amita_gate's memorandum

その日読んだ本やサイトのメモ

念仏と往生(2)

2005-07-23 12:48:25 | 真宗についてのメモ
念仏すれば往生できるというのは、ある意味、ひとつの躓きの石である。

修行すれば往生できる。善行を積めば往生できる。努力すれば往生できる。というのなら理解できるが、念仏による往生はその全てを否定するからである。

修行もいらない。善行もいらない。努力もいらない。
「人間としてそれでいいのか?」という疑問が必ず頭をもたげてくるが、
浄土の教えは、「それでいい」と言い切ってしまう。

なぜなら、阿弥陀仏となった法蔵菩薩の修行に勝る修行は存在しないからである。
法蔵菩薩の善行に勝る善行は存在しないからである。
法蔵菩薩の努力に勝る努力は存在しないからである。
法蔵菩薩の誓願と、それを成就された労苦の前には、あらゆる修行は無に等しく、あらゆる行いは善からほど遠く、あらゆる努力は努力の名に値しない。
衆生の価値観からする、修行や善行や努力は、超越的な絶対善である阿弥陀仏とその浄土の前では、無効になってしまうのである。

阿弥陀仏とその浄土の前(厳密には、ひとえに仏とその浄土の前)では、あらゆる衆生の行いは悪である。生存は悪である。
ここで悪というのは、その行為をやめるべきだとか、生きるのをやめて死ぬべきだとかいう意味ではない。絶対的な善である仏とその浄土の前では、どれだけ清らかに飾り立てた人の行いも、まだはるかに醜く、どれだけ素晴らしいと思われる人の生も、まだはるかに及ばないのだということである。
(「仏、阿難に告げたまはく、『・・・たとひ帝王のごとき、人中の尊貴にして形色端正なりといへども、これを転輪聖王に比ぶるに、はなはだ鄙陋なりとす。なほかの乞人の帝王の辺にあらんがごときなり。転輪聖王は、威相殊妙にして天下第一なれども、これを忉利天王に比ぶるに、また醜悪にしてあひ喩ふるを得ざること万億倍なり。
たとひ天帝を第六天王に比ぶるに、百千億倍あひ類せざるなり。たとひ第六天王を無量寿仏国の菩薩・声聞に比ぶるに、光顔・容色あひおよばざること百千万億不可計倍なり』と」)

たとえば、晴れた日に昇る朝日の光線とそれが染め上げる空の色、西空に沈み行く夕日の放射とそれが燃え立たせる雲の色は、あまりに美しい。人の手を以ってしては到底作り出せない、絶対の美である。
そして阿弥陀仏の姿とその浄土の輝きは、その太陽の光をも超えてなおはるかに美しい(「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。・・・このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す」)。

心と肉体を持ち、その日毎の生存にとらわれざるを得ない、衆生の生と、それと対照的な太陽の美。そしてそれを更に超える阿弥陀仏と浄土の美とは、あまりに遠い(経典ではこの遠さを、「ここを去ること十万億刹」という)。

だから、私たちは浄土に届くことはない--絶対に。
ただ、もっとも麗しい名である、南無阿弥陀仏を口にする(聞く、憶う)ことを除いては。

念仏と往生(1)

2005-07-23 12:32:59 | 真宗についてのメモ
大無量寿経では、遠い昔、あらゆる想像を絶したはるか昔に、法蔵菩薩という方が現れ、世にもまれな優れた仏である世自在王仏の前で、あらゆる衆生を救済する仏となることを誓われた、という。

「時に国王ましましき。仏の説法を聞きて心に悦予を懐き、尋ち無上正真道の意を発しき。国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰いき。・・・世自在王如来の所に詣でて、仏の足を稽首し、右に繞ること三帀して、長跪し合掌して頌をもって讃じて曰わく、」
「吾誓ひて仏を得んに、普く此の願を行じて、一切の恐懼に、為に大安を作さん」
「我無量劫に於て、大施主と為りて、普くもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成ぜじ」

そして法蔵菩薩は、無量の苦行を重ねられ、誓願を成就して阿弥陀仏となられた、という。
「不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。・・・勇猛精進にして志願倦むことなし」
「仏、阿難に告げたまはく、『法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ』と」

