の菌だと思っているんだ!!!でもなー、「オペラ座の怪人」となると、平静ではいられません。これはもう、「パブロフのモグラ」だ。

とにかく「オペラ座の怪人」のお話の続きに戻らせていただきます。
一つ声を大にして言わせていただきたいことは、私の見解では、怪人役は、是非ともセクシーな中年のオジサマにお願いしたい、ということです。映画の中の怪人は、私のテイストではちょっと若すぎました。やはり向こう見ずで軽率なまでの若さがラウルという幼馴染の恋人の魅力なのですから、怪人は成熟したオヤジの魅力で迫ってこそ対比が鮮やかに浮かび上がるというもの。しかも主人公のクリスティーヌは、この怪人に亡くなった父親像を重ねているので、ますます熟年の魅力が必要とされると思われるところです。もっともロンドンやアメリカでは、怪人役に若い俳優を起用するのが一般的のよう。無論難しい役ですし、舞台ではとにかく声量と体力が必要とされるでしょうから、ある意味、中堅で実力及びパワーのある俳優を起用するというのは、理に叶っているのかもしれない。でもアメリカのサンフランシスコで見た怪人は、あまりにも幼すぎてダダッ子のような怪人で、オペラ座の屋上でのクリスティーヌとラウルのラブシーンでは、転げまわって泣くし、後半の怪人の復讐も、「ええい、ええい、コノヤロ、コノヤロ、ザマーミロ、ひーんクリスティーヌちゃぁぁぁん、カムバァァーック!!!」といった感じで、多少興ざめしたことを覚えています。もっとも幼稚な怪人だからこそ、最後の彼の決心にはそれなりに胸が打たれたということはありましたが。ロンドンの怪人は、ひたすら不気味で、クリスティーヌも憑かれたようなイッちゃっている感じで、ホラー感は充分!!でもなー、ラウルが典型的なイギリスのおぼっちゃま風で、ヒュー・グラントみたいっていうか、「ははは、ははは」と無意味にへらへら笑うし、「でっでっでっでっでもね、クックックックックリスティーヌ」みたいに変にどもっていて、かなーり嫌だった。。。(ちなみにこの「どもる」という行為は、イギリスでは、「言葉を出したいのだが、教養と思慮深さが様々な葛藤を呼んで、何度も自分の言おうとすることを口に出す前に反芻しようとする謙虚な姿勢の表れ」ということで、非常に貴族的かつ上品な振る舞いとされている、ということを何かの本で読みました。何でもいいけど、舞台の上ではわざとらしいからやめんかね。)おまけにもみ上げがルパン3世だったしなーーーーーーーーーーーーーーー。

そういう意味では、実は私は日本の劇団四季「オペラ座の怪人」が、とても好きです。もしかしたらこれはとても日本的かつ単純な年功序列の問題なのかもしれないけど、四季の怪人は、ちゃーんと渋い熟年の魅力たっぷりの正統派のテノールが怪人役をやっているので、キャラクター設定は、抜群です。(もっとも昨日コメントを下さったpetite_noriさんという方が、「四季のクリスティーヌは、若干お年を召していた」とおっしゃっているので、そうなると年功序列も良し悪しですかね、はははは。。。と力なく笑う)
これはミュージカルに限らず、クラシック音楽などでもそうなのですが、「日本のものは本場に比べるとねー」などとおっしゃる方が多いのですが、私はそういう言葉を聞くと残念に思う。それは確かに日本ではまだ歴史が浅いとか、日本人ではスタミナや声量に限界があるとか、色々現実にはあるかもしれないけれども、そういう批判はともかくも四季でもN響でも日フィルでも実際に出かけてみると、日本人として、「よくぞここまで」と誇りに思い、感動することの方が、私には多い。特にミュージカルなどは、膨大な量の歌の歌詞を、本来の意味を損ないすぎることなく、日本語に翻訳していくという作業。。。考えただけでも気が遠くなります。そういうことを考えていくと、「日本はねー」とおっしゃる方々には、それだけ芸術に対する思い入れ及び造詣が深くていらっしゃるのでしょうから、是非日本の芸術界を支援する意味でも日本人による日本での公演にお出かけ頂きたいものです。そうすることこそが、日本の芸術のレベルをどんどん上げていくことにも繋がると私は信じる。批判するだけなら、誰にだって出来ますからね。現状が不満なら、それをいかに改善していくか、その改善に対していかに自分が微力ながらでも貢献できるのかっていうのを考えるのが、本当のファンの役目だと私は思うんですけれどもね。だいたい私には、自分の方がよほど上手い、みたいにでも思えない限り、そう滅多なことでは、芸術というとてもストイックで正しい解が存在しないような崇高なものに対して全人生をかけて打ち込んでいるプロの人々をとやかく言うなんて、その背後にある彼らの努力を考えればなおさら、恐れ多くてとてもできない。。。まあ、好き嫌いの問題もあるでしょうから、一概には言えないのかもしれませんが。

