わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

もしも私が神であったら

2012年12月09日 | 宇宙精神

いつもながら題名と客寄せの文句がどうも馴染まないかなと思いつつ・・

 

ほほう、おもしろいテーマにしたね。

はい、じつは友人がこういうテーマで本を書いてみたいと言いまして

で、内容は?

はい、まだ聞いておりません(笑い)

そうか、ただ題名に難ありだね・・

え?

もしも・・・これね、
そして
あったら・・・もね。

 

??

もしも私が神であったら

私が神で・・・私が神だ?

ええええ~~

 

そうだろう

 

絶対に考えられない!!

呑兵衛で意地汚くて、掃除嫌いだし、散らかし魔だし、好色だし(病気的くらい)
そんなボクが・・・・

いや、君じゃないだろ、その本を書こうというのは・・

 

あ、そうか。じゃ、ボクはやっぱり・・

 

そうでもないみたいだよ、ここ読んで皆(みな)

 

一部だけ転載なので全文は下段にありますので
必ず全文を読んでかんじてみませう。

 

ボクが思うに、今現代にお釈迦さんやイエスさんが生きていたら、

おう、私の言いたかったこと、そのままジャン!

とおっしゃるでしょう

 

21世紀はこれからこうなる、その理由(わけ)と原理(もくてきいしき)

アセンションとは汗とションではなかったようだ・・(馬化)

 

http://members.jcom.home.ne.jp/dawn-watcher/index.html

のHPより

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

アリス、アリスに会う  317-332
   

  (中略)

318  : 昔から「天国は退屈だ」というジョークがあります。天国にも極楽にも「休息」というイメージがあるかもしれませんが、本当は、生命というのは、無限に成長・発展していくものであろうと思います。一時的な休息はいいかもしれませんが、たぶん、しばらくするとまた何かしたくなるのだろうと思います。

地球という世界を創ったのも、そういう退屈した霊たちだったかもしれません。「自らの霊性を忘れる」という強烈なルールを発明して、善と悪の二元社会を作り、その中で果てしない抗争をつづけるゲームセンターが生まれたわけです。40年近く前、私は子どもをひざに抱いて「宇宙戦艦ヤマト」のテレビを見ていました。そして、仮想敵を設定しないと子ども向けの物語さえも作れない人間の性(さが)にうんざりしていましたが、それは地球世界の基本的なルールだったのかも知れません。

けれども、地球世界はいま基本ルールを変えようとしています。忘れた霊性を思い出すというのが、これからの私たちのなすべき仕事です。思い出すことが出来るので、忘れることが遊びになるのです。霊性を思い出した暁には、基本ルールは抗争ではなくなります。生命は無限に成長・発展していくにしても、無限に争い続けなければならないわけではありません。無限の協力というスタイルもあるのです。この基本ルールを抗争から協力へと変えるのも、生命の発展の一つの段階であろうと思います。

319 アリス<本当は、生命というのは、無限に成長・発展していく>ものなのでしょう。これは、自分自身を認識するための動きなのですね。

「自らの霊性を忘れる」という強烈なルールを発明して、善と悪の二元社会を作り、その中で果てしない抗争をつづけるゲームセンターが生まれたわけです。>とありますが、これは何時始まったのでしょうか?この発端が分れば、<霊性を思い出す>ことも易しいのではないかと思うのですが・・・・

320  : <これは何時始まったのでしょうか?>というのは、地球の時間で計って、という意味でしょうか。それは私もよく知りません。地球の時間というのが、霊性にとってどれほどの意味があるのかも、よくわかりません。イェシュアも、時間は幻想だ、と言っていましたね。

重要なことは、私たち人間が単なる物質の塊ではなく、永遠不滅の霊的存在であること、それが物質世界という二元性の仮想現実の中で遊んでいるということ、その仮想現実から、いつかは本当の現実、自分の霊性に目覚める必要がある、ということの三つだと思っています。

私は、霊性を思い出すのに、それを忘れた時点に戻る必要があるとは思っていません。私たちは自分の意志で霊性を忘れたので、また自分の意志で霊性を思い出せばいいのだと思っています。

