てつがくカフェ@あいづ

会津三島町で哲学カフェを始めました。
専門知識はいりません。
みんなで哲学的な問いを考えましょう!

第3回 てつがくカフェ@あいづ 報告

2017-04-20 23:05:37 | てつカフェ 報告
皆様、ご無沙汰しておりました。前回の12月に行われた第2回からなんと4か月も経過してしまいました。楽しみにしてくださっていた方々には大変申し訳ありませんでした。4月16日(日)に第3回てつがくカフェ@あいづが開催されました。この日の三島町はとても暖かく、雪解けの只見川を眺めることのできるioriカフェは本当に最高のロケーションです。いつも会場提供ありがとうございます。今回は前回同様8名の参加者でしたが、初めての参加者も3名ほどいらっしゃいました。

今回のテーマは「遊んでますか~?」です。てつカフェの世話役3人がてつカフェ以外の集まりでたまたま顔を合わせた時に、奥会津の「遊び」の達人と呼べる方々から様々なお話をいただきました。その言葉にインスパイヤーされ、「もうこのテーマしかないよね?」と即決しました。

今回も前回と同じように、できるだけてつカフェでのやり取りを再現しつつ、論点をまとめながら、カフェに参加した方の気になる一言(つぶやき?)を抽出してみようかと思います。すぐに結論に行きつかなくても、折をみて考え続けて欲しいので、こういう形で残しておこうと思います。


1 「遊び」の対義語はなんだろう?

まず、ポスターに使われた世話人@小松さんの写真から話が始まりました。だいぶ楽しそうに遊んでいる写真です。このポスターの写真に惹かれて、なんか楽しそうと参加してくださった方もいました。この写真を撮影したときは仕事の最中だったと言います。そこから、仕事と遊びって何が違うんだろうという話になっていきました。仕事と遊びは対義語なのか、それとも遊びは仕事にどのような影響を与えるのか、などの話が展開されました。







↑ これが問題の写真です(笑)

〇 仕事も楽しい人がいる。仕事と遊びを区別できるのだろうか? 「楽しい」というくくりだとたいして違いがないのではないか。
〇 若干の破滅を伴う遊びは存在すると思う。やらなきゃいけないことがあるのについついやってしまうというものが。
〇 仕事で時間とかエネルギーとか余裕がないなと感じ時の仕事は面白くない。余裕がある時の仕事は楽しい。ブレーキの「あそび」のようにここからが仕事でここからが遊びのようなボーダーを決めることができない。
〇 ひきこもりの体験から、自分で好きなことをやっていても楽しくないし、遊んでいる感覚はない。しかし、他人からは「遊んでるんでしょ?」と言われる。自分では遊んでいる感覚はない。
〇 「自分で遊んでいる」という感覚と他人から「遊んでるんでしょ?」と言われるのはやっかみではないか。羨ましさだったり、相手に対する決めつけが働く。
〇 学生にとって遊びの対義語は学校? 部活動も真剣にやっている人もいるけど、遊びであることが許されない環境である。
〇 遊びと趣味の違いって何だろう? 趣味は求道的な感じがする。目的が必要。
〇 遊びに目的を持たないといっても、何でもありではない。ルールは必要。しかし、そのルールは虚構のルール(その遊びに必要な)である。
〇 ソリティアとか一人遊びをしていて、はまってしまいなかなかやめれないような麻薬的なところないですか? ほかの人から「遊んでいるように見える」けど、もはや遊んでいない状況である。
  ↑ほかの参加者から『それって「暇つぶし」じゃないですか?というツッコミあり。』
〇 子どもがアリの巣を見つけて遊んでいるのは、特に目的があるわけではない。遊びには「好奇心」が必要なのではないか? それは、単なる暇つぶしではない。
〇 何かに「没頭する」というのは状態を指す言葉であって、「暇つぶし」とは「没頭する」状態になれない時のことをいうのではないだろうか。
〇 雪かきをしていて、やり始めるまでは全然楽しくないんだけど、やり始めるとだんだん楽しくなる、雪かきハイのような状態になってくるのはもう「遊び」の要素が入っていている気がする。
〇 ゴルフをやったというと、「遊んでるね」と言われるけど、マラソンをやっているというと、「偉いね」と言われる。マラソンは求道的に思われるのかな?(笑) 「偉いね」という人はその楽しさは分からないし、きっと楽しいと思ってない。
〇 遊びの対義語は「苦役」じゃないですか?