最後に、これは映画をこれからご覧になる方には、もしかして言ってはいけないのかもしれないけど。。。でも。。。うくくく、やっぱり言ってしまいたい!!!!クリスティーヌの楽屋の鏡の中に、初めて怪人が映るシーンですが、その時の怪人の額の生え際には、西田敏行が入っていた。。。

きゃー、ごめんなさい!!でもうちのフランス人に言っても通じないから、誰かに是非聞いて欲しかったんですぅぅ!!!!!あー、すっきりした。とにかく映画版、「オペラ座の西田敏行」じゃなかった、「オペラ座の怪人」へ、皆様是非お出かけください!!!!

オペラ座のオタク (1)

2005-01-03 10:14:56 | 映画・音楽etc.
とうとう行って参りました!!ミュージカル・ファンの皆様は、既にご存知かもしれませんが、アンドリュー・ロイド・ウェバーの傑作ミュージカル、「オペラ座の怪人」の映画版が製作され、12月22日からアメリカで上映が始まりました。本当は初日の22日に何を置いても駆けつける筈が、ばたばたと年末直前に入ってしまった仕事及びクリスマス直後のうちのフランス人の体調不良などで10日も遅れてしまった。。。知る人ぞ知る「オペラ座の怪人オタク」のわたくしとしては、甚だ不覚でございます。

結論としては、なかなかよかったですよ、映画版の「オペラ座の怪人」!!正直、世界各国で20回以上ミュージカルの「オペラ座の怪人」を見た身としては、よほど出来がよくなければ、色々と気に入らないところが出てくるのではないか、と期待半分、不安半分だったのです。せっかく楽しみに出かけて、期待が外れてがっかりして帰ってくるほど興ざめなものはないですから。でも考えてみれば、少なくともアンドリュー・ロイド・ウェバーのもともとの音楽の良さは保証付きだし、映画なのだから、歌だって演奏だって推敲を重ねて最高の出来のものだけを選んで重ねられるわけで、余程奇抜な編曲や演出、及びキャスティングの失敗さえなければ、そう悪くなりようもないんですけどね。ただ、ミュージカル・ファンとしては、やはり映画とミュージカルは、全くの別物という印象を受けました。映画は、歌も演技も演奏も特殊効果も、吟味と推敲を重ねて最高のものを最終作品に出来る代わりに、舞台芸術の迫力、群舞や演技の臨場感、及び役者のパフォーマンスの現実味、そして客席と舞台の一体感などには、どうしても欠けてしまう。でも逆に、映画だからこそ舞台芸術や役者の歌の出来不出来に目を奪われすぎることなく、ちゃんと物語の筋や台詞回しなどにも注意が払える、という利点がある。現に、うちのフランス人などは、はるか昔にオリジナル・キャストの「オペラ座の怪人」を一度観にいった経験があるにも関わらず、「いやー、「オペラ座の怪人」って、こういうストーリーだったのか。知らなかったよ。感動した。よかった、よかった」としきりに言っていましたから、恐らくこれがミュージカルを一度観に行っただけの人の大方の感想ではないか、と。どうしてもミュージカルは、目の前で繰り広げられる舞台芸術の派手さに圧倒されてしまいますし、台詞だって舞台の音響の関係で、かなり聞き取りにくいもの。ましてやそれが外国での外国語による公演ときては、いくらストーリーがわかっていても、目の前の舞台で役者が実際に何を喋っているのかは、わかり辛いものです。マドンナの映画、「エビータ」もそうでしたが、ミュージカルの映画版に関する私のお勧めは、ミュージカルを観にいった人はそれなりに比較して楽しめるし、ミュージカルをまだ観たことがない人は、これらの映画で「予習」をして、本番のミュージカルの公演にお出かけになると、理解も感動もひとしおになるだろうということです。とにかく日本で公開が決まったら、この映画版「オペラ座の怪人」へ是非ともお出かけください。