321 アリス:  (中略)

話を少し遡らせます。
「自らの霊性を忘れる」という強烈なルールを発明して、善と悪の二元社会を作り、その中で果てしない抗争をつづけるゲームセンターが生まれたわけです。>と見るのは、猫さんであり、私ですね。これを、仮想のものと見るのも猫さんと私ですね。これはルールですから、変えようと思えは変えられる訳で、少なくとも、猫さんは変えようとしておられるし、その時期だと考えておられます。
抗争のルールから協力のルールへの変換ですね。
しかし、私は思うのですが、無限に発展、成長する生命(宇宙といっても良いし、神と言っても良い)にあって、抗争と見るか協調と見るかは、大変難しい問題であると思うのです。自然界で、例えば食物連鎖を見れば、抗争は実は協調となっています。万事塞翁が馬の話題(212以降)へ戻るかもしれませんが、どのようなルールも持って臨まないのがいいという考え方が出来ます。
協力のルールをもう少し解説いただけませんか?

322  : <どんなきっかけで、こんな遊びを始めたのだろうか?という問いなのですが・・・> 私は完全な能力を持っている霊が何かを始めるのに、何かきっかけが必要であるとは思っていません。以前に「完全な自由意志には理由がない」と言ったことがありますが、それも同じ意味です。

けれども、別の説もあります。それは、あらゆる被造物は、分離(separation)と合一( unity)の間を振り子のように行ったり来たりするという説です。この説では、ちょうど一日のうちに昼と夜が交互に訪れるように、あるいは、季節の移り変わりのように、宇宙には分離のサイクルと合一のサイクルが交互に訪れると言います。その周期は1万4千年だそうです。もしこの説に従って考えるなら、私たちが霊性を忘れるというゲームを始めたのは、最後に分離のサイクルが訪れたときということになります。それは伝説のアトランティスが崩壊した時期に重なります。

そして私が人間に霊性を思い出す時期が来ていると感じるのは、分離の季節が終わって、合一の季節が始まろうとしているという意味になります。

<抗争と見るか協調と見るかは、大変難しい問題であると思うのです。> アリスさんのお考えには、自然界の法則は決して変わらないという前提があるように思います。けれども私は、私たちが霊性を思い出すならば、自然界そのものが変化すると考えています。食物連鎖の意味も変わるし、たぶん、「食物」という概念がなくなるだろうと思っています。なぜなら、霊は生存するのに何かを食べる必要はないからです。

私たちは、いま、牛や豚を平気で殺して食べることが出来ますが、それはふだん私たちが動物とコミュニケーションできないからです。もし、私たちが日常的に牛や豚とテレパシーで話が出来るとしたら、――そこでどんな会話をするか知りませんが――私たちは、その会話の相手を殺して食べるようなことはできなくなるのではないでしょうか。

私は、人間が霊性を取り戻すということはそういうことだと考えています。私たちは牛や豚や魚や小鳥と会話し、植物とも言葉を交わし、風や山や川とも会話します。そして、たぶん、その会話の相手を殺して食べるような必要性はなくなるだろうと思っています。

323 アリス :私たちが霊性を思い出すならば、自然界そのものが変化すると考えています。>わたしもそうだろうと思っています。そこで働いているルールをもう少しお話し戴きたいというのが、311なのですが・・・・

私たちは牛や豚や魚や小鳥と会話し、植物とも言葉を交わし、風や山や川とも会話します。そして、たぶん、その会話の相手を殺して食べるような必要性はなくなるだろうと思っています。

  (中略)


324  :協力と競争(抗争)の違いは、経済活動を見ればすぐにわかると思います。私たちが霊性を取り戻してしまったあとにどんな経済活動が残るのかはよくわかりませんが、仮にいまと同じような財物の生産活動が必要であると考えてみましょう。

