25年という年月をかけて、膨大な税金を投入して、ひとりの人物に関する記録が出来上がった。「昭和天皇実録」。9日、宮内庁が公開したそれは、計1万2千ページ、本にすると61冊にも及ぶという。
そんだけ膨大な量になりながらも、新たな発見、従来の定説を覆す新事実などほとんどなく、戦争責任に関する新事実なんて望むべくもない、らしい。まあ、宮内庁が編集したんだから当然と言えば当然なのだが。ちなみに「拝聴録」の所在は不明とか・・・。
ある意味、従来の天皇像(平和を望みながらも軍部にひきずられていっちまった、傍若無人な軍に対しては力及ばないこと多々あったけど、ホントは日本人のことを誰よりも心配していたとってもいい人)を壮大に演繹してるこの「実録」。やっぱ昭和天皇・マッカーサー会見では、あのマッカーサーの回想記の中の記述を引用してる。宮内庁の方々はよっぽどあの表現が好きらしい。で、敗戦間近の皇族会議にしろ、日米開戦間近の御前会議にしろ、肝心なところは、巧妙にフォーカスがかかっているようだ。靖国参拝についてもそう。
1975年を最後に昭和天皇は靖国参拝を行わなくなった。A級戦犯合祀の後だから、これがきっかけなのはわかるけど、いったいどういう根拠でもって何を理由に不参拝に至ったのか、うさぎにはさっぱり見えてこない。
個人的には、靖国にはずっと抵抗を感じてきた。戦死者の霊を慰める目的で作られたこの「人為的」神社(明治2年)。戦死者を「祭神」として祀っている。国のため死んだら神になる。死を痛むより讃える姿勢が前面に出ている。つまり、国のために死ぬことはすばらしいという論理が根底にあるってことだ。とてもじゃないけど共感できない。
それでも、この昭和天皇靖国参拝取りやめには、おそろしく違和感を感じる。なぜなら、「死ねば靖国の神になる」と信じ込まされて死んでいった人があまりにも多いから。もちろん外面はそのふりをして、「靖国なんてまっぴらごめん」と亡くなっていった人も大勢いるだろう。でもですよ、「天皇のため、国のため」という戦地への駆り出し方が間違いであったことも含めて、その中心的存在であった天皇は、その名目で彼らを戦地へ行かせ、結果死に至らしめた厳然たる事実に頭をたれ、贖罪する必要があったのではないだろうか。
よって、「ごめんなさい。すいません。許してください。あ”ー面目ないっ!」と生涯かけて靖国で謝り続けてくれたら、少しはすっきりしたかもしれない。が、A級戦犯合祀を境にストップ。なぜだ? これじゃあ死んでいった人たちに申し訳たたない。彼らは納得いかない思いでいっぱいなんじゃないのか。
で、ここからはあくまで推測なんだけど、昭和天皇は身辺で戦争責任問題蒸し返されるの、恐れていたのではないだろうか。A級戦犯を一緒に祀った神社に参拝したら、彼らを容認したと受け取られかねない。そんなの困る。あくまで彼らとは一線画したい。ならば・・・行くのやめよ。新憲法で政治的行為が禁止されている天皇。にもかかわらず、こんな理由で参拝を取りやめていたとしたら、もしも・・・、ですよ、そんな小さなお心をお持ちあそばされていたとしたら、A級戦犯以外の戦没者に対する壮大な裏切りである。
となると、どうしても昭和天皇を天皇とした天皇制とは何か(ここでは日本国民にとってと限定する)を考えざるをえない。1万ページも読めないから、超要点だけかいつまんで考えると、やっぱキーポイントは戦争責任しかないでしょ。やり方はこうだ。次の2点に分けて考える。
①昭和天皇に戦争責任はない。→天皇に様々な「特権」を持たせたにもかかわらず、天皇はその「特権」を生かせず、軍の暴走を止められなかった。結果的に天皇制は広がる戦争被害を阻止する手段にならず、国民に多大な犠牲を強いた→日本国民にとって天皇制に存在意味はない②昭和天皇の戦争責任はある。→戦争で国民に多大な犠牲を強いた張本人である。天皇制がなかったらここまでの被害を国民は受けなかった。→日本国民にとって天皇制は苦難をもたらす原因となりかねない。
すなわち、責任あろうとなかろうと、いずれの場合でも天皇制は日本人にとってメリットがないという結論になる。これは昭和天皇に限ってだが戦争への関与がどうだったか真相をはっきりさせないと、誰が天皇やっても同じ結論が導かれる恐れは消えない。福島第一原発事故原因と同じである。
ドライに考えたら天皇制なんて無用の長物。しかも国体保持にこだわって敗戦を先延ばしにしたのは明らかなこと。加えて、憲法改正に際しても、昭和天皇は天皇や皇族の「特権」 を残せないかいろいろ口をはさんでいたらしい。この期に及んでともとれる厚かましさ(失礼)も何のその、それでも、日本にとって天皇制は欠くべからざるものという信念(?)持ってる人は多い。
日本で天皇制が維持されているのは、たぶん次に述べるような内外の人の存在があるからなのだろう。外の人は、前述の人、アメリカ政府も含めて、日本人は天皇という君主をおかないと統制が取れなくなる、といった考え方をしている人。一方、内の人は利権保持者。すなわち皇族一族や宮内庁その周辺の人々。彼らは皇室利権をひたすら守る立場にある。皇室というのは日本の最大のブランドだ。品位を保つという名目でぽんと1億円以上のカネが動く(高円宮家次女の結婚に国が支払う一時金)。世の中でこれほどおいしい境遇はないことは、自分と自分の身内がもしそうだったらと考えたら、よく理解できるだろう。
今、原発利権というのが問題になっている。でもさ、天下り利権や防衛利権、その立場を利用した理不尽なカネつぎ込み構造、日本にいっぱいあるんだよね。そんで、それを容認するためのキーワードがあって、利権屋によって巧みに使い分けられる。電力安定供給だったり安全保障だったり、時には品位だったり、ね。
えらく長い内容になってしまった。これじゃあまるであの実録と同じ。そろそろ結論にしたい。現在の日本で天皇制が維持される理由、それは皇室利権と彼らに都合のいい「伝統」にのせられ安心している人々がいるからである。長けりゃいいってもんじゃない。実録も系図も伝統も。(終り)
それでも更に付け加えたいこと
もんくうさぎはかすかに覚えている。昭和天皇が戦争責任について問われ、答えたあの言葉を。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究してないので、よくわかりません・・・」子供ながらに「ずっるー!」と感じた。こういう言葉でごまかす人生だけは送りたくないと思った。日本国憲法によると、天皇は日本の象徴だそうだ。ならば、戦争責任をあいまいにするスタンスも日本人が模範とすべき姿なのか。情けない話である。