これは、今の私たちの普通の言い方で言えば、「フィクション」(=歴史上実際に起こったことではない)であるとされている。
但し、浄土教の立場から言えば、阿弥陀仏(=仏)が現にいらっしゃり、浄土(=仏の修行等を積んだ訳でもない者でさえ引き上げられる仏の境界)があることは「事実」である。(事実でないと信仰が無意味化する。)
仏と浄土という「事実」があるのなら、その「事実」が成就された由来が必ずあるはずである。何者も、衆生である限り、はじめから仏であるということは出来ない(この辺り、浄土教は本覚思想とは異なる立場になる)。単なる一衆生が、これだけ素晴らしい浄土を持った仏になるには、それに相応する素晴らしい理由があったはずである。
その理由として経典で語られるのが、法蔵菩薩が世自在王仏の前で誓った「誓願」である。「もっとも麗しい浄土を実現しないかぎり、私は仏とはならない」(「われ仏とならんに、国土をして第一ならしめん。・・・国泥洹のごとくして、しかも等しく双ぶものなからしめん」)という趣旨の、四十八の誓願である。
そして、「もっとも麗しい浄土」には、必然的に、念仏による往生が含まれている(*)。なぜなら、「もっとも麗しい浄土」の仏の名はもっとも麗しい名であり(全ての仏から称えられるほど麗しい名。十七願「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」)、その名がもっとも麗しいのは、その名を唱える(思う、聞く)だけでもっとも麗しい浄土に至ることができるほどだからである(十八願「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」)。従って、法蔵菩薩が念仏による往生を誓われた十八願を立て、それを成就されたことが、信仰の欠かせない一部となる。

*法然上人以降の浄土教で一番難しいのが、なぜ往生の行が念仏でなければならないのか、という点である。
実際、要約すると、「それが阿弥陀仏の誓願であるから」という以上の説明は普通は与えられない。しかし、阿弥陀仏の誓願の中には、諸行往生(諸々の功徳を積むことによる往生。十九願)も等しく誓われているのだから、厳密にはこの説明だけでは不十分である。
親鸞聖人はこの不十分さをよくよく考えておられたのではないかと思う。
教行信証の行巻で、念仏が真実行であることの根拠として十七願を引かれているのは、往生の行が念仏でなければならないことの親鸞聖人流の証明であるのだろう。
全ての仏から例外なく褒め称えられるほど素晴らしい阿弥陀仏の御名だからこそ、それを称することが、往生を保証する最高の行となる。
個々人の努力等によって行われる修行等では、それだけの素晴らしさを到底持ち得ないということなのだろう。
(「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。・・・しかるにこの行は大悲の願より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり」)

夏(中原中也)

2005-07-23 10:46:12 | 
夏(中原中也)
血を吐くやうな 倦うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麥に陽は照り
睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩しく光り
今日の日も陽は炎ゆる、地は睡る
血を吐くやうなせつなさに。

嵐のやうな心の歴史は
終焉つてしまつたもののやうに
そこから繰れる一つのもないもののやうに
燃ゆる日の彼方に睡る。

私は殘る、亡骸として――
血を吐くやうなせつなさかなしさ。

(*雑感

真夏の熱気に照らされたうだるような倦怠感。
正確には、「せつなさかなしさ」があるのではなく、だるくて何も考えることができないのである。
精神的な理由による放心状態ではなく、肉体的な理由による放心状態。

私の頭を離れないのは、
「嵐のやうな心の歴史は/終焉つてしまつたもののやうに」
というフレーズ。

「嵐のやうな心の歴史」
自分がそこに立っている間は、決して傍から見ることの出来ない心の歴史。
自分より他、誰も覗き込むこともできない、激変する心の歴史。
それを終わらせる(終わったかのように感じさせる)のは、
感情でも、理性でも、同情でも、客観的な分析でも、なく、
ただ肉体的な理由による虚脱なのである。
こうした、あまり積極的には認めたくない事実をさりげなく歌いこんでいるあたり、
中也はただのノスタルジーの詩人ではないと思う。

*「実存から実存者へ」中の疲労についてのレヴィナスの論も読み返すべきかも)