雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮智彦の古代ブログ 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 

2017年09月03日 06時30分21秒 | 遠州古代史

雨宮智彦の古代ブログ 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城

 今年、NHKテレビで「井伊直虎」をとりあげたため、徳川家康の浜松侵攻時のことに注目があつまっている。

 家康が浜松(引馬城)には降伏を認めて、井伊家や気賀には武力を使ったのは、何か理由があるのかも知れない。家康にしては珍しく残虐な堀川城の虐殺はなぜか。もっと勉強しないと。

 さらに家康の正妻、瀬名姫(築山御前)は浜松の「東西線」である西来院に墓があるのは、なぜか。

 以下2つは、前に書いたことである。再録する。

    ☆

「雨宮日記 6月12日(木)の5 博物館の入り口に立っている「家康の道」の案内板
2014年06月12日 15時34分58秒 | 雨宮日誌

 この「家康の道:の案内板なのですが、位置関係が正確にかかれていないので、この案内板では、まるで蜆塚遺跡と宗源院と浜松城が東西線状にあって、西来院や普済寺はその線より少し南にあるように見えてしまいます。

 しかし、実際には、蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城(現在の東照宮)は東西の一直線上にあります。地図でみなさん、確かめてください。

 さらに明らかに、その線上に、蜆塚遺跡の東にある山神社が入り、山神社は東を向いていますから、山神社に祭られた神様は、山神社から3つのお寺と曳馬城を見守っていることになります。

 明らかな太陽信仰の名残だと、ぼくは思うのですが、「家康の道」に関連しては、まだ誰もぼく以外には気付いていないようです。

 浜松城は、この線から南へずれて建設されていることからして、明らかにこの「家康以前の道」を家康は、無視して、あるいは地元の信仰をねじ伏せて現地点に築いたことになります。

 それに対する地元の抵抗が実際はなかったかもしれない家康が曳馬城を攻め落とした時に闘ったとされる飯尾氏の妻「椿姫」たち、女性達の戦闘伝説として地元に残ったのではないでしょうか。

 太陽信仰ですから、女性が「巫女」として関連することは確かでしょう。

 なお、この線に気付いて則子さんに最初話した頃に、このブログで書いておきました。

     ☆

「遠州の遺跡・寺社・地名(近世編) 119 蜆塚ー3つの寺ー曳馬城の東西線
2013年11月01日 22時23分59秒 | 遠州古代史

 神社の研究はしていますが、お寺の研究は、あまりしていません。神社のことを考えるために、浜松市の中心部を見ていて発見しました。

 浜松の縄文時代を代表する遺跡である蜆塚遺跡は、古墳もあり、真横に東向きの「山神社」があることからも、縄文時代以後も、影響力をもった遺跡であると思います。

 その蜆塚遺跡=山神社から春分・秋分の日の出の方向、真東に東西線を引いていくと、西から「宗源院」「西来院」「普済寺」と3つのお寺を通っています。

 地図を見てもらえばわかりますが、3つのお寺とも「かろうじて、かすめて」いるのではなくて、3つのお寺の北端・南端は3つともほとんど同じです。

 そして、さらにまっすぐ東へ伸ばして、「中世~近世」という時代限定で考えると、当時の「曳馬城」、つまり徳川家康が侵略してくる以前の「飯尾氏」の時代のお城を通ります。

 つまり、同時代の「過去の遺跡ーお寺ーお城」が同緯度になっています。このことは偶然ではなくて、意味があることだと思います。

 家康は、浜松を占領してから、新たに、この緯度よりかなり南へ「浜松城」を築きます。このことも、過去の伝統と決別する意味で、重要なことだと思います。

 これって、これまでに誰か気がついた人がいるという事実がありましたら、ぜひ、私までご一報ください。」



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