目指せ! 標高1122メートル

山の神にお供して歩きつづける、ある山のぼら~の記録。ネイチャー、冒険の本もとりあげるよ。

空白の五マイル

2011-05-21 | 山・ネイチャー・冒険・探検の本

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開高健賞をとっていなければ、この本はおそらく存在すら知らずに、興味ももつこともなかったと思う。タイトルからして何だかわからないし、ツアンポー峡谷てのはどこだ? すごいマニアックなチベット好きのための本かというのがフツーの人の感覚だろう。自力で見つけるのが困難なこの本の存在を最初に知ったのは、新聞か何かの書評だったと思う。そして次に竹内洋岳氏のブログ。内容を知ると、俄然読む気マンマンになり、近々読まねばなと心に留めおかれたのだ。

空白の五マイルとは、1990年代になっても地図上で地形が表されていなかった、すなわち空白になっていたチベットのツアンポー渓谷を指す。著者である角幡氏は学生時代に早稲田大学探検部に所属し、この存在を知ってしまうのだ。そして調べれば調べるほど、その魅力のとりこになっていく。挙句の果て、彼の人生において「ツアンポー」は、必ず乗り越えなければならないひとつの通過儀礼となっていく。

ツアンポー峡谷とはいったいどんなところなのだ。その答えは、この本の中にあますことなく詰め込まれている。あまりにも急峻な絶壁に囲まれ、アメリカのグランドキャニオン(コロラド川)も真っ青、足元にも及ばないほどの水量を誇るスケール。水量ばかりではなく、高度差もあいまって生みだされる激流は、人がカヌーで下ることを拒絶する。当然泳いで渡ることはできない。

この本の最初のほうで、激流下りで有名だった日本の先鋭的なカヌーイストがとりあげられる。NHKの撮影隊とともにこの峡谷を訪れ、このツアンポー下りをカヌーで挑戦するのだが、あえなく失敗し、激流にのまれて亡くなる。挑戦する前から、失敗を予感していたカヌーイストの悲壮感は目を覆うばかりだ。それほど人を寄せ付けない人の立ち入りを拒む峡谷なのだ。だからこそ、現代にまで残った地図の空白地帯なのだ。

この本での圧巻部分は、やはり2009年に敢行したこの地での24日間にも及ぶ彼の単独探検だ。過去にツアンポーを探検したキングドン=ウォードやイアン・ベーカーらお歴々は、隊を組んでの派手派手しい探検だったに違いないが、角幡氏はたった一人でこの探検に挑んでいる。

道を特定できず行きつ戻りつしたり、ぬるぬるすべる岩場で脚を滑らせ捻挫するなど苦しい行程をたどる著者に対して、大丈夫か、がんばれ、ともう一心同体状態で応援し、この探検に引き込まれていく自分を発見する。この探検行の華々しいハイライトは、未知のホクドルンの洞穴発見だ。その界隈は地上の楽園伝説として語り継がれている「ベユル・ペマコ」なのではないかという、期待と想像を著者は膨らませていく。まさに夢いっぱいの楽しいロマンティックな話。残念ながら、ロマンティックなのは、ここまでだった。

あとは著者も苦しいが、読むほうも苦しい展開となる。土がふかふかで足場が悪く、すぐに崩れる。灌木類も、つかんで登ろうとすると根こそぎ抜け落ちる。雨がじとじとと続き湿気に悩ませられる。高度をあげていくと、難儀は雨から雪へと変わる。腰までの深い雪をラッセルで峠越え。目ざす村に着くも、廃村になっている。最後は食糧も尽きかけ、体力を使い果たし、衰弱していく自らの体に死神が宿り始めているのを感じるのだ。

ここまでやるか! と誰もが思うすさまじさだ。遭難死していても、まったくおかしくない。ただ途中で引き返すのが不能となり、エスケープルートもないとなれば、やむをえぬ仕儀といえるかもしれない。最後は幸運も手伝って命からがらの生還となるわけだけど、これじゃあ、いくら命があっても足りない。トップクライマーの半数は登山中のアクシデント、たとえば雪崩に遭ったり、落石等による滑落、転落、高山病等で衰弱して亡くなるが、この探検もそれに近い。

未踏の地に入るということは、限界に挑戦するということだ。だれも経験していないことを経験するということだ。それは限りなく死に近いところを歩くということなんだろう。

空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)
クリエーター情報なし
集英社
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