なお、「オペラ座の怪人」について語り始めると長いので、本日はここで一度切らせて頂きます。続きは明日のBlogで!!

カラス・フォーエバー

2004-12-05 07:28:08 | 映画・音楽etc.
"Callas Forever"という映画を見てきました。1977年に亡くなった高名なオペラ歌手、マリア・カラスの映画です。恐らくストーリーそのものはフィクションだろうと思うのですが、50歳を少し過ぎただけという若さで、自分の声の衰えに絶望し、パリで隠遁生活を送る彼女に、現代のテクノロジーでは、要は口パクで彼女の全盛期の時の歌声を重ねることができるから、それでもう一度オペラの映画を撮らないか、という話を持ちかけた仕掛け人とマリア・カラスの、映画撮影を巡るストーリーです。マリア役をファニー・アルダン、仕掛け人の役をジェレミー・アイアンズが演じていました。
マリアは、もう二度とカムバックすることは無理だと信じていたので、最初は喜んでこの企画にのり、カルメンの映画を取り終えます。その後、椿姫、トスカ、と企画は続いていくはずだったのですが。。。

この映画を見ていて私がすぐに考えたことは、口パクで若い頃の歌声を重ねるなんて、まるで芸術における整形手術のようなものだ、ということです。もしもマリアが大きなエゴの持ち主で、求めるものが名声であり、富であり、人々の注目が全てであったなら、このような手法を使って再びスターダムに上ることを、嬉しいとしか考えなかったでしょう。でも芸術というものは、その人自身の内面から、その瞬間、その瞬間に抑えようもなく迸り出るものの表現でもある。声が衰えても、若い頃には持ち得なかった人生経験、感情の襞などが、若さの衰えを補って余りある魅力を創り出せるかもしれない。だが、その一方で、やはり年齢と体力の衰えには限界があり、観客の心を美しさで揺さぶるものがなければ芸術とは言えず。。。と、芸術と芸術家を巡る様々な葛藤が浮き彫りになった、とても切なく感動的な映画です。

そもそも楽器の演奏や唄うことというのは、ある程度まではスポーツと同じで、テクニックとスタミナという意味では、恐らく10代の後半から20代、長くても30代がピークだと思います。その後、テクニックとスタミナは年齢と共にどんどん衰えていくわけですが、それに反比例するように、若い頃には出せなかった情感や表現力などが年齢を経るにつれて備わっていき、それがテクニックやスタミナを凌駕する場合も多々あるわけです。でもこのバランスがとても大事で、素人の耳にもわかるようなとちりや息切れをするようになってもいつまでも舞台にしがみついていては、ファンはがっかりしてしまうし、かと言って引退が早すぎてもファンはがっかりしてしまう。著名な芸術家になればなるほど、大きなプライドもあるでしょうから、このエゴと自負心と芸術性と美意識などがせめぎ合う引き際の見極めというのは、本当に難しいと思います。

