昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 45回目

2009-08-01 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
加唐島へ上陸しました。チャーター船はここまでで終わりでした。あっという間でした。


(加唐島へ上陸)


(チャーター船)

上陸して直ぐのところに「百済第25代王 武寧王生誕伝承の地」と日本語とハングルで書かれた看板がありました。






(「百済第25代王 武寧王生誕伝承の地」と書かれた看板)

詳細をインターネットなどで調べてみましたので、少し長文ですが、書いておきます。

「・・・百済の蓋鹵王の王弟昆支が日本に遣わされたとき、筑紫(九州)の各羅島で妃が子を産んだ。その子は嶋君と名付けられた。・・・百済人は、この嶋を主嶋と呼んでいる。・・・」と、日本書紀(雄略天皇5年(西暦461年)の条)に記録されている。各羅島は加唐島、嶋君は後の武寧王。武寧王はオビヤ浦で生まれ、産湯を使ったとする伝承が加唐島に残っている。ところが、韓国の三国史記などの歴史書に武寧王が嶋君(斯麻王)と称したことや日本で生まれたとする記録がないなど、韓国の人々には書紀の記録は受け入れ難いものだった。しかし、三十数年前(1971年)、韓国の広州市武寧王陵から墓誌石が発見され、解明が進むうちに状況は一変した。墓誌の記述から日本書紀の記述の正確性が裏付けられ、加えて王棺は韓国に産しない高野槙で造られたものだった。加唐島は、百済、対馬、壱岐、筑紫(九州)の最短コース。古代における日韓の親密な交流や海上交通ルート、雄略紀の実年代等々も武寧王陵の墓誌石や木棺から明確になってきた。武寧王は、阿直岐(あちき)や王仁(わに)博士を日本に派遣して千字文や論語を伝えるなど日韓史に大きな足跡を残した大王だった。(伝王仁博士墓が大阪府枚方市に所在する。同市には継体天皇の伝樟葉宮や7世紀に唐・新羅の連合軍に敗退し、日本に亡命した百済王氏を遠祖とする陸奥守百済王敬福の氏寺百済寺の遺址がある。) 平成14年1月には、日韓の学識経験者が参加し、「百済武寧王生誕海峡地国際シンポジウム」が地元鎮西町で開催された。平成16年6月には、「武寧王1500年ぶり 父(昆支)と巡り会うin加唐島」が開催されるなど、加唐島を架橋とした日韓の交流が進展している。

その先には、「つばきとロマンの島 加唐島」と書かれた案内板がありました。


(案内板)
(2009.03写真撮影)