石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の歴史9 裏磐梯桧原金山2

2006年09月20日 | 会津の歴史

裏磐梯 桧原金山の砂金と金鉱石

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県耶麻郡北塩原村桧原 磐越道猪苗代ICから米沢方面へ35分 

_008 裏磐梯の桧原金山は、会津3大金山の一つで、江戸時代1000戸あり、戦後まで採掘をしていました。採掘は古く、戦国時代の葦名氏までさかのぼります。葦名氏は、穴沢氏に命じ、金の採掘をしますが、当時は露天掘りでした。その跡は、山中に大きな溝や凹地として残っています。江戸時代になるとキリシタンの技術によって、本格的な採掘がされるようになります。天正13年(1585)には、伊達政宗が会津の金がほしくて、会津侵攻を進め、裏磐梯の地を葦名氏家臣の穴沢氏から奪い取ります。その時、堂場山にあった岩山城と城下の桧原館(今は湖中)では激しい戦争があり、穴沢一族は、ほぼ皆殺しとなります。それも、金がほしくてこの地に攻めてきたのです。そして、桧原城を築き、天正17年(1589)会津の葦名氏が滅ぶまで、拠点として外堀の外構(そとがまえ、湖水岸に土塁と堀がある)を持つ大規模な山城を築いています。金の鉱石は、湖水の北岸の山を中心に分布し、黒鉱として現在も広く分布しています。桧原の黒鉱は、金、銀、亜鉛、鉛、硫化鉄を含むもので、良質のものです。黒鉱は、亜鉛や鉛が主で金は表面上では黒く、見ることはできません。それらが長年の風雨などで砂金となります。写真は金の原石、黒鉱です。

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