私たちの経済の原則は「能力に応じて働き、働きに応じて受取る」です。その結果、必要なものを受取れない人が出てきます。必要なものがないのは困りますから、その人たちは自分の能力を使って、何とか必要なものを手に入れようと工夫します。その結果、詐欺や強盗をする人が現れます。

いま、中国と日本が境界線上にある油田の開発についてもめていますね。どちらも何とか交渉によってまとめようとはしていますが、双方が自分のほうに有利になるようにしたいという思惑を持っているため、なかなかスムーズには話が進みません。これが抗争の世界です。けれども協力の世界はこうではありません。どちらが開発してもいいのです。入手できた石油は、日本のものでも中国のものでもなく、人類全体の共有財産として、みんなで大切に使えばいいのです。

私が現役だった頃、世界の先進国はみんな海底に転がっているマンガンの鉱石を拾い上げる技術を開発しようと躍起になっていました。太平洋や大西洋の海底には、マンガン・ノジュールと呼ばれるマンガンを多量に含んだ石が転がっています。世界の先進国は、公海の海底にあるこの鉱石の採取権で紛争が起きないように、期限を決めて、それまでに採取技術を開発できた国が採取権を持つことにしようと決めました。それで、どこの国も一生懸命に4000メートルの海底から石の塊を掬い上げる技術を開発しようとしたのです。これも早い者勝ちで資源を奪い取ってしまおうという競争ですね。先進国のエゴではないでしょうか。これが抗争の社会です。協力の社会なら、技術を持っている国が採取して、それを世界中で分け合おうということになるでしょう。

もともと、人間も国家も民族も、平等にはつくられていません。人間なら、持って生まれた知力も体力も違います。国家や民族は、人口、国の広さ、気候条件、資源の保有量、その他、あらゆる点で違っています。もともと違っているものが公平に競争できるわけはありません。「公平な競争」という考えはまやかしです。それは猫とライオンが対等に競争できると考える以上にばかげた幻想です。

けれども、どんなに違っている人たちでも、どんなに条件の違う国でも、協力はできます。みんなで協力して、必要な経済的財物を生産し、その上で、得られた成果は、世界中の人たちで必要に応じて分配する・・・これが協力による社会です。

こんなことを言うと、お前は共産主義者か、といわれそうですね。そのとおりです。私は共産主義であり、また、共産主義ではありません。マルクスは、「能力に応じて働き、必要に応じて受取る」というのを理想の社会だとしました。私はこの考えは間違っていないと思っています。共産主義の間違いは、これを法律や制度や反対派との戦いによって実現できると考えたところです。人間の心が抗争の状態にあるなら、どんな制度を作っても機能しません。協力の社会は、人間の心が協力の心になったときにしか実現できません。

人間の心が協力の心になるのが「合一の季節」です。「合一の季節」とは、すべての人がすべての人を自分であると自覚する時代です。人々の意識が肉体という枠を超えて広がる世界です。お互いが自分自身ですから、お互いの考えていることも全部テレパシーでわかります。どこで誰がどんなものを作っているかも、世界のどこにそれを必要とする人がいるかも、瞬時にわかるような世界です。人々はみんな無償で働きます。なぜなら、他人というのは存在しないからです。全部自分自身だからです。体のどこかが傷んだら、すぐに手が助けに行きますね。「おれは脚じゃないんだから、脚を助けに行く必要はない」などと手が考えることはありません。それと同じように、どこかに助けを必要とする人がいたら、全世界がごく自然にそこを助けることになるというのが「合一の季節」です。「合一の季節」とは、マルクスの理想が実現する社会です。マルクスは何百年か生まれるのが早すぎたのです。おそらく、彼自身も抗争の心を持っていたのでしょう。「協力の社会」を「抗争の心」をもって実現するというのは、所詮、不可能だったのだと思います。

後略

TITLE:
DATE:2012年12月9日(日)
URL:http://www.alice-it.com/alicecat2/alicecat2-317.htm

ーーーーーーーーーーーー一部引用終わりーーーーーーーーーー

上記のURLにて全文を味わいください。

これは読めば読むほど

烏賊になる。   (味わい深くなる)

 

 

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