2 遊びと罪悪感

ある程度話が進んできた時、そもそも「てつがくカフェは「遊び」ですか?」との質問が来ました。ファシリテーター@林は『私にとってはとても楽しい「遊び」です』と答えました。しかし過去に、「遊んでる暇があっていいなぁ」と言われ、とても傷ついた経験をしました。本来、遊びとは自分が楽しい時間を過ごしてもいい時間のはずです。日々の仕事の時間と切り離して、自分の自由な時間を楽しめるはずなのに、自分が遊んでいる時に働いている人を思い、罪悪感を感じた経験をした方は多いと思います。そもそも、なぜそんなに仕事に追い立てられてしまうのか、遊びに罪悪感を感じてしまうのはなぜなのかという方向に話が展開していきました。

〇 遊んでいることにもっと日本人は肯定的になってよいのではないか。仕事でも家事でも「これだけのことをやったから、『ちょっと休みもらいます』的な感じがある。仕事や家事で辛い事や悔しいことを乗り越えて、それの引き換えで得られる「遊び」ってどういうことなんだろう?
〇 やるべきことをやらないと、遊びは得られないものなのか? 子育てが終わったから、ようやく遊べる。何かを引き換えにしないと「遊び」は成立しないような同調圧力が日本にある。
〇 「余暇」という言葉が嫌い。「稼ぐこと」と引き換えに得られる「ご褒美」のようなニュアンスがある。本来、食う分だけ働くでいいはずなのに、食うため以上に働かされているのが当たり前のように蔓延している。これって構造的暴力(*1)じゃないか? 働くことを強要される度合いが青天井になってしまう。
(*1) 構造的暴力とは暴力の形態の中で行為主体が不明確であり、間接的・潜在的にふりかかるものをいう。具体的には貧困・飢餓・抑圧・差別などがこれに当たる。


3 半ドン(*2)の魅力

働く話から週5日制になる前の土曜日ってすごく楽しかったよね~という話題に脱線しました。30歳以下の方はあまり記憶にないかもしれませんが、週5日制が導入されるまで、仕事も学校も土曜日は半日勤務の時代があったのです。
(*2) 午前中に業務・授業が終了して午後が休みの早期終業のことを指す俗語。午後半休のこと。週五日制が確立されるまで残っていた。ちなみに「ドン」とは江戸時代末期に、オランダ語で日曜日を意味するzondagという言葉が長崎出島より伝わり、ドンタクと訛って休日や休業を意味するようになったという説がある。

〇 土曜日の午後がすごく楽しかった。労働時間が5日半あったから、時間の使い方が緩やかだった。週5日制になって、仕事の内容は変わらないのに密度が5日に詰め込まれたので余裕がなくなった。
〇 遊びってグレーゾーンのことじゃない。土曜日は仕事をする内容についてある程度の裁量権があり、仕事をさっさと片づけて休暇をもらう人もいれば、溜まっていた仕事をのんびり片づけるなど、本人に選択肢が委ねられていた。最初からアポを取って遊ぶのではなく、みんな職場にいるんだからじゃあこの後〇〇しようか~みたいな話になって楽なんだよ。 もう、みんな土曜日が待ち遠しくて、土曜日の仕事なんで半分上の空だよね(全員爆笑!)
〇 それがまさに「多様性」ですよ!
〇 プレミアムフライデーのように、政府の側が金曜日の夕方までに仕事を終わらせて、早く帰って遊びなさいなんて言われても休めるはずがない。強制されてできるものじゃない。
〇 グレーゾーンは自由さでもある。今は遊びも計画的になった。


