(つづき)
「広大な尾瀬ヶ原を差し挟んで東西に対立している燧岳と至仏山。燧の颯爽として威厳のある形を厳父とすれば、至仏の悠揚とした軟らかみのある姿は、慈母にたとえられようか。原の中央に立ってかれを仰ぎ、これを眺めると、対照の妙を得た造化に感歎せざるを得ない。」
(深田久弥『日本百名山』(新潮社版))
二つの山は立派で、その間に立つと両方の山から引力のようなものを感じ、不思議な気分になります。鋭鋒の燧ヶ岳に、なだらかな至仏山。今日は至仏の方が巨きく、「父」にはこちらの方が相応しいのではと思いました。
朝の尾瀬沼よりも、人が多くなってきました。このあたりなら、東京から日帰りで来る人もいるでしょう。それでも、いつもの週末の尾瀬からすれば、考えられないほどの少なさです。両方の山がはっきりのぞめて、空は青空、花は満開。これ以上はもう何も望めません。
一生に一回しか見られないものだったかもしれません。
しかし、写真を見返すと、まだ半年しか経っていないのに覚えていないことが多いなと思いました。
「芸術とは非大衆的な事柄である。しかも芸術は大衆に向かって語りかける。」
(フルトヴェングラー『音楽ノート』芦津丈夫訳 (白水社))
大指揮者の素晴らしい言葉です。偶然ですが、「芸術」を「尾瀬」に置き換えても、同じくらい意味のある言葉だと思います。
風がおさまるのを待つと、池塘の水面に燧ヶ岳が姿を現しました。
(2016年5月中旬)