この映画の最後の方で、マリアは、「私がただの女で、あなた(仕掛け人のジェレミー・アイアンズ)がただの男である、ということだけに集中していれば、私たちの人生は、どれだけ幸せだったと思う?芸術や、コンサートのスケジュールや、そんなものに振り回されずに、ただ愛する人との時間を大切にすることだけに専念していれば、どんなにか。。。」と語りかけるシーンがあります。私には今も芸術の世界でもがき苦しみながら頑張っている友人が何人かいるので、この言葉は本当に身につまされるようでした。でも、人の心を揺さぶらずにはいられない芸術。その美しさに、言葉も時間も忘れてしまうような瞬間が存在する芸術。そんな芸術のために、人生を捧げずにいられなかった人々の中に、私は時々神様の姿を見るような気がします。

「カラス・フォーエバー」。オペラやマリア・カラスについてあまり知識がない人でも、カルメンの有名な歌やシーン、そして蝶々夫人や椿姫の一番有名な歌などが楽しめる、とても素敵な映画です。日本でも近々配給されるのではないかと思います。ちなみにカラスはイタリア人ですが、ファニー・アルダンというフランス女優が演じていて、舞台はパリ。当然登場人物は、英語を母国語としないイタリアやフランス系の人々がわんさか出てきて、英語の台詞を喋っているわけなんですが、うちのフランス人に、「なんか、この映画、みーんなあなたみたいな英語をしゃべる人ばっかり出てくる!」と言ったら、彼はしばらく憮然としていましたが、途中で堪えきれなくなったのか、自分で笑っていました。「ボク、こんなに酷いかな?」と言うので、「酷いとは言わないけど、かなり近いよね」と言ったら、真剣に考え込んでいましたが、その夜からオペラ歌手の真似をして、大声で歌を歌い始めたのには参った。おいおい、自分がオペラ歌手のように話すからと言って、同じように唄えるんじゃないかと思うのは、あまりにも極端な論理の飛躍だよ、キミ!!!

Sideways

2004-11-07 12:54:03 | 映画・音楽etc.
とても面白い映画を見てきました!
サンフランシスコでは先週、我が家の近くではこの金曜日から封切られたばかりの新作です。タイトルは「Sideways」。「脇道」という意味が一番近いかと思います。いわゆる「脇道にそれる」という表現の脇道です。舞台は、南カリフォルニア。2年前に離婚して以来、鬱になりがちの男性と、週末に結婚式を控えているその友人との、ワインの名産地を巡る1週間の旅行のお話です。この鬱になりがちの男性というのが、元教師で、作家志望で、恋とか愛を悲観しがちで、しかもワインオタクと来ている。友人の男性は、ぱっとしない俳優で、でもハンサムでプレイボーイで、週末に結婚を控えているので、独身最後の一週間ということで、思いっきり派手に羽目を外したいと考えている。二人のキャラクターはとてもユニークだし、ワインオタクの男性がぶちまける、周囲が思わずざーっと退いてしまうようなマニアックなワイン談義、そしてカリフォルニアを縦断するように北上していき、その先々で立ち寄るワインの名産地の綺麗さ!最初はほとんどどたばたの喜劇で、お腹が痛くなるほど笑いますが、最後の方ではしんみり、ほろり、じーん。。。ちょっと「ロスト・イン・トランスレーション」にも通じるような人間関係の機微や感情の襞などもよく描かれていて、予想以上に感動的な映画でした。地元の新聞の評も上々!この映画、日本にも配給が決まるといいですね!題名は、日本で公開される際に多少変わってしまうかもしれませんが、「離婚して鬱に陥っている男性と、週末に結婚を控えた俳優崩れの男性の珍道中」「南カリフォルニア」「ワインの名産地巡り」がキーワードです。名画座のような小さな映画館で、限定配給という可能性もあるかもしれません。是非、日本で見かけたらご覧になってみてください!!!映画についての概略は、以下のURLにあります。(もっとも英語なんですが。。。)
http://romanticmovies.about.com/library/weekly/aasidewayscast.htm

フジコ・へミングのラ・カンパネラ

2004-09-08 15:20:57 | 映画・音楽etc.
しばらく車の中で音楽を聴くということがなかったので、7枚入るCDチェンジャーの中に何が入っているかをすっかり忘れていました。うちのフランス人が運転する横で、久しぶりに何か音楽をと思い、CDを入れると、綺麗なピアノ曲がかかったので、聴くともなく聴いていたのですが、ふとリストのラ・カンパネラが始まった。その途端、私はうっとうめいて助手席で固まってしまいました。「これは、フジコ・へミングのCDで、フジコ・へミングのラ・カンパネラだ。」日本で随分前に買ったCDで、封も切っていなかったのをアメリカに持ってきて、カー・オーディオにセットしていたのをすっかり失念していました。
この人のラ・カンパネラは、痛い。とても痛いので、すぐにわかる。他の曲はあまり感じないのに、ラ・カンパネラに殊更に痛みを感じるというのは、多分、この曲がこの人にとってきっととても思い入れの深い曲だからで、思い入れが深いということは、自分がその楽器の演奏や楽曲を学ぶにあたって、経験してきた様々な苦しみや哀しみが、演奏する度に多分彼女の中をそれこそ走馬灯のように駆け巡るからだと思います。

音楽、というのは「音を楽しむ」と書くのに、演奏する側からすれば、これを心底から楽しむことなど、本当に数えるほどしかない、ということを、果たしてどれだけの人が本当に知っているでしょうか。私自身、一時期音楽を真剣にやってみようと血迷った時期がほんの少しだけあって、結局は才能と根性が圧倒的に不足していたためにさっさと投げ出してしまったけれど、私にはその志を貫徹している音楽家の友人が何人かいる。海外の一流の音楽大学に留学し、コンクールでも賞を取って、それなりに活躍している友人達である。でも、彼女達はとても辛そうだ。何年か前の話だが、そんな友人の一人のお母さんと話をする機会があった。
「○○(友人の名前)にね、このあいだ泣かれたのよ。「私は、皆に言われるままに、こんなに必死になって音楽をやってきたのに、この年になって、自分が食べていくだけのお金も満足に稼げないのよ。XXちゃん(私の名前)は、とっくに社会人になって、お給料をちゃんともらって、毎日会社に行って真っ当な生活をしているっていうのに、私は10年以上前の学生時代から、何も目に見える形で進歩していないのよ」って。今になって、娘からこんなことを言われるほど辛いことって、ないわ」と、お母さんも最後の方はほとんど涙声だった。私は、何も言えなくて黙っているしかなかった。私は私で、毎日毎日判で押したように会社へ通い、私でなくても出来る仕事をただ組織の一歯車になって果たす自分をこの上なくちっぽけに感じていた頃で、自分でなければ表現できない世界を追及していく彼女達をとても羨ましいと思っていたから。。。

中途半端に音楽を投げ出してしまった私でさえ、うっとうめいてしまって、それ以上聴くのが辛くなる音楽がある。自分が実際に苦しんで弾いたことがある曲などは、聴くだけで胃が痛くなるようなものも、涙が滲むようなものも、あるいは掌に冷たい嫌な汗をかくようなものもある。音楽に生涯を捧げることを決意した人達の心中は、いかばかりか、と思う。少なくとも気軽に「音を楽しむ」喜びとは、きっと一生無縁なのに違いない。

本来は、単に楽しいもの、美しいものを表現したい、という自然な感情の発露である筈のものが、「芸術」という名前を与えられた途端に、何故こんなに痛みを伴うものになるのだろう。子供のように自然な欲求、無邪気な反応をただ見守り、そっと導くだけで、一流と呼ばれる世界の舞台には立てないものだろうか。

フジコ・へミングのラ・カンパネラを久々に聴いて、珍しくちょっと真面目に色々と考えたことでした。