念仏すれば往生できるというのは、ある意味、ひとつの躓きの石である。
修行すれば往生できる。善行を積めば往生できる。努力すれば往生できる。というのなら理解できるが、念仏による往生はその全てを否定するからである。
修行もいらない。善行もいらない。努力もいらない。
「人間としてそれでいいのか?」という疑問が必ず頭をもたげてくるが、
浄土の教えは、「それでいい」と言い切ってしまう。
なぜなら、阿弥陀仏となった法蔵菩薩の修行に勝る修行は存在しないからである。
法蔵菩薩の善行に勝る善行は存在しないからである。
法蔵菩薩の努力に勝る努力は存在しないからである。
法蔵菩薩の誓願と、それを成就された労苦の前には、あらゆる修行は無に等しく、あらゆる行いは善からほど遠く、あらゆる努力は努力の名に値しない。
衆生の価値観からする、修行や善行や努力は、超越的な絶対善である阿弥陀仏とその浄土の前では、無効になってしまうのである。
阿弥陀仏とその浄土の前(厳密には、ひとえに仏とその浄土の前)では、あらゆる衆生の行いは悪である。生存は悪である。
ここで悪というのは、その行為をやめるべきだとか、生きるのをやめて死ぬべきだとかいう意味ではない。絶対的な善である仏とその浄土の前では、どれだけ清らかに飾り立てた人の行いも、まだはるかに醜く、どれだけ素晴らしいと思われる人の生も、まだはるかに及ばないのだということである。
(「仏、阿難に告げたまはく、『・・・たとひ帝王のごとき、人中の尊貴にして形色端正なりといへども、これを転輪聖王に比ぶるに、はなはだ鄙陋なりとす。なほかの乞人の帝王の辺にあらんがごときなり。転輪聖王は、威相殊妙にして天下第一なれども、これを忉利天王に比ぶるに、また醜悪にしてあひ喩ふるを得ざること万億倍なり。
たとひ天帝を第六天王に比ぶるに、百千億倍あひ類せざるなり。たとひ第六天王を無量寿仏国の菩薩・声聞に比ぶるに、光顔・容色あひおよばざること百千万億不可計倍なり』と」)
たとえば、晴れた日に昇る朝日の光線とそれが染め上げる空の色、西空に沈み行く夕日の放射とそれが燃え立たせる雲の色は、あまりに美しい。人の手を以ってしては到底作り出せない、絶対の美である。
そして阿弥陀仏の姿とその浄土の輝きは、その太陽の光をも超えてなおはるかに美しい(「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。・・・このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す」)。
心と肉体を持ち、その日毎の生存にとらわれざるを得ない、衆生の生と、それと対照的な太陽の美。そしてそれを更に超える阿弥陀仏と浄土の美とは、あまりに遠い(経典ではこの遠さを、「ここを去ること十万億刹」という)。
だから、私たちは浄土に届くことはない--絶対に。
ただ、もっとも麗しい名である、南無阿弥陀仏を口にする(聞く、憶う)ことを除いては。
修行すれば往生できる。善行を積めば往生できる。努力すれば往生できる。というのなら理解できるが、念仏による往生はその全てを否定するからである。
修行もいらない。善行もいらない。努力もいらない。
「人間としてそれでいいのか?」という疑問が必ず頭をもたげてくるが、
浄土の教えは、「それでいい」と言い切ってしまう。
なぜなら、阿弥陀仏となった法蔵菩薩の修行に勝る修行は存在しないからである。
法蔵菩薩の善行に勝る善行は存在しないからである。
法蔵菩薩の努力に勝る努力は存在しないからである。
法蔵菩薩の誓願と、それを成就された労苦の前には、あらゆる修行は無に等しく、あらゆる行いは善からほど遠く、あらゆる努力は努力の名に値しない。
衆生の価値観からする、修行や善行や努力は、超越的な絶対善である阿弥陀仏とその浄土の前では、無効になってしまうのである。
阿弥陀仏とその浄土の前(厳密には、ひとえに仏とその浄土の前)では、あらゆる衆生の行いは悪である。生存は悪である。
ここで悪というのは、その行為をやめるべきだとか、生きるのをやめて死ぬべきだとかいう意味ではない。絶対的な善である仏とその浄土の前では、どれだけ清らかに飾り立てた人の行いも、まだはるかに醜く、どれだけ素晴らしいと思われる人の生も、まだはるかに及ばないのだということである。
(「仏、阿難に告げたまはく、『・・・たとひ帝王のごとき、人中の尊貴にして形色端正なりといへども、これを転輪聖王に比ぶるに、はなはだ鄙陋なりとす。なほかの乞人の帝王の辺にあらんがごときなり。転輪聖王は、威相殊妙にして天下第一なれども、これを忉利天王に比ぶるに、また醜悪にしてあひ喩ふるを得ざること万億倍なり。
たとひ天帝を第六天王に比ぶるに、百千億倍あひ類せざるなり。たとひ第六天王を無量寿仏国の菩薩・声聞に比ぶるに、光顔・容色あひおよばざること百千万億不可計倍なり』と」)
たとえば、晴れた日に昇る朝日の光線とそれが染め上げる空の色、西空に沈み行く夕日の放射とそれが燃え立たせる雲の色は、あまりに美しい。人の手を以ってしては到底作り出せない、絶対の美である。
そして阿弥陀仏の姿とその浄土の輝きは、その太陽の光をも超えてなおはるかに美しい(「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。・・・このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す」)。
心と肉体を持ち、その日毎の生存にとらわれざるを得ない、衆生の生と、それと対照的な太陽の美。そしてそれを更に超える阿弥陀仏と浄土の美とは、あまりに遠い(経典ではこの遠さを、「ここを去ること十万億刹」という)。
だから、私たちは浄土に届くことはない--絶対に。
ただ、もっとも麗しい名である、南無阿弥陀仏を口にする(聞く、憶う)ことを除いては。