4 遊びの訓練と経験値の話

ひとしきり半ドンの話題で盛り上がった後、ある参加者が花見をするために宿をとって見に行ったが時期が合わなかったという話題になりました。そこから、遊びの成功体験を積むには、訓練が必要なのだはないかという話に展開していきました。また、それとは逆に訓練や経験値がないからこそ、偶然性を楽しむことが遊びではないかという意見が出てきました。そこから議論がまた深まりを見せていきました。

〇 情報がありすぎると、遊びの要素がなくなる。昔はるるぶとか旅行情報の雑誌とかなかったけど、今はインターネットで桜の開花情報までわかる。情報がないと比べようがないけど、よりこっちの時期に来た方がよかったとかわかると、満足の水準が下がる。
〇 うまく休みを合わせて、ぴったり合うと楽しい。偶然性を楽しんだり、その瞬間を楽しめることが遊びなんじゃないかな。
〇 うまく遊ぶためには訓練が必要なのではないか。自分の物の見方や楽しみ方を手に入れることで楽しめる自分になっていく。これは、やらなければいけない訓練とかではなく、自分を豊かにするものじゃないか。
〇 釣れなくても釣りを楽しむ釣り人のようなものが理想。釣れなくても、それ自体を楽しめるし、餌を変えてみるかとか、釣りの時間を変えてみるかとか考える余地が生まれる。
〇 経験値がないからこそ、偶然性を楽しめるということがあるのではないか。楽しいこともそうじゃない事も。経験値があると、「だいたいこんなものか」とわかってしまう。
〇 CMで「子どもは遊びの天才」ってありましたよね。それって本当に実感できる。
〇 ある人がスキーのインストラクターをしていて、子どもたちにスキーを教えているんだけど、スキーの楽しみをやる前に辞めてしまうと言っていた。スキーでもなんでも身体化した瞬間に普遍性が生まれる。スポーツだと重心が体の中に入った瞬間に「できた」という感覚が生まれると思う。そこに到達するための練習は、自由になるための訓練だ。「できない」とか「わからない」のは重心が自分の体の外側にある時。
〇 偶然性とは「これって面白いかも」と気づける嗅覚のことである。


5 いろいろ回って「遊び」とは?

ここまで話をしてきて、もうすぐ2時間があっという間に過ぎようとしていました。てつがくカフェは何か決まった結論を出すものではありません。最後にここまでの議論を踏まえて、お互いの議論のまとめをしていきました。

〇 「何か楽しそうだね」と言えることはある意味無責任さのようなものがある。この無責任さこそ「遊びの条件」じゃないか? 逆に遊びで始めたことでも、責任が伴うと辛くなるし、それはもう遊びではない。
〇 何かを成し遂げようというものが何もないことが遊びじゃないか。
〇 自分の気持ちに正直になること、素直になれることが遊び。子どものように素直に遊ぶこと。
〇 正直になることは大事。外からの評価に頓着しないで、いろいろやってみることができるのが遊び。
〇 ここまでの話を受けて、自分は「遊び下手」だなと思う。でも、そういうことも含めて素直になれることが大事かな。
〇 自分にない「~そう」という嗅覚。

 今回のてつがくカフェではみんながむむむと眉間にしわを寄せて考え込むことがほとんどなく、和やかの雰囲気と時折の笑いに満ちた楽しい会だったと思います。徐々に@あいづの個性が生まれつつあるのかなという感じもします。いつも次の日程を決めずに、直前になって世話人3人が気をもんで「いつやる?」という展開になるのですが、今回は次回の予定日まですでに立ててしまいました。気合十分ですね(笑)。まだ、次のテーマは決めていませんが、ぜひ「こういうテーマでてつカフェしたい」などどしどしメールをください。また、今回の議論でいま改めて考えたこと、今回のてつカフェに参加できなかったけど、まとめを読んで今自分でこう思ったなど何でも構いません。

次のてつがくカフェ@あいづは7月1日(土)を予定しています。
場所はいつものIORIカフェ。
友人をご誘い合わせの上、またあそぼに来てください。お待ちしています。

(文責 